引用聖句:マタイの福音書21章28節-31節
兄弟に読んでいただいたこのみことば、イエス様が語られたこの例えから、父親の命令に対する二人の息子のとった態度を通して、主が私たち信者に何を言おうとなさっておられるのか、そのことをご一緒に考えてみたいと思います。 今読んでいただいたみことばの少し前を見ますと、イエス様は、この例え話を一般の群衆にではなく、特に信仰に深い熱い人たちにではなく、一般の人たちにではなくて、祭司長あるいは、ユダヤの長老たちに、この例え話を話されているということがわかります。 したがいまして、ここでイエス様が、「あなたがた」と呼びかけておられるのは、「彼ら」すなわちイスラエルの信仰の指導者を自認している、そういう人たちに対して仰っているのであります。 今日、ぶどう畑に行って働いてくれという父親の命令を聞いて、まず長男は何と言ったか。「はい、行きます。おとうさん。」と大変調子よく返事をしております。けれども、彼は結局行かなかったんですね。 一方、弟はどうでしたかと言いますと、弟は父親の命令に対して、初めは「いやです。」と断っておりました。ところが後で、悪かったなと後悔して、そしてぶどう園に出かけました。 この二人の兄弟の答えと、その後の態度とが全く正反対であるということが、この例えの山と言ってもいいのではないかと思うのですね。 この二人のうち、いったいどちらの方が父親の心にかなったかと言えば、もちろん口先だけで行きますと言いながら、父親の言いつけに従わないで、ぶどう畑に行かなかった長男よりも、最初は父親の命令に背いたけれども、後で悪かったと悔い改めて、父親の言いつけに従った弟の方であるということは、誰でもわかることであります。 イエス様のこの問いに対して、祭司長や長老たちも「弟の方です。」と答えました。そこでイエス様は、その答えを彼ら自身の上に適用なさいました。 そして口先だけで、いかにも神様に忠実なような態度を示しながら、結局神様の命令に背いて、自分の信仰を正しいと誇っているような偽善者的な祭司たちよりも、初めは神様の言いつけに背いて、自分勝手に生きてきたけれども、後になって自分の罪を知って悔い改めて、バプテスマのヨハネが言った福音を信じた取税人や遊女たちの方が、先に神の御国に入ると仰ったのであります。 さらに続けてイエス様は、『バプテスマのヨハネが、「神の国が近づいたから、今までの罪を悔い改めて神様に立ち返るように。」と言った時に、取税人や遊女たちは、素直に彼の言葉を信じて、言われたとおりにした。 けれどもあなたがた祭司長や長老たちは、それを目の当たりにしながら、なおもヨハネの言葉を信じないで、自分の罪を認めて悔い改めようとしなかった。』と言って、彼らを非難されたのであります。 これと似た記事が、ルカの福音書の7章にもあります。 ルカの福音書7:29-30
このようにイエス様は仰っています。 前に申しましたように、二人の息子の例えにある長男とは、直接には祭司やユダヤの指導者たちを指しており、また弟とは、取税人や遊女を指しておりますけれども、同時にこの長男とは、神様から与えられた掟である律法を守り行なうという契約を、神様と結ぶことによって神の民という恵みを与えられたにもかかわらず、神様の御心に背いて、律法を遵守しないユダヤ人たちであり、一方弟とは、初めは神様の招きに背を向けて、自分の手で作った偶像の神に仕えるような、自分の思いを中心に生きていたことが間違っていたと気づいて、悔い改めてイエス様を信じて神の御心に従うようになった異邦人を指すとも考えられます。 さらにまた、この長男とは、口先だけでイエス様、イエス様と言っているだけで、その実、相変わらず自分を義として、自分の考えで自分に頼って生活していても、それが主の御心にかなわぬことに気がつかないような、名ばかりの信者のことを指しているのであり、弟とは、イエス様を拒み続けていた不信者が、心からそのことが罪であったと悔い改めて、イエス様を信じ、イエス様の御心に従うようになった者を示唆すると言ってもよいと思います。 イエス様は、名ばかりの信者に対して、マタイの福音書7章21節から23節で、次のように警告なさいました。 マタイの福音書7:21-23
このように信仰においては、先に信じた者が後から信じた者よりも優位に立つということは限らない、そういうことは言えません。 イエス様が、マタイの福音書19章30節で「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」と仰っているように、信仰の歩みにおいては、先にイエス様を信じていても、それが形だけ上辺だけの信仰にすぎないような名ばかりの信者は、初めは主の御心を拒んでいてもその後で、心から悔い改めてイエス様を主と信じ、素直に御心に従う信者に追い越されてしまうことが多いのであります。 けれども、この例えから示される教訓は、それだけに留まりません。エゼキエル書33章12節から16節で、主は、預言者エゼキエルに次のように仰せになっています。 エゼキエル書33:12-16
すなわち、言いかえますと主から心が離れて、罪を行ない続けるならば、それより前に行なった義でそれを贖うことはできない。一方、いかなる悪人であっても心から神様の前に悔い改めれば、前に行なった悪によって滅びることはないというのであります。 これは神様の全き義と愛の御心を示すみことばではないでしょうか。つまり問題は、現在にあるのであって過去にはないのであります。 義人といえどもその後の行ない次第では滅びる危険があり、一方いかなる悪人にも心からの悔い改めによって、救いの希望があるということであります。 しかしここで、誤解してはならないのは、だからといって人生の最後に死の間際に悔い改めさえすればよいのだから、それまでは、どんなに自分中心に勝手気ままなふるまいをして生きてもよいということではないのであります。 自分の好き勝手な生き方を楽しんでも、最後に悔い改めさえすれば救われるから、何をしてもいいというような、神様の大いなるあわれみとご愛を、御心を踏みにじるような傲慢不遜な人間に対しては、人の心の奥まで見通される神様は、愛の神様であると同時に、全き義であるそのご人格のゆえに、断固としてそのような不遜な人間の救いを拒まれるのであります。 このような者について、神様は次のように仰せになっておられます。 イザヤ書59:1-2
初めに申しましたように、イエス様が祭司長やユダヤの長老たちに、この例えを話された意図は、イエス様の福音を信ぜず、律法についての知識はどんなにあってもそれを守らないばかりか、いかにも守っているかのように装い、自分の信仰が正しいとおごり高ぶり、他人を裁いている彼らの偽善的な信仰を戒められただけではありません。 イエス様を信じても、その信仰が形だけの信者、信仰が死んでいるような名ばかりの信者に対しても、同様にイエス様が戒められたのだと受けとめる必要があるのではないかと思います。 このような名ばかりの信者に対して、主は次のように警告しておられます。 ヨハネの黙示録3:15-19
何という主のあわれみとご愛に満ちた、しかも厳しい戒めのみことばではないでしょうか。 さて私たちは、二人の息子の例えの兄のような者なのでありましょうか。あるいは、弟のような者なのでありましょうか。イエス様を信じたと言いながら、聖書のみことばを知っていると言いながら、自分勝手な生き方を続けていてもいっこうにはばからない、生ぬるい名ばかりの信仰の持ち主なのでありましょうか。 あるいは、自分が神様に背いていたことに気づき、神様を恐れて心から悔い改めて、自分のような汚れた無に等しい者のために、十字架に架かってくださったイエス様に感謝し、それからの歩みを純粋にイエス様だけを主として信頼し、みことばに頼り、イエス様につき従って行きたいと心から祈る信者なのでありましょうか。 私たちは、この二人の息子の例えを通して、自分の自らの信仰を改めて問い直す必要があるのではないかと思います。 神の御子イエス様が、十字架の上で尊いご自分のいのちをお捨てになり、信じる者にご自分のよみがえりのいのちを与えてくださるほどに、私たちを愛してくださったのは、救われた私たちが名ばかりの信者になるためでないのは言うまでもありません。 救われた私たちを子として愛し、ご自分に仕えるように、信じる者に恵みとして与えられた御霊に満たされ、導かれて御心に従うようにと、そしてそのような信者を通して、ご自分がご栄光を現そうとお考えになっているからではないでしょうか。 私たちを愛してくださる主は、それが罪赦された私たちにとって、一番の幸せであり、栄誉であるとお考えになっているのではないかと思います。ダビデは、主に信頼する者の幸せについて次のように賛美しております。 詩篇34:8-9
また、パウロもイエス様を信じたことが、どんなに幸せであり、どんなに名誉なことであるかを次のように言い表しております。 ピリピ人への手紙3:7-9
このような、何ものにも比べられない、すばらしい望みを与えられた私たちは、これからの残された地上での日々を、どのように歩んだらよいのでありましょうか。 ご再臨の真近い時にあって、サタンはあらゆる方法で、私たちの信仰を揺るがそうと隙を伺っております。 このような時こそ、私たちはイエス様の恵みとあわれみによって与えられた信仰による義を、決して揺るがされることのないように、いつも霊の目を覚まし、自分の霊的な状態を御心に従って、最善に保って行けるように、そしてご再臨の日に備えられるように、御霊の助けを切に求めていく必要があるのではないかと思います。 最後にコロサイ人への手紙から、みことばをお読みして終わりにいたします。 コロサイ人への手紙3:1-4
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