引用聖句:マラキ書1章2節
司会者に読んでいただきましたみことばに記されているマラキ書というのは、預言者のマラキを通して主がイスラエルの民に啓示されたメッセージが記されている、旧約聖書の最後の書であります。 この書に記されている神様とイスラエルの民との間に交わされた対話によりまして、私たちはイザヤ書55章の9節に「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とありますように、神様の深い御心を知るのにうとい鈍感な人間と、その人間に対する神様の愛と戒めというものを身近に、マラキ書から感じることができるのであります。 そこで今日は、マラキ書からこのことについてさらにご一緒に学んでいきたいと思います。 まず第一に、神様の愛についてのイスラエルの民のにぶさ、鈍感さであります。マラキ書1章2節に、神様が「わたしはあなたがたを愛している」と仰いました。 それに対してイスラエルの民はにぶかったのですね。「どのように愛してくださっているのか」と、神様の御心を理解できなかったのですね。そして今申しましたように「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と聞きかえしております。 それに対して神様は、「エサウはヤコブの兄ではなかったか。わたしはヤコブを愛した。」、兄のエサウではなくて、弟のヤコブを愛したということを、はっきりとお話になったのですね。そして、神様の選びによる愛が、人間の思いを超えたものであるということを、ここでお告げになりました。 エサウとヤコブについては、創世記25章、27章に詳しく記されておりますので、ちょっとお話いたしますと、イサクと妻のリベカの祈りに応えられた神様は、不妊の彼女に二人の子を身ごもるようになさったんですね。 そして、お腹の中でぶつかり合う子供を心配した彼女の祈りに応えられた神様は、「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」と仰せになったのであります。 そして最初に生まれた子は、赤くて全身が毛に覆われていたエサウでありました。エサウというのは、赤く毛深いという意味なのですが、そういう名前をつけられた。後から出てきた子は、手でエサウの兄のかかとをつかんで出てきたので、ヤコブと名づけられた。ヤコブというのは、かかとをつかむという意味だそうであります。二人は性格も異なり、兄のエサウは、粗野で単純であり、弟のヤコブは、気が弱く、ずる賢い人間に成長しました。 弟のヤコブは、ある時、狩猟からお腹をすかせて帰ってきた兄のエサウが、食べ物を要求した時に、長子の権利をすぐに自分に譲るなら、食物をあげようと言って、その長子の権利をエサウから奪って行ってしまいます。 また、ヤコブは年老いて目が見えなくなった父のイサクを騙して、兄のエサウのふりをして、長子としての祝福をお父さんから受けてしまいます。 長子の権利と祝福というのは、神の民とされたイスラエルの民にとって、たいへん大きな特権なんですね。そのような特権を与えられているにもかかわらず、その価値よりもお腹がすいて食物の方に価値を認めた兄のエサウにも、大変な問題がありますけれども、そういう権利を騙して奪い取るというヤコブにも、我々は頭をかしげてしまうんですが、どうしてそういうふうなヤコブをお母様は、イサクの跡継ぎ、言い換えますと、イスラエル民族のリーダーに選ばれたのでありましょうか。 それは、二人がまだ母リベカの胎内にいる時から、兄は弟に仕えると神様が定めておられた。そのように一方的な神様のお考えによる選びなのであります。 イスラエルの民に対する神様の選びについて、神様がイスラエルを愛して、ご自分の民として選ばれたということは、申命記7章7節にもあります。 「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」とこのように書かれたいます通りに、神様のお考えに基づいた選びによるご愛というのは、イスラエルの民だけではなくて、御子イエス様において、私たちすべての人間にあまねく示されているのであります。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
けれども、イスラエルの民ばかりではなく、私たち信者でも、信仰の歩みにおいて、何か自分にとって不都合な問題が生じた時、あるいは苦難に出会った時などには、その主の御心を理解することができないで、鈍感にも「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と言うように主のご愛を疑うことがありはしないでしょうか。 けれどもヘブル人への手紙12章5節から7節 ヘブル人への手紙12:5-7
みことばを通して、そしてまた御霊の導きによって、私たちの霊の目が覚まされ、私たちのような愚かな者をも救いの対象に、一方的に選んでくださっていたということを、私たちは知って本当に私たちの思いをはるかに超えた主のご愛が、自分に注がれているんだなということを知って、私たちは主のご愛を疑った自分の鈍感さを悔い改めて、心から主に感謝して、改めてどんな時にも主に信頼して、自分に与えられた信仰の道を歩んで行こうと決意を新たにするのではないかと思います。 次に、主に対する捧げ物について、イスラエルの民の鈍感さであります。 マラキ書1:6-8
では主が喜ばれるような捧げ物とは、いったいどんな捧げ物でしょうか。主は、どのような捧げ物を私たちに求めておられるのでしょうか。 その例を聖書から見てみたいと思います。 創世記4:1-5
ここで注目すべきは、アベルは最良のささげ物を自分自身で持ってきたのであります。 創世記22:1-2
アブラハムは、ひとり子のイサクを主にささげたのであります。 ミカ書6:6-7
このように問いかけております。これらのみことばによりまして、私たちは、主の御心が自分にとって一番大切なもの、自分にとって最も価値のあるものをささげるようにと、私たちに求めておられるということを知るのであります。すなわち、主が喜ばれるささげものとは、私たちが心から主を第一としているということを示すものでなければならないのであります。 ところが、イスラエルの祭司は、鈍感にも総督でさえも喜んで受け取らないような、傷物をささげ、しかも『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか。』と神様に反論いたしました。 聖なる主なる神に対する何という鈍感さでありましょうか。あきれ果てるばかりであります。 しかし、私たち信者もこれと似たように、主の御心をないがしろにしているようなささげものをしていることがありはしないでしょうか。 創世記に出てくるカインのように、またルカの福音書の18章のパリサイ人のように、主の御心にかなわないささげものをただ形式的に習慣的に、主にささげているのに、鈍感にも気がつかないのではないでしょうか。 パウロは、主にささげるささげ物について、ローマ人への手紙12章1節で次のように言っております。 ローマ人への手紙12:1
ローマ人への手紙6:13
これらのみことばによって、主が喜ばれる私たちのささげ物、主の御心にかなう私たちのささげ物とは、霊的な礼拝であり、それは主によって聖められ、義の器とされた私たち自身であることを知るのであります。 次に偶像礼拝についての、イスラエルの民の鈍感さであります。 マラキ書2:13-16
イスラエルの民は、何度となく偶像と結婚してしまっているのですね。 申命記5:7-9
この神様の戒めを破って偶像に仕え、偶像と結びあうという罪を犯し重ねてまいりました。 マラキ書で主は、結婚を例にとって、神様が建てられた結婚の秩序を乱す離婚は許されないと、イスラエルの民が神様の戒めを破って、異教の神に仕える、異教の神と結婚するというようないわゆる偶像礼拝を厳しく非難されて、そのような者からのささげ物は、どんなに懇願しても受け取らないと拒まれました。 けれどもイスラエルの民は、鈍感にもその御心が解からないで、何故なのかと首をかしげるのであります。イスラエルの民の霊的な鈍感さがここにも見られます。しかし、私たちも似たような事をしているのではないでしょうか。 エペソ人への手紙5章5節で、パウロは、エペソの教会の信者に対して「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。」と書いておりますけれども、偶像とは、形のあるものに限らず、むさぼりや貪欲など、私たちが心を奪われるこの世の物すべてが含まれてまいります。 そしてパウロは、そのような物に心を奪われる者を、偶像礼拝者と言っているのであります。そして、私たち信者もまだ残っている肉の性質のゆえに、気を緩めると知らず知らずにこのような偶像礼拝に陥る危険があるのであります。 次に主なる神様のご支配を疑い、神様に仕えることの意義を疑うイスラエルの民の鈍感さについてであります。 マラキ書2:17
このように非難を神様はしておられます。そしてまたマラキ書3章 マラキ書3:13-15
このようなとんでもないことを言っております。 ヨブにも似た記事があるのですね。 ヨブ記21:14-15
このようなことをつぶやいているのです。 イスラエルの民は、全能者にしてすべての被造物の主権者であられる神様に対して、鈍感にもそのご支配を疑うという神様を無視した、無神経きわまる態度を示しました。 これに対して主は次のようにお応えになりました。 マラキ書3:1-2
マラキ書3:6-7
このように仰っておられます。 ここで、主なる神様は、イスラエルの民に対して、やがてご自分の使者、これは後にバプテスマのヨハネにおいて成就されますけど、その使者を自分の道を整えるために遣わしている。その後、あなた方が尋ね求めている主、あなた方がのぞんでいる契約の使者、すなわちイエス様ですね。イエス・キリストが神様にたいする不義を清める火としておいでになる、それは誰も耐えられないような激しいものである。 しかし、イスラエルの民の全てを滅ぼし尽くすことが自分はしない。主の掟を離れ、それを守らなかったことを悔い改めて、自分に立ち返れば、赦そうとここで仰せになったのであります。一方、主なる神様は、イスラエルの民のうちで、ご自分を恐れ尊ぶ人々の声に耳を傾けられて、その声を聞かれて次のように祝福を約束なさっておられます。 マラキ書3:16-18
マラキ書4:1-2
このように仰っておられますね。主を恐れ尊ぶ者に対する何という希望に満ちた、ありがたい主のお約束でありましょうか。 以上、ご一緒にマラキ書から、神様の御心ににぶいイスラエルの民と、それに対する神様の愛とあわれみに満ちた戒めを学んでまいりました。 そしてこの学びは、自分の罪を贖うために十字架にかかってくださったイエス様を主として、心から信じた結果、恵みとしてイエス様の僕とされた私たちの信仰にも生かされなければならないのであります。 それはイエス様が、御心に鈍感な弟子のペテロに対して厳しく戒められたことからも解かります。よく知られている箇所ですが、マタイの福音書16章、 マタイの福音書16:21-23
ペテロに与えられたこの叱責は、主の御心に鈍感な、主の御心を知るのににぶい私たち信者に与えられたものでもある、というふうに受け止める必要があります。 ご再臨が間近い今の時にあって、私たちはこの主のご愛に満ちた叱責を心から感謝し、御心に鈍感になって主を悲しませ、嘆かせることのないように、そのためにいつも御心に敏感にお応えしながら、忠実に主に従って行くことができますように、霊の目と耳を常に主に向け続けて、御霊に満たされ導かれて主を証しする信仰の歩みを力強く続けていきたいと、心から念願するしだいであります。 最後にみことばをお読みして終わります。 エペソ人への手紙5:15-17
コロサイ人への手紙1:9
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