御心を知るに鈍くならにように


重田兄

(吉祥寺学び会、2012/06/12)

引用聖句:マラキ書1章2節
2「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。

司会者に読んでいただきましたみことばに記されているマラキ書というのは、預言者のマラキを通して主がイスラエルの民に啓示されたメッセージが記されている、旧約聖書の最後の書であります。
この書に記されている神様とイスラエルの民との間に交わされた対話によりまして、私たちはイザヤ書55章の9節に「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とありますように、神様の深い御心を知るのにうとい鈍感な人間と、その人間に対する神様の愛と戒めというものを身近に、マラキ書から感じることができるのであります。
そこで今日は、マラキ書からこのことについてさらにご一緒に学んでいきたいと思います。

まず第一に、神様の愛についてのイスラエルの民のにぶさ、鈍感さであります。マラキ書1章2節に、神様が「わたしはあなたがたを愛している」と仰いました。
それに対してイスラエルの民はにぶかったのですね。「どのように愛してくださっているのか」と、神様の御心を理解できなかったのですね。そして今申しましたように「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と聞きかえしております。
それに対して神様は、「エサウはヤコブの兄ではなかったか。わたしはヤコブを愛した。」、兄のエサウではなくて、弟のヤコブを愛したということを、はっきりとお話になったのですね。そして、神様の選びによる愛が、人間の思いを超えたものであるということを、ここでお告げになりました。

エサウとヤコブについては、創世記25章、27章に詳しく記されておりますので、ちょっとお話いたしますと、イサクと妻のリベカの祈りに応えられた神様は、不妊の彼女に二人の子を身ごもるようになさったんですね。
そして、お腹の中でぶつかり合う子供を心配した彼女の祈りに応えられた神様は、「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」と仰せになったのであります。
そして最初に生まれた子は、赤くて全身が毛に覆われていたエサウでありました。エサウというのは、赤く毛深いという意味なのですが、そういう名前をつけられた。後から出てきた子は、手でエサウの兄のかかとをつかんで出てきたので、ヤコブと名づけられた。ヤコブというのは、かかとをつかむという意味だそうであります。二人は性格も異なり、兄のエサウは、粗野で単純であり、弟のヤコブは、気が弱く、ずる賢い人間に成長しました。

弟のヤコブは、ある時、狩猟からお腹をすかせて帰ってきた兄のエサウが、食べ物を要求した時に、長子の権利をすぐに自分に譲るなら、食物をあげようと言って、その長子の権利をエサウから奪って行ってしまいます。
また、ヤコブは年老いて目が見えなくなった父のイサクを騙して、兄のエサウのふりをして、長子としての祝福をお父さんから受けてしまいます。
長子の権利と祝福というのは、神の民とされたイスラエルの民にとって、たいへん大きな特権なんですね。そのような特権を与えられているにもかかわらず、その価値よりもお腹がすいて食物の方に価値を認めた兄のエサウにも、大変な問題がありますけれども、そういう権利を騙して奪い取るというヤコブにも、我々は頭をかしげてしまうんですが、どうしてそういうふうなヤコブをお母様は、イサクの跡継ぎ、言い換えますと、イスラエル民族のリーダーに選ばれたのでありましょうか。

それは、二人がまだ母リベカの胎内にいる時から、兄は弟に仕えると神様が定めておられた。そのように一方的な神様のお考えによる選びなのであります。
イスラエルの民に対する神様の選びについて、神様がイスラエルを愛して、ご自分の民として選ばれたということは、申命記7章7節にもあります。
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」とこのように書かれたいます通りに、神様のお考えに基づいた選びによるご愛というのは、イスラエルの民だけではなくて、御子イエス様において、私たちすべての人間にあまねく示されているのであります。

ヨハネの手紙第I、4:9-10
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

けれども、イスラエルの民ばかりではなく、私たち信者でも、信仰の歩みにおいて、何か自分にとって不都合な問題が生じた時、あるいは苦難に出会った時などには、その主の御心を理解することができないで、鈍感にも「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と言うように主のご愛を疑うことがありはしないでしょうか。
けれどもヘブル人への手紙12章5節から7節

ヘブル人への手紙12:5-7
5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

みことばを通して、そしてまた御霊の導きによって、私たちの霊の目が覚まされ、私たちのような愚かな者をも救いの対象に、一方的に選んでくださっていたということを、私たちは知って本当に私たちの思いをはるかに超えた主のご愛が、自分に注がれているんだなということを知って、私たちは主のご愛を疑った自分の鈍感さを悔い改めて、心から主に感謝して、改めてどんな時にも主に信頼して、自分に与えられた信仰の道を歩んで行こうと決意を新たにするのではないかと思います。
次に、主に対する捧げ物について、イスラエルの民の鈍感さであります。

マラキ書1:6-8
6「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。――万軍の主は、あなたがたに仰せられる。――わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。
7あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか。』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい。』とあなたがたは思っている。
8あなたがたは、盲の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないのか。足なえや病気のものをささげるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる。――

では主が喜ばれるような捧げ物とは、いったいどんな捧げ物でしょうか。主は、どのような捧げ物を私たちに求めておられるのでしょうか。
その例を聖書から見てみたいと思います。

創世記4:1-5
1人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
2彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
5だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

ここで注目すべきは、アベルは最良のささげ物を自分自身で持ってきたのであります。

創世記22:1-2
1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

アブラハムは、ひとり子のイサクを主にささげたのであります。

ミカ書6:6-7
6私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
7主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

このように問いかけております。これらのみことばによりまして、私たちは、主の御心が自分にとって一番大切なもの、自分にとって最も価値のあるものをささげるようにと、私たちに求めておられるということを知るのであります。すなわち、主が喜ばれるささげものとは、私たちが心から主を第一としているということを示すものでなければならないのであります。
ところが、イスラエルの祭司は、鈍感にも総督でさえも喜んで受け取らないような、傷物をささげ、しかも『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか。』と神様に反論いたしました。
聖なる主なる神に対する何という鈍感さでありましょうか。あきれ果てるばかりであります。

しかし、私たち信者もこれと似たように、主の御心をないがしろにしているようなささげものをしていることがありはしないでしょうか。
創世記に出てくるカインのように、またルカの福音書の18章のパリサイ人のように、主の御心にかなわないささげものをただ形式的に習慣的に、主にささげているのに、鈍感にも気がつかないのではないでしょうか。
パウロは、主にささげるささげ物について、ローマ人への手紙12章1節で次のように言っております。

ローマ人への手紙12:1
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ローマ人への手紙6:13
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

これらのみことばによって、主が喜ばれる私たちのささげ物、主の御心にかなう私たちのささげ物とは、霊的な礼拝であり、それは主によって聖められ、義の器とされた私たち自身であることを知るのであります。
次に偶像礼拝についての、イスラエルの民の鈍感さであります。

マラキ書2:13-16
13あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。
14「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。
15神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。
16「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。

イスラエルの民は、何度となく偶像と結婚してしまっているのですね。

申命記5:7-9
7あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
8あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
9それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

この神様の戒めを破って偶像に仕え、偶像と結びあうという罪を犯し重ねてまいりました。
マラキ書で主は、結婚を例にとって、神様が建てられた結婚の秩序を乱す離婚は許されないと、イスラエルの民が神様の戒めを破って、異教の神に仕える、異教の神と結婚するというようないわゆる偶像礼拝を厳しく非難されて、そのような者からのささげ物は、どんなに懇願しても受け取らないと拒まれました。
けれどもイスラエルの民は、鈍感にもその御心が解からないで、何故なのかと首をかしげるのであります。イスラエルの民の霊的な鈍感さがここにも見られます。しかし、私たちも似たような事をしているのではないでしょうか。

エペソ人への手紙5章5節で、パウロは、エペソの教会の信者に対して「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。」と書いておりますけれども、偶像とは、形のあるものに限らず、むさぼりや貪欲など、私たちが心を奪われるこの世の物すべてが含まれてまいります。
そしてパウロは、そのような物に心を奪われる者を、偶像礼拝者と言っているのであります。そして、私たち信者もまだ残っている肉の性質のゆえに、気を緩めると知らず知らずにこのような偶像礼拝に陥る危険があるのであります。
次に主なる神様のご支配を疑い、神様に仕えることの意義を疑うイスラエルの民の鈍感さについてであります。

マラキ書2:17
17あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか。」とあなたがたは言っているのだ。

このように非難を神様はしておられます。そしてまたマラキ書3章

マラキ書3:13-15
13「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」
14あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
15今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

このようなとんでもないことを言っております。
ヨブにも似た記事があるのですね。

ヨブ記21:14-15
14しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。
15全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか。」と。

このようなことをつぶやいているのです。
イスラエルの民は、全能者にしてすべての被造物の主権者であられる神様に対して、鈍感にもそのご支配を疑うという神様を無視した、無神経きわまる態度を示しました。
これに対して主は次のようにお応えになりました。

マラキ書3:1-2
1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。
2だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

マラキ書3:6-7
6主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。
7あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。

このように仰っておられます。
ここで、主なる神様は、イスラエルの民に対して、やがてご自分の使者、これは後にバプテスマのヨハネにおいて成就されますけど、その使者を自分の道を整えるために遣わしている。その後、あなた方が尋ね求めている主、あなた方がのぞんでいる契約の使者、すなわちイエス様ですね。イエス・キリストが神様にたいする不義を清める火としておいでになる、それは誰も耐えられないような激しいものである。
しかし、イスラエルの民の全てを滅ぼし尽くすことが自分はしない。主の掟を離れ、それを守らなかったことを悔い改めて、自分に立ち返れば、赦そうとここで仰せになったのであります。一方、主なる神様は、イスラエルの民のうちで、ご自分を恐れ尊ぶ人々の声に耳を傾けられて、その声を聞かれて次のように祝福を約束なさっておられます。

マラキ書3:16-18
16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

マラキ書4:1-2
1見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。――
2しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。

このように仰っておられますね。主を恐れ尊ぶ者に対する何という希望に満ちた、ありがたい主のお約束でありましょうか。

以上、ご一緒にマラキ書から、神様の御心ににぶいイスラエルの民と、それに対する神様の愛とあわれみに満ちた戒めを学んでまいりました。
そしてこの学びは、自分の罪を贖うために十字架にかかってくださったイエス様を主として、心から信じた結果、恵みとしてイエス様の僕とされた私たちの信仰にも生かされなければならないのであります。
それはイエス様が、御心に鈍感な弟子のペテロに対して厳しく戒められたことからも解かります。よく知られている箇所ですが、マタイの福音書16章、

マタイの福音書16:21-23
21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロに与えられたこの叱責は、主の御心に鈍感な、主の御心を知るのににぶい私たち信者に与えられたものでもある、というふうに受け止める必要があります。
ご再臨が間近い今の時にあって、私たちはこの主のご愛に満ちた叱責を心から感謝し、御心に鈍感になって主を悲しませ、嘆かせることのないように、そのためにいつも御心に敏感にお応えしながら、忠実に主に従って行くことができますように、霊の目と耳を常に主に向け続けて、御霊に満たされ導かれて主を証しする信仰の歩みを力強く続けていきたいと、心から念願するしだいであります。
最後にみことばをお読みして終わります。

エペソ人への手紙5:15-17
15そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
16機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
17ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

コロサイ人への手紙1:9
9どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。




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