神の役に立つ帯、立たぬ帯


重田兄

(吉祥寺学び会、2012/11/27)

引用聖句:エレミヤ書13章1節-11節
1主は私にこう仰せられた。「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。」
2私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。
3すると、私に次のような主のことばがあった。
4「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。」
5そこで、主が私に命じられたように、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。
6多くの日を経て、主は私に仰せられた。「すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」
7私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。
8すると、私に次のような主のことばがあった。
9「主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。
10わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。
11なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。――主の御告げ。――それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。

今日は、兄弟に読んでいただきましたこの箇所から、「神の役に立つ帯、立たない帯」とはどういうものかということにつきまして、ご一緒に考えてみたいと思います。
イスラエル民族は自分たちが、天地万物をお造りになり、そしてお造りになったものをすべて所有しておられる全能者にして、生ける唯一のまことの神に選ばれた民であるという誇りを持っております。
その根拠は、神様が多くの民族の中から、自分たちを選んで契約を結んでくださったというところから来ております。

この契約とは、神様のお仰せに従って、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出した指導者のモーセを通して、神様がイスラエルの民と結ばれた契約であります。
これについて、出エジプト記19章には次のように記しております。

出エジプト記19:1-8
1エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。
2彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。
3モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
7モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
8すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

神様とイスラエルの民との間に交わされた契約とは、具体的には神様がモーセに授けられた「わたしだけを神として仕えよ。」で始まる十戒に基づいております。
そして、これを契約のしるしとしてイスラエルの民にお与えになりました。
けれども、神様がイスラエルの民と結ばれた契約には、「あなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」という条件がはっきりと示されていたのであります。

神様と契約を結ぶということは大変な名誉なことであります。と同時に契約にありますように、神様の仰せに従順に従わなければならないという、大変な責任をも負うことになります。
しかしながら、イスラエルの民は、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と誓ったことなど忘れ果てて、この契約を破り続けてしまいました。
このため神様は、預言者のエレミヤを通して次のように仰せになりました。

エレミヤ書11:9-10
9ついで、主は私に仰せられた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。
10彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

このようにイスラエルの民は、神様と交わした契約を破って、頑なな心で自分たちが作った偶像の神々を拝み、これに仕えるという罪を犯し続けたのであります。それゆえに神様は、冒頭のみことばのように、イスラエルの民を腐った帯、役に立たない帯と厳しく糾弾なさいました。
帯というのは、腰に締めている時にこそ役に立ちます。帯が体から離れていれば、その帯がどんなに美しくても、またどんなに丈夫でも、帯としての用は全く役に立ちません。
神様は、イスラエルの民がご自分にしっかり結びついていれば、役に立つ帯として、ご自分の栄光を現すように御用に用いられたんですけれども、彼らが神様から離れたために、神様から腐った帯としか評価されなくなってしまったのであります。

その後、神様はかつてモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約とは別に、さらに優れた契約を、イスラエルの民を含むすべての人間に対してお立てになりました。
これについて、ヘブル人への手紙8章6節から13節に次のように記してあります。

ヘブル人への手紙8:6-13
6しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
8しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
9それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
10それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
11また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
12なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
13神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。

このようにヘブル人への手紙には書いてあります。
初めの契約とは、神からいただいた掟である律法を守るなら、神様は義、すなわち正しいと認めるけれども、守らないなら罪と認めて滅びに定めるというものでありました。
しかし、自分の行ないによっては神様の与えてくださった律法を、正しく守り通すことができない、そのような人間を憐れまれた神様は、御子のイエス様を仲介者として、新しい契約をお立てになったのであります。

この新しい契約は、律法を行なうことによってではなく、仲介者であるイエス・キリストを信じる信仰によって、神様が義としてくださるという神の一方的な恵みによる契約であります。その意味で初めの古い契約と全く異なる、それよりもはるかに優れたものと言えるのではないかと思います。
けれども、この新しい契約を神様と結ぶには、神様に対する罪を清めなければなりません。そのためには、神の御子イエス様の尊い血潮が必要でありました。
イエス様は、十字架にかかられる直前に、弟子たちに次のように仰っています。

マタイの福音書26:26-28
26また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

神様は、2,000年前にこのイエス様の尊い血による新しい契約を、イスラエルの民だけではなく、すべての民すべての人と結ぶご契約をお立てになりました。
したがって、自分の罪が赦されるために、神の御子のイエス様が、十字架にかかって血を流して死んでくださったと、心から信じた者は一人残らず、この契約に基づいて、神の民、神の子とされるのであります。
このようにして、新しい契約によって、神の民とされた者は、誰にでも最初に読んでいただいたみことばが適用されます。すなわち、父なる神様と御子イエス様は、イエス様を信じる者をもご自分の帯として用いようとされるのであります。

しかしながら、イエス様はご自分の帯としてどのような帯をお選びになったのでありましょうか。それは神様が、イスラエルの民をご自分の帯にお選びになったのと、全く同じ基準でありました。
神様がイスラエルの民をお選びになったのは、彼らが強い民であり、また優れた民であったからではなく、むしろその逆でありました。申命記7章7節に「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」とあるとおりであります。
では私たち信者はどうでしょうか。これについてパウロは、次のように言っております。

コリント人への手紙第I、1:26-29
26兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

イエス様は、ご自分の帯を選ばれるのに、外観や強度を問題にはなさいませんでした。すなわち、人間の能力、知力、権力、財力、努力などを選びの基準とはなさいませんでした。その理由は、ここにありますように、「神の御前でだれをも誇らせないため。」であります。
イエス様がご自分の帯として選ばれた私たち信者に求められることは、ただ一つ、「わたしに結びついていなさい。」ということだけであります。
イエス様は、ぶどうの木のたとえでもこのことを、私たちに教えてくださっています。

ヨハネの福音書15:4-6
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
6だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、言い換えますと、イエス様に結びついていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」と仰っています。
イエス様は、神様から遠く離れていた愚かな私たちに目を留めてくださって、一人ひとりをお選びになって、十字架の血によってご自分と結びあわせてくださいました。
こうして私たち信者は、イエス様の枝とされ帯とされたのであります。

枝も帯も自分では主人公になることはできません。帯は自分では何もすることができないからであり、また主人から離れれば、帯はやがて腐ってしまうようなものにすぎないのであります。
もし、私たち信者がイエス様の帯であることを忘れて、イエス様から離れて何かをしようとすれば、それは自分が主人公となって、自分の考えや自分の知恵で動くことになり、そのような行ないは決して実を結ぶものとはならないのであります。
岩の割れ目に隠した帯が、腐って役に立たなくなったこのエピソードは、マタイの福音書の25章にある旅に出る時に、主人から預かったお金を、地の中に隠しておいた僕のたとえを思い出させるものであります。

マタイの福音書25:24-30
24ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
26ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
27だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
28だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
30役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

この僕は、主人の心を理解していなかったために、言い換えますと主人の心と結びついていなかったために、自分勝手な考えでお金を地面の中に隠すという愚かな行為をして、そのために主人から役に立たない僕というふうに叱責されてしまったのであります。
冒頭に読んでいただいたみことばで、ユーフラテスの川岸の岩の間に、長いこと隠した帯が腐って、役に立たなくなってしまっているのを、エレミヤにお見せになった神様は、13章9節から10節ですね。「わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを(すなわちこわたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」と仰せになりました。
これは、私たち信者に与えられた主の警告でもあります。

私たち信者は、主の僕として主のために、奉仕や伝道に励みます。しかし、私たちの奉仕も伝道も、もし自分の知恵や自分の力でするならば、イエス様からご覧になれば、実を結ばないもの、役に立たないものとなってしまうのであります。
なぜならば、それは意識するしないにかかわらず、結果的に自分を誇るようになり、イエス様にご栄光を帰することにならないからであります。
イエス様の帯とされた私たち信者は、ただイエス様にしっかり結びついていればよいのであります。そうすれば、たとえその人が、重い病気で寝たきりで動くこともできない、あるいは口をきくこともできなくても、帯のご主人であるイエス様が働いてくださり、その人を通してイエス様のご栄光が現され、イエス様からその帯は大いに役立っていると、喜んでいただけるのであります。

私たち信者は、イエス様から罪の赦しと永遠のいのちという考えられないような恵みをいただいております。その上イエス様は、私たち信者をご自分の大切な帯として用いようとしておられるのであります。何と光栄なことではありませんか。
それなのに、私たちはともすればそれを忘れて、イエス様から離れて一人歩きしてしまうような愚かな者ではないでしょうか。
主のご再臨の真近い終わりの世にあって、私たち信者は、腐った帯、あるいは枯れた枝とならないために、イエス様から決して離れないように、しっかりとイエス様に結びつき、御心に従い、主のお役に立つ帯としての歩みができるように、いつも御霊によって祈ることが大切であると思わされたしだいであります。




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