引用聖句:エレミヤ書13章1節-11節
今日は、兄弟に読んでいただきましたこの箇所から、「神の役に立つ帯、立たない帯」とはどういうものかということにつきまして、ご一緒に考えてみたいと思います。 イスラエル民族は自分たちが、天地万物をお造りになり、そしてお造りになったものをすべて所有しておられる全能者にして、生ける唯一のまことの神に選ばれた民であるという誇りを持っております。 その根拠は、神様が多くの民族の中から、自分たちを選んで契約を結んでくださったというところから来ております。 この契約とは、神様のお仰せに従って、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出した指導者のモーセを通して、神様がイスラエルの民と結ばれた契約であります。 これについて、出エジプト記19章には次のように記しております。 出エジプト記19:1-8
神様とイスラエルの民との間に交わされた契約とは、具体的には神様がモーセに授けられた「わたしだけを神として仕えよ。」で始まる十戒に基づいております。 そして、これを契約のしるしとしてイスラエルの民にお与えになりました。 けれども、神様がイスラエルの民と結ばれた契約には、「あなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」という条件がはっきりと示されていたのであります。 神様と契約を結ぶということは大変な名誉なことであります。と同時に契約にありますように、神様の仰せに従順に従わなければならないという、大変な責任をも負うことになります。 しかしながら、イスラエルの民は、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と誓ったことなど忘れ果てて、この契約を破り続けてしまいました。 このため神様は、預言者のエレミヤを通して次のように仰せになりました。 エレミヤ書11:9-10
このようにイスラエルの民は、神様と交わした契約を破って、頑なな心で自分たちが作った偶像の神々を拝み、これに仕えるという罪を犯し続けたのであります。それゆえに神様は、冒頭のみことばのように、イスラエルの民を腐った帯、役に立たない帯と厳しく糾弾なさいました。 帯というのは、腰に締めている時にこそ役に立ちます。帯が体から離れていれば、その帯がどんなに美しくても、またどんなに丈夫でも、帯としての用は全く役に立ちません。 神様は、イスラエルの民がご自分にしっかり結びついていれば、役に立つ帯として、ご自分の栄光を現すように御用に用いられたんですけれども、彼らが神様から離れたために、神様から腐った帯としか評価されなくなってしまったのであります。 その後、神様はかつてモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約とは別に、さらに優れた契約を、イスラエルの民を含むすべての人間に対してお立てになりました。 これについて、ヘブル人への手紙8章6節から13節に次のように記してあります。 ヘブル人への手紙8:6-13
このようにヘブル人への手紙には書いてあります。 初めの契約とは、神からいただいた掟である律法を守るなら、神様は義、すなわち正しいと認めるけれども、守らないなら罪と認めて滅びに定めるというものでありました。 しかし、自分の行ないによっては神様の与えてくださった律法を、正しく守り通すことができない、そのような人間を憐れまれた神様は、御子のイエス様を仲介者として、新しい契約をお立てになったのであります。 この新しい契約は、律法を行なうことによってではなく、仲介者であるイエス・キリストを信じる信仰によって、神様が義としてくださるという神の一方的な恵みによる契約であります。その意味で初めの古い契約と全く異なる、それよりもはるかに優れたものと言えるのではないかと思います。 けれども、この新しい契約を神様と結ぶには、神様に対する罪を清めなければなりません。そのためには、神の御子イエス様の尊い血潮が必要でありました。 イエス様は、十字架にかかられる直前に、弟子たちに次のように仰っています。 マタイの福音書26:26-28
神様は、2,000年前にこのイエス様の尊い血による新しい契約を、イスラエルの民だけではなく、すべての民すべての人と結ぶご契約をお立てになりました。 したがって、自分の罪が赦されるために、神の御子のイエス様が、十字架にかかって血を流して死んでくださったと、心から信じた者は一人残らず、この契約に基づいて、神の民、神の子とされるのであります。 このようにして、新しい契約によって、神の民とされた者は、誰にでも最初に読んでいただいたみことばが適用されます。すなわち、父なる神様と御子イエス様は、イエス様を信じる者をもご自分の帯として用いようとされるのであります。 しかしながら、イエス様はご自分の帯としてどのような帯をお選びになったのでありましょうか。それは神様が、イスラエルの民をご自分の帯にお選びになったのと、全く同じ基準でありました。 神様がイスラエルの民をお選びになったのは、彼らが強い民であり、また優れた民であったからではなく、むしろその逆でありました。申命記7章7節に「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」とあるとおりであります。 では私たち信者はどうでしょうか。これについてパウロは、次のように言っております。 コリント人への手紙第I、1:26-29
イエス様は、ご自分の帯を選ばれるのに、外観や強度を問題にはなさいませんでした。すなわち、人間の能力、知力、権力、財力、努力などを選びの基準とはなさいませんでした。その理由は、ここにありますように、「神の御前でだれをも誇らせないため。」であります。 イエス様がご自分の帯として選ばれた私たち信者に求められることは、ただ一つ、「わたしに結びついていなさい。」ということだけであります。 イエス様は、ぶどうの木のたとえでもこのことを、私たちに教えてくださっています。 ヨハネの福音書15:4-6
イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、言い換えますと、イエス様に結びついていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」と仰っています。 イエス様は、神様から遠く離れていた愚かな私たちに目を留めてくださって、一人ひとりをお選びになって、十字架の血によってご自分と結びあわせてくださいました。 こうして私たち信者は、イエス様の枝とされ帯とされたのであります。 枝も帯も自分では主人公になることはできません。帯は自分では何もすることができないからであり、また主人から離れれば、帯はやがて腐ってしまうようなものにすぎないのであります。 もし、私たち信者がイエス様の帯であることを忘れて、イエス様から離れて何かをしようとすれば、それは自分が主人公となって、自分の考えや自分の知恵で動くことになり、そのような行ないは決して実を結ぶものとはならないのであります。 岩の割れ目に隠した帯が、腐って役に立たなくなったこのエピソードは、マタイの福音書の25章にある旅に出る時に、主人から預かったお金を、地の中に隠しておいた僕のたとえを思い出させるものであります。 マタイの福音書25:24-30
この僕は、主人の心を理解していなかったために、言い換えますと主人の心と結びついていなかったために、自分勝手な考えでお金を地面の中に隠すという愚かな行為をして、そのために主人から役に立たない僕というふうに叱責されてしまったのであります。 冒頭に読んでいただいたみことばで、ユーフラテスの川岸の岩の間に、長いこと隠した帯が腐って、役に立たなくなってしまっているのを、エレミヤにお見せになった神様は、13章9節から10節ですね。「わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを(すなわちこわたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」と仰せになりました。 これは、私たち信者に与えられた主の警告でもあります。 私たち信者は、主の僕として主のために、奉仕や伝道に励みます。しかし、私たちの奉仕も伝道も、もし自分の知恵や自分の力でするならば、イエス様からご覧になれば、実を結ばないもの、役に立たないものとなってしまうのであります。 なぜならば、それは意識するしないにかかわらず、結果的に自分を誇るようになり、イエス様にご栄光を帰することにならないからであります。 イエス様の帯とされた私たち信者は、ただイエス様にしっかり結びついていればよいのであります。そうすれば、たとえその人が、重い病気で寝たきりで動くこともできない、あるいは口をきくこともできなくても、帯のご主人であるイエス様が働いてくださり、その人を通してイエス様のご栄光が現され、イエス様からその帯は大いに役立っていると、喜んでいただけるのであります。 私たち信者は、イエス様から罪の赦しと永遠のいのちという考えられないような恵みをいただいております。その上イエス様は、私たち信者をご自分の大切な帯として用いようとしておられるのであります。何と光栄なことではありませんか。 それなのに、私たちはともすればそれを忘れて、イエス様から離れて一人歩きしてしまうような愚かな者ではないでしょうか。 主のご再臨の真近い終わりの世にあって、私たち信者は、腐った帯、あるいは枯れた枝とならないために、イエス様から決して離れないように、しっかりとイエス様に結びつき、御心に従い、主のお役に立つ帯としての歩みができるように、いつも御霊によって祈ることが大切であると思わされたしだいであります。 |