引用聖句:詩篇16篇2節
私たち人間が、普通幸せと感じる時は、いったいどういう時でありましょうか。 この世的に価値があるもの、例えば財産とか地位とか権力とか、あるいは健康、長寿、それらのものがあれば備わっていれば人は幸せに感じるのでありましょうか。けれども、 いくら財産があっても、いくら地位が高くても、いくら健康であっても、いくら長寿であっても、その人が幸せに感じているかといえば、決してそうでないという実例を私たちはたくさん見ております。 一方、集会の兄弟姉妹が証しの中で異口同音に言っておられることがあります。それは、自分が導かれて集会に初めて来た時、一番強く感じたのは、皆さんの明るい美しい笑顔だったと。どうしてこんな笑顔ができるのだろうと驚いたということであります。 笑顔にもいろいろな笑顔があると思うのですね。私たちが一番目にするのは、営業用の笑顔であります。 では、集会の兄弟姉妹の笑顔は、営業用のものなのでありましょうか。そうではなくて、心から自分が幸せと感じているところから、自然に出てくる笑顔なのであります。 けれども、集会の兄弟姉妹は、皆何の問題もなく、順風満帆の楽しい日々を過ごしておられるかと言えば、むしろその反対に様々な苦しい困難な状況の中に置かれておられる方が多いのではないでしょうか。 にもかかわらず、どうして幸せな笑顔ができるのでありましょうか。それは、イエス様を主と信じることによって、初めて得ることのできた本当の幸せから生まれたものだと思います。 改めてイエス様を主と信じた者の幸せとは、いったい何でありましょうか。それは、まず神の子供とされたという幸せではないでしょうか。 ヨハネの福音書1:12-13
イエス様を主と信じた者は、その信仰ゆえに、神様の恵みによって神の子供とされ、この世に属する者から神に属する者に変えられます。そうなりますと、価値基準も自ずと、この世の人間の価値基準から神の子供の価値基準へと変えられるのであります。 そして、イエス様を信じる者であることを明らかにすることによって、人々からそしられたり、敬遠されたり、非難されたり、あるいは迫害されたりするようなことが起こるとしても、それは不幸なことではなく、幸いなことと受け止められるようになるのであります。 ペテロはその訳を次のように言っております。 ペテロの手紙第I、4:14
このように説明しております。私たち信者が恐れずに、イエス様を証ししたために、世の人々から非難されても、その時には信じる者の中に宿ってくださっている主の御霊が守ってくださる、支えてくださるということを私たちは体験できるから、本当に幸せなのではないでしょうか。 引き続いて、主を信じる者の幸せを聖書から見ていきたいと思います。 順不同になりますが、一つは、神様に選ばれているという幸せでありましょう。パウロは、エペソ人への手紙の中で次のように言っております。 エペソ人への手紙1:4-5
ここで私たちが、ぜひ知っておかなければならないことがあります。それは、神様の選びは、私たち人間が立派であるとか、善行したからということに関係なく、もっぱら神様の愛とあわれみに基づく、ご自身の意思によるものであるということであります。 パウロは、神様に選ばれた者が、どのような者かということを次のように言っております。 コリント人への手紙第I、1:26-28
このように、信じる者の幸せは、愚かな弱い、取るに足りない、無に等しいような私たちを神様は、ただ恵みによって一方的に目を留めてくださり、しかも生まれるはるか前から、御子イエス様によって、神の子供として選んでくださったという、驚くべき幸せなのであります。 次に、主を信じる者の大きな幸せは、神様に義、すなわち正しいと認められているという幸せであります。 パウロは、ローマ人への手紙の中で次のように言っております。 ローマ人への手紙4:5-8
このように言っております。 かつて、私たちは、神様を恐れ敬うどころか、その逆を行くような生き方をしていたような者でありました。 しかしながら、そのような者が神様に対する背きの罪に気づいて悔い改めをすれば、神様はその信仰を喜んでくださり、ご自分に対する私たちの不義を、御子イエス様にあって赦してくださり、義すなわち正しいと認めてくださるのであります。 義そのものである神様から義と認められるほど、私たち信者にとって幸せなことはありません。 また、信じる者の大きな幸せは、主に愛されているという幸せであります。 イザヤ書には次のように記してあります。 イザヤ書43:1-4
このようにあります。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とまで仰ってくださる神様は、いったいどのように私たちを愛してくださっているのでありましょうか。 それは「わたしがあなたを贖ったのだ。」というみことばにあると思います。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
とあります。神様は、私たちに対する愛を、実に、神の一人子であるイエス様の十字架の死によってという形でお示しになったのであります。 神様は、神様を愛するどころか、神様に背き、神様から滅ぼされても当然な私たちの罪を、愛する御子イエス様を身代わりにして、十字架にかけて、贖ってくださっただけではなくて、信じる私たちに、イエス様のよみがえりの命をも与えてくださり、永遠に生きることができるようにしてくださったのであります。これほどに神様から愛されている私たちは、何と幸せでありましょうか。 また、信じる者の幸せには、主に戒められるという幸せがあります。詩篇の作者は次のように言っております。 詩篇94:12
このように主に戒められる者の幸いを賛美しております。 イエス様を信じた者は、主から戒めを受けます。それは、主がご自分の子供として愛してくださっている証拠であります。 このことをよく表しているヘブル人への手紙を拝読いたします。 ヘブル人への手紙12:5-11
このように、主が信じる者を懲らしめる理由を説明しております。 確かに、主の鞭は、私たち信者の肉には痛くありますけれども、その懲らしめは、私たちをご自分の聖さにあずからせるため、そして神の子供の霊を成長させるための愛ゆえであることが解かれば、懲らしめをも私たちは幸せと思うことができます。また、イエス様を主と信じる者の大きな幸せは、主がいつも共にいてくださるという幸せであります。 イザヤ書には次のような主の約束が記されております。 イザヤ書41:10
主を信じる者は、罪のために閉ざされていた霊の目が開かれて、その開かれた霊の目で、主がいつも共にいてくださり、何が起こっても動揺することのないように守ってくださり、導いてくださるということを知ることができます。 これについて、ダビデは次のように言っております。 詩篇16:8-9
ダビデのように、私たちが主がいつも共に居てくださることを確信し、主に拠り頼んでさえいれば、どんなに自分の身の回りに嵐が吹き荒れても、心はいつも平安であり、喜びに満たされるのであります。これもまた、主を信じる者の大きな幸せであります。 また、信じる者の幸いは、キリストのからだの一部として生かされているという幸せであります。 コリント人への手紙第I、12:27
キリストのからだというのは、イエス様を頭として有機的に結びついて、一つのからだを形成している信者の群れ、教会のことであります。 主は、信じた者をご自分のからだの一部として用いようとなさいます。自分には、何の能力もないからと、しり込みをするそのような信者をも、主はからだの一部として用いてくださるのであります。 コリント人への手紙第I、12章18節から27節までお読みしたいと思います。これは、今申し上げたその理由ですね。私たち信者が、キリストのからだの一部として用いられている理由を、詳しく説明しております。 コリント人への手紙第I、12:18-27
こうして、力ある信者も弱い信者も皆、イエス様を頭として御霊によって、一つとされて主のみからだなる生ける教会の部分部分として用いられ、組み合わされ、そして互いに祈り合い、支え合い、助け合い、励まし合い、愛し合う、そういうことができるのは、信者だけが味わうことのできる幸せではないでしょうか。 最後になりますが、主を信じる者の大きな幸せは、御再臨を信じて、その日を待ち望む幸せであります。 ヨハネの黙示録の22章12節から14節で、イエス様は次のように仰いました。 ヨハネの黙示録22:12-14
このように仰いました。イエス様の御再臨は、イエス様の救いを拒み続ける者にとっては、恐ろしい裁きの時ですけれども、十字架の上で流されたイエス様の尊い血によって、罪を洗い清められた信者にとっては、イエス様が信者を天の御国にたづさえ上げてくださるために、空中まで迎えに来てくださるという、大きな喜びの時であります。 そのことについて、ヨハネの手紙第I、3章2節には次のようにあります。 ヨハネの手紙第I、3:2
このようにあります。 この地上にある間は、私たち信者は、血肉のからだをまだ着ておりますけれども、御再臨の時、イエス様が迎えにお出でになった時は、私たちは清い朽ちないイエス様のからだに似たからだに変えられて、空中でイエス様に直接お会いすることができ、それからは、永遠に天の御国でイエス様とお交わりをすることが出来ます。 こんな幸せは他にあるでしょうか。 これまでご一緒に考えてまいりましたように、まことの幸せとは、目に見える空しい幸せではなくて、目には見えなくても、主から恵みとして与えられる幸せなのであります。 そして、その幸せは、すべて私たちの主イエス様ご自身から発していることを、改めて覚え、ご一緒に最初に読んでいただいた詩篇16篇2節のみことばを、もう一度お読みして、心から主に感謝して終わりたいと思います。 詩篇16:2
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