引用聖句:ルカの福音書17章3節-5節
おはようございます。司会の兄に読んでいただいたこのみことば、皆さん方よく何回もお読みになっている箇所だと思いますが、改めてこの箇所から、信仰を増すということの必要性につきまして、ご一緒に考えたいと思います。 この御言葉によく似た御言葉があります。 マタイの福音書18:21-22
このようにイエス様は、弟子たちに罪を犯す兄弟を戒めて、悔い改めに導くためには、7度とは言わないでその70倍も赦しなさい、つまり徹底的に赦しきりなさいと仰っています。 弟子たちは、このイエス様のみことばに、さぞ驚いたことでありましょう。そして自分たちは、そんなことはとうてい出来ないと思ったのではないでしょうか。 そして彼らは、そのように徹底的に赦しきることが出来るためには、信仰を増し強められるしかないということを悟ったのではないかと思うのですね。 彼らはイエス様にお願いしました。「私たちの信仰を増してください。」、この彼らの願いというのは、主の御心にかなったものでありました。 イエス様は、弟子たちさらには私たち信者に対して、しばしば不可能と思われるようなことを命じられます。たとえば、ルカの福音書6章27から31節には、次のようにイエス様が私たちに命じておられるのですね。 ルカの福音書6:27-31
このように命じておられます。しかしながら、これらはすべて生半可な信仰ではとうてい出来ないことであります。 改めて信仰とはどういうものでありましょうか。聖書で言うところの信仰とは、私たちを愛してくださる真実なるお方である、生ける神様に全人格的に信頼すること、具体的にはみことばに全き信頼をもって従順に従うことであります。 旧約時代において、信仰の人と呼ばれたアブラハムは、まさにその良き例であります。 ヘブル人への手紙11:17-19
ご存知のように、アブラハムと妻のサラとの間には子がありませんでした。彼と女奴隷との間にイシュマエルという男の子がいましたけれども、神様は当時100歳のアブラハムと99歳のサラとの間に男の子を与えると、そしてその子イサクをあなたの継承者として、その子孫を増やそうという約束をお与えになりました。 ですから、そのイサクを生贄として捧げよと言われるならば、いったい神様の約束とは何なのだろうかと思ってしまうのは、むしろ当然ではないでしょうか。 けれども、アブラハムは神様の約束を疑うことなく、神様の仰せに素直に従って、躊躇することなくイサクをほふろうといたしました。 創世記22:10-12
神様は、アブラハムの信仰の堅さを、強さを試みられたのであります。 アブラハムは、この厳しい試練を神様に対する全き信頼、全き従順という信仰の力によって乗り越えました。アブラハムが信仰の父と仰がれる由縁であります。 パウロは、ローマ人への手紙の4章16節に次のようにこれについて記しております。 ローマ人への手紙4:16
このように言っておりますが、全くそのとおりであります。 しかし、何といっても私たち信者の信仰のお手本は、父なる神様に対する御子イエス様の全き信頼と全き従順の姿勢ではないでしょうか。 コロサイ人への手紙1:15-17
このようにイエス様は、父なる神様と共に天地万物をお創りになり、それらすべてを支配しておられる偉大なお方であります。 そのような権威を持った方であるのに、私たち人間を父なる神様に対する背きの罪から救い出すために、父なる神様からこの世に遣わされました。 そしてそのイエス様は、ご自分を無にしてすべて父なる神様の御心に従われて、まさに十字架の死にまで従われたのであります。 ピリピ人への手紙2:6-8
とあるとおりであります。これについてイエス様ご自身も次のように弟子たちに仰っておられます。 ヨハネの福音書5:19
ヨハネの福音書5:30
ヨハネの福音書6:38
これらのみことばは、御子イエス様の完全な自己否定と父なる神様への全き従順を表すものでなくて何でありましょうか。 そしてイエス様は、ご自分のいのちに代えて罪から贖い出して下さった私たち信者に対しても、ご自分の従順に習うように求めておられるのであります。 それは私たちを愛し、私たちの信仰を増し強め、ご自分の性質にあずかる者となるように、ご自分に似た者となるように成長させてくださるという、イエス様の深い御心だからであります。 ローマ人への手紙8:28-29
このようにパウロは言っております。 しかしながら、主に似た者にされるためには、私たちの霊はイエス様を信じた瞬間に、まさに清められそして新しく生まれ変わりました。けれども、私たちの肉のからだの方はどうでしょうか。 残念ながら、私たちはこの肉のからだを着て、この世に生きて今しばらく生きていなければならないのですけれど、その私たち信者には依然として根強く自我が残っていることを認めざるを得ません。 この自我が砕かれなければ、主に対する全き従順、信頼をすることが難しいのですね。 イエス様のような父なる神様に対する全き従順の信仰に習うためには、私たちの自我が砕かれて、自分を主に明け渡すということがどうしても必要となってまいります。 主はそのために、私たち信者に試練をお与えになるのであります。 ペテロの手紙第I、1:5-7
試練によって私たちの自我が砕かれ、自分をイエス様に明け渡したパウロは、次のように証しすることができました。彼の有名な証しであります。 コリント人への手紙第II、12:7-9
彼はこのように証しをしております。 私たち信者の肉が砕かれ、自分を主に明け渡した時に初めて、私たち信者の中に住んでおられる御霊がお働きになることができ、そしてパウロがガラテヤ人への手紙の5章16から17節、あるいは22から25節で言っております。 ガラテヤ人への手紙5:16-17
ガラテヤ人への手紙5:22-25
このように言っておりますように、私たちが自我が砕かれた時に初めて、私たちの中に住んでくださっている御霊が、私たちの中で働いてくださり、御霊に導かれて御心にかなう信仰の生き方ができるようになるのであります。 さらに、これについて有名なガラテヤ人への手紙2章20節で、主に自分を明け渡してからは、もはや自分が生きているのではない。自分の中に住んでくださるイエス様の御霊のご支配の下に、御霊に導かれて生きているというふうに証しをしております。 ガラテヤ人への手紙2:20
自我が砕かれ、私たちの内に住んでくださる御霊の働きにお委ねする時に、私たち信者は始めてイエス様が命じておられる、人を赦しきることがそして人を自分自身のように愛することができるようになるのであります。これがイエス様に似るような神の子にふさわしく成長した信者の信仰者の姿と言えるのではないかと思います。 主は、十字架の贖いの御業が、自分のためであったと信じる信仰によって救われた私たちを、さらにご自分に似る者に成長させることを通して、ご自身に栄光が現されるということを、切に望んでおられます。 しかしながら、私自身振り返りますと、自分の信仰がそのような主のご期待にはとうてい添い得ない者であることを痛感せざるを得ません。一番最初のみことば、ルカの福音書の中で、使徒たちがイエス様に「私たちの信仰を増してください」とお願いした時、イエス様がこう仰いました。 ルカの福音書17:6
イエス様は、桑の木は根が強く張られていて、抜くことが難しいことを知っておられて、こう仰ったのです。 主のご再臨の近いことを覚える時にあって、私自身、改めて自分にからし種ほどの信仰さえないような信仰の弱い者であることを痛感いたします。 そして使徒たちのように「信仰を増し強めてください」と主に真剣に祈り求めざるを得ません。 このように、自分の信仰を顧みて主の御前に心から祈るなら、主はこの私たちの祈りを御心にかなう祈りと認めてくださり、私たちの中に内に住んでくださる主の御霊のお働きによって、信仰を増し強めてくださり、愛することができない人をも、しだい次第に愛することができるように、また赦すことができない人をも赦すことができるようにしてくださると、私たちは堅く信じたいと思います。 最後にエペソ人への手紙3章16から21節のみことばをお読みいたします。 エペソ人への手紙3:16-21
この祈り、「あなたがた」という所を「私たち」あるいは「私」と読み代えて、私たちの祈りとして祈り続けたいと切に願うしだいであります。 |