主に信頼することは信仰生活のすべて


重田兄

(吉祥寺学び会、2012/04/10)

引用聖句:エレミヤ書17章5節-8節
5主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。
6そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
7主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
8その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

今、兄弟に読んでいただきましたみことばから、今日は、私たち信者にとって主に信頼することは、信仰生活のすべてと言ってもよいほど大切だということを、聖書からご一緒に考えてみたいと思います。
私たち信者は、私たちを愛してくださる主なる真の神様に背いて生きてきたことが、神様に犯した大変恐ろしい滅びに至る罪であり、そして自分の力ではその罪を決して拭い去ることはできないということを知って、心から悔い改め、その罪を身代わりに負って十字架にかかってくださった神の御子のイエス様を、救い主として信じ救われた者であります。
これが主を信じるということであります。

けれども主を信じた者がすべて主に信頼しているでありましょうか。本当はそうでなければならないし、主もそれを望んでおられるのですけれども、必ずしもそうとは言い切れないのが現実の私たちの姿ではないかと思うんですね。
これに関してよく知られたエピソードを挙げてみたいと思います。

マタイの福音書14:22-33
22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
23群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
24しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
25すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
28すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
31そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
32そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
33そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

ペテロをはじめとしたこの弟子たちの、船の中にいた弟子たちの姿は、まさに私たち信者の姿そのものではないかと思うのですね。
弟子たちは、それまでイエス様がなさった数々の癒しの奇跡や、5つのパンと2匹の魚で5000人に食事を与えられた奇跡を、目の当たりに見て、イエス様が人にはできない偉大な力を持っておられるということは知っておりました。
しかしながら彼らはまだ、このイエス様に信頼しお委ねはしていなかったのですね。

イエス様が強いて弟子たちだけを船に乗せて先に行かせたのは、彼らが試練に会った時にどれほどご自分を信頼していのかを試そうとお考えになったのではないかと思います。
またイエス様が一人山に登って祈られたのは、弟子たちが試練に会っても、ご自分を信頼することができるようにという切なる祈りではなかったでしょうか。
しかしながら、弟子たちはそのイエス様の期待を裏切ってしまったのであります。

神様に選ばれたイスラエルの民もそうでありました。彼らは、エジプトを脱出する時からカナンの地に入るまで、そしてその後も何度となく、奇跡的な神様の救いの御業を体験しましたけれども、それにもかかわらず、その神様に信頼しておりませんでした。
神様は預言者イザヤを通して彼らに次のように警告を与えました。

イザヤ書30:15-16
15神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
16あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。

冒頭に読んでいただきました、エレミヤ書17書5節から8節に挙げたみことばは、主がそのようなイスラエルの民に、預言者エレミヤを通して与えられた戒めのみことばでありました。
私たち信者も同じではないでしょうか。イエス様を信じたと言っても、いざ自分の上に何か困難や災難が起こると、イエス様に信頼しイエス様に委ねて、その困難に立ち向かうのではなくて、自分の肉によって解決しようとして失敗し、結局はイエス様に助けを求めるような信仰の薄い者なのではないでしょうか。
このように信仰の歩みの失敗は、主に信頼しない事から、主に祈らないことから、主を少しでも疑うことから生じると言ってもいいのではないかと思います。

イエス様は、主に信頼していない者の信仰の姿を、岩の上に落ちた種のたとえで仰っておられます。

ルカの福音書8:11、13
11このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
13岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

一方、主に信頼した信仰の人の記事は聖書にたくさん見られます。
その中のいくつかの例を挙げたいと思います。まずアブラハムについてであります。

ローマ人への手紙4:19-21
19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

このようにして与えられた息子がイサクでありました。しかし、さらにアブラハムの信仰は、主によって試されます。神様は、アブラハムにそのイサクを生贄として捧げよと命じられたのですね。
それを聞いた時、彼はどんなに驚いたのでありましょう。けれども彼は、神様を疑うことなく、従順に神様の命令に従って、息子を生贄として捧げようとしました。それは彼が、徹底的に主に信頼していたからであります。

ヘブル人への手紙11:17-19
17信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
18神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

イスラエルの王のダビデも、サウル王や自分の息子にさえも、命をねらわれるなどの波乱に満ちた人生でありましたけれども、生涯、主に信頼し続けた人であります。
彼の賛美の歌に次のようなものがあります。

詩篇62:5-8
5私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
6神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
7私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
8民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

そしてまた、有名なダビデの詩篇23篇

詩篇23:1、4
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

このようにダビデは、主に信頼し自分の命を主に委ねております。しかし、どうしてこのように主に信頼することができるのでありましょうか。
パウロは、テモテへの手紙第IIの1章12節で次のように言っております。「自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」とこのように証しをしております。
パウロがイエス様を心から信頼していることが、この証しからよーく解かります。そして、パウロがこのように主を信頼するに至ったことを理解するためには、パウロの次の告白が役に立つのではないかと思うのですね。

テモテへの手紙第I、1:13、15
13私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

パウロが言っておりますように、彼がキリスト者を迫害していた時に、主の御霊によって霊の目が開かれ、主との霊的な劇的な出会いをした結果、彼の自我が粉々に砕かれて、自分は罪人のかしらであるということを心から知って、悔い改めることができました。
そして、その自分の罪を救うために十字架にかかって、いのちを捨ててまで愛してくださった、そのイエス様に心から信頼し、それから殉教の死を遂げるまでの生涯をイエス様にお委ねして生きたのであります。
イエス様に霊的な出会いをする前の彼は、すでに秀でた律法学者として世間に知られた人であり、もちろん聖書の知識に精通しておりました。しかし、主はその彼をそのままで器としてお用いになることはなさらなかった。彼の自我を砕いて弱めてからお用いになったのであります。

パウロには、苦しみを伴う持病があって、彼を悩ませ続けましたけれども、彼はその苦しみを主が自分の自我を砕いて主に信頼し、自分を主に明け渡すために、主から与えられたものと受け止めて主に感謝することができたのであります。
これについてパウロは次のように言っております。

コリント人への手紙第II、12:7-10
7そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

このように彼は、自分に与えられた試練を受け止めたのであります。そしてその通りに彼は、自分の知恵を用いて主の福音を述べ伝えることをせず、主にお委ねし御霊に導かれるままに、イエス様を証ししました。これについてパウロは次のように言っています。

コリント人への手紙第I、2:1-2
1さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

イエス様は、ご自分を信じた者を、弟子として福音を伝えるようにと望んでおられます。しかし、主の御名を使いながら、イエス様に信頼せずに自分の知恵や力により頼み、福音を伝えたり、人を導いたりして、それを自分の功績としてひそかに誇り、高ぶるような信者に対しては、主はまことに厳しい態度をお取りになります。
なぜならば、そのような救いの業は、導く人自身に栄光を帰することになり、主ご自身がご栄光を表されないからであります。
ですからそのような信者に対しては、主はマタイの福音書7章21節から23節で

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

このように大変厳しい態度をお取りになるのであります。
ベック兄はよく救われるためには、イエス様に「ごめんなさい」「ありがとう」「よろしく」と言えばいいんだよと仰います。たしかにその通りであります。
けれども、大変簡単なだけに、うっかすると私たちは、その意味を軽く考えることがないでしょうか。

私たちは、パウロのようにイエス様に心の底から「ごめんなさい」と自分の犯した主に対する罪を知って、主の前に心砕かれて悔い改めたのでありましょうか。そしてパウロのように自分の罪を身代わりに負って十字架にかかって死んでくださるほどに、自分を愛してくださったイエス様に心の底から「ありがとうございます」と感謝を捧げたでありましょうか。
もしそうであれば、それ以後の歩み、信仰の歩みは「すべて主にお委ねしますから、どうかよろしくお導きください」と自分の人生をすべて主に信頼し、お任せしお捧げして主に従って歩むことができます。
しかしながら、もし口先だけで、あるいはうわべだけの「ごめんなさい、よろしく、ありがとう」であれば、先ほど申しましたように、岩の上に落ちた種のように、何か自分の上に困難が起こると、たちまちイエス様に「よろしく」と言ったことも忘れて、恐れおののいたり、あわてふためいたりしてしまうのではないのでしょうか。
「ごめんなさい、ありがとう、よろしく」には、このように重い意味があるということを、私たちは知っていなければならないと思います。

主は、救われた私たちをご自分の器として用いようと考えておられます。しかし、主の器としてふさわしいのは、立派な器でもない、形の良い器でもありません。器の大きさや形ではなくて、欠け多き土の器であっても空の器こそが、イエス様の望んでおられる器なのであります。
中に詰まっている自分自身の思いを捨てた空の器でなければ、御霊なるイエス様をお入れすることができないから、そしてその器を主がお用いになって、主がお働きになる事ができないからであります。
主がパウロの自我をお砕きになるために取られた処置も、そのためであったのであります。自我が砕かれたパウロは、次のように証しをしております。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる

信頼する、

ガラテヤ人への手紙2:20
20信仰によっているのです。

このように証しをしておりますけれども、ご再臨の真近い今の時にあって、私たち信者の罪にまみれた古き人を、ご自身の十字架の御業によって、葬り去ってくださり、よみがえりのいのちによって新しい歩みをするように、生まれ変わらせてくださった主に全き信頼を置いて、すべてをお委ねすることによって、主が私たちをご自分の器として用いてくださり、ご栄光を表されるようにと切に望むしだいであります。
最後に冒頭の読んでいただいたみことばの後半をもう一度お読みして終わりたいと思います。

エレミヤ書17:7-8
7主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
8その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。




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