引用聖句:イザヤ書30章15節
今日は、兄弟に読んで頂いた御言葉から、信仰にとって最も大切なことのひとつ、主の前に静まることについてご一緒に考えさせて頂きたいと思います。 今の御言葉は、強国のアッシリアの攻撃を恐れたイスラエルの民が、エジプトの力に頼ろうとした時に神様が、預言者のイザヤを通して仰せになった御言葉であります。 イスラエルの民は、神様の恵みによって神の民とされた後も、周りの国々から絶えず侵略されるという脅威にさらされていました。 イスラエルの民が、それが自分たちの信仰を試みる神のご計画であることも知らずに、その都度動揺し、恐れおののき、自分たちの主なる神に頼らないで人間の知恵に頼って何とかして、危機を乗り越えようとする過ちをたびたび犯したのであります。 そのような彼らに向かって神さまは次のように教え諭されました。 イザヤ書41:8-13
神様はここでイスラエルの民に対して、「あたなは私のしもべ。」と仰せになっています。 主の僕とは主の奴隷と言うよりは、主が用いるために選ばれた器と言う意味が強くあります。神様はご自分が器として用いようと選ばれたイスラエルの民に対して、いつも主が共におられて守り助けるから、いかなる大敵をも恐れることなくたじろぐことなくただ堅く信頼して主に従うようにと、心から望んでおられたのであります。 このように主の僕が主に用いられる器であるためには、どんなときにも堅く主に信頼して、主の御業に自分自身をゆだねることが最も大切であり、そのような器を主が用いられて御栄光を現されるのであります。 主のしもべには絶えず戦いがあります。それは、日々の生活の中での信仰の戦いであります。信仰の戦いの相手は、主なる神に敵対するものすべてであります。 それはサタンであり、またその支配下にあるこの世のもの全て、自分の肉の目を惑わすもの全てであります。 これらの敵は非常に強力であり、もし主の僕が主の器であることを忘れて、主により頼まず自分の知恵や力に頼って戦ったのであれば、到底勝てる相手ではありません。 イスラエルがダビデに統一されてひとつになりましたが、しかしながらその子供のソロモンが死んだ後に分裂しました。北のイスラエル王国と南のユダ王国に別れてしまいました。 その南のユダ王国の王様にヨシャパテがいました。モアブ人とアモン人の攻撃を受けました。その時に主は預言者のヤハジエルと言う人の口を通して、この戦いはあなた方の戦いではなく、主なる神の闘いであると仰せになったのであります。 歴代誌第II、20:15-17
この神様の仰せを聞いた彼らはどのような態度をとったのでありましょうか。聖書は次のように記しております。 歴代誌第II、20:18-24
神様から、この戦いはあなた方の戦いではなく神の戦いであるから、あなたがたはしっかり立って動かずにいなさい、そしてあなた方と共にいる主の救いを見なさいと言う命令を聞いたヨシャパテ王と、ユダおよびエルサレムの住民のとった行動は一見不可解としか思えない行動でありました。 すなわち、この御言葉にありますように、彼らは武装した敵の前面に聖なる飾り物をつけた、そして主を賛美するものを配置して、「主に感謝せよ、その恵みはとこしえまで。」と賛美の歌を合唱させたのであります。 彼らが賛美の歌を喜び歌い始めたその時に、主は攻めてきたアモン人、モアブ人、セイル人たちを同士討ちさせ全滅させられたのであります。 まさに先ほどのイザヤ書の41章11節12節の、「あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。」とあった通りになってしまったのであります。 彼らは、主が「あなたがたはしっかりと立って動かずにいなさい。そして、あなたがたと共にいる主の救いを見なさい。」と仰せになった、この主の戦いを言われた通り、ただ立って見ていただけでありました。 ただ立って見ていることはたいへん簡単なように思われるかもしれませんけど、しかしこれはスポーツの試合の観戦とは訳が違います。自分たちに向かって攻め寄せてくる敵の大軍を前にして動揺せずに立って見ていることなど、私たちには容易にできる者ではありません。 ですからこの「立つ」ということは、主のお約束の御言葉に堅くたつということなどであって、これは主に堅く信頼していなければできないことなのであります。 ですからしっかり立って動揺しないでいることは、外見的には何もしていないように見えますが、彼らは何もしなかったのでは決してなかった。主に堅く信頼して立つと言う主の命令に忠実に従う勇気有る行動、そのような形で取っていたのであります。 主はこのように、ご自分の命令に忠実に従って、敵の目の前で恐れずに主を賛美しつつ、主に堅く信頼して動揺することなく、主の御業を見守っていたヨシャパテ王と、ユダヤ、エルサレムの民に勝利をお与えになって、そしてこの戦いによって主ご自身のご栄光を現されたのであります。 このように主の僕に最も必要なことは、主に対する絶対的な信頼であります。信仰生活においては、主に堅く信頼し、主の前に静まって、主に自分自身をおゆだねして、主のなさる御業を待つと言う態度が非常に大切であります。 しかしこれは言うに安く、実行するのは大変難しいことであります。私達は目の前に迫った敵を見ると、目前に迫った困難な問題に直面するとすぐに動揺してしまい、静まって主がしてくださるまで、辛抱して待つことができないで、自分の思いに従って行動してしまうことがなんと多いことでありましょうか。 もしそうであるなら、それは主に心から信頼していない、心から主に従っていないことになります。それはまた主よりも、自分に、肉の目に見えない主よりも目に見えるこの世のものに頼ろうとする、肉の思いが強いことから起こってくるのであります。 そして主は、このような者をご自身の栄光を現す器として用いるにはふさわしくないと思われるのであります。 ダビデは、自らの体験を通して次のように主を賛美致しました。 詩篇138:7-8
「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」、主はこのように苦難の時に自分の力で戦うのではなく、主の御手に自分をゆだねて、主に信頼したダビデをご自分の器として大いに用いられて御栄光を現されたのであります。 そして神様は、イスラエルの民だけではなくて、神様に背を向け偶像の神々や、自分の肉に仕える罪を犯して神様の御怒りを受けて当然の異邦人の私達をも、憐れみと御愛によって救いの対象にお選びになり、御子イエス様を救い主として信じる信仰によって、そのような私達をも、主の僕としてくださいました。 そのようにして、主は、僕とされた異邦人の私達をも、ご自分の器として用いようと思っておられるのであります。これについて、パウロはローマ人への手紙の中で次のように言っておられます。 ローマ人への手紙15:8-12
旧約の時代には主は、主の僕とされたイスラエルの民を直接ご自分の器としてお持ちいになられ、ご自身のご栄光を現されました。 2,000年前に、御子イエス様が十字架の上で死んでくださり、私たちの罪の贖いの御業を成し遂げられ、甦って天に昇られてから後は主の御霊が、イエス様を主と認める人々のうちに住んでくださって、そのものを主の器として用いて、御霊が自らがお働きになって御栄光を現そうとされるのであります。 では、御霊をお入れした器のなすべきこととはなんでしょう。それは、自我によって主の御霊の働きを妨げないことであり、ともすれば先走って主のために何かしようとする自分を抑えて、肉の自分を抑えて、御霊におゆだねし、御霊の働くことを静まって待つことであります。 パウロはコリント人への手紙第Iの6章19節、20節で次のように言っています。 コリント人への手紙第I、6:19-20
このようにパウロは言っております。パウロの言う通りに私達信者の体は、イエス様が尊い代価を払ってくださったことによって、罪の奴隷から神様に買い取られて主のものされています。そして、主の御霊をお入れする器とされているのであります。 主の器である以上、もはや自分のものではないはずであります。では、パウロはなぜ自分の体を持って神の栄光を現しなさいとここで言っているのでしょう? 私達信者はともすればこの言葉を、信者自身が働いて神様の栄光を現さなければならないのではないかと受け取って、頑張ってしまいます。 しかし、いくら私達信者が肉の力で頑張っても神様のご栄光を現すことはできません。どうしてでしょうか? それはわたし達の肉の思いが、たとえどんなに良いものであるかのように見えても、所詮肉から出た思いは、肉に属する者しか過ぎないからであります。 従って、信者がいくら勇んで肉に属する性質を使って信仰のために戦っても、それでは決して主の喜ばれる実を結ぶことができないのであります。 たとい良い結果を生んだように見えても、それは自分に栄光を帰することになり、結局自らを誇るというサタンが喜ぶ傲慢の罪を、主の前に犯す結果になるのであります。 パウロが先ほどの御言葉で強調しているのは、イエス様を信じた者は自分の体を主の器としてささげて、主に自分をゆだねなさいということであると思います。 もし私達信者に、自分の体は主が所有される器に過ぎない、自分のものではないと言うはっきりした自覚があれば、自分のものではない体を、自分が使って、信仰の戦いをするはずがありません。 神様の御栄光は信者自身が戦うことによってではなく、信者のうちに住まわれる御霊自らが戦うことによってのみ現されるのであります。 前にも申しましたように、主の器である信者は、御霊が働かれるのを妨げないように、主のご命令どおりにただ堅く信頼し、主の前に静まって、主が御霊によって命じられることを霊の耳でしっかり聞き取って、主によって動かされるまで待つということが大切なのであります。 コリント人への手紙第II、4:7
パウロが言うように、私達信者は主の器と言っても金や銀のような立派な器ではなくて、何の価値もない、落とせば直ぐに割れてしまうようなもろい土の器にしか過ぎません。 ですからその自分がそのような者にしか過ぎないとはっきり自覚していれば、自分の力でサタンと戦って勝てるなどとは考えるはずがありません。 私達がサタンと戦って勝てるのは、このようにもろくて弱い土の器を通して働かれる、御霊ご自身の大いなる力と知恵によるのであります。イエス様は、このことを有名なぶどうの樹と枝のたとえでお話になられています。 ヨハネの福音書15:6-7
ここでは信者は枝にたとえられています。枝の役割は実を実らせることでありますが、それは枝の力によるのではありません。枝が樹につながっているから可能なのであります。 枝はただ樹にしっかりつながっている、それだけで良いのであります。枝が樹につながっていさえすれば、樹から樹液が自然に流れて枝は生き、その枝は、自然と実を結ぶことができるのであります。 そのように信者は自分の力で働くのではなくて、主の御霊にしっかりと結びついてさえいれば、御霊の力が信者を通して働かれてなすべきことを命じてくださり、結果として、自然と実を結ぶようになるのであります。 また反対に樹から離れた枝がたちまち枯れるのと同じように、御霊が離れた信者の信仰は、御霊を失って実を結ぶどころか衰えてしまい、やがては枯れてしまうのであります。 今までご一緒に考えて参りましたように、主は、主の僕を器としてお用いになって、その器を通してご自身の栄光を現そうとお考えになって、その対象にイスラエルの民、そして私達異邦人のキリスト者をお選びになったのであります。 主が僕に命じておられるのは、主の器としての役割を守って、自分の力に頼らず主にゆだね、主だけに頼りなさいということであります。 あなたがたは自分の力で信仰の戦いをしてはならない、この戦いは私の戦いであるからであると。 あなたがたは私に堅く信頼して、私の前に静まっていなさい。そして私が戦いに勝利するのをしっかり見ていなさい。 これが、主の器とされた私達信者に、主が求めておられる生き方、信仰の戦い方なのであります。 ご再臨の間近い今、混乱と悪の増大する地上で生きるわたし達の直面する戦いはいろいろあります。福音伝道のための戦い。そのほかにも、実に様々なものがあります。 身近なものをあげてみますと、夫婦間の問題にしても、親子間の問題にしても、あるいは子供の結婚にまつわる問題、そしてまた子供の養育、教育の問題。歪められた性の問題。あるいは、わたし達の集会の一致を乱そうとするサタンによって起こされた問題・・・など、いろいろございます。 兄弟姉妹の中にも、これらの問題に直面している方がおありのことと思います。そしてこれらの問題は、自分の力では解決不可能のように思われるかもしれません。 しかしこれらの問題は、すべて信仰の戦いなのであります。そのような戦いに直面した時こそ、騒ぎ立とうとする肉の思いを捨てて、悔い改めと祈りを持って主に堅く信頼して、御前に静まり主の御業を待ち望むことこそ主は期待しておられるのであります。 そしてこの生き方、この戦い方は私たちが自分の無力さ愚かさを徹底して知って、自我が砕かれ主に自分を明け渡したときにこそ、はじめて可能となるのであります。 主はかってご自分の民に次のように仰せになりました。 申命記20:1-4
主のおいでくださる日を待ち望む今の時にあたって私達信者は、このご再臨に備えて、御霊の働きを妨げるわたし達の自我がさらに砕かれ、御前に静まり、主の器として自分自身を明け渡し、御霊が私達、器を通して、わたし達の直面する全ての戦いを通して、成し遂げられる勝利の御業をしっかりと見届け、生きて働かれる主を心から褒め称えることができるように、切に祈りたいと願う次第であります。 どうもありがとうございました。 |