キリスト者の戦い


重田兄

(御代田喜びの集い、2013/07/20)

引用聖句:エペソ人への手紙、6章12節
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

今、読んでいただきましたエペソ人への手紙6章12節「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
こういうパウロのエペソ人への手紙の一節から「キリスト者の戦い」「信仰の戦い」と言ってもいいですが、それについてご一緒に考えて見たいと思います。

同じくエペソ人への手紙2章1節から3節においてパウロは、イエス様を信じる以前の私たちがそうであったように、この世に住む人々はすべて知らずにサタンに支配されて、神様に背を向けて自分の思いのままに生きている、それがすべての人間の生き方であると言うふうに書いてあります。お読みします。

エペソ人への手紙2:1-2
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子ら

即ち、神様に従わない子ら、

エペソ人への手紙2:2
2の中に働いている霊

悪霊、悪魔、

エペソ人への手紙2:2-3
2に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

とあります。サタンはかつてはこのように自分の支配下にあった私たち信者が、イエス様を信じてからは、主に属する者とされていることを非常に怒りまして、私たちを憎んでおります。
なぜならば、サタンは自分を裁くために、サタンを裁くために来られたイエス様を憎んでおられるからです。ですから、私たちを、イエス様から何とか引き離して、再び自分の支配下に置こうというふうに思って、あの手この手を使って、私たちの隙をねらって日々攻撃をしかけてまいります。
イエス様は弟子たちに次のようにおっしゃいました。

ヨハネの福音書15:18
18もし世が

この世というのは、この世の支配者であるサタンとその支配下にあるこの世の人々を指しています、

ヨハネの福音書15:18-19
18もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
19もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

というふうにおっしゃいました。これはもちろん弟子たちのみならず、イエス様を信じた私たちに対するみことばでもあります。
私たちキリスト者の霊は、イエス様を信じる以前は、罪に汚れて死んだようになっておりましたために正しく働くことはできませんでした。けれども、イエス様を信じた瞬間にイエス様が十字架の上で流された清い血潮によって清められ、そして新しく生まれ変わったことによって正しく働くようになりました。
その結果、私たちを愛していのちを捨ててくださったそのイエス様に心から従いたい、お仕えしたい、と願うようになったのであります。けれども、このように生きている私たちキリスト者は霊だけで生きていく訳には参りません。パウロがローマ人への手紙7章18〜19節で

ローマ人への手紙7:18
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

この善というのは、神様を第一として生きる、生きて従うということでありますけれど、

ローマ人への手紙7:18-19
18私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない

自分を第一にして自分の欲に従うこと、

ローマ人への手紙7:19
19を行なっています。

と嘆いております。そのように、この世に生きている間は、なお私たちは肉の思いに振り回されることが多くて、その弱点をサタンは突いてくるのであります。
以上のことから、この世に生きるキリスト者の敵というのは、この世とそしてこの世を支配するサタンであり、また、私たち自身の肉の思い、肉の欲望であると言うことができると思います。
そして、私たちキリスト者は、私たちをイエス様から離れさせ、堕落させ、再び自分の奴隷にしようと攻撃してくるこれらの敵と戦うのであります。

私たちキリスト者にとって、最大の敵、最も恐ろしい敵であるサタンについて、ペテロは初代教会の信者に宛てた手紙の中で、キリスト者の敵であるサタン悪魔が、襲いかかる隙をねらって私たちの回りを歩き回っているから、サタンに襲われないために、いつも目を覚ましていなさい、目を覚ましてガードを固めていなさい、と私たちを励ましております。

ペテロの手紙第I、5:8-9
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

このように言っております。
悪魔は、誰もが悪魔と気づくような姿、形や方法で私たちキリスト者に近づいてくるわけではりません。光の天使をよそおったり、聖書のみことばを逆用するなど、様々な策略を用いて攻撃してくる恐ろしい敵なのです。ですから、私たちキリスト者は、つかの間も油断することはできません。
また、ヨハネはキリスト者の敵であるこの世と自分の肉とについてヨハネの手紙第I、2章15節から16節で次のように警告しています。

ヨハネの手紙第I、2:15-16
15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

と警告しております。先ほども申し上げましたように、この世は悪魔の支配下にあり、肉の欲望を満たすことを第一に考えて生きている人を、権力や富や名誉という肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などのえさで誘惑するばかりで、人々が互いに争ったり、憎しみあったりして、苦しみ悲しむことを自分の喜びとしております。
けれども、また私たちキリスト者も又この世に生きている間はまだ不完全な肉の衣を着ているが為に、悪魔はキリスト者のこの弱い肉の部分を突いてより激しく攻撃をしてくるのであります。
ヤコブが国外に散っていたユダヤ人のキリスト者に書いた手紙には次のように書かれています。

ヤコブの手紙4:1-4
1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
2あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
3願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

このように言っております。このようにヤコブはキリスト者が自分たちの敵である悪魔と戦うのではなく、逆に悪魔の策略に惑わされてキリスト者同士が互いに憎み合い、争い合うという悲劇が起こるということを、彼は手紙で戒めているのです。
よく私たちキリスト者は未信者から、キリスト者同士が争うのはどういうわけですか?キリスト者の国同士が戦いをするのはどういうわけですか?何故、愛と平和を信条にしているキリスト者が互いに殺し合い、争い合うのですか?という質問をよく受けます。
このような争いこそキリスト者の心の中にある肉の欲に働く悪魔の惑わしによるものであり、この世の人々に、キリスト者同士の争い合い、憎しみ合う姿を見せつけることによって人々をつまずかせ、神様から引き離そうとする悪魔の策略なのです。

また、まだ救われていない私たちキリスト者の家族も、又、悪魔の支配化にあって、この世の目に見えるものだけを求めて生きている人々に彼らも属しております。ですから、悪魔はこれらのキリスト者の家族がイエス様を信じないように必死になって私たちが家族に福音を伝えることを妨害します。
これも、私たちキリスト者に課せられた大変大きな、そして重要な戦いなのではないでしょうか。
イエス様はこのことについて次のようにおっしゃっておられます。

マタイの福音書10:34-36
34わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
35なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
36さらに、家族の者がその人の敵となります。

大変厳しいみことばであります。ここで「平和」とおっしゃっているのは、神様からもたらされた、神様からいただく「平和」ではなくて、この世の一時的な表面的な「平和」であります。
私たちキリスト者は心情的には自分の愛する家族が敵だと決して思いたくないんですね。ですから、イエス様の福音を伝えること、イエス様を証しすることによって、家族のこの世的な平和が乱されること、家族が破壊されることを恐れます。
そして、つい、この世に属する、また、この世に属している者である家族と妥協してしまうということも少なくはないのではないでしょうか。

この世に属している家族と妥協すると一口でいってもいろいろな場合があると思います。
たとえば、福音を伝えようとしても耳をかさない夫や子供の態度に出会うと諦めてしまってイエス様に真剣に家族の救いを祈らなくなってしまうこともあるでしょう。あるいは、日々の生活の中で、主からの知恵をいただいて御霊に導かれて家族に福音を伝えるという努力を怠ってしまうということもあるでしょう。
また具体的には、親族の葬儀の時に親族に妥協してしまって焼香してしまったり、あるいは家族に同調して仏壇や神棚を拝んでしまったり、あるいは未信者との結婚を承諾してしまう、そういう風な具体的な様々な問題、主のみこころに反する問題はいろいろあると思います。

けれども、はっきりと主の側に立つことをしないで、家族とのこの世的な平和を壊さないように、そのために福音を伝える大切なこの戦いを恐れて家族と妥協を続けている限り、家族は救われません。
まず、聖書に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という有名なみことばがあります。けれども、うっかりしますと、このみことばを私たちは思い違いして受け取ってしまうことがあるのではないでしょうか。
「自分が信じているのだから、自然に家族も救われる。戦わないでただ待っていればいいんだ。」もしそういう風に思っておられるキリスト者があれば、それは思い違いであります。このみことばの真意はそうではない。

このみことばは家族が救われるためには、まず、まずですね、自分がイエス様を心から信頼すること、イエス様のお約束を心から信頼すること、ここから始まるのであります。そして、家族の救いを信じて真剣に祈り続ける、その真剣な祈りを、主がみこころにかなうものとして聞き入れて下さるから家族が救われるのであります。
自分が信じれば、自然に何もしなくても自動的に家族が救われるということではないのではないと思います。もし、愛する家族が救われなければ一体どうなるでしょう。主の救いの御手を拒み続ければ永遠の滅びに行くしかないのであります。
ですから、愛する家族が救われるために、たとえ信仰のゆえに家族との間に一時的に戦いが起こっても妥協することなくイエス様の側にしっかりと立って御霊により頼んで家族に臨むことが必要であるということ、またそれが家族に対する本当の愛であることを、イエス様は、家族の間に剣を投げ込むために来たというおことばでおっしゃっているのであります。

パウロは不信者との妥協を戒めて、コリントの信者宛ての手紙の中で次のように書いております。

コリント人への手紙第II、6:14-15
14不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
15キリストとベリアル

即ち悪魔、

コリント人への手紙第II、6:15-17
15とに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

この中で主がキリスト者に、未信者の中から出て行き、彼らと分離せよ、未信者というのは不信者、不信仰な者といっていいかも知れませんが、とおっしゃっているのは、いうまでもなく、救われていない家族と一緒に住んではいけないという意味ではないですね。未信者の家族と霊的に妥協してはいけないとおしゃっているのであります。
先程も申し上げましたが、救われていない家族はサタン悪魔の支配化にあります。自分ではそれと気がつかないで悪魔にそそのかされ、あやつられて、私たちキリスト者に反抗したり、敵対するまことに気の毒な人たちなのであります。
ですから、神様は私たちの救われていない家族を憐れんでくださって、先に恵みによって救われた私たちを用いて救おうとしておられるのであります。

そういう意味で、救われていない家族が私たちキリスト者の敵なのではなくて、本当の敵は、一番先にお読みしたみことばにありますように、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊であることを、私たちキリスト者はしっかりわきまえていることが大切であります。
愛するが故にこそ、私たちキリスト者は、救われていない家族に対して安易に妥協せずにその背後にいる悪魔に対して毅然とした態度をとるのであります。このことを私たちは常にしっかりと覚えて家族の救いを確信しつつ、日々真剣に主に祈ることを主は望んでおられるのではないでしょうか。
では、私たちはどんな方法で、敵であるこの世の支配者サタンや自分の欲望と戦ったらよいのでありましょうか。パウロはこれについてエペソ人への手紙の中で具体的に次のように書いております。エペソ人への手紙6章11節と14節から18節までお読みいたします。

エペソ人への手紙6:11
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

エペソ人への手紙6:14-16
14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15足には平和の福音の備えをはきなさい。
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者

悪魔、

エペソ人への手紙6:16-18
16が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

これこそが、私たちキリスト者に与えられている武具であり、私たちはこの武具を身に着けて戦うのであります。
これらの武具はいずれもこの世の武具とは全く異なりますけれども、パウロが、

コリント人への手紙第II、10:4
4私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

と言っておりますように、これらの神様から与えられた武具こそ信仰の戦いによる不可欠な力ある武器、武具であります。
けれども、この武具を身に着ける前に私たちが敵と戦うためになすべき大切なことがあります。それは私たち自身の心構えであります。その心構えとはいったい何でありましょうか。ひとつは、私たちがイエス様とともに信仰の戦いを戦う兵士であるという心構えであります。
パウロは愛する同労者のテモテに宛てた手紙の中で次のように書いております。

テモテへの手紙第II、2:3-4
3キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
4兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者

イエス様、

テモテへの手紙第II、2:4
4を喜ばせるためです。

私たちは果たしてイエス様への心構えができているでありましょうか。もし私たちがイエス様の兵士ならば、戦いの最中にこの世に心を向けている暇がある筈がありません。そんなことをしていれば戦いに負けてしまいます。
従って私たちはイエス様の兵士として信仰の戦いに臨むからには日常生活のことなど決して思い煩うまいという堅い心構えが必要であります。
コリント人への手紙第I、9章27節で次のようにパウロは言っております。

コリント人への手紙第I、9:27
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。

これが私たちの日常生活を決して思い煩わないための心構えではないでしょうか。
私たちが意識して自分の肉の思い、欲望を抑えるという心構え、これは、自分のからだを打ちたたいて従わせるほどの覚悟が必要であります。
しかしながら、これも悲しいことに自分の意思で出来ないということも痛いほど経験しております。一体どうしたら自分の欲望を抑えることができるのでありましょうか。それには秘訣があります。パウロはガラテヤ人への手紙2章20節に次のように書いております。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

このようにですね、私たちはまず自分の古い人、古い自分というのはすでにイエス様とともに十字架に架けられて死んだというこの事実をしっかり自覚することであります。
そして、次に、じゃ、今の自分はどうなのか、今の自分は、自分の中に住んでくださっているイエス様の御霊によって生きているんだ、自分ではなく、イエス様の御霊によって生かされているんだという確信と決意をしっかり持つこと、これが必要であります。
これは自分を主に明け渡すという決意でもあります。この決意をもって、どうか私の欲望が抑えられますようにと心から切に祈れば、必ず、私たちの中に住まわれる主の御霊ご自身が働いてくださって、御霊によって自分では成し得ない欲望の抑制が可能となるのであります。

これまで、私たちキリスト者が何故戦わなければならないのか、そして、また、誰と戦うのかということにつきまして、ご一緒に考えてまいりました。
そして私たちの敵は、悪魔と、悪魔に支配されているこの世の人、および、自分の肉の欲望など、大変手ごわい相手であることを知りました。
しかしながら、いかに手ごわい敵であっても私たちは勝利を確信することができます。それはイエス様ご自身が次のように私たちを励ましてくださるからです。

ヨハネの福音書16:33
33あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

また、

ヨハネの手紙第I、5:4-5
4私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

このようにありますように、私たちが堅くイエス様の側に立って、常にともにいてくださる勝利の主イエス様を心から信頼し、その主により頼む時に、どんな手ごわい敵に対しても勝利することができるのであります。
すでにイエス様がおっしゃっているように、またヨハネが言っているように、すでに私たちは世に勝っています。このイエス様のみことばを信じて従う時に、私たちの勝利は決まっているのであります。
ご再臨がまじかに迫っている今の時にあって、私たちキリスト者もパウロと同じように、イエス様の兵士として与えられた神の武具をしっかりと身に着けて、恐れることなく、たじろぐことなく、信仰の戦いを勇敢に戦い抜いて、やがて天の御国でイエス様にお会いした時に「あなたがたはよく戦った。」と誉めていただくことができればどんなにか幸せなことではないでしょうか。




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