イエス様の7つの特性


重田兄

(テープ聞き取り)

今月は12月でイエス様のご降誕の月であり、クリスマスの25日の直前です。
ですから今日のご一緒に学んでみたいのは、イエス様というのはどんな方かということです。
改めて聖書のあちこちからみことばをお聞きして、ご一緒にイエス様のすばらしさを、イエス様が私たちのために何をしてくださった方であるかということを改めて考えてみたいと思います。

この世でクリスマスと言いますと、イエス様出て来ないんです。この世の人はサンタクロースです。
ですから、そういう方々のクリスマスと、私たちがお祝いするクリスマスと、全然質的に違うわけなんですけど、それじゃあ、教会でイエス様のことをどれぐらいのクリスチャンの方々が分かっておられるかというと、分かっておられない方が案外多いんです。
というのは、よくクリスチャンのお宅に伺いますと、色んなことばが紙に書いてありますけど、「神様」という言葉が非常に多いんです。

「神様」という言葉は知ってる。要するに、神様がどんな方かということは分かっている。ところがイエス様が分からないんです。
私は神さまは信じるけども、イエス様の十字架は分からないからという方が多いんです。
私たちはそういう意味で、吉祥寺集会の兄弟姉妹は、「イエス様」、というふうにお祈りの中で呼びかけて祈られる方が非常に多い。

一般の教会ではお祈りのときは、「神さま」、「父なる神さま」とか、そういうふうに呼びかけをするお祈りが圧倒的に多い。
私も教会に行ってたときはそういうふうな祈りをするもんだと思ってたんです。
ところがやっぱり私たちのためにいのちを捨ててくださって、私たちを罪から救い出してくださったのはやっぱりイエス様ですし、その方のお名前を私たちは知ってるだけじゃなくて、そのイエス様と人格的な交わりをすることを通して私たちに喜びがあり、イエス様の平安が与えられるということですから、やっぱり私たちはイエス様をよりよく知る必要があると思うんです。

そういうわけで、今からイエス様のお持ちになってる七つの特性と言いますか、七つの特質について聖書から見てみたいと思います。
イエス様の持つ七つの特質というのは、神の属性をお持ちになってると同時に人の属性を持っておられる。天上の属性と地上の属性を兼ね備えておられる。
そういうイエス様の特質があるわけですけども、七つというのはイエス様は完全な方ですから、七つというのは完全数ですから、そういうことで七つの特性をこれから聖書からずっと見てみたいと思います。

まずイエス様の第一の特性というのは、神のことばでありながら、血と肉を持たれた方。
神のことば、これは神の属性です。神のことばでありながら、血と肉を持たれてる。これは人の属性です。そういう方であるということです。
これはもうよくご存知の箇所ですけど、

ヨハネの福音書1:1-2
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2この方は、初めに神とともにおられた。

このことばですね。このことばというのはもちろん神のことば。神のことばというのは言い換えますと、神さまのお考え、あるいは神さまのご計画が証言されるものなんです。
ことばって、私たちもそうですね。私たちは自分の心の中で思ってることは、ことばを出さなければ分からない。
ということは、ことばというのは自分の考え。自分の意思を表わすものなんです。

それで、神のことばというのは神さまの御意思、神さまのお考えを表わすものであるわけです。
それがイエス様なんですね。その神のことばが人となって私たちの間に住まれた。

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

それからヨハネの黙示録の19章の13節、ここにこのように書かれています。

ヨハネの黙示録19:13
13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

イエス様が十字架におつきになって血を流された。
そのイエス様は私たちのところにおいでになるわけですけども、その方イエス様は血に染まった十字架で、ご自分が流された血に染まった衣を着ておられた。
その名は「神のことば」と呼ばれたとあります。イエス様は神のことばであるということです。

ヘブル人への手紙2:14-15
14そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

子たち、要するに私たち、人の子です。人間はみな血と肉を持っておりますから、神のことばであるイエス様もまた同じように、血と肉をお持ちになった。
血と肉を持つということは、限りがあるいのちを持っているということです。

それでイエス様はなぜ血と肉をお持ちになったかというと、死ぬため。
さっきもお祈りの中でありましたけど、イエス様は私たちに代わって死ぬためにおいでになった。死ぬことができるというのは、血と肉を持っているものでなければ死ぬことはできない。
神さまは死なないわけです。永遠なる方ですから。ですから私たちの身代わりになるために血と肉を持ってくださったということであります。

二番目の特性は、神のひとり子でありながら、人となられた。人間となられた。
最初ちょっと似てますけども、神のひとり子である。神のがわに、天上の属性です、でありながら、地上の属性である人となられた。

マタイの福音書3:16-17
16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様はなにもバプテスマをお受けになる必要はないわけです。神さまですから。罪の悔い改めをお受けになる必要はない。
けれども、やはりイエス様は私たちと同じレベルに立ってくださった。
ですから人の子としてイエス様はバプテスマをここでお受けになったんですけども、そのときに神の声が天から聞こえた。

「これは、わたしの愛する子」すなわち、神さまの御子であるということを神さまご自身がこのようにはっきり私たちに、「イエス様は自分の愛する子である。」ということを知らせてくださっているわけです。

ガラテヤ人への手紙4:4
4定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これはこの通りです。ご自分の御子を人としてくださったんです。
女から生まれた者、律法の下にある者というのは、これは私たち人間は神さまの掟、あるいは定め、御意思の下にすべての人間が置かれています。
そういうふうな人に、私たちと同じそういう人としてイエス様を置いてくださったわけです。

ローマ人への手紙1:2-4
2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
4聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

ここにも、神の御子でありながら人となってくださったイエス様のこと...イエス様ご自身が神でありながら、人となってくださったこと自体が福音であります...そのことは神さまが遠いむかしから、イエス様がお生まれになる、この世にお遣わしになる神さまがなるはるか前から聖書において神さまが預言者たちを通して約束してくださったことであるというふうにあります。

ピリピ人への手紙2:6-8
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

キリストは、イエス様は神の御姿であり、神のご自身の性質をお持ちのお方でありながら、私たちのために仕える者の姿をとってくださった。
イエス様は人としての性質を持ってくださっています。

人としての性質とは何かって言うと、これは私たちと同じ罪の性質を持っておられるっていうんじゃないです。そうじゃない。
イエス様はまったく罪のない方です。それが人間としてはお生まれになってはおりますけども、私たち人間とはまったく違うただ一つの点なんです。

それ以外の人としての性質、すなわち例えば、肉体に痛みを、私たちと同じ肉体の痛みをイエス様もお感じになることができる。
そういう性質、あるいはイエス様はご存知のように私たちと同じ生まれたときはちっちゃな赤ちゃんだったんです。
ところが成長された。大人になられた。神さまはそんなことはない。初めから神さま。立派な大人・・って言っていいかどうか分からないけど。要するに年齢がない。

要するに加齢現象です。エイジ(age)って言うんですけど。私たちは生まれたらもう、そのときからエイジが始まる。それが歳を取っていくということです。
イエス様も人として生まれた。イエス様は赤ちゃんから大人になれる。人としての性質を持っておられるということであります。
それから死ぬことも、ですからお出来になる。お出来になるというのは人間と同じように死を味わえる。

三番目の特性は、すべての主。イエス様はすべての主でありながら、人間のしもべとなられた。
こういう特質を持っておられるんです。そのことに関するみことばをいくつか挙げてみたいと思います。

コロサイ人への手紙1:15-17
15御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
16なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
17御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

すべてのものの主、すなわち万物は御子によって造られ、御子のために造られ、そして御子にあって成り立っている。
王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたということは、すべてのものの主であるということです。

ピリピ人への手紙2:9-11
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白する。すなわちすべてのものの主はイエス様であります。
そのイエス様はこの世に来て、こういうふうに仰っておられます。

マタイの福音書20:28
28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである

すべての主であるイエス様は、「人の子」と自分のことを仰る。人の子というのは私たちと同じです。私たちも人の子です。
イエス様はご自分の使命をはっきり、このようにご自分をお呼びになることで私たちに示してくださいました。
「あなたと同じです。わたしは人の子として来た。」と仰った。

それはここにありますように、仕えられるためじゃないんだ。あなたがたに仕えるためであり、あなたがたの贖いの代価として、自分を与える。
「そういう形であなたがたに仕えるためにわたしは人の子として来た。」というふうに仰っておられるわけです。

ローマ人への手紙15:8-9
8私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
9また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。

割礼のある者、すなわちイスラエル人、ユダヤ人のしもべとなってくださっただけではなく、異邦人のしもべともなってくださった。
すなわちユダヤ人以外のすべての民族、私たちも含めてすべての人のしもべとなってくださったということであります。

四番目の特性。イエス様の特性は、正しい方が罪人となられたということです。正しい方、これは完全に正しい方ということです。
要するに、神さまの属性です。その神さまの属性を持っている正しい方は、罪人、すなわち、人の属性である罪人とされたということです。

ペテロの手紙第I、2:22-24
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。これは人間としては不可能なことです。
私たちは生まれてから今まで、何の偽りも口に出したことがないか。そんなことは不可能。
イエス様だけが正しい方である。イエス様だけが何の偽りも口からお出しにならなかった。すべて本当のことを仰ることができたんです。

この方が、その正しい方が私たちの罪をその身に負われている。十字架の上につけられたと書かれています。罪人とされたわけです。
私たちは、イエス様の打ち傷のゆえに、いやされたわけです。ペテロの手紙第I、3章の18節。同じようなことばが別の表現で使われております。

ペテロの手紙第I、3:18
18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々

私たちのような悪い人々、神さまにそむいた人々

ペテロの手紙第I、3:18
18の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イザヤ書の53章の4節、5節。これはよくクリスマスのときに礼拝で読まれる箇所でありますが、

イザヤ書53:4-6
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

もう申すまでもなく、彼というのは正しい方、いわゆるイエス様であります。
そのイエス様に私たちのすべての咎を父なる神さまが負わせた。それによって私たちに平安が与えられた。罪から解放されたわけです。

五番目の特性は、永遠なる方が死を味わわれたという特性です。
神さまは永遠の方です。要するに、死なない方です。永遠に生きておられる方です。その方が死を味わわれた。

ヨハネの黙示録1:17-18
17彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
18生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

イエス様が仰っておられることばです。「わたしは、最初であり、最後であり。アルファであり、オメガであり。」
これは神さまの属性です。「生きている。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」
確かに十字架の上で亡くなりましたけれども、死にましたけれども、生きている。「見なさい、わたしは生きている。」

「また、死とハデスとのかぎを持っている。」、これはどういうことかと言いますと、イエス様は死をも支配されるんです。
死のかぎをイエス様ご自身が持っておられる。ハデスも同じように、ですからそのイエス様が死を制御される方。死に勝利される方であるということです。
そのイエス様ですから、十字架の上で死んだけれども、生きることがお出来になる。

そのイエス様を信じる私たちは、イエス様のその死とハデスのかぎを持っているイエス様によって、私たちも死に勝利をすることができるわけです。
マルコの福音書15章の25節から、飛び飛び39節までお読みします。これは確かにイエス様が十字架の上で死んだという原始的な事実がはっきりと書いているということなんです。
イエス様が十字架で死んだということが、これは事実なんだということであります。

マルコの福音書15:25
25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

時間まで明記しております。十字架にイエス様をつけた時間。

マルコの福音書15:33-34
33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

完全にイエス様は神さまから見捨てられた。なぜ神の御子が父なる神さまから見捨てられたか。それは罪人として神さまから罰せられたということです。
要するに私たちがこの叫びを上げなければいけない。神さまから見捨てられたときに叫ばなければいけないこの恐怖の叫びを、イエス様がご自分で罪を負ったために体験されたということです。
身代わりの体験なんです。死の恐怖です。

マルコの福音書15:35-39
35そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。
36すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
37それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
38神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

イエス様を、要するに異邦人である百人隊長、ローマの百人隊長ですら、イエス様が確かに息を引き取られて、しかもそのイエス様をその目で見て、「この方はまことに神の子であった。」と言わしめるほど、イエス様は本当に正しい、聖い方で神の御子であるということが霊の目を開かれて分かるんです。

神殿の幕が真二つに裂けたというのは非常に象徴的です。
イエス様の死によって私たちは神さまと和解する道が開けたということであります。

六番目の特性です。よみがえられ、天に上げられた方は、今、信じる人の中に住んでくださっている。ヨハネの福音書20章の11節から16節。これもイエス様がよみがえられた事実ですがここに書かれております。

ヨハネの福音書20:11-16
11しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
13彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
16イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

(テープ A面 → B面)

七番目は、神の右の座に着かれた方が再び来られる。

マタイの福音書26:63-64
63しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
64イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

神の子が人となって私たちのところに来てくださったことを信じていないわけです。
イエス様に向かって、「あなたは神の子かどうかはっきり自分自身で答えろ。」と言ってるわけです。
イエス様は「そうだ。」と、「自分は神の子である。」と大祭司にお答えになったわけですけども、もちろん大祭司はそんなことは頭から信じていないわけです。だから張り付けにしたわけですから。

それでイエス様は、「あなたに言っておく。今からもし人の子が」、神さまの・・要するに、「ご自分が父なる神のもとに行って、そしてまた、来ます。それをあなたがたに言っておきます。」と仰ってるわけです。
これは大祭司をさばくために、イエス様を見ながら信じない人々をさばくために来られる。

マタイの福音書25:31-33
31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

これが、ここにあります羊と山羊...羊はイエス様を信じるが、山羊はイエス様を信じない...そのように彼らを、人間を、イエス様はより分け、結局それはそれによって信じない者を主がさばかれるために、これはより分けをなさるわけなんですけども、そのためにおいでになるわけです。

ヨハネの黙示録1:7
7見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。

これは本当に端的に、イエス様を信じない者は、イエス様が雲に乗っておいでになるのを見て嘆くんです。嘆き悲しむんです。
それはもう自分たちが、どういうことになるか。それは彼らが知ったからです。喜んで迎えるんじゃない。喜んでイエス様のご再臨を迎えることができるのは、イエス様を信じた人たちだけです。
そうでなくて、イエス様を拒絶した者、信じない者はイエス様のご再臨を嘆き悲しみつつ見るんです。彼を突き刺した者たちが見るわけです。

このように今まで七つ、イエス様の特性をお話しました。繰り返しますと、

一番目が、神のことばでありながら、血と肉を持たれた方である。
二番目が、神のひとり子でありながら、人となられた方である。
三番目が、すべての主でありながら、人間のしもべとなられた方である。
四番目が、正しい方が罪人とされたことです。
五番目が、永遠なる方が死を味わわれた。
六番目が、よみがえられ、天に上げられた方が、今信じる人々の中に住んでおられる、そういう方。
七番目は、神の右の座に着かれた方が再び来られる。

この七つの特性をイエス様が持っておられます。
神のひとり子の神さまがなぜ人になったか。なられたか。それはただ一つ。人間に対する神さまのあわれみによるんです。神さまはそのように仰ってる。

エゼキエル書33:11
11わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。

神さまからそむいている者が悪者です。その神にそむいた者の死を神さまは決して喜ばないと仰ってます。
かえって、悔い改めて、生きることをわたしは喜ぶんだ。だから悔い改めなさい。
それが人間に対する神さまのあわれみであります。

そして神さまは人になったイエス様・・・神さまは御子を人にしてくださって、私たちのところにおくってくださったんです。
イエス様は私たちの滅びの原因である罪をご自分のいのちで贖ってくださったわけです。ですから、私たちが自分の罪を認めて、神さまに悔い改めるときに、そのイエス様は、あなたの罪はわたしが代価を払ったから、もう赦されていますというふうに仰るんです。

死を免れることができて、そして永遠のいのちをいただく。天国の国籍を私たちが得るためには、私たちはイエス様以外に、この方以外にすがる方はいないんです。それ以外に道はないんです。
最後に使徒の働き4章の12節をお読みして終わりたいと思います。

使徒の働き4:12
12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

私たちはしたがって、キリスト教を信じるんじゃないです。この御名だけ。
イエス様を信じることによって、私たちは救われる。私たちが救われるべき御名としては、世界中でイエス様という御名以外には、人間には与えられていないわけです。

そのイエス様がこの世に来てくださったことを感謝するのがクリスマスということです。私たちは再確認したいと思います。




戻る