引用聖句:ピリピ人への手紙4章13節
今、司会者に読んでいただきましたこのみことばの意味、これを、今日は聖書に記されているいくつかの例からご一緒に考えてみたいと思います。 パウロは、ここで私を強くされる方によって、どんなことでも出来ると言っております。 そして、自分が強くされた証拠として、その前の節で、「自分が飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と言っているのですね。 そして、そのようにどんなことにも対処することが出来るのは、自分の力や努力によるのではない。イエス様を信じる信仰によって、イエス様が自分を強めてくださるからなのであるというふうに、ここで証しをしているのですね。 人間は誰でも、自分が強くなることを望んでいるのではないでしょうか。それは、例えばスポーツに限らないですね。この世を生きていく上で、何事においても、弱いよりも強い方が有利だということを私たちが、知っているからであります。 強者が弱者に勝つというのが、この世の常識だからであります。ですから、どうすれば自分が強くなれるのかと、人間があらゆる知恵をしぼり、また努力を尽くして頑張ります。 けれどもパウロはここで、自分の力や意思によって、自分が強くなるのではなくて、イエス様が自分を強くしてくださるのだと言っているのですね。 しかもパウロが強くなるのは、それは自分のためではない、主のためである、神様のためである。そして、それによって、主がご栄光を現されるためである。そして強くされたことによって、自分は主のために、どんなことでもできるというふうに言っています。 この点が、パウロが強くなりたいと思う理由と目的と、そしてこの世の人々が強くなりたいと思う理由と目的との、全く違うところであります。 旧約聖書には、信仰によって主に強められた人々の事例が、数多く記されております。その内のいくつかをこれから見ていきたいと思います。 まず、サムエル記第Iの17章には、少年ダビデが、ペリシテ人の巨人ゴリヤテを倒した記事が載っております。 サムエル記第I、17:42-50
ダビデはここで、この戦いは自分のための戦いではなくて、主の戦いであると言っております。主の戦いであるがゆえに彼は、主は弱く小さい自分を強くされて、この恐ろしい敵に勝つことができると確信して、戦ったのであります。 そして彼のこの信仰を良しとされた主は、ダビデを通してご栄光を現されたのであります。 次にダニエル書の6章から、獅子の穴に投げ込まれたダニエルについて書かれてるところを見てみたいと思います。 ダニエルは、ご存知のように、捕囚の一人としてバビロンに連れて行かれました。 そして、そこでバビロン王の信頼を受けて、大臣に取り立てられるまでに出世しましたけれども、その地でも、異教の民の中にあって、生ける真の神様に対する信仰を守り続けたのであります。 そして、そのダニエルを妬んだ王の家来たちは、ダニエルを陥れようとして、バビロン王だけに祈ること、さもなければ、獅子の穴に投げ込むという禁令を作ったんですね。 それでも、主なる神様に祈ることを止めなかったダニエルは、禁令を犯した罪によって、ついに獅子の穴に投げ込まれてしまいます。 しかし、この禁令がダニエルを陥れるものであると知った王は、翌朝、ダニエルの様子を見に獅子の穴に急いで行きます。 ダニエル書6:20-23
このように、囚われの弱い身でありながら、主なる神様にどこまでも信頼したダニエルを主が強めてくださり、そのダニエルを通して、主は、異邦人の王に対しても、ご栄光を現されたのであります。 預言者のエレミヤについてはいったいどうだったでしょうか。 エレミヤが、主の預言者として召し出された時の様子は、次のようなものでありました。 エレミヤ書1:4-8
エレミヤという人は、大変弱い性格の人であったようです。けれども、主はこの弱いエレミヤを、主の預言者に選ばれました。 そして主によって強められたエレミヤは、主に信頼しながら、激しい迫害を受けられながらも、恐れることなく、生涯主のみことばを伝え続けたのであります。 そして主はそのエレミヤを通して、ご栄光を現されました。ヘブル人への手紙11章には、このようにして、主によって強められた人々について、次のように書かれております。 ヘブル人への手紙11:32-34
主は、生まれつき強い者をそのままではお用いになりません。それはなぜかと言いますと、生まれつき強い者は何事も、信仰でさえも、自分の強さによって実行できるという、高ぶった自我の思いを持っているからであります。 ですから主はまず、用いようとされる者の自我を砕いて、弱められるのですね。 その実例を2つあげてみたいと思います。 1つは、イエス様の弟子ペテロであります。彼は生まれつき強い性質の持ち主であったようであります。 そしてその性質のゆえに、イエス様が弟子たちに「今夜、わたしが捕らえられたら、あなたがたは皆、わたしにつまづき、ちりじりになる」と仰った時に、ペテロは何とイエス様に言ったか。 マタイの福音書26:33-35
こういうふうに言い張ったんですね。それにもかかわらず、ペテロは自分がイエス様に預言された通りに、イエス様を裏切ってしまったことによって、彼の自我は粉々に砕かれたのであります。 そのようにして砕かれ、弱められたペテロを、主は御霊によって強めてくださり、その結果彼は主の器として用いられ、迫害にあいながら、殉教の死を遂げるまで主の福音を述べ伝え続けたのであります。 次の人は、パウロであります。彼は次のように証しております。 コリント人への手紙第II、12:7-10
パウロは、かつては自我の強い、誇りの高い人でありました。これについて彼は次のように告白しております。 ピリピ人への手紙3:4-6
かつての彼の誇り高さ、これは今の彼の告白からよく解かると思います。 しかし彼の告白と言いますか、証しにある通り、イエス様はパウロの自我を砕いて弱くされた後で、パウロを御霊によって強められて、主の器として大いに用いられたのであります。 主の器とされたパウロは、コリント教会の信者にあてた手紙の中で、自分は弱い者であることをよく知っている。だから福音伝道の成果は、自分の人間的な知恵や力によってではなくて、御霊の力に支えられて行われた結果であるというふうに証ししております。 コリント人への手紙第I、2:3-4
コリント人への手紙第I、9:19-22
これこそパウロが「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と証ししていることの、具体的な現れであると思います。 これまでご一緒に、主の器として用いられた人々について考えてまいりましたけれども、これらの人々はすべて、自分の弱さを知って、あるいは強かった自分が、主に弱められた結果として、自我が砕かれ、自分自身を主に委ねることによって、主に自分を明け渡すことによって、主から力をいただいて、強くされた人達であります。 そしてこのように、主によって強められた人々を通してのみ、主はご自信のご栄光を現されたのであります。 イエス様は、私たちすべての信者に対しても、これらの人々と同じように、ご自分の救いを伝える者として用いたいと心から望んでおられます。 そして、主が私たちをご自分の尊い血潮によって、罪から救い出してくださったのは、ただ罪から救い出すだけではなくて、そのような者を主のしもべとして、主の器として用いようというのが御心なのであります。 そしてそのためには、何回も申し上げたように、主によって強めていただかなければなりません。 そして主によって強められるためには、まず自分が弱められ、自分の自我を主に明け渡す必要があるのであります。 バプテスマのヨハネは、ヨハネの福音書3章30節で、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言っているのは、まさにこのことであります。 私たちはどうでしょうか。私たちも、心からヨハネのように言うことができるのでありましょうか。それとも信じた後も相変わらず、強い自我のままで、日々過ごしているのでありましょうか。 それでは主が、私たちを主のご用のためにお用いになれないことは、すでにお解かりだと思います。 信仰においては、自分を強いと言うことは何の益にもなりません。むしろ自分を義とする誤った道に突き進む結果に陥ってしまいます。 イエス様のご再臨の近い今、私たちは自分の中になお根強く残っている自我を主によって砕いていただき、弱められて、自分を主に明け渡し、主の御前にへりくだり、みことばを確信し、御霊に満たしていただくことによって、強められ、パウロが言っていますように「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と、私たちも証することができるように、主の器として用いていただけるよう、そしてそのことを通して、主がご栄光を現して下さることができるように心から祈りたいと思うしだいであります。 最後に、私たちを強くしてくださる主に、約束のみことばをお読みして終わります。 イザヤ書41:10
エペソ人への手紙6:10
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