引用聖句:コリント人への手紙第I、5章6節-8節
司会の兄弟に読んでいただきましたこのみことばから今日は、「信仰におけるパン種とは何か」ということにつきまして、ごいっしょに考えたいと思います。 どなたもご承知のように、パン種というのはパンを作る際に、練った小麦粉を発酵させてふくらませるために用いる酵母、イーストのことであります。 パン種はパンをふくらませるとともにこの発酵が進み過ぎますと、パンを腐敗させてしまいます。 イエス様はこのだれでも知っているパン種を例にとって、弟子たちやイエス様の話を聞きに集まった人々に、信仰を正しく守る上でどんなことに気を付けなければならないかを教えさとされました。イエス様は次のように仰っています。 マタイの福音書16:6
同じような注意をイエス様はマルコの福音書の8章15節でも仰っています。 マルコの福音書8:15
ご存知のように、パリサイ人というのはユダヤ教の一派であり、律法の実践に熱心なことを自負している人々であります。そして多くの律法学者はこの派に属しておりました。 しかしながら彼ら自身の律法の守り方は実際には全く外面的、形式的であり、イエス様はそのような彼らを偽善者と次のように激しく非難されました。 「彼らの行ないをまねてはいけない。」、弟子たちや群衆に命じられたのであります。マタイの福音書の23章の3節、5節、23節、25節を飛び飛びにお読みいたします。 マタイの福音書23:3、5、23
これはいずれも香味料です。あるいは薬剤に使う貴重な植物であります。 マタイの福音書23:23
これは神さまへの供え物として納めているという意味です。 マタイの福音書23:23、25
このように厳しく彼らをイエス様は非難されております。 また、ここに出ているサドカイ人というのは、祭司階級、あるいは上流階級に属しまして、合理主義的、現実主義的な考えによって律法を解釈し、その結果肉体の復活、あるいは神さまによる審判、神さまによる報いというものを認めない人たちなのです。 そしてヘロデのパン種と言われているヘロデとは、これもご存知のように当時ユダヤの領主であったヘロデ・アンテパスのことを指しております。 彼は異母兄弟の妻のヘロデヤを自分の妻としたというような、近親相姦の罪をバプテスマのヨハネに指摘されたことを大変怒って、ヨハネを殺した人物です。飽食且つ放縦な人間であります。 イエス様は彼らの教えや生き方をパン種に例えて、信仰というパンの中にそのような間違った教えや悪い生き方がはいると、たちまちふくれ上がって、信仰が腐敗してしまうから気をつけなさいというように警告されたのであります。 パウロは、今読んでいただきましたコリントの教会の信者に宛てた手紙で、「イエス様を信じる信者はパン種のはいらない純粋なパンでなければならない。」と書いています。 そしてその理由についてパウロは、「私たちの過越の小羊が、すでにほふられたから。」と言っております。 過越とは、神さまのさばきが通り過ぎるという意味でありまして、神さまはかつてイスラエルの民をエジプトから脱出させられたときに、神さまが命じられたとおり、傷のない小羊をほふって、その血を家の入り口と鴨居に塗ってあるイスラエル人の家は神さまがその血をご覧になって、その家の者をさばかずに通り過ごされた。 けれども小羊の血を塗っていないエジプトの家の初子は全て打たれたということを彼は知っております。 そのとき神さまがイスラエルの民に仰せられたみことばは次のようなものでありました。 出エジプト記12:12
これは当然偶像の神々ですが、 出エジプト記12:12-15
こうしてイスラエルの民は毎年、神さまの救いの恵みのしるしである過越の祭りを守って、その度に神さまの仰せに従って、過越の小羊をほふり、種なしのパンを食べて祝ってきたのであります。 この小羊のいけにえは、人間を罪の束縛から贖い出すために身代わりとして十字架の上で血を流し、肉を裂かれた主イエス・キリストを象徴するものであり、またイエス様が十字架に架かられる前に、弟子たちと晩餐をとられたときに仰ったみことばです。 「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」このようにパンをイエス様は取って仰せになった。そしてまた、杯をお取りになって、感謝をささげて後に、こう彼らに言ってお渡しになりました。「みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」 今のみことばはマタイの福音書の26章の26節から28節に記されているみことばでありますけれども、こういうふうにイエス様が言われたことを記念して、キリスト者が守り行なうことになった主の聖餐の原型であります。 イエス様がまことの過越の小羊であると言われたのは、こうしたところから来ているのであります。 イエス様を信じる者が、パン種の入らない純粋なパンとなることができたのは、このように過越の小羊としてのイエス様が十字架の上で流された血によって、尊い、聖い血潮によって自分自身に生きていた、あるいは今まで間違った信仰に陥っていた、こういうふうな神さまのみこころにそむく罪のパン種が取り除かれたからにほかなりません。 しかしながら、このように神さまの大いなるあわれみと恵みによって、聖められたパンとされた私たちキリスト者に再びパン種が入れば、そのパン種はキリスト者の中でふくらんで、私たちの信仰を腐敗させ、堕落させてしまうのであります。 パウロは先ほどのコリント人への手紙第Iの5章6節で、 コリント人への手紙第I、5:6-7
と警告されているのはそのためであります。この古いパン種とは、律法のことであり、また律法的な考え、すなわち行ないによって義とされるという考えを指しております。 これについてパウロはガラテヤの教会の信者に宛てた手紙で次のように注意をしております。 ガラテヤ人への手紙5:2-9
このようにパウロは言っております。パウロはガラテヤの教会の中に、イエス様を信じた者でも割礼を受けなければ救われない、割礼を受けなければ神様から義と認められないという律法的な間違った教えが広まり進むのを心配して、これを正しい信仰の妨げとなるパン種の弊害として以上のように信者に注意を促したのであります。 イエス様を信じる者は聖徒と呼ばれます。聖徒とは聖別された者という意味であって、イエス・キリストの贖いのみわざによって、この世に属する者から聖め別たれて、聖なる神に属する者とされた者であります。 パウロはこのように、主の愛とあわれみによって聖徒とされた者はどのように歩むべきか、何に注意しなければならないかをエペソの教会の信者に宛てた手紙の中で次のように書いております。 エペソ人への手紙5:1
主に愛されている子どもらしく、 エペソ人への手紙5:1-7
このようにパウロは、聖別されて神に属する者となった聖徒が、悪いパン種によってその信仰が腐敗しないように細々とした注意を、指示を与えております。 またパウロはコリントの教会の信者に宛てた手紙には、聖別されて神様の民とされた信者が、神さまの命令を守って、不信仰な者と交わらず、汚れたものに触れないようにすれば信者は神さまの息子、神さまの娘となるというように約束してくださっているのですから、一切の汚れから自分をきよめて、主なる神さまを恐れかしこんで、聖きを全うしようではないかというように信者に勧めております。 この個所はコリント人への手紙第IIの6章の14節から7章の1節に亘って記されております。 コリント人への手紙第II、6:14-15
ベリアルとはサタンのことですが、 コリント人への手紙第II、6:15-17
これは不信者です、 コリント人への手紙第II、6:17-7:1
またペテロは、私たちキリスト者が聖くあらねばならないのは、召してくださった神さまがわたしが聖いから、あなたがたも聖くならなければならないと仰せになった。その主の仰せに従うためであるというように言っております。 ペテロの手紙第I、1:13-16
私たちキリスト者が、パン種を入れない純粋なパンであることを求められるのは、以上のような理由からであります。 またパン種はキリスト者個々人の信仰を腐敗させ、聖徒を生きた信仰から死んだ信仰に堕落させるだけではありません。教会全体をも、集会全体をもキリストの生けるからだの教会から死んだ教会に堕落させる働きがあるということに、私たちは信者は注意をしなければならないのであります。 パウロはコロサイの教会に宛てた手紙で次のように戒めております。 コロサイ人への手紙2:6-8
これは当時、コロサイにありました異端的な思想を指しておりますが、それ コロサイ人への手紙2:8、16
ここの祭りというの、この異端の教えに基づく祭りですが、祭り コロサイ人への手紙2:16、20-22
これは地位的なものです。 コロサイ人への手紙2:22
このように当時コロサイの教会にはいり込んで、信者たちを惑わしていたパン種であるところの異端の教えから離れて、教会のかしらなるイエス様に堅く立つようにと信者たちを戒めております。 さらにパウロは愛する弟子のテモテに宛てた手紙の中で、教会に近づきつつある危険について警告するようにと、次のように言っております。 テモテへの手紙第I、4:1
そしてその少しあとの6章の3節から5節。 テモテへの手紙第I、6:3-5
これは教会の中にこういうことが起こっているということです。 主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人とはいったいどういう人でありましょうか。どういう信者でありましょうか。 それはイエス様のみこころに反して、自分の肉の思いにとらわれ、主にある兄弟姉妹の心を動揺させて、そのような言動によって主の御からだなる教会、すなわち集会の中の霊的な不一致をもたらす、一致を乱す、そういう信者のことであります。 そのような心ない信者の言動というのは、たちまちサタンによって用いられて、お互いの間に、信者同士の間に信頼ではなくて不信感、あるいは不一致のパン種をもたらすようになってしまうのであります。 このように教会は、あるいは集会はいつもさまざまなパン種が入り込む危険があります。そして主の御からだなる生きた教会をそれによって腐敗させ、死んだ教会、死んだ集会に堕落させてしまう一因ともなりうるのであります。 主のご再臨が間近い終わりの時代にあって、私たち信者は常に自分の信仰にパン種が入り込まないように警戒し、新しい純粋な粉のかたまりであり続けるために絶えず御霊に拠り頼み、肉の思いが取り去られるように祈る必要があります。 それとともに私たちは主の御からだなる私たちの集会が、このパン種によって汚染され、汚され、そして主のご栄光が損なわれないようにパン種のない、聖い、生きた教会としてますます主の光を輝かせ続けることができるように心を合わせて、ともに祈らなければならないと切に願う次第であります。 最後に一ヶ所みことばをお読みして終わりたいと思います。 ペテロの手紙第I、4:7-11
どうもありがとうございました。 |