引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、5章16節-18節
おはようございます。今、司会の兄に読んでいただきましたこのみことば、特にこの前半の部分ですね「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」というみことばは、集会の日めくりカレンダーにも載っております。ですから、集会の兄弟姉妹ならば、どなたでもご存知のすばらしいみことばであります。 さて、このこととばはパウロがテサロニケ教会に宛てて、主のご再臨に備えて信者はどのような心がまえで日々過ごすべきかを、懇切丁寧にしたためた手紙の中の一節であります。主を信じておられない方でも、このみことばに心を動かされる方がいらっしゃいます。 と同時にですね、いつも喜ぶことなんて、あるいは絶えず祈るなんて、すべてのことに感謝するなんて、そんなことが出来るのだろうかと疑われる方も多いのではないかと思うのですね。私たち信者であっても、このみことばのすばらしさに感動するとともに、またこれを実践することが容易でないことをも、思い知らされます。 しかし、主はこれを実践するようにと、御自分の尊いいのちをもって救い出された、私たち信者に命じて、望んでおられるのであります。では、私たち信者はどうしたら主のご期待にお応えすることができるのでありましょうか。一つ一つ考えていきたいと思います。 まず、「いつも喜んでいなさい」というみことばでありますが、いつも喜んでいるということは、どんな時にも、それが苦しい時であっても、悲しい時であっても常に喜んでいるということであります。いったいそんなことが出来るのでありましょうか。 そのことを考えるにあたっては、いつも喜ぶことができる喜びとは、いったいどんな喜びであるかということを考えてみる必要があります。 パウロは、キリスト者は何を喜びとするか、イエス様を信じる私たちは、何を喜びとするか、またどうして喜べるのかということについて、ローマ人への手紙5章2節から5節で、次のように言っております。 ローマ人への手紙5:2-5
このように言っております。パウロはキリスト者は患難さえも喜ぶことができる。それはキリスト者に与えられた聖霊によって、神の愛が注がれ、将来神の栄光にあずかることが出来るという、確かな希望を持っているからだとここで説明をしているのであります。 このパウロの説明によって、信者の喜びは、この世の人の喜びのような肉的な喜びではなく、霊的な喜びであるということが解かります。パウロはコリント人への手紙第II、7章4節で「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」と言っております。 また同じくコリント人への手紙第II、6章10節では、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり」と言っています。 パウロは、イエス様に愛され慰められ、支えられている自らの体験を通して、たとえどんなに肉の悲しみ、苦しみがあっても、霊的な喜びはそれをはるかに超えたものであることを、ここで証しをしているのであります。 そして彼は、自分だけではなくてすべての信者が主にあって、このようにいつも喜んでいることを主が望んでおられると言っているのであります。 また、パウロはピリピ人への手紙4章4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とも言っていますけれど、この霊的な喜びは、いつも主にあって、すなわちいつも主とともにいることによって、いつも霊的に主と結びついていることによって、御霊をとおして与えられるものであります。 ですから、主から離れていては決して得られない喜びなのであります。 そして主は、私たち信者がイザヤ書43章1節から3節において イザヤ書43:1-3
このように主が約束しておられるお約束、すなわち苦しい時にも悲しい時にも、どんな時にも自分を愛してくださる主が守ってくださり、支えてくださるというこの主のお約束を確信して、いつも喜んでいる私たちの姿を、未信者が見ることを通して、主ご自身のご栄光が現される。 私たちの霊的な喜びを通して、主ご自身が栄光を現される。ですから、主は私たちにいつも喜んでいなさいとご命じになっておられるのであります。 次に2番目の「絶えず祈りなさい」というみことばについて、考えたいと思います。 私たちが祈る相手とは、いったい誰でありましょうか。主がどんな方か知らない未信者の人たちは、手当たりしだいに空しい偶像の神に祈ります。けれども私たち信者は違います。 私たちは、信仰によって主から与えられた恵みによって与えられた信仰によって、全知全能の生けるまことの神様、そして私たちの罪をいのちをもって贖ってくださった、御子イエス様を知ることが出来ました。その主なる神様、その主イエス様に祈ることができるということを、私たちが本当に思う時にそれは何と幸いなことではないかと思います。 けれども私たちは、主にいったい何を祈るのでありましょうか。本当の祈りとは何かということについて、ベック兄は、「絶えず祈れ」という本の中で次のように述べておられます。 「多くの人々は、祈りとは主に何かを願い求めることであると言います。しかし、本当の祈りとは、主との交わりを持つことなのです。 多くの人は、祈りとはただ苦しい時だけのものと思っています。たとえば、危険に直面した時とか、重い病気にかかっている時とか、困難に陥っている時とか、全く望みのない状態にいる時、そのような時にだけ祈りが必要だと思っています。 しかし、祈りとは、それ以上のものです。祈りとは、主に拠り頼むこと、主から離れては何もできないと知ること、そして主に信頼することを意味しています。 祈りとは主との交わりです。つまり祈りとは、主に対して一方的に語るのではなく、主とともに語る。つまり主と語り合うことなのです。 祈りとは、私たちが欲しい物を主に強制することではなく、私たちが主の御心を知り、私たち自身を主に明け渡し、主の御心が成就することです。」 このようにベック兄は述べておられます。 サムエル記第I、3章9節では、サムエルが主に次のように祈っております。「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」、主に祈るには、この態度が必要であります。 しかし、私たち信者が絶えず祈らなければならない、主が命じておられる、それはいったいどういう理由でありましょうか。それは、先ほどもベック兄が仰っているように、祈りを通して信者は主と絶えず霊的な交わりをしなければならないからであります。 ある兄弟が、メッセージの中で次のように言われました。「祈りは霊的な呼吸のようなものである。人間は呼吸をしないと窒息して死んでしまうのと同じように、絶えず祈らないと私たちの霊は、窒息して死んでしまうのです。」とこのように言われました。全くそのとおりだと思います。 主に救われ、サタンに属する者から主に属する者と変えられた私たち信者の肉のからだは、天の御国に入ることを許されるまでは、サタンに支配されているこの世に置かれております。サタンは、主に属する者とされた信者をイエス様から引き離して、再び自分の支配下に置こうとさまざまな手を用いて、絶えず誘惑してきます。 このサタンに勝つ唯一の方法は、絶えず主と霊的な交わりを持つこと、絶えず霊において主に祈ることであります。また、サタンは地上に置かれた生ける主のみからだなる教会を憎み、教会が主のご栄光を輝かすことを阻止しようと必死で攻撃してきます。そして、その攻撃の的は、主のみからだを構成している一人ひとりの信者に向けられます。 そのためにも私たち信者は、絶えず主と交わり、絶えず主に祈り、霊的な力に満たされている必要があります。そしてパウロは、エペソ人への手紙6章18節で エペソ人への手紙6:18
と勧めておりますが、そのとおり私たちは、自分のためだけではなくて、主のみからだなる集会を構成している、愛するすべての兄弟姉妹が守られるように、一つになるようにと絶えず霊の目を覚まし、忍耐の限りを尽くし、御霊によって祈り続けなければなりません。 3番目は、「すべてのことについて感謝しなさい」ということについて、少し考えてみたいと思います。 すべてのことについて感謝するとは、いったいどういうことなのでありましょうか。また誰に対して感謝するのでありましょうか。 すべてのこととは、良いことも悪いこともすべてであります。人間は、良いことすなわち自分にとって良いことがあった時、たとえば苦しんでいた自分やあるいは家族の病気が直った時、働きたくても仕事が見つからないで困っていたのが、やっと就職できた時などに心に感謝の思いが生じます。 今回の東日本大震災でも、愛する家族を失い、家を失い、仕事を失って悲しんでいる被災者の人たちは、全国からまた世界中から多くの支援の手が伸べられたことを、口々に感謝しておられます。 このように、感謝というのは、一般的に自分に良くしてくれた人、自分を助けてくれた人、励ましてくれた人、支えてくれた人、そういう方々に対して向けられるのが普通であります。 では人間は、自分にとって嫌なこと、自分にとって悪いと思われることや自分を苦しい目に辛い目に悲しい目に合わせた人に、いったい感謝できるでありましょうか。そんなことはとうてい常識では考えられません。考えることはできません。 一方、信者にとって感謝する相手とは、人間ではない。主なる神様、イエス様であります。では信者は主に何を感謝するのでありましょうか。 信者は、主の愛と恵みに感謝するのであります。主の愛と恵みによって救われたことを感謝します。主の愛と恵みによって死に打ち勝つ永遠のいのちを与えられたことを感謝します。主の愛と恵みによって、天国の国籍が与えられていることを感謝します。主の愛と恵みによって、日々守られていることを感謝します。 このように私たち信者は、主が良くしてくださったことを感謝します。けれども、私たちは自分にとって、自分の肉にとって悪いことでもあるいは不幸せと思われた時でも、苦しい時でも悲しい時でも主に感謝するでしょうか。 しかし、なかなかこれは出来ません。それが現実であります。けれども、主はすべてのことについて、すなわち苦しい時にも悲しい時にも感謝するようにと、私たちに望んでおられるのであります。 これは、私たちの肉が砕かれ、霊の目が開かれていなければ、霊の目がいつも主にしっかりと注ぎ続けていなければ、あるいは主に自分をすべて明け渡していなければ、主に全き信頼をおいていなければ、そして主を心から愛していなければ出来ないことであります。 パウロは、ローマ人への手紙8章28節で ローマ人への手紙8:28
と彼が言っておりますように、私たち信者が主を心から愛するならば、主はすべてのことを益と変えてくださると、確信することができます。 私たちがすべてのこと、苦しみも痛みも、私を愛してくださる主からくる、患難をも働かせて益としてくださると主に心から信頼するからこそ主に感謝できるのであります。 そして主は、信者がそのようにご自分に感謝ができるようにと、信者に試練を与えて信者の頑なな自我を砕いてくださるのであります。 ヘブル人への手紙12:5-7、10-11
このように主の懲らしめは、主から来る試練は、主が信者を愛するがゆえに与えられるものであって、ご自分の聖さにあずからせるためのものであると、試練の意味を信者に説明しております。 詩篇119:71
このように苦しみに会ったことを主に感謝しております。 イザヤ書38:17
と主に感謝しております。 詩篇66:10-12
このように主に感謝しております。これらのように、苦しみをも感謝できるというのは、試練という主の訓練によって、私たちの肉の心が自我が砕かれて、どんな場合にも主が自分を愛してくださっているという確信を持つことができた結果、主を無条件に信頼することができ、自分のすべてを主に委ねることができたからであります。 しかし、このように感謝できるのは、この詩篇の作者やイザヤだけではありません。私たちは、この詩篇の作者やイザヤと同じように大きな患難にあっても、それを感謝して受け入れておられる集会の多くの兄弟姉妹方の証しを知っております。 このようにすべてのことを感謝することができる信者を通して、主はご自身のご栄光を現されるのであります。 主のご再臨の真近いことが、ますます明らかになっております今の時にあって、私たち信者は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と強く私たちに望んでおられるその主のご期待にそえるように、御霊によって満たされ、強められ、支えられていつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝するそのような信仰生活を通して、まだイエス様をご存知ない多くの方々に、主を証しすることができ、これによって、主ご自身がご栄光を現されるようにと切に祈るしだいであります。 |