引用聖句:コリント人への手紙第II、5章15節-17節
今日は、喜ばれる日である日曜日を、みなさんと迎えることができて、本当に感謝しています。 今日は、イエス様の死の意味というか、またそれによって私たちが生きる目的を与えられたことを感謝して、そしてどのように生きていけばいいのかなっていうことを、一人一人また考え直してみたいなと思って、この箇所を選ばさせていただきました。 コリント人への手紙第II、5:15
このみことばっていうのは、ついつい目の前のことで、色んなことを見てるときに、どうしようどうしようと思って、どうしたらいいんだと思ったときに、ここを忘れてしまっている。 いわゆる自分のために生きようと思ってしまった時に、迷いそして悩んでしまうのが、私たちの罪ではないかなと思います。 生きる目的、何のために生きているのか。それは、キリストが死なれたことによって、私たちは生かされてるという、それを忘れていると、いつも迷ってしまうということだと思います。 私たちは、この世に生きるために生まれてきました。決して、死ぬために生まれてきたわけではない。肉体的には一人一人段々歳をとり、病気をし、そして最終的には、その肉体は一時滅びることになります。 それを肉体の死とは呼ぶかもしれませんけれども、主の与えられた命というのは、決してそういうものではなくて、私たちは生きるために与えられた。永遠に生きるために与えられた命として、私達は受け止めています。受けることができました。 ただその永遠の中で、今、本当は短い期間だと思うんです。本当に主から見れば、すさまじいこの長い期間、要するに、無限な中に私たちのこの地上における人生ってのは、本当に一瞬のことだっていうふうに思われるんですが、生きてる私たちにとってはそれが長く、辛い時間でもあります。 その与えられた日数っていうのは、一人一人違うわけで、そこで私たちは何をすべきか。主のみことばを伝え、そして祈り、いっしょに賛美できること。それが、主から与えられた日数の中になくてはならないことだと思うんです。 哀歌3:38
哀歌に書いてあります。自分たちが災いだと思ってること、これは嬉しいと思っていること、それは良かったと思ったこと。そのすべてが、主がご計画、準備されているっていうことを聖書では言っています。 そのときに、自分の目的で生きている人にとっては、災いは災いであり、良きことは良きことで、分けてしまいますけれども、私たちの生きる目的を主に定めることが赦された者としては、それはすべてが、同じことであるということだと思います。 ついつい良い生活をしたい、豊かな生活をしたい、安定した生活をしたい。仕事に充実感が欲しい。いわゆる最終的には、人中心になる欲望から始まるものがほとんどです。 でもそれでは、いい生活が与えられたらそのことに感謝できるかというと、そうではない状況になります。 最終的に、人が自分の欲求だけで生きようとした極端な例としては、今ある戦争であり、そして環境破壊ではないかと思います。 産業革命というと、歴史的にはずっと前というふうに思えるかもしれませんが、よくよく考えたら、つい最近の歴史からすると、まだまだ近代の話です。 それからの急速な発達によって人間は、より物を求めるようになり、地上での栄華を求めるようになり、そして多くの殺戮が繰り返されるようになりました。 今、アメリカが、大量破壊兵器をたくさん持っていますけれども、その国が、ほかの国がそれを持つことを許さないということで、イラクに対して攻撃をしようとしていますけれども、実際に、その産業革命以後の戦争というのは、それまでの戦争で亡くなった人数を、一回の大戦くらいで、はるかに超えてしまう殺戮の人数になってるはずです。 長い歴史の中で、これほどの大量の殺人が行なわれたというのは、例を見ない状況だったはずです。それがこの百年とか、本当にその数十年とか、そういう短い期間で今もう起こっている。 いわゆるそれは、人が何のために生きるのかということを見失えば、必ずそれは加速度的にどんどん進んでいく状況になっていると思います。 そして環境破壊も、もう激しい状況です。これは、原因はすべて私たちの豊かな生活を保とうとすればするほど進みます。たとえば紙は必要ですから、そうすると、森林の伐採は絶対必要になってくる。 それをリサイクルしようなんていう人はなかなか出てこなかったし、それから物を大切にするという、あの日本のいい伝統がありましたけれども、消費をしたほうが、経済が良くなるからということで、経済的にはどんどん買って、使って、捨てて、それを繰り返せば経済は活発化して、みんなが良くなる。いい生活ができる。 そんなふうに教育を受けてきましたし、そういうふうになってしまいました。 それが最終的には、山がなくなり、川がよごれ、そして海の生物が死滅していくという、世界に今なってると思います。 すべては、私たちが生きる目的が、人間的標準で、そして自分が中心になって、生きてきてしまった、そのつけがすべて今、この時代にきています。 それらは、主の時が本当に近づいているというサインなのかもしれません。それも、主はご存知です。今の環境に関して、本当にそういう状況になってることは、知ってる通り。そして、もう当然主がご存知だと思っています。 そのような中にあって私たちは、本当に、イエス様に愛され、そして私たちもイエス様を愛することができた。このことが本当にすべてであり、それを度外視にして、この地上で赦されている日数を生活することはできないと思います。生きていくことはできないと思います。それしかないと思います。 ペテロの手紙第I、1:8
コリント人への手紙第II、5:7-9
先ほど、聖日に主に本当に頭を下げて、日々の反省をし、そしてまた悔い改められる大切な日ですけれども、そのときに主はどう思われるか。主は、本当に喜んでくださる。それが私たちの礼拝であり、そして神への祈りと願いであります。主に喜ばれること以外に、私たちの人生の目標はありません。 自分の喜びのためにだけで生きるということは、決してしてはいけないのは、もう私たちクリスチャンとしての人生だと思います。 主が、もう一つ喜ばれることは、私たちが主のみことばを宣べ伝えること。主の御衣をまだ着ていない、着ることができない、裸の人にその衣を着せること。 天国という、私たちの実家が与えられましたけれども、まだその家を持っていない人に、家を一緒に持つようにすること。それが私たちの本当にやらなければならないこの人生の目的ではないかと思います。 内村鑑三は、こう言っています。人生、最善のことっていうことで、 「最も良きことは、山に登ることではない。海に浴することではない。大著述を読むことではない。大注解書に寄りて聖書を研究することでもない。 人生唯一の良きことは、へりくだりたる心をもって、われらの罪を担いて十字架の上に死に賜いしイエス・キリストを仰ぎ見ることである。 このことを成しえて、ほかのことは顧みるに足りない。人生最大の幸福は、イエスの十字架のもとに立ちて、そこにわれらの罪の赦しを請い、晏然の安きに入ることである。」 という、これは1920年「日々の生涯」というところに書いてあるものなんですが、それが私たちの最善の人生である。いわゆる、山に登ること、海に浴すること、健康を維持する、それは主に与えられた私たちの主の宮としての健康維持というのは、大切かもしれません。 ただそれを中心に、それを誇りとすることは、最も大切なものではない。それから大著述を読むこと。いわゆる研究、そして勉強ですね。いわゆる知識を得ることということでもない。注解書に寄りて聖書を研究すること。いわゆる主の言葉を知ろうとして、研究に走ってしまうことでもない。 内村鑑三は本当に、見方によっては、大聖書研究家というふうに見られています。でもその彼が、そんなことはないと。研究をすることが、人生の最善のものではないというふうに言っています。 言ってることは、罪の赦しを請い、晏然の安きに入ることである。私たちが罪人であることを忘れてはいけない、ということではないかと思います。 本当に私たちが、品があるかないか、という問題は別としまして、主に対して、やっぱり私たちは、英語でいうと、nobleって言い方になるのかもしれません。 いわゆる品があるかないか。いわゆる真摯になって本当におごり高ぶっていないかどうかということだと思います。 よく人間って、ガラは悪いけど、品の良い人っていますよね。ガラも良いし、品の良い人もいます。あと品は良いけど、ガラは悪い。ガラは良いけど、品が悪い人もいます。 そういうときに、私たちは主に対してやっぱり、nobleな精神をもって、生活していかなければいけないと、生活態度はそういうことではないかというふうに思っています。 主に喜ばれる人生。それが私たちの人生です。 ローマ人への手紙14:8-9
私たちはどんな状況においても、イエス様の死にあずかった、恵みのときにあります。生きてくためには、主のために生き、そして主のために死ぬことも与えられています。 肉体の死。それは私達にとって永遠の死ではありません。必ずや、聖書に約束されているのは、最後の時に、私達はまた同じように復活できます。 本当に不思議なんですけど、今ここにいる私達一人一人が、いつか天国で会ってると考えると、ちょっと嬉しいし、そして不思議なんですけど、でも何か力が出てくると言いましょうか。 また会えるんですね。今会ってるんですけどね。 でもまたバラバラになるけども、また一ヶ所に同じように、喜んでみんなが会うときがあるんだという、そういう確信が一人一人持てて、その時ってどう思うんでしょうね。 それは先のことですから、考えるのはあれなんですが、でもとっても楽しいことだなというふうに思います。それさえあれば何でもなるかなっていうふうに思ってもいます。 ローマ人への手紙6:6
ローマ人への手紙6:8
主とともに生きる、主とともに喜ぶことができます。いつも私達にはそういう時に、どんな時にでも、主とともに生きる、生きようという主のみことばが、主の呼びかけがいつもあります。 その時に、私達が反応できるかできないか。主は、本当にいろんな形で私と生きようと、永遠に生きようと言ってくれる時に、反応できるようにしてなければいけません。 ルカの福音書22:46
主は私達に、信仰において眠ってはいけない、目を覚ましていなさい、祈っていなさいと言ってくださっています。 昨日聞いた話なんですが、あまり知らなかったんですけど、草食動物と肉食動物の大きな違いというのが、食べ物は違いますけれども、一番睡眠が違うんだそうです。 草食動物には、ノンレム睡眠がない。いわゆる深い眠りがない。牛は一日中起きてるんじゃないかというぐらい、起きてるんだそうです。それに対して、深い眠りを、ノンレム睡眠で、それがあるのは、肉食動物なんだそうです。 で、肉食動物はよく寝るんだそうです。ですけれども、そこにやっぱり神さまは、草食動物はいつも寝ていると食べられちゃいますから、草食動物は、そういう睡眠形態で生きてられるように造られている。 人間はどっちかっていうと、肉食動物の睡眠になっています。いわゆる凶暴なんですね。ということになるのか、逆に言うと、深く眠れるということは、それだけ主にゆだねなければいけないという人生なんです。 いわゆる、眠ってしまうということが、非常に危険な世界にいるわけです。 聖書のなかでは、私たちは草食動物的に起きていなければいけない。だけれども実際は寝てしまう。深い眠りにはいる。じゃあ、その間どうしたらいいか。 (一段落聞き取れない箇所があり省略しました) エゼキエル書18:31-32
というふうに、主は言ってくださっています。主によって生きる必要が私たちにはあります。悔い改めて生きよと、言ってくださっている主がいる限り、私たちは必ず生きることができます。 箴言16:1-9
私たちは必ず何かをしようとして生きていきます。そのときに思い巡らす計画というのが、主によってゆだねることによって、それはゆるがない、いわゆる主の御心かどうかということをいつもそれが御心であることを願うこと、祈ることでなければ、私たちは本当に主に在る人生は送れないんだと思うんです。 罪人である私たちが、自分達の思ってることが純粋だと思うこと。それは主において純粋であることはいいんですけれども、自分の気持ちにおいて純粋だと思ったことが、神さまは決して赦されない。神さまがすべてであり、主にゆだねること。そのときに初めて主に対して純粋な行ない、そして考え、人生が送れるんではないかと思います。 災いも主が私たちに準備された、主がその人に必要な分だけ、良いことも悪いことも、その人にあった分だけ与えてくれる。必要だから与えてくれる。 それに対して、自分で解決しようと思ってしまうと、もうそこは地獄です。でも主が与えてくださったことを、主が全部解決してくださるので、私たちは決して転ぶことはないと、主は言ってくださっているんだと思うんです。 自分に都合のいい計画だけでは、本当に崩れてしまいます。主は人の行ないを喜ぶとき、私たちが最も敵としている相手までも、私たちと和らぐことができる、平和をもつことができる。それはすべて主がなさってくださるから。 いわゆる私たちの敵に対して、私たちが仇を打つ必要もないんです。わたしが報いるという主の言葉が、ローマ人への手紙12章19節にあります。 ローマ人への手紙12:19
自分たちで手を下すことは一切必要ないんだ。主がその相手に対して、必ずその仇を取るか、もしくは和らげてくれるか。そこら辺は、もう主の御心のままにお願いするしかないというふうに思います。 その人の歩みを確かにする者は主である。主が与えられた私たちの日数、時間、この地上の最後の一分一秒まで、どんな状況にあっても、主は私たちに生きよと言ってくださっています。 それは、肉体的に生きよ、主のために生きよ、そしてその次に来る、本当のいのちを受けよということだと思います。 ルターは最期の日に、林檎の木を植えると言ってたと思います。どんなときでも、もう明日はないんだから、何もしなくてもいいという人生ではなくて、林檎の木を主のためであれば、植えよう。愛媛県だったら蜜柑を植えよう。そういう花を植えよう。そして主のみことばを植えようと。それが本当に私たちが最後の最後まで生きる目的ではないかと思います。 キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 本当にこのみことばを通して、私たちは古い人、人間から新しい者へと変えられた。自分の今までの古かったものは、すべて顧みる必要がなくなった。それまでの自分の、もしかしたら、この世的な栄誉、この世的な業績、それから自信をもってきたものを、いつまでも引きずることなく、それよりももっと大切なものは何なのかということを、考えることができるようになった。 ただただ前を見て、主の光だけを見る人生が、私たちのこの地上における人生ではないかというふうに思います。 終わります。 |