神様からのプレゼント


白石光一兄

(吉祥寺福音集会、2009/01/18)

引用聖句:詩篇22篇24節
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

なかなか最近、吉祥寺の集会に顔を出すタイミングがなくて、今年二回目ですけれども、去年もたくさんいろいろなことがあり、今年もきっと、いろいろなことがあるんだろうと思います。
でも、去年を振り返ってみると、多くのことがすべて主の御手の中にあり、主の賜物であったと感謝しています。
メッセージということになっていますけれども、率直に自分の証しとして、今日も話さして頂きたいと思います。

兄弟姉妹の証しは、今でもインパクトが残るものがたくさんありますが、「元手で要らずのぼろ儲け。受けたものは、すべて神のもの。」と言う、私の頭には慣用句になっているのですが、そう言うものもありました。
それに昔、「色めがね」のお話しも今でも覚えています。自分も、色めがねで人を見る人間だなと今でも思っています。
また、「一番、サタンが入りやすい所は、自分の信仰だ。」と。信仰が完璧と思った時は、サタンが完全に入っていると言う話しもありました。皆さんの体験と思うのですけど、そのように話してくださるメッセージも神様からのプレゼントだなあと思っています。

今日、実はこの詩篇22篇24節のこのみことばを何回読んでも、一回、一回、働きかけが違います。今回、私がこのみことばを読んで感じたとき、「助けを叫び求めたとき」と言うその時のことを感じました。
それを感じた理由と言うのは、昨年、私の妻のおじさんが、肝臓癌と食道癌で亡くなりました。もともとは昔、すごい素敵なギターリストで、音楽の仕事をしていたのですけど、それからいろいろありまして、一人で住んでおりました。
家庭の状況もあるのでしょうけど、やはり一人で島に住んで、家族としては不完全な状態であった。そこには、心の中の多くの葛藤があったようです。それは自分の奥さん、子供への思い。そして、兄弟ひとりひとりの間への思い。それがあったようです。

非常にそこにコンフリクトが発生していたと言うのは事実です。それを解決してくれたのは、実は去年のことでした。
去年、体調が3月から悪くなって病院へ行って調べたら癌がある。肝臓癌。そして治療のために戻ってきました。その時に、選んだのが、なぜか私でした。私を選んでくれたのも主の恵みだったかなと思いました。
私は、本当に医師として病気を診断して治療して、その対応を致します。そこにもたらされたのは、一緒に話す時間、一緒に時を過ごすことができました。それは、私だけではなくて、ご兄弟、そしてご家族、それから親戚みんな。

そして、妹さんと一緒になってみことばをお伝えすることができました。なかなか最初は、「いいよ、俺は。」と突き返されていたんですけど、神様は、やはりその時を与えてくださいました。
「イエス様を信じるよ。」と言うふうに言ってくれたのです。そして、本当にみことばを感謝してくれました。
それは、私たちの思いで押し売りしたわけではなくて、みことばを伝えるのは、本当に勇気のいることですけど、それによって神様は大いに力を与えてくれました。

9月になりまして、脳に多発転移が見つかりました。それまでは、肝臓と、副腎に転移していた癌を集中的に治療していたのですけど、脳に転移して意識が悪くなってと言う状態になりました。
また、そこの病院には、日本でも有数の脳腫瘍の放射線治療するガンマーナイフの病院がすぐ近くにあるんです。そこに移動してもらって、十何個の脳腫瘍を一気に抑えるという治療ができました。
そして意識は良くなりました。ただ、神様は多くのものを彼から取りました。それは、手足の自由をとりました。動けなくなりました。走って逃げれなくなりました。そして、目もやはり見えにくくなりました。だんだん見えなくなってきました。

ところが、耳と口は最後までしっかり良く聞こえ、よく話せました。ちょっと食べるのには、不自由しましたが、耳と口だけ残されました。
私たちは、いつも思うのですけど、自分の願いはかなわないけど、神様は一人一人に最も適切な対応をしてくださる。必要なものは、しっかりと与えて下さる。実は、その耳と口で、彼はみことばを聞いて告白することができました。
私は、それを医師として、またひとりの親戚として見ていました。本当に、こういうことがやっぱりあるんだな。これこそ、病気ということを通して、本人だけではなくて、そのご家族、それを見ている医療従事者にとっても、多くの恵みを与えて下さるということを感じています。

「決して、病気で死ぬんじゃないよ。」とベック兄はよく言われます。本当にその通りです。告白してくれた瞬間に彼は、永遠に生きることができた。
どんな形でも、私たちは、これからも生きていきますけれども、最終的には、肉体の終わりが来ます。私たちはその時に、本当に神様に感謝して生きていく。そこまで、生きていけるか。死に方が大切ですと言う言い方になるかもしれません。
それは、いろんな死に方があるかもしれませんけど、私たちにとって、神様が一緒にいてくだされば、どんな形でも、私たちは恵みのうちにあり、そして、自分の体を通して、命を通して、私たちは、支えらられていくものではないかと思います。周りの方もまた支えられていく。

兄弟が召されて、召天式を身内でさせて頂きました。
その時、私が覚えたみことばが、コリント人への手紙第II、6章でした。

コリント人への手紙第II、6:1-2
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

私は、このみことばを与えられました。本当に、一人の命を通して、その恵みを見ることができ、体験することができました。
神の恵みを無駄に受けないようにして下さい。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
まさしく、イエス様を信じたよと言ったその時に、その救いの日が現われました。

ヨハネの福音書12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

ヨハネの福音書12:33
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

このみことばは、その召天式の時に使わせて頂いたみことばになります。
私たちには自分の命をかけて、そして、愛する人のための救いを求める勇気と決断と愛が要ります。ほとんど不可能ではないか。
ところが神様は、私たちの勇気を越えた力を持って、その兄弟の死を通して、周りの一人一人に命を与えてくれました。

私たちの死とはどう言うものなのか。ついつい死ぬことは悪いこと、もう終わりだということ、そう世間的には言われます。
でも私たちにとって、イエス・キリストと共にある者として、死んだ時に、それは実は今言ったひとつの麦が地に落ちて死に、それが、豊かな実を結ぶということを私たちは忘れないでいなければならないと思うのです。

毎日毎日ではなくて、最近は少し減りましたが、昨晩も、夜の9時くらいに私の担当の一人の膵臓癌の患者さんが召されました。
なかなか、みことばを伝えることができなかったし、本当に申し訳ないなと、医者としてすごくつらいんですね。ご家族の前で、「ご臨終です。」と言う言葉をかけた後で、ねぎらいの言葉を述べて、そして最後には言葉にはなりませんが心の中で祈って、主の恵みを祈っています。
何もできないんです。自分では。でも、神様はきっと、その一粒の麦を大切にしてくれていると思います。

あと、去年大きなプレゼントがもう一つありました。それは、非常に聞き方によっては失礼な息子ということになるのですが、私の母が大腸癌になりました。
ちょっと距離がありまして、なかなか普段から顔を出さない、電話をしない。男の子ってこんなもんかと言われるくらい薄情なんですけど、やはりまた自分の専門分野の消化器の癌であると言う。
神様は、またそこまで来たかと、行きなさいと言う指令を受けました。

年末から実家に三回行ってきました。11月に1回に、12月に2回。で、大腸癌の手術が終わりました。このこともまた、病気を通して私は多くの恵みを頂きました。
そのきちんと時間もくれました。会う時間もくれました。そして、またみことばも伝えました。
聞いても聞けなくても、ベッドの横である兄弟の講演内容の小冊子、年をおいてからの生活の話しですが、それをずうと読みました。

まあまあ覚えていると思うのですが、母は短い時間の記憶が飛ぶようなので、それでも聞いてくれました。
それは、もう記憶が飛ぶのは病気として考えて、聞いてくれた心の中にある聖霊の働きが後はあればいいかなと、今、思っています。なかなか、そう言う時間を、まだ救われていない母ですが、そう言う時間をとることができました。
私たちは、自分一人で生きている、目の前にあるもの、見えるもの、見えないものもすべて、主からの恵みとして感謝するということを、聖書を通して知ることができました。

飛行機に乗ることが多いので、よく航空会社の冊子が入っています。あれを読んでいると意外に、おぅっと言う記事があるんです。実は、神様からのプレゼントと言うのは、「時のプレゼント」と言う題で話そうかなと思って、前から考えていたことなんです。
時というのは、非常に長年のいろんな思想家とか哲学者とか、宗教家とか、そう言う人達が題材にして、いろんな概念で話されていることなんです。
11月の冊子だったと思うのです。「木の時間、人の時間」と言うところがありました。

「私たちの着ている服の布地は、糸で織られ、糸になる前は繊維でそれは植物や、蚕の吐き出す糸です。また動物の毛であったり、石油でもあります。」そう言う言葉なんです。それは、木の時間が人間の時間に似ているということで、その人は書いていました。
実はその前に、私たちが着ているこの服、時間がかかっているんですね。織るにも時間がかかり、原料を作るにも時が必要です。また、その時を誰が与えてくれているか。いわゆるすべてに時を与えてくれています。
石油なんて、もっともっと昔の動植物の死骸が石油になるわけですから、本当にたいへんなご計画の中に私たちは生きているんだなと思います。

人が育ち、一生を終えるのに時が必要です。木が育ち一生を終えるのに、時が必要です。草が育ち一生を終えるのに時が必要です。虫が幼虫から地上に出てくるのに時が必要です。その短い一生を遂げるのにも時として認められます。
魚が卵から生まれて、私たちの食卓の上にまで来るのにも、時が必要です。その時があるからこそ、私たちは恵みを頂けます。
太陽が生まれ、その太陽の一生もあり、それにも時が必要です。地球が生まれ終えるのにも時が必要です。ただ、私たちには、永遠の時があります。それは、神様と言う時があります。

すべてには、限られた時がありますけれども、ただ私たちには永遠の時があります。その時を、本当に創りだしてくださっている方は神様であり、時をひとりひとりのために、十分恵みとしてプレゼントしてくださっているイエス様がそこに存在します。
伝道者の書には、有名な時に関するみことばがあります。
これだけ「時」について話しているとそれを読まなければならないかなと思います。

伝道者の書3:1-8
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

この「時」とは、イエス様の時であると、私たちは思います。
どんな時にも、私たちはイエス様と一緒に居ると確信を持っています。何があっても、良くても悪くても、私たちは、それがイエス様の時だからです。
すべてが、イエス様によって与えられた時になります。

何か、イエス様の時に戦うなんておかしいかなとか、殺すなんておかしいかなと言うかもしれません。でも、私たちの心の中では、いつも愛し、そしていつも殺しています。
私たちの心の中では、いつも戦い、いつも和睦を持ちます。これは、相矛盾するようですけど、人間として、生きる中で、当然のことです。イエス様もご存知です。
そして、それを遙かに超えた永遠の時を。平和の時を、恵みの時を、私たち一人一人に与えてくれている。そういうことになります。

伝道者の書3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

「人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」、当たり前のことです。永遠を私たちが見ることは不可能です。
でも神様は、その中で私たちを愛してくださり、この地上における私たちの営みと言うのは、最も神様が愛する存在だから、私たちが生きていられます。
この永遠と言う時を、誰のために神様は用いられているか。それは、私たち一人一人のためです。

どんなに苦しくても、どんなに辛くても、その時思うことは、それは神様が与えられた時であり、そして必ずその後に永遠の恵みの時がある。
私たちは知っています。それはこの宇宙が、私たちの想像を越えた昔に創造されました。創世記に天と地が造られたところから始まります。また、その後に地球が創られました。すべての準備は、なんのためか。
実は、先ほど兄弟が、「キリスト・イエス様を信じたよ。」、その瞬間のために、すべてが、その時が整えられています。

私たちも、「イエス様、ありがとう。」と言った時のために、実はすべての時が与えられている。
それを思うと、本当に自分たちが、なんでこんなことで悩んでいるのだろう。なんで、こんなことで苦しい思いをしているのだろう。もがいているんだろうと思ってしまいます。
どんな時にも、神様が、私たちひとりひとりが救われるために、イエス様とそして神様と一緒に永遠に生きるために、その準備、私たちの感じる長さで長い時間を通して、与えてくれています。

時と言うのは、辞書で調べるとたくさん書いてあって、よくわからなかったのです。3つに分けて、
★物事の変化を測るための概念、ものさしである。
★時間の単位のひとつである。
★時刻

そのほかに、砂時計では、砂の流れを利用して経過時間を計ることができる。また、砂時計は現在と言うものが過去と未来の間にあることを象徴しているものである。このようなことが書かれていました。
なるほどと思ったのは、砂時計の上にある砂が、これから来る未来であり、そして、自分がまん中にいて、過去がどんどん下に貯まっていく。その過去と現在と未来が、砂時計に見えている。
そうすると、私たちの砂時計の下にどんどん貯まっていくものは永遠なんで、砂時計が巨大になってしまうようで、よくわからないんですけど、どんどん神様の恵みが増し加わっているんだろうと思うのです。

何か歳を取ってきて、体が弱ってきて、そしていろいろと不自由が出てきた時に、なんか自分が損してきたとか、今までやってきたことがなんだったんだろうかと空しくなったり、それから自分のこれからのことが不安になったりしてしまいます。
今も何人もいらっしゃいます。病気で、不安でしょうがない。癌の末期の方がよく言っています。
その時に、今の現在の時に振り返って、過去はなんだったんだろうかと言う問題ではなくて、現在からみる未来に流れる砂が、実は、恵みの時がどんどん増し加わっているのだということなんです。それが、証しできればいいなあと思うのです。

伝えると言うよりは、私たちはもうそう確信しているわけですから、一人一人が弱ってきた時に、実は最も恵みが増し加わっている時だよということを。
神様がもっとも愛してくれていること。そして、どんどん未来への恵みを加えてくれているんだということを伝えられればいいなあと思うのです。
だから、物事の変化を測るものさし。いわゆる自分の立ち位置を時が示してくれます。

どんな立ち位置かと言うと、今、私は何歳で、だいたい平均寿命からすると何年くらい生きるかなと。こりゃまずいかなと。早くイエス様と共にあることを多くの人に伝えなきゃと思えたら、それもひとつの恵みかもしれません。
それか、時間の単位のひとつと。時と言うのは流れています。愛も、一緒に流れています。時間の単位ですけど、イエス様は刻々とその私たちにある愛の流れを現してくれている。そう思うのです。
タイミング、時刻ですと言う時に、「ありがとうございます。感謝します。信じます。ごめんなさい。」このことが言える時刻があります。

日々、前も自分でも言ってたようで足りないですね。もっともっと、自分でその感謝する時を、もう少し自分の力ではなくて、神様の導きによって、もっともっと増していきたいなと思っています。
私の時って、いつだったんだろうと思うと、いつもその時なんですけど、やはり、大学に入って家を離れた時だと思います。高校を卒業して、医学部に入ることができたのですが、その時にやはり北海道から何も知らずに東京に出てきました。
北海道では、「東京はね。生き馬の目を抜くところだよ。だから気をつけなさい。」と言われて出てきました。

その「生き馬の目を抜くところ」の意味がさっぱりわかりませんでしたが、後でわかりました。やっぱり、そう言う中で守られてきたのは、イエス様が守ってくださったからです。
その時に、キリスト教の無教会系の寮に入ることができました。その時の寮長に紹介してくれた人は、二人はいってるんですが、その二人ともクリスチャンではありません。
本当に導きとしか言いようがないです。そこの寮に入った時が、私の一番の「その時」だろうと思っています。

それから、イエス様の時の中にしっかりと流れることができています。もうなんか努力していません。流されています。神様に流されています。それでいいのかなあと思います。
自分の体も魂も財産も、すべてを神にゆだねた時に、神様はそれを自分のものとして、もっともっとそれを豊かに使ってくださる。
それが、私たちの信仰ではないかと思います。




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