不正な管理人


瀬島兄

(吉祥寺福音集会メッセージ、2002/01/13)

引用聖句:ルカの福音書16章1節-13節
1イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
5そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
13しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

読んでいただきました、この長い個所を読んでいるうちにこの世の世相にも関係あることと思いますし、兄弟姉妹がた一人ひとりにも、この世的に新鮮に写る個所ではないかと思い、今日この個所を、みなさんとご一緒に考えていきたいと思いました。

今年になって新聞などマスコミを通して、脱税の話、不正の話等など毎日のように出ています。
この管理人も、そういう意味では「不正」を働いています。わたしたちの日々の生活の中で、また会社などでは、こういった事象は珍しくない位、多いことだと思います。
わたしがここを読んでいて特に分からなかった個所は、8節、9節のところです。

ルカの福音書16:8
8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜け目なくやったのをほめた。

最初のうちどうしてほめたのかな〜と思いました。ほめた意味がなかなかわかりませんでした。

ルカの福音書16:9
9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなった時、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎えるのです。

この8節、9節は、聖書的といえばそういえるし、でも日頃の私たちの知識ではなかなか理解できなかった個所のように思いました。
私はかつて救われてから、あまりにも有名な、ルカの福音書15章の放蕩息子のところを読んだ時、この放蕩息子はどうにもしょうがない人間としか思えなかったのです。
でも何回も何回も読んでいるうちにまた、メッセージを聞くうちに放蕩息子よりそのお兄さんの方が、大きな問題であることがわかりました。

19年位前になりますか、、わたしの家内がガンの宣告をうけた時途方にくれて一番はじめに、一番行きたくなかったベック兄のところへ行きました。
学生だったころからベックさんは知っていましたが、聖書の話は聞きたくなかったんです。でも、どういうわけかベックさんのところへきました。
その時、ベック兄が読んでくれた”みことば”がパリサイ人と取税人のところでした。(ルカの福音書18章)

その頃は、お金の無い弱い人たちから金を取り立てて苦しめる人、むごい取り立てをする取税人のほうが”いい”ということがなかなか分からなかった。
それは、その時わたしが”救いの確信”を持っていなかったという理由だけだった、ということが後でわかりました。

聖書は、イエス様を知れば知るほど、みことばを自分のものにすればするほど、イエス様が語りかけているのは、知識とか、理解して読もうと思ったこととは、全く逆のことであることがわかりました。
この三つの事例(取税人、放蕩息子、不正な管理人)のほかにも何度もあります。

ルカの福音書16:8
8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

この世の子、主を受け入れていない人たちが、この世の楽しみ、趣味だとか、金銭欲だとか、色々な楽しみに費やす時間とエネルギーと比べて、はたして我々の信仰生活の真剣さ、また信仰に対するエネルギーはどうなのか、問われている個所ではないでしょうか。

以前ベック兄のメッセージで「サタンは本当に賢明だよ。」と聞いたことがあります。
私たちがイエス様に近ずこうとすればするほど、サタンは色々な手を使って、徹底的に妨害しようとする。
途中、信仰から離れたり、あるいは信仰生活に迷いを生じるのはサタンのその「賢明」さによって「肉」に同化してしまうからであります。「肉」とサタンのプログラムは非常にマッチしやすい。
私たちが聖霊によって主に従おうとする時、集中しないとついついサタンの罠に陥りやすい。
私たち光の子も「永遠の住まい」に入れるように、ぬけめなくふるまうことが必要ではないでしょうか。

この世で委託されている私たちの「富」は、すべて永遠の住まいにおける試金石のようなものであると、いえるのではないでしょうか。
私たちが主から与えられた「賜物」は各人に平等に与えられていれば、あまり問題は無いのでしょうが、実は個人個人にうける賜物が全く違う。
他人と同じ尺度で「賜物」をはかろうとしたら、本当にいつも自分に対して不満を持つようになる。

主からいただく賜物は、宝石でいえば、カットして磨いて完成品としては与えられていない。
磨く前の「原石」で賜物をいただいているように思います。
ある人は大きい石ですがが、その価値は小さいものより無かったりちっぽけな石ころのようなものも、磨いていくうち大きくて素晴らしい賜物をあずかっている人もいるように思います。

そのたまものを磨くのは私たちにとって、とても辛いことなのですが試練とか訓練とか、、主が私たちの理解をはるかに超越した試練をもって磨かれていくのではないでしょうか。苦しみながら磨かれていくのです。
自分では磨けないが、主が愛を持って訓練して賜物を磨いてくださる。
自分では主からなにもいただいてないと思っていた、小さな石ころのようなものであっても、いただいた信仰によって磨かれるとそれがすばらしいものであると気がつきます。

私はこの集会にきて16、7年にもなりますが、現実に何度も何度も体験的にそのことを経験してきました。
何年か前にお会いした兄姉が、久しぶりに会うと、まるで別人のように全く違って輝いていることに驚くことが、たびたびあります。
交わっているうちに、その数年の間色々なことを、経験してきたことがわかります。
肉親の死だとか、病気、夫婦の問題、子供の問題、この世ではあまり経験したくないことをたくさん経験している。沢山経験した人ほど輝いている。
普通ではショゲかえってしまうようなことでも、主の訓練によって主の愛によって変えられていく。
私たちの常識ではなかなかわからない主の訓練によって磨かれていく。
そのような事実を何度も何度も経験しました。

努力してそうなったのではない。ごく自然に、ここに本当に喜んで集っていらしゃる。
努力してそうなったとすれば、もうここにはいません。疲れきってしまう。
ここに出てくる管理人は、この世的に言うとずるいこと、横領のようなことをやっている。雇っている主人の資産をだますのですから、とても誉められることではない。
でもここは、この世の常識とはちょっと違う、ということです。

この人は、この事件が発覚したために管理の仕事を取り上げられる、クビになる。
まぁ、リストラなら時間がすこしはあるでしょうが、クビでは即刻です。
やめるまでの短い時間に解雇されても迎えてくれる場所をつくっておかねばならない。天下りといいますか、布石打つといいますか、今のうちにいいことして、まぁ、主人の資産を使って自分を売る込むのですから、道義的には正しくないことですが。
この解雇される間の短い時間にどうするか、というのがこの個所の中心になっている問題のようです。

管理人は、法にふれるギリギリのことをしたようですが限られた短い時間に一生懸命そのことをして自分の友だちをつくったと、ここに書いてあります。
私たちがこの記事だけに目をとめていると、単にここに出てくるのは、一人の金持ちとその管理人、そして二人の債務者、小麦を借りている人、油を借りている人、です。
でもここでイエス様がわたしたちに語りかけて下さっているのは、表面的なことではなくて、いずれ来る再臨までの短い時、限られた時間を有効にどう使うか、と言うことがテーマになっているようです。
私たちは、ただ再臨を望むだけではいけない。それまでの限られた短いじかんに、なにをするのか。
ほんとうに抜けめがないほどに、賜物を使ってどうすればいいのか?と、イエス様はこの話を通して私たちに語りかけて下さっているように思います。

後で、ああすれば良かった、こうすれば良かった、ということが私たちの日常生活でよくありますが、それでは遅い。
今すぐにしなさい。あらゆる能力、賜物をつかって自分のなすべきことをすぐにしなさい。
その、すすめであるように思います。

今年の吉祥寺での元旦礼拝の時、5人の兄弟がとってもすばらしいメッセージをして下さり、それは主からのとてもいい、お年玉プレゼントでした。
その中のお一人、私が本当に尊敬し敬愛している染野兄がルツとかソロモンという名の競馬馬の話をしておられました。
その時は、本当に喜んで楽しく聞いていたのですが、家に帰ってから、フッと「他の教会ではメッセージの中で競馬馬の話なんかできるのかな、」と思った時、この集会は本当にすごいと思いました。
しかも、そのことについて誰も疑問を持たない、ごく自然に喜んで聞いている。
でも、もし私が競馬馬の話をしたら大変「ひんしゅく」をかったかもしれません。
私と染野兄とは「賜物」が違う。

ご自分でも証されていましたように、長い間放蕩を重ねてきた兄弟が主にあって悔い改め、180度変えられた。そういうことをここで話されると、主は喜んで聞いてくださる。
過去を悔い改めて180度も変えられた話をすると、皆受け入れる、勿論、主もそのことを許される、ということです。
この吉祥寺集会で、木曜日の夜の学びの時、同じ個所を二人の兄弟が30分づつメッセージをするのですが、何で同じ個所なのかと長いこと疑問に思っていました。
要するに、賜物が違う。
ですから同じ聖書の個所をメッセージしても、語る人の賜物を通してどう語らされるか、その人の信仰によってどういう風に語らされるかを、「語ることが違う」ということが後でわかりました。
でも律法的な教会では、こういう話は許されないことだと思いますし、多分話さないと思います。
この集会は話題ではなく、その人の向いている姿勢、魂の動機であって、どうでもいいことは、どうでもいい、ということだと思います。

聖書ではそういうことが、色々なところに出てきます。
この「不正な管理人」のところは、わたしの信仰と聖書の知識では最初どうしても分からなかった個所です。
何度も何度も読み返しました。ずるい人間をやたらに、イエス様はほめるわけないと思ったのです。
しかしこの管理人をつかって、限られた短い時間で賜物をつかってどうするのか、とイエス様が言っておられるということが分かった時、本当にうれしくなりました。

どうしても分からなくて、他の兄弟に聞こうかとも思ったのですがこれまた、賜物が違うのだと思ってやめました。
この個所は大勢の兄弟がたが学んだ個所だと思いますし、同じ疑問を持たれたのではないか、と思います。
その人その人の賜物を通して、その受け方が違ってきます。
でも主のおっしやっていることは「同じ」です。

私たちは主から賜物を預かっている、管理人でしかないのです。
かつて救われる前の私は、妻や子供は私の所有物、わたしが養っている、命をかけても妻子は自分が守っていくんだ、という自負心が非常に強かったと思います。
でもそれは、聖書的には、主から見たら間違いであることがわかります。子供も主からのあずかりものです。

この世は今、混沌としています。今年、日本がどうなっているか全くわかりません。
私は会社をつくって38年間、去年まで会社を整理するなんてことは全く、考えてもみませんでした。それも数ヶ月の間に結論を出さねばならなくなりました。
どの位借金が増えるのか、どうなるのか、想像がつかないほどでした。そんな状況になってきていました。
集会の兄弟のなかでも、わたしのような、いや、もっと大変な方も何人かおられ、さきほどお話したところです。

昨日は、私の高校時代の友人、5,6人で新年会をしました。上場企業の副社長、専務、現役の社長などしている友人です。
彼らは、今後会社がどうなっていくのか全然わからないのです。これが経営者かと思うほど、全くわからない。
船長がわからないのですから、その船に乗っている船員はもっと分からない。

この一年、日本がどうなっていくのか、私も分かりませんがイエス様を知っている素晴らしさは言い尽くせないくらいです。
確信をもって、これだけ見ていればいいんだ!イエス様だけを信じていれば、見ていればいいんだ!という思いが非常に強くなります。
私は彼らほどステイタスはありませんが、そんな中で多分昨日は一番自信をもって「こうすればいいんだ」という方針を持つことができたことは誇りに思いますし、また主に感謝しています。
イエス様を知らなかったら、今どうなっているか、現在の状態がどうなっているのか想像もつきません。

日々、お忙しいベック兄弟に「ベック兄、お疲れではないですか。」と言うと、「大丈夫よ、死ぬまで生きるから」と気軽におっつしゃる。
これは、冗談が好きなべック兄の個人的なキャラクターではなく、聖書に対する「信頼の確信」があるからこそ、何気なくポンとおっつしゃる。
言われてみればその通り。「死ぬまで生きているのですから。」(^^)
〜〜なんだか納得してしまう。

今年も多くの人に会って、これから日本はどうなるかとか、会社の悩みとか、経済の悩み、色々な悩みに巻き込まれると思います。
そんな時「大丈夫よ、つぶれるまで、つぶれないから」(^^)
といったら、この世ではひんしゅくを買ってしまうかもしれませし、イエス様を知らない人の中では、怒る人もいるでしょう。
でも少なくともイエス様の居られる、この集会の中では十分通じる。

今日のみ言葉にもありましたように、前向きに、今限られた時間内に何をするべきか、今真剣に考えるべきだと思います。

先ほどお話しましたように、今日わたしはメッセージの当番でこの個所に出会った時、二つの大きな問題にぶつかった。
それは、私の知識や信仰ではこのみことばが、なかなか解き明かせなかった。
でも現実の生活や最近の社会の動きのなかで、自分の信仰を吟味していく時、私にとって最もふさわしいみ言葉だと気づくことができました。

私たちの現実の生活の中では、順境にあるときと逆境にあるときが一瞬にしてコロコロと変わります。
順境にあるときは思い上りになりがちで、そんな時自分を見失ってしまう。
逆境にあるときは、必要以上に落胆する場合もありますが、賢くなる。だいたい賢くなるのは逆境の時だな、とわたしの経験でそう思います。
今は逆境だから、経験的に少しは賢くなっているように思います。(笑)
順境で「社長、社長!」と呼ばれていた時は、限りなく「バカ」になっていたように思います。(笑)

主は賢くなるためにこの試練、訓練を私にあたえて下さった。
逆境にある時は、生き方、人、社会そういうものをじっくり見つめるのにふさわしい時であると思います。
それは、最も大切なことでもあります。
順境の時は、思い上がるのではなく、今このときに、自分の立場で賜物を生かして、主のためにどう働くかを真剣に考えるべきではないでしょうか。
私(たち)に対して、イエス様は決して「無駄」なことはなさらない。

最後に、いくつか聖書の個所を読んで終わりにしたいと思います。
ペテロの手紙第II、1:20-21
20それには何よりも次のことを知っていなければいけません。
21すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

聖書を読むとき、理解しようとすると個人個人違ってしまう。
理解するものではなく、聖書は「素直に信じる」ということこそ信仰の成長に役立つことであると思います。

ルカの福音書6:20-21
20イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
21いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。

朝の来ない夜はこない。夜の来ない朝はこない。イエス様は朝と夜を常に準備してくださっています。
朝になれば夜に対する備えを、ちゃんとしていなさい。
夜になれば、必ず、すばらしい朝、輝かしい朝が来るからゆっくり自分を見つめなおしなさい。とイエス様はおっしゃっておられます。

コリント人への手紙第II、8:2
2苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

わたしたちは訓練、試練はできれば避けて通りたいと願います。
でも「本当の幸せ」であるイエス様と出会うため、また出会った私たちは、よりよくイエス様を知るため「肉」を訓練しなければ、信仰の成長が、あり得ないのではないでしょうか。

ヤコブの手紙1:2-8
2私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
3信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
5あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
7そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
8そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

本当に、主が私たち一人一人に語りかけている「神の愛」そのもの「いつくしみ」そのものでは、ないでしょうか。
私たちは試練にあったとき、努力してなんとかしなければ、という、あせるエネルギーがあったら、その分を「主に信頼するエネルギー」にかえて日々の生活をするべきではないでしょうか。
この一年間、さまざまな問題が起されると思います。
でも私たちは、幸いなことに主から「聖書」をいただいています。聖書を読む権利を与えられています。

また、迷ったり、悩んだり、自分で判断ができない時には「祈り」ということを与えて下さっています。
さらに、孤独になったとき、一人でどうしようもない状態になったときには主が与えて下さった兄弟姉妹との交わりをも備えてくださっています。
「何も心配することはない!」
そう言っている私が、明日心配するかもしれない、しかし主は解決の方法を、きちんと備えて下さっていること、そのことが、本当に感謝なことであります。




戻る