引用聖句:申命記 7章6節−7節
今日のテーマは、「愛されていますか?」です。 きょう、ここにも、いろいろ問題を持っていらっしゃる方が、たくさんいらっしゃいます。もし、主にあって、仲の良いご夫婦や恋人がいらっしゃたら1時間、どうぞ眠ってください。そうでなくて、本当に、いま愛情問題や、定年問題、年老いてひとりぼっち、または、夫との関係、恋人との関係がうまくいかない。様々な問題で苦しんでおられる皆様に、イエス様が、どう言うふうにおっしゃっておられるか。その事をとりつげたらと思います。 あくまで、今日のお話しは、未信者のためです。きょう、はじめて来られた、2-3回来られた、おそらくこの中に数人かもしれませんが、イエス様は、その方のために語るよう示されましたので、語って参ります。 「愛されていますか?」 イエス様を御存知でない方は、そう聞かれて、「ま、私には家族もいるし、兄弟もあるし仲の良い友達もいるし、同好会もあるし、趣味もあるし・・・・・。」と数え上げられると思います。 しかし、押して、お聞きしますが、「それらの人々は、本当に、あなたを愛していますか?」 このように、多く見られる愛は、どちらかと言うと、自分の我侭な思いを相手に受け入れさせる愛で、押しつけであり、ある場合は、奪う愛であります。自分の欲望を相手によって満たす。自分の我侭を相手に認めさせる。自分の価値観を相手に押し付ける。 一番問題になるのは、嫁と姑の問題、夫婦の問題(未信者の場合ですが)。 自分がこうしたいああしたい。相手も、ああしたいこうしたい。要求のしあい。それからすれ違い。わたしどもの年配の方がいらっしゃたら、豊かな生活を家族に与えることが、社会的に立派になる事が、愛であると思いがちです。ところが、妻とか子供たちは、そんな事をあまり望んではいない。で、もっと、人間的な本当に暖かな家庭を望んでおる。お互いに要求するものが違い、やがて家族は、離れていくことになる。そうしますと、若い方も、年老いた者も、愛されると言うことを、なかば、あきらめてしまいます。 本当に心痛む方がたくさんいらっしゃいます。まだ、若いのに、傷つかれた方も、そう言う問題の真っ只中の方もいらっしゃいます。相手が未信者で苦しんでられる方もいます。未信者の場合、そう言う事になりますと、ごまかしてしまいます。私には立派な家があります。地位があります。子供も良い学校にはいりました。お金もあります。 だけど心の交流がない。心の中には、索漠(さくばく)とした思いがある。自分中心の愛と言うのは、むくわれましたでしょうか? 結局、 この世の愛は、だんだん信じられなくなり、愛なんかたわごとだと鼻で笑うようになる。行きつく所は、孤独でひとぢぼっちで、寂しい。骨も凍るような、砂漠のような孤独です。 これは、間違っています。この間違いの原因は、たった ひとつです。それは、 あなたが、イエス様を知らない。あなたは、イエス様に愛されていると言うことを御存知ないから、そのような孤独に陥ってしまう。 イエス様が、どれだけあなたを愛されているかと言うことを聖書から少し学んでみたいと思います。 冒頭の申命記。7章7節。 申命記7:7
つまり、神様のあなたへの愛と言うのは、尋常一様(じんじょういちよう)の愛ではないのです。本当に、恋したっておられる。この一言を思うとき、私達は圧倒されてしまいます。 それから、その先9節に、 申命記7:9
誠実。 神様は、どんな場合も、私達がどんなに裏切ろうとも、どんなに 失礼な態度をとっても、常に、誠実であり続けてくださる方なのです。別のところに、 エレミヤ書31:3
つまり、主は、常に私達に誠実を続け、尽くし続けてくださるお方です。神様への、私達の愛への2番目は、常にあなたの側に立ってくださると言うことです。それは、命を捨てるほどの愛です。 それは、十字架にかかり、あなたの罪を一身に負って、そして、命を捨てられた、その尊い血潮によって、あなたを贖われた。 ヨハネの福音書3:16
ローマ人への手紙5:8
イエス様の愛は、私達のために命を捨ててくださる愛です。 あなたの側に立ってくださる愛です。そして、その愛は、3番目に、永遠に変わることがありません。 ヨハネの福音書10:28
つまりイエス様の御愛は、永遠に私達を愛してくださる愛です。これらの神様の私達への愛は、単なる抽象概念とか、理念とか、お題目とか、抽象的なものではありません。 ひとたびイエス様を信じれば、それは、肌でわかります。 心でわかります。どこにいても、夜も、昼も、イエス様のご愛は、ひしひしと感じられます。それを、感じる心は、イエス様がちゃんとくださいます。 愛されていますかと言う応答の問いに対して、あなたは、神様に愛されている事を御存知なかったのではないでしょうか? 愛されると言うことを、鼻で笑ってこられたのではないでしょうか。すべては、イエス様のこの愛を受け入れると言うことからスタート致します。それが、信仰のはじまりです。 では、この愛を受け取るためには、どうすれば良いか?非常に大事です。非常に大事ですが、至って簡単です。まことに簡単です。それは、イエス様の前に、心からおっしゃれば良いのです。 「私は、あなたの愛を、私を恋したっておられる事を、私のために命を捨てられたことを、永遠に愛してくださる事を全く知りませんでした。 それのみか、私は、あなたに背を向け自分の思いのままに生きて来ました。この私をお赦しください。 イエス様、ごめんなさい。 そして、これからは、イエス様信じて生きていきます。」 そう、心から、おっしゃれば良いのです。 心に信じれば良いのです。そして、救われるのです。ですから、イエス様を受け入れる方は、おそらくその時、みことばをとりついだ方が、横にいらっしゃると思います、その方と一緒に、このようにお祈りになる。そうすれば、あなたは、もうイエス様のものです。そして、そこから、素晴らしい考えもしなかった世界が始まるのです。それは、本当に、素晴らしい世界であります。その世界を、3つの角度から、聖書から学んでみたいと思います。 イエス様の言う「愛の世界」とは、どう言うものか。それは、この世の言う愛の世界とは、全く違うものであります。 1.イエス様の愛の世界 2.イエス様を信じる者どうしの愛の世界 3.イエス様を御存知のない方と、私たち信じる者との愛の世界 この3つについて、さらに3つづつ(ABC)聖書から学んでいきましょう。 【1】イエス様の愛の世界 A: イエス様に愛されていますから、絶対に安心していられます。 ヨハネの手紙第I、4:15-19
B:イエス様になんでも、お話しできます。つまり祈る事ができます。 祈ると必ず答えてくださいます。必ず答えてくださいます。これは抽象的な出来事ではなく、現実の動きとして、わかるように、その人に具体的にはっきりした形でつきつけられます。ほんとうに、「え!」と言うようなことが、現実。 ヨハネの福音書14:13-14
イエス様を御存知ない方に説明しますと、この世の神社仏閣で、拝むことと全く違います。無病息災をお賽銭を入れて拝むのとは、私達の祈りは全く違います。私達の祈りとは、イエス様とお話する事です。そして祈ると言うことは、自分の欲を、かなえてくださいと祈ることとは違います。祈ることとは、イエス様とひとつになって、次にイエス様は、あなたは私に何を、なさいますか くださいますかと言う事を求めることです。私達は、いまこう言う状態にいます。それは、私が説明するまでもなく、あなたが、そう言うふうに、なさったからです。説明することも願うことも何もありません。イエス様、次にあなたは、私達に何をく ださいますか? と言う問いかけです。 くださるものは、本当に、すばらしいものです。もちろん苦しみも、悩みも、くださいます。でも、それは、もっと良い所に導くためのすばらしいものなのです。ですから、祈ると言うことは、ある程度と言うか、自分の欲求や自分の思いを全部捨ててしまったほうが、てっとり早い。 C: わたしたちは、イエス様に似た者に変えられていきます。 コリント人への手紙第II、3:18
自分を空っぽにすればするほど、イエス様のご愛がよくわかります。 ですから、うれしいから、少しづつ 空っぽになっていきます。自分で考えるよりも、おまかせしたほうが、はるかにうまくいくし、幸せになるとわかっているからです。あくまで、自分の中にある肉は抵抗するでしょう。 でも、イエス様にくっついていれば、イエス様が解決してくれます。 そして、2番目は、イエス様を信じる者どうしの愛の世界です。 とんでもない苦労は、いっぱいあります。苦労はいっぱいあります。ですけども、その中で、喜んでいられる私達、信じる者どうしの愛の世界。それについて、3つだけ聖書から学んでみたいです。 人によって大勢の中で信じる者どうし結びついてらっしゃる方もあるし、わりと、おつきあいがへたくそで、数人しか心のつきあいを持ってらっしゃらない方もいます。でも、数は、問題ではありません。ベック兄の昨日のお昼のメッセージ、私達、イエス様を信じる者どうしの世界は、決して、仲良し会ではないと、おっしゃいましたね。この言葉は、ほんとうにすごい言葉です。「仲良し会ではない。」 闘争の場とおっしゃいました。本当に、そうなんです。ある意味では、本当に、そうなんです。単なる仲良しの者だけが集まって、遊んでいるのでは、全く意味がありません。主が、中心でない集まりは、全く意味がありません。この世のおつきあいではありません。 肉的なものを満たすためのものではありません。霊的な、時間、空間を越えたものが、私達、イエス様を信じる者どうしの愛の世界です。これは、たとえば地球の反対側にいても、私達は、「ああ、あの兄弟、いまどうしてるかな?」「ああ、イエス様にくっついてるかな?」と、いつも祈りますね。イエス様を信じる者どうしの世界は、主にある思いやりの世界です。 言葉を訂正すると「思いあい」の世界です。思いあっても、何もできないでしょう。現実問題。ま、できる場合もございます。でも、大半の場合は、力がないから、何もできません。何もできないから、祈るんですね。祈るんです。祈りあうのです。信じる者どうしの愛は、祈り合う愛です。主のために、人のために。重荷を分かち合うことです。 ガラテヤ人への手紙6:2
律法と言うのは、あなたがたは、自分の横にいる人を、自分のように愛しなさいと言うことです。ほんとうの、愛と言うのは、一緒に、苦しみ、ともに、重荷を負いあう、そう言う愛であります。そうして、一緒に祈りますから、主から、そのお答えを頂いたときには、一緒に感動することができます。それは、もう、本当に感動の世界ですから、言葉も必要なくなります。「良かったね。」と手を握り合うだけで、100% 全部通じてしまいます。 詩篇118:21-23
この聖書の言葉は、この御代田の福音センターが出来あがった時に、ベック兄が引用された言葉でも、あります。そして、お互いに、祈りあい、お答えを頂いて良かった、すばらしい、すごいねと言う事が、日々、一刻一刻積み重なっていきますから、私達は、ほんとうに主を賛美します。 また、私達が拠り立っているのは、相談を受けたとき、相談しようと言う時この世の知恵で答えては、いけないんですね。これは、イエス様の邪魔をする事になります。つまり、みことばが、働くのです。お話ししている聖書も、ひとつひとつの言葉には、実にたくさんの思い出があります。それをおっしゃった方。人生の大事な時に、言葉が交換できた思い。引用しながら、ひとりひとりの顔が浮かび、心が通いあいます。 聖書は、次のように言っています。みことばは、あなたの近くにある。あなたの口にありお、あなたの心にある。私達が、立つ所は、みことばだけなんです。 みことばだけなんです。昨日のベック兄のメッセージの骨子もそうでした。みことばだけ。 コロサイ人への手紙3:16
つまり、イエス様を知っている者、クリスチャンと言ってもいいし、信者と言ってもいい。その人、相手の人を、この世的な意味で、わたし、もしくは、あなたが愛しているからではありません。私自身のためではありません。私なんかは、どうでも良いのです。相手の方が、あなたを愛してくれるからではありません。それも、どうでも いいんです。 相手の方のためでもない。なぜでしょう? 相手の方のためでもない。イエス様が望んでおられるから、主が求めておられるから、主、ご自身のために、人を愛する。御心が現われるために、ご栄光が現されるために、愛するのです。これが、イエス様が、私達に、求めていらっしゃる事です。 ヨハネの福音書13:34
愛しなさいとおっしゃているのですから、これは、イエス様のご命令です。 3番目は、では、私たち、イエス様を信じる者が、どうして、イエス様を御存知ない方を愛するのか。これが、第三番目です。イエス様を御存知ない方への、私達の愛。これは、おせっかいでも、おしつけでもありません。 布教活動でも、信者獲得活動でも、そのような事でも、一切ありません。ヒューマニズムでもありません。 イエス様を御存知ない方への、私達の愛。これは、おせっかいでも、おしつけでもありません。布教活動でも、信者獲得活動でも、そのような事でも、一切ありません。ヒューマニズムでもありません。ご親切でもありません。 神から離れた生活が、どれだけ寂しいか。それを、私達は、かつて知っているから、「愛されていますか?」と聞くわけです。それは、本当に、イエス様を知らなければ暗くて孤独で、寂しくて、どうしようもない世界。痛みのある痛い世界。 ですから、私達は、そう言う状態にいると言うことに対して、心が痛みます。愛されてください。わたしと友達になりなさいとか、私達のグループにはいりなさいと言うことじゃないのです。そんな事は、どうだっていい事なんです。イエス様に、愛されてください。愛されていることを知ってください。ほんとに、そう申し上げたい。ですから、このキャンプにもお誘い致しますし、ご本もくばります。痛む者どうし、かって、それを通りぬけて来た者の心の通いあい。ローマ人への手紙には、このように書いています。 ローマ人への手紙6:21
ですから、私達は、なんとか、イエス様があなたを愛している事を本当に知って頂きたい。そして、本当に、その痛みを分かち合える世界にはいって重荷を下ろして頂きたい。愛されてくださいと、心から願わずにはおれません。ですから、私達は、主の愛に溢れる世界にご案内したいと思っています。 一緒に喜んで本当に安心していられる愛の中に、お連れしたいと思っています。冒頭に読んだ聖書のことば。 申命記7:7
「主があなたがたを恋したって」これを、受け入れて頂きたい。私達は、なにもできません。自分ではできませんから、みことばを伝えるだけです。 そして、祈ります。静かにイエス様にお願いします。「どうか、この方を御手の中に入れてください。」平安と喜びと、私達の愛されてる世界に加えてください。そして、イエス様のみことばを、お伝えするだけです。 そして、どれだけ、あなたが、神様に、イエス様を信ずる私達に愛されているかを知って頂きたい。そう思うだけです。どうか、神様の愛を拒まないで、背を向けないで、愛されてください。そして、あなたも、イエス様を愛してください。そして、あなたも、イエス様を愛してください。主による素晴らしい愛の世界を自分のものにしてください。 最後に、私達を愛して命を捨ててくださいましたイエス様の十字架の御技を通して語られるイエス様ご自身のことばをふたつ。そして、パウロの言葉をひとつお伝えして終わります。 ヨハネの福音書15:9
ヨハネの福音書20:27
イエス様が十字架につかれて復活なされて、お弟子さんたちに姿を現したのです。でも、信じられないお弟子さんたちに、イエス様は、こうおっしゃったのです。すごいです。ここにつけてと言うのは、十字架につけられた釘の後なんです。私の手を見なさい。わきの下には、大きな傷があります。 わきに差し入れなさい。イエス様の愛。いのちがけ、体をはった愛です。 そして、最後にパウロの言葉を読んで終わりましょう。 ローマ人への手紙8:32
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