ヨハネ14章より


酒井兄

(昭和62年後半のテープから聞き取り)

引用聖句:ヨハネの福音書14章1節
1あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

今日は大変いいお天気で、こちらに私は自転車で来るんですけど、来ます時にモクセイの花が咲いておりますね。
この辺の住人の方は非常に花だとか、木だとかがお好きなようで、自転車で走っておりますと、いろんな花だとか、また木ですとか、その辺の何ていうんでしょう、自然の恵みというのがいろんなお庭から漂って来ますね。

モクセイの花というのは年に2回咲くわけですけれども、皆さんはモクセイの花は匂いで分かりますね。通りがかりに匂いで分かります。あの香りをかいで何か思い出されると思うんですね。
モクセイというのは年に2回咲きますから、何か非常にこう、人間の何ていうんですか、思い出を刺激するような花だと思うんですね。

私は何を想像するかといいますと、親父がね、「ああ、モクセイが咲いたよ。」って、ニコニコしてた顔を思い出します。
僕が小学校4年の時に死んじゃった訳でたくさん思い出を持ってるわけじゃないんだけれども、親父が、「ああ、モクセイが咲いたね。」っていってた時をですね、年に2回必ず思い出します。
で、家内に「あなた、モクセイの花で何を思い出す?」って言ったらですね、トイレだと言うんですね。家内が育った子どもの時の家には、モクセイがトイレに咲いていたんだそうですね。だから、何かそういうことを感じる。
その他いろんな人に聞いてみると、みんなそれぞれ、いや子ども時代だとか、それから、その何ていうか、いろんな思い出がこの花にまつわって、年に2回出て来るような気がいたします。

私は、二十歳頃にある一つの考え方を持ったわけですね。というのは、僕は学生時分に非常に食うに困るような立場になりまして、戦後のどさくさですとか、それから、母親が非常に人が好過ぎたために、いろんな人に騙されたりとかして、大学に入ったのはいいけど、食うに困るような状況になって来たわけですね。
私は3日働いて、3日学校へ行き、また3日働いて3日学校へ行くということを3年間やって、何とか学校を出たわけです。
で、そのような苦労の最中にあって、僕はその頃は東京でもまだちょっと郊外に出ますと麦畑がありまして、裏通りにふっと、こう麦畑なんかがあるわけですね。

その所に出ますと、こういうことを考えたんですね。人間というのは、この麦と一緒だなって考えたんです。結局、何だかんだと騒いでもこの麦と一緒だ。これは二十歳過ぎの人間が考えるのはちょっと不健康だと当時考えたんですけど、何かそういう空しさみたいなものが、すでにその頃心の中にあったわけですね。
で、これが人間なんてみんなこの麦だっていう一つの考えがどっかにあったわけですね。

で、この間何の気なしにテレビをひねっておりますと、音楽をやっていたわけですね。ベルリンフィルが、カラヤンの指揮でドイツレクイエムをやっておりました。
この中に音楽の好きな方、いらっしゃるかと思いますけど、その第二曲、これがスーパーで流れていたわけですね。
これが実にすばらしい言葉で、これは聖書から取った言葉、ブラームスはプロテスタントなんですね。で、プロテスタントの人が書いたレクイエムですから詩篇ですとか、そういう言葉から取られているわけですね。

これがペテロの手紙第Iの1章24節、聞いていただければいいですけども、

ペテロの手紙第I、1:24
24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

と、こういう言葉なんですね。
これが非常に皆さん、もしお聞きになってなければ、お聞きになれば非常にすばらしい旋律で出てまいります。

ペテロの手紙第I、1:24
24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

この後、聖書の言葉は

ペテロの手紙第I、1:25
25しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

と、こう続くわけですね。同じ言葉はイザヤ書の40章6節から8節

イザヤ書40:6-8
6「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
7主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
8草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

と、こういう風に書かれていますね。私は、35年前のことを思い出したわけです。
35年前は人間なんてみな草に過ぎない、というふうな言葉が、35年経って、私は信仰を持って、その言葉が再び返って来たわけですね。
帰って来た時には、ちゃんとその後の、主の言葉はとこしえに変わることがないという確信をもって、この言葉に接することが出来たわけですね。

私はこの35年という歳月を振り返りまして、「ほんとによかったな。」と思いました。さもなければ、人間なんてみなこの草のようだ、と。時が来れば、枯れ果てて行くような存在にしか過ぎない、という諦めとも絶望ともつかないような気持ちの中に人生を終わるのではなくて、「しかし、主の言葉は、とこしえに変わることがない。」、「私たちの神の言葉は永遠に立つ。」という言葉を知って、天に召されて行くということは、ほんとに幸せなことではないかなあ、と思いました。
で、私は35年という歳月はほんとに無駄ではなかったな、と。備えられた35年であったな、という風に考えました。

それで、今日学びたいところは、聖書のみことばに立ったら、どれだけすばらしいことになるかということを、ヨハネの福音書の14章から少し、時間いっぱい学んでみたいと思います。

聖書にはご承知の通り、非常にすばらしいところがいっぱいあります。
例えば、創世記の初め、それからアブラハムの部分、それからヨブですね。それから詩篇、それからマタイの福音書6章、山上の垂訓ですね。
それからローマ人への手紙の7章の特におしまいの所、24節から25節の間、僅か1ミリの間にですね、天地が爆発するようなすばらしい展開がありますね。
それから「慰めの書」と言われるヘブル人への手紙、それから「愛について」のヨハネの手紙第I。

いずれもすばらしい所で、私はいずれも大変好きな所でございますが、このヨハネの福音書14章というのは中でもですね、イエス様が直接、「いずれ、わたしは十字架にかかる。」と、そういう道に出発して行く、と、いずれお弟子さんたちとこの世的な意味で会えなくなる、と。
それで、遺言としてお弟子さんたちに、これからこうなります。わたしはそういう風にします。あなたがたはこうなります、ということを、非常にはっきりと、言葉でお伝えになった所ですね。

この14章の前に、実は13章というのがございまして、これはイエス様が、お弟子さんたちの足をご自分で洗われるという風な行為を通して、「お互いに愛し合いなさい。」ということをおっしゃるわけですが、その後にこの14章がまいります。
今日はそれを少しずつ読みながら、皆さまとご一緒に学んで行きたいと思うわけでございます。

ヨハネの福音書14:1
1あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

とこういう風に始まります。で、この14章は、私は信仰を持つということがいったいどういうことなのか、ということをイエス様ご自身が語られたということで、非常に大事な章ではないかと思いますね。
イエス様を信じた者にはいったい何が起こるか、そして、どういう恵みが与えられるか、それをご自身が、ご自身の言葉を通して、たとえ話でなくなっきりとお話になった所がここだと思うわけです。

で、最初はやはり一番大事な所から始まるのですね。ヨハネの福音書14章1節、あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい、と。
このイエス様のみことばは、神を信じ、またイエス様を信じるという、ここに出発点がある、すべての出発点がここであるということを示しています。
心を騒がすということは、実際多くの場合は神様、それから主の存在、そういうものを認めない所から心が騒ぎます。

で、私は実は先週ある人に会ったわけです。僕とほぼ同年齢の方です。
ある非常に大きな石油会社の秘書室長を務めている人ですね。その人に会うと、「あなた、秘書室長でいいじゃないですか。僕らは毎日毎日汗かいて走り回っているけど、あなたはふんぞり返ってればいいでしょう。」と、こう言えば、彼は「いや、とんでもない。」って言うんですね。

「実はこの会社には58歳までしかいられないんだ。」と。
「あなたぐらい偉くなれば、重役さんになれるでしょう。」と言ったら、「いや、とんでもない。」って言うわけですね。彼が言うにはね、「自分はむしろ今、小さな会社で誘われている所に飛び移って、60歳以降も仕事が続けらるようにしたい。」ということを思い悩んでいるわけですね。
そっちへ移った方が将来自分のためにいいんじゃないか、と。
で、「あなたは、なぜそうしたいんですか。」と聞くと、「60歳以降の収入を確保したい。」と、こういう、この世的にはもっともな答えが返って来るわけです。

それで、僕は一つの質問をしたんですね。
「あなたは、確か40歳の時も50歳の心配をしていた、と。それで50歳になったら60歳の心配をしますね。60歳になっても70歳のことを心配をするでしょう、と。しかし、あなたはそうやって生きることを心配しているけど、死ぬっていうことについてあなたはどう考えますか?」ということを問いかけたわけですね。
その人は、「いや、死ぬというのはそこですべての終わり。」だという考えを持っているわけです。

あのう、心が騒ぐというのはね、やっぱりイエス様から離れ、そしてほんとうの信仰に立っていない限りは、いつまで経っても30歳なら30歳の悩みがあり、40歳になれば50歳の心配をし、50歳になれば60歳を心配し、60歳になれば70歳を心配し、70歳になったらですね、体が利かなくなったらどうしようと心配し、そして死ぬことを心配し、という風に、永遠に心の騒ぎが続いて行くわけですね。
なんて言うんですか、こういう心配は神様の御心ではないんですね。

神様はマタイの福音書6章にありますけれども、イエス様は、あなたがたは何も心配することはない、と。それよりも、まず、神様の天の御国に至る道を真っ先に見つけなさいということをおっしゃってるわけです。
そうしたら食べること、それから着ること、そういったことは、すべて自ずから備えられます、と。

そこで、雀のたとえが出てくるわけですね。雀だってあんなに元気にやっているじゃないですか、という有名な所がありますね。
ちょっと私の言葉が不味いので、マタイの福音書6章のおしまいの方を時間のある時にぜひ、ごらんになればいいと思います。
そういう風に、人は多くの場合にイエス様を信じない、神様を信じないという所から、ありもしない不安ですとか、疑いですとか、それから取り越し苦労に取りつかれます。

イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と、こういう風にそこからすべてが始まると話されるわけですね。
この段階でね、いや、私は信じない、私は信じません、信じられません、つまり、NOと答えた人は、これは双六じゃないけど、「また振り出しへ戻る」でね、また心騒ぐ、永遠に心の騒ぐ繰り返しの地獄の中に戻ってしまうわけです。
ある日、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」という言葉を素直に受け取って、「はい。」と答えた人は、そこからまったくすばらしい世界が広がって行くわけですね。
どんなにすばらしい世界か、それはこの後の2節以下でイエス様は少しづつ解き明かされて行きますので、その後を辿ってみたいと思います。

ヨハネの福音書14:2-3
2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

こういう風におっしゃってるわけですね。
『父の家には、住まいがたくさんあります。』父というのは、この天地をお造りになった全知全能の神様ですね。天地の創造主、主ですね。
そのひとり子がイエス様です。このお二方は一つなんですね。三位一体と言いますが、聖霊と合わせて三つは一体なんですね。
その神様の所には、住まいがいっぱいある。で、イエス様は私たちのために住まいを備えに、そこへ行ってくださるわけですね。

話は変わりますけど、もう東京には僕たちが住む場所なんて無くなって来ているんじゃないでしょうか。これだけ地価が高くなってね、この世的な意味ではほんとに地価が上がって来ますと、もう今から若い人で東京都内に家を買うということは、ほとんど不可能になって来ますね。
こんなことはどうでもいいのですが、天には私たちの住まいがいっぱいあるそうです。そこは、ほんとにすばらしい、限定されたこの世のような場所ではどうもないようですね。
イエス様はそういう場所を、ちゃんと備えてくださってくださっているわけです。

それから、『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです。』こういう風に約束してくださっているわけです。
これは天の御国、天、また天の国、天上の世界、神の国、いずれの表現も出来ましょうが、イエス様のいらっしゃる天に、私たちはいずれ迎えられるという確約がここで与えられているわけです。

ピリピ人への手紙を読みますとですね、『私たちの国籍は天にあります。』とはっきり出ておりますね。
ほんとに私たちは国籍は天にありまして、今こうやって集まっておりますけど、一人天国に行き、二人天国に行き、どんどん天国に行って、また新しい人が入って来て、二、三十年すれば一巡しているんじゃないでしょうかね。

そういう意味では先ほど、ブラームスじゃないけれども、草は枯れ、花は散る。しかし、みことばは永遠に立つ、と。ある意味では私たちはここに集っておりますけれども、麦畑と一緒なんではないでしょうか。
ですけど、私たちはいずれ天の御国に迎え入れられるということが、非常にはっきり約束されておりますから、安心していられるわけです。

さっき、私は父の思い出をちょっと話しましたが、私事で恐縮なんですが、私の父はですね、昔は多かったんですけど、肺結核だったわけです。
私の住んでいた家というのは丘の上にございまして、親父は午前中は花を作り午後は本を読むという、今から考えると贅沢、不埒千万の生活をやっておったわけですね。そのようなこの世的に言えば、いい生活の中で、彼は肺結核に捕らわれたわけですね。
で、当時は肺結核というのは療法がないわけです。ストレプトマイシンとか、そういうものはないわけですね。従って栄養をつけて、安静にしているという以外に療法がまったくありませんでした。
それと、もう一つは伝染するものですから隔離される方がいいっていうことです。東京でいえば、清瀬に結核療養所がありました。

で、僕たちは神戸ですから、やはりそういう所があったわけですね。そこに、しばらく行っていたわけですね。
親父は、温室の中にいっぱいシャボテン等を並べていたんですけど、誰も面倒を見る者がいないから、温室のシャボテンは真っ茶色になって、全部枯れてしまいましたね。
親父はその療養所でも見放されて、顔色は土色、ある日帰ってくるっていうんですね。帰るってことは、どういうことかといいますと、もう療養しても仕方がない、先が見えているから、せめて自宅にいなさいってことなんですね。

僕はまだ、あまり事情は分かりませんが、連れられて電車の駅まで迎えに行ったわけです。親父は電車から降りて来て、丘の上だから中々坂が上がれないんですね。
僕たちは子どもですから、ある意味で残酷ですから、親父がのろのろ上がって来るのを待っているのを、何ていうんでしょう、いらいらしているような素振りをしたかも知れませんね。
で、親父は、もういいって、あんたたちは先に上がりなさいって、とこういう風に、こう、仕草をしたんですね。それもはっきり憶えております。
それから親父はとぼとぼと歩き始めたわけですね。それから半年ぐらいで死んでしまいました。

多くの人は死ぬ前にだんだん歩けなくなって行きます。親父のその姿を見た時に、今思うともうほんとに自分の人生が、終わりかけてるんだなってことを、ほんとによく分かっていたんだと思うんですね。
もう、長くないなってことも分かっていたと思うんです。しかし、彼にとってどこに行くあてもなかったんだろう、と思うんですね。あてのない人の歩みだったように見えたんですね。目的を持たない人の歩みだったように見えたわけです。

で、あのう、この集会からも天に召される方が、やはり、年に何人かいらっしゃいますね。この方々に共通しているのは、目的地がはっきりと分かっているということなんじゃないでしょうか。
足腰は立たない。それから、身体はもう言うことを聞かない。しかし、目的地ははっきりと分かっている。だから、真っ直ぐに首を上げて、ひたすらその道を歩いて行かれますね。
私たちの先人は、みんなそうやって死んで行かれました。

で、私はそれを見るたびに、「僕はあれが出来るんかいなあ。」と。僕はあんまり立派じゃないし、それに大体弱虫だし、いざとなたったら泣きわめくんじゃないかなって気がしてしょうがないんだけれども、それは自分がやることじゃないんですね。
恐らくその段階になれば、イエス様はちゃんと手を差し伸べて、ちゃんと間違いなく目的地に運んでくださって、そうしてすばらしい天の御国に住まわせてくださる、ということがこのヨハネの福音書14章の3節までにはっきりと約束されておりますね。

で、天というのはやはり本来私たちがいるべき場所ではないでしょうか。ですから、私たちはこのお約束に立ちますから、安心していつでも死を迎えられるのではないでしょうか。
私たちはもちろん死ぬことは怖いです。特にいろいろその前に苦痛があるんじゃないかなあ、ということを考えると怖いですね。
怖いけれども、それを通り越した向こうにもう、何にもない滅びの世界と思うのと、その向こうにすばらしい世界が待っていると思うのとは、もう雲泥の差ですね。イエス様の大きな恵み、また私たちにくださっているものが、どれだけすばらしいことか、ということがひとつあると思います。

次は、4節からまいります。イエス様はここで、

ヨハネの福音書14:4
4わたしの行く道はあなたがたも知っています。

と、こうおっしゃいます。
トマスという、ひとりのお弟子さんはイエス様に言うんですね。

ヨハネの福音書14:5
5「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

この後、有名なイエス様の言葉が続きます。

ヨハネの福音書14:6
6わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

と、こういう風にお答えになるわけですね。このトマスの言葉は非常に暗示的なんですね。

ヨハネの福音書14:5
5「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

イエス様がどこに最終的に辿り着かれるのかを、私たちは知らないから、その道が分からない。これは人間の思いですね。
で、大部分の人間というのは、人生をどこへ行くのかを知らないで、ただ道だけを歩いているということが言えるのではないでしょうか。目的地が分からないんですね。どこかへ出るだろう。もう、出たとこ勝負だと。

ただ、こっちの道の方が、そっちの道よりいいから、こっちに変わろうかとか、もしくは、こっちの道はどうも茨と石で、歩みにくそうだからそっちにしようかとか、もしくは子どもをそっちの道に進めさせたい、と。道のことばかり心配していますね。

早い話が子どもを塾に通わせますね。で、塾ってのはちょっと見たら茨と石の道だろうと。子どもにとって決して楽しい道ではない。ただ将来、何ていうんでしょう、こう広いアスファルトを引いた楽な道に出るんじゃないかってんで、一生懸命子どもを塾に通わせて、いい学校ですとか、いい就職先に入れようとしますね。
それじゃ、その広い道をどんどん歩いて行ったら、いったいどこに出るのかこれは分からない。お母さんにも分からない。お父さんにも分からない。
だけども、ひたすらその道が具合がいいかどうかだけ、一生懸命考えているんですね。人間というのは、そういう意味では真に愚かな者なんですね。

我が社は今、大変忙しい状態になっておりまして、私たちの若い同僚は12時残業なんていうはざらになっております。
土日はもちろん仕事。休めて家に帰ったとしても、頭の中では仕事をしているという風に大変忙しい。
というのは、ちょっと私事に亘りますけど、非常に大きな会社の仕事を進行中で、それが近日中に発表になるもんですから、もうあらゆることがドドッーと降りかかって来て、そこに別のお得意さんの大きな仕事が入って来まして、もうまったくどうしようもない。
とにかく、これで泳ぎ渡れるかなあ、という風な感じの所へまあ、差し掛かっているわけですね。

我が社の社長は集会の兄弟ですが、この方が非常に面白いんですね。もう、そうやって、もう仕事、仕事でいろんな所から、いろんなことを言われて、いろんなことを頼まれてますから、この間も大笑いをしたんです。
彼はね、車でどこかへ行かなきゃいけないってんで、車にパッと乗るんですね。で、ダアーッと出ちゃうんですね。で、走り出すんですけど、その相手の会社がどこにあるか、知らないで走り出すんです。

非常に大変な事態になっております。僕も一度、取引先の会社に行ったことがあるんですけど、鎌田にあるんですよ。僕は兄弟がてっきり知っているんだと思って一緒に車に乗りましたら、彼はどんどん、どんどん銀座の方へ走って行くんですね。
おかしいなあと思って、「鎌田ってこれ、品川の向こうなんですけどね。」と言ったら、「あ、そうですか。」って言うんですよね。

で、そんな状態でどんどん走って行く。というのは、ある意味で僕たちの言わばその、ひとつの姿でもあるわけですね。
で、何ていうか、人生の目的地がちゃんと分かっていて、それから走って行くというのと、その目的地が分からないで、道だけをどんどん、どんどん走って行くというのと、この二つありますね。
で、兄弟は、その会社がどこにあるかを知らないけれども、彼はしっかりと自分が最後にどこに辿り着くか、天の御国に辿り着くという確信を持ってますね。

これは我々以上に、しっかりとした確信に立っていらっしゃいますから、逆に言えば、お得意先がどこにあろうと、それはどうでもいいようなことだろう、というのが彼のすばらしい所でもあるわけですね。
そういうことを感じましたんで申しました。これは余談でございます。

で、イエス様は、そういったトマスの言葉、「どこへ行くのかわからないというのに、どうして道がわかりましょう。」、これはぜひ、僕は多くの方に、まだ福音に接していらっしゃらない方に、「どこへ行くのか分からないのに、どうして、あなたは自信も持って道を選択出来るんですか。」っていうことを聞いてみたいんですね。
A大学の方がB大学よりもいい、もしくはA社の会社員の方が、何かわけの分からないアルバイトよりいい。それは確かにそういうことが言えるかも知れません。しかし、目的地がはっきりしもしないのに、なぜそういうことが言えるのか、もっと、本当はその前に心配すべきことが、いっぱいあるんじゃないかということを、このトマスの言葉から啓示されますね。

イエス様は、それに対して直接にはお答えになりません。イエス様は、非常に、ここでは珍しく断定的にお答えになりますね。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

もうこれは、文字通りこの通り。

ヨハネの福音書14:6
6わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

これはもう、ほとんど断定であり、命令ですね。この第1節にある

ヨハネの福音書14:1
1あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

こういう命令と、もう一つのものですね。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」、そうして、「わたしが道であり、真理であり、いのちである。」と、わたしこそ天に至る道であり、唯一無二の真実であり、そうして、死によって終わることのない、すべてを生かす生命の源である、と。こういうことをおっしゃるわけですね。

それよりも、もっと深いことをおっしゃったわけですね。これね、説明しようとするとだんだん意味が狭くなって来てね、非常に不味いんです。
私が今、言ったことよりもむしろ、「道であり、真理であり、いのちである。」とこういうことの方が、はるかにすごいですね。

で、「わたしを通してでなければ、」と、こう出てまいりますが、わたしというのは主のひとり子であるイエス様。そのイエス様が十字架のみわざ、これはもう、皆様がご存知の血の贖罪ですね。
一人一人の罪、神様に背いていた罪、それから、いろいろな重荷、そういったものを、十字架を通してご自分が血を流すことによって、十字架にかかられて、一人一人を招いてくださった。

一人一人を洗って、真っ白にしてくださって、神様の国に行けるようにしてくださった。それは、何もその本人の、私たち一人一人の努力だとか、そういうことじゃないんですね。
イエス様の十字架のみわざによって、2,000年前にそれが成就してしまったわけです。そうして血の贖罪という十字架のみわざを通して、つまり、わたしを通してでなければ、だれひとり天地万物を造られた父のもとに来ることはありません、と。
イエス様を信じなければ、天の御国に行くことはできません、とこう、はっきりおっしゃっているわけですね。

イエス様を受け入れ、信じればということは、これは言い直せば、十字架の贖罪を素直に受け入れれば、これで天の国に何の問題もなく、迎え入れられます、と、こういうお約束であると、それが「道であり、真理であり、いのちである。」と、ここで非常にはっきりとイエス様は、このことを私たちに明言なさいました。

その後、7節からまいります。

ヨハネの福音書14:7-11
7あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
8ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
10わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
11わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

と、こういう風におっしゃるわけですね。ここに出てまいりますのは人間の弱さですね。ピリポに代表される人間の弱さですね。
あのう、人間というのは妙なものを信じます。そうして、ほんとに信じなければいけないものを、なかなか信じようとしません。
人間の弱さというのは、人間の間違いというのは、疑いですね。確かにこの世的な意味では、私たちはいろいろと世の中で揉まれますと、だんだん人を信じることをしなくなって来ますね。

私の経験からいいましても、学生時分にそういう風にいろんな人に騙されたり、それから、人がお金を使って遊んでいる時代に、自分は三日働いて、三日学校に行く、という風な余裕のない生活をしましたから、人と付き合うということが非常に苦手になって来て、それが未だに私の後遺症となって残っております。
で、私はこういう所に立って、話するということはそんなに苦手じゃないんです。ですけど、一番苦手なのはパーティーなんですね。
で、こういう人もいるんです。いる、ということをひとつ皆さん分かっていただきたいんだけども、この集会では、僕はある意味では困ることに出くわすんです。
と、いうのは、パーティーでしょう。パーティーが多いでしょう、ある意味では。だから、「あいつは非常に人付き合いが悪いなあ、あいつはなんだ。」と思われているんじゃないかなあ、と。

ところが、私自身は非常にそれについてコンプレックスも持ち、それから、申し訳ないと思い、なんかこう人に対して素直にお話出来ないことを申し訳ないと思っているんだけれども、そういう形で後遺症が残っているんですね。
で、もう一つは親父ってのもね、丘の上に人との接触を絶って、お花を弄るって生活をやるんですから、元々人嫌いだったんですね。
その血があるもんだから、真に、こう、ここで一つ皆さんにお詫びをしておきますけど、僕はこう、何ていいますか、あのうほんとに申し訳ないと思います。

えー、どこまで行きましたっけ。何か分からなくなっちゃったけど、あ、人間の弱さですね。
疑り深さから出るんです。疑りだしたら、何もかも全部灰色になって、どうしようもない世界になりますね。これはほんとに地獄ですね。

実は僕の友達が、ポメラニアンという非常に可愛い犬を飼っておりまして、こいつは、小さいけれどもお客さんに絶対人見知りしないんです。
もう、自分が愛される存在であるということを、絶対信じきっているというか、そういう犬っているんですね。そういう犬ってのは、誰にでも尻尾を振って行くし、その人に全身を預けるし、そういう態度に出られると、人間というのはもうその犬を愛せざるを得なくなって来るんだと思うんですね。

で、かたや、やっぱりその、野良犬で、しょっちゅうこん棒で殴りつけられたりなんかしている犬は、やっぱり縁の下辺り、縁の下って今ないけど、ビルの陰辺りから、上目遣いに人をじろっと見て、「こいつは何か自分に、悪いことをするんじゃないだろうか。」と。
で、どっちが可愛いかということです。
人間だって同じですよね。僕たちの周囲にいろんな人がいるけれども、やっぱり開けっぴろげで、いつもにこにこして尻尾、尻尾はないけども、そういう感じの人は誰にでも好かれるし、僕みたいに、大分こん棒でどやされたのは、なんかこう物陰からじっと見ているような、そういう人ってのは好かれない。
そういうことがございますね。

で、同じことは、やっぱり神様に対する態度にも、そういうことが言えるんじゃないかと思います。
もう、何が何でも神様、神様と尻尾を振って、もう絶対信頼しきっている人と、「ひょっとして、神様が何か悪いことするんじゃないかな。」というような疑いの目を、もしくは心を持っている人と、どちらが神様にとって可愛いか、ということは一つあると思いますね。

もう一つ、更に言うならば、人間はほんとに信じられないものを信じます。
例えば、私たちは預金通帳を持っているでしょう。あれは紙の上に数字が並んでいますね。あれは電話回線によって、どこやらのセンターに送られて、そこで何かこう、カードを入れてちょっちょっとやると、パッパッパッとお金になって引き出したり、また預け入れたりそういうことが出来ますね。これはもう絶対皆さん信じていますね。
それからもっと言うなれば、お札というのを信じていますね。それから、今度政府が減税するというような話をしている。これは眉唾だとか何とか言っても、基本の所ではみんな、ひょっとしたらうまく行くんじゃないかってことで、そういう政府に代表される一つの政策を信じています。
それからまた、自分が5年先、10年先にちゃんとここに生きて存在しているということを信じていますね。

こういうことを人間は簡単に信じるんです。いずれも目に見えないものを信じるんですね。電話回線に流れる電気信号は目に見えませんね。
それから政府の減税案なんて目に見えませんし、お札の金額というのは、あれは約束事に過ぎない。それから、自分が10年先に生きてるかなんて、これは目に見えませんね。
そういうものを信じているくせに、人間は目に見えない神様を信じないんです。信じなくてはいけないものを信じないで、よくあんなものを信じるなあ、というものを信じるようになっていますね。

これが人間の一つの問題ですね、心を騒がす、またいろいろと問題が出てくる基本の所ではないでしょうか。人間の弱さではないでしょうか。
ピリポはやはり同じような意味で、「見せてください。そうすれば満足します。」と、「見たら私は信じます。」と。こういうことを言ったわけですね。
これに対して、イエス様のお答えというのは、このヨハネの福音書に記されているイエス様の言葉を読んでみますと、何かこう、「お前たちは歯がゆいなあ。」って感じが如実にが出てますね。
本当にもう、「お前たちは長年わたしと一緒にいて、まだこんなこともわからないのか。歯がゆいやつだなあ。」っていうのがほんとに出てますね。

ですけど、イエス様はこのお弟子さんたちを愛していらっしゃいますから、それに対して噛んで含めるように説明をなさっておりますね。

ヨハネの福音書14:10-11
10わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
11わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

わたしが言うのを信じさい、ということなんですね。これでまた、振り出しに戻りまして、

ヨハネの福音書14:1
1神を信じ、またわたしを信じなさい。

ここで、「NO」と言った方は永遠に迷いの世界に逆戻りしてしまいますけれども、そこで、「YES」と答えた方はすばらしい世界が、そこから開けてくるわけですね。
ここのイエス様の言葉も、「信じなさい。さもなければわたしのわざによって信じなさい。」と。これをそのまま素直に受け入れればいいんじゃないでしょうか。

わたしのわざというのは、これから十字架にかかられるわざですね。言い訳もしないで、みんなの罪を一身に背負って、十字架に引かれて行くイエス様。そうして、十字架のみわざによって、一人一人を救われたイエス様。
もっと簡単にいうなれば、その前にいろいろと奇跡を行なわれたイエス様。

それから、現在これほど福音が広まっていること。決して十分ではありません。ほんの僅かです。日本では何パーセント?3パーセントですか、何かそれぐらいですね。
現在、これほど福音が世界各国で求められているというこの業ですね。それから、イエス様のために、どれだけの人が、どういうことをしたか。これも一つの業でしょう。
これも、過去いろいろな私たちの先輩、これはプロテスタント、その他、過去どれだけの人がイエス様の名のもとに、どういうことを行なって来たか。それが、どれだけすばらしいことであったか、ということも言えるかも知れませんね。

「わたしの言うのを信じなさい。さもなければわざによって信じなさい。」のわざとは、そういう風に受け取れるんじゃないでしょうか。
更にいうなれば、今日、軽井沢ですとか、吉祥寺ですとか、高知ですとか、高松ですとか、その他全国多くの所で、私たちの兄弟姉妹がこのように集まって、礼拝が持たれ、また福音が宣べ伝えられているわけです。
これは、イエス様の御心が人々を通して、人々のわざを通して現れていることですね。

で、それがこの12節、

ヨハネの福音書14:12
12まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

と。わたしを信じる者は、イエス様の器となって、大したことは出来ません。私たち一人一人は大したことは出来ませんけども、それが何百人、何千人、何億人と集まって、そのわざをやっているわけですね。

それから、イエス様ご自身は、「わたしが父のもとに行くからです。」と、全能の神としての立場に立たれて、今日も生きておられて、そうして本来の、神のひとり子としての性質を、完全に振るっていらっしゃいますね。
それが、私たちの集会にも、今日いらっしゃって、一人一人の目には見えませんけれども、一人一人の、何ていうんでしょうか、その心の中に生き、またそれを動かしていらっしゃるわけです。
ちょっと時間も無くなりましたので、後、2節ぐらいにしましょう。

その後、ほんとに私たちは躍り上がりたいくらいすばらしいお約束が次の13節、14節に述べられています。

ヨハネの福音書14:13-14
13またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

「あなたがたがわたしの名によって、何かをわたしに求めるならわたしはそれをしましょう。」すばらしいですね。これはおまけに2回繰り返されてイエス様はお話になっておられます。
で、ここを、実は「名によって」という所を、変に人間的な狭い意味で、「わたしの名によって」と書いてあるから、これは例えば霊的な問題でなければいけないのではないかとか、それから、「わたしの名によって」というのは、これは伝道のことでなければいけないのではないかとか、それからなんて言うんでしょうか、人が救われるのを祈ることでなければいけないのではないかという風な、人間の都合や思いで考えることは、私は良くないのではないかと思うんです。

ここに書かれている言葉は、正にこの言葉のまま、真っ直ぐに、せっかくイエス様が2度も繰り返してお話になった言葉だから、真っ直ぐにそのままの意味で、素直に受け取るべき言葉ではないかなあと思います。

ヨハネの福音書14:14
14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

「わたしの名によって、何かをわたしに求めるなら わたしはそれをしましょう。」こういうお約束ですね。これは、ほんとにそのまま、実際にまた、私たちが信仰を持ってからの立場を振り返ってみますと、イエス様はどれだけ多くのことをしてくださったでしょうか。
それを思い起こして見る必要があると思うんですね。
それからまた、こういうことが言えるんでしょう、文字通りそのまま受け取ればいいんですけど、何でもイエス様に求めてお願いすればいい、ということなんですね。

変に背伸びをして、カッコをつけることなんか一切ないんで、もう書いてある通り、何でもイエス様に求め、お願いすればいい。
広島にいる兄弟は、5年ぐらい前にこの集会にも来てくださって、お話をしてくださいました。
兄弟は、「私は何でもイエス様にお願いするんですよ。」と。タクシー呼ぶのも、イエス様にお願いするんですよ、とおっしゃるんですね。
で、そのタクシーに乗らなきゃ、どこやらの集会に届かないと。遅刻してしまうって時は、平気で「イエスさ様、どうぞ早くタクシーをよこしてください。」と祈られるそうです。

こういうことじゃないかなあと思うんです。それは、「私の名によって」だからなんかすごいことじゃなきゃいけないとか、そういうことは一切ないんですね。
ただ、こういうことは言えるんじゃないかと私が思いますのは、祈り手が成長して来ると、イエス様の名によって祈ることの内容が、少しづつは変わって来るというのもまた事実ですね。

信仰を持って初めの頃に祈っていた内容と、それから、5年、10年経って祈っていた内容と、30年経って祈っている内容とは、やっぱり違って来ていると思うんですよね。
例えば、その一つはどういう形を取って来るかというと、段々と愛によって祈ることが多くなるんじゃないかと思うんです。

救われた当初はね、手前勝手なお祈りばかりをしているんです。何やら、やらせてくださいとか、子どもの受験をうまく行かせてくださいとかね。
御心ならばA大学に合格させてくださいとかね、こういうことばっかりお祈りしていますね。
最初は自分のこと、それから次は家族のこと、そうじゃなくなって来るんじゃないかと思うんですよ。少しづつ。
私なんか、まだこの段階に留まっておりますれけども、段々とね、愛によって祈るということができるようになって来る。出来るようにさせられて来るんじゃないかと思うんです。

それから、もう一つ言えるのは、やっぱり段々と自分より他人について祈ることが多くなってくるんじゃないかなあ。これは誰か言いましたね、ベック兄だったかなあ、誰かがここで同じようなことを言われたことがありますね。
祈りってなんか、その内、自分のことはあんまり祈らなくなって来るもんですね、ということを聞いた憶えがあります。
確かにそういうことはあります。そういうことはありますが、イエス様がここでお約束してくださっているのは、「何でもそれをしましょう。」と、こういうお約束ですね。
ここに、私たちはしっかりと立つことが出来るということは、非常にすばらしいことだと思います。

で、もし、イエス様を信じていなければ、何ていうんでしょう、本当に独りぼっちでしょう。何かそういった、お祈りとか、それから願い事とか、そういうことは全く出来ない世界ですね。
で、自分の世界に自信のある人は、まだそれでもやって行けるけど、自信なんて、そうそう続くものじゃないですね。
病気になることだってあるし、失業することだってある。そうして、自分がほんとうにどれだけのことができるかということを、本当に考えたら、端的に言えば、髪の毛一本、白くも黒くも出来ない。自分という者を本当に見つめたら、そういう世界は耐えられない世界じゃないかと思うんですね。

自分にすべてを拠り頼む世界というのは、耐えられない地獄です。
NHKで放映されたBBC製作の「失われたヒーローたち」というお話、これについては他の兄弟も話し、私も、実は祈り会の時にお話いたしましたけれども、ここに出てくる凄まじい世界というのは、祈りを知らない人の世界です。それからまた、十字架の本当との血の赦しを必要な人が、それを受けることを拒否して彷徨っている世界ですね。
これはまた、ちょっと時間もありませんので、省略いたしますが。

本当に私たちは、イエス様に何でも祈り求め、助けを呼ぶことが出来るということは、ほんとにすばらしいことなんですね。ほんとにすばらしいことなんです。

それじゃもう、これで、14節までで終わりますけど、実は、私の家内が主を受け入れてから、家内はステンドグラスの加工を教えておりますから、いろんな所で、そのお弟子さんとの間でとかで、イエス様の話がよく出るそうです。
そして、そのお弟子さんの一人が、実は家内にこれはすばらいいって持って来た詩がね、ここにありますので、今日はそれを最後に読んでおしまいにしたいと思うんです。

原文は「FOOTPRINTS」、足跡ですね。PRINTSですから複数ということです。
英語の詩なんですが、著者不詳となっています。上手く訳するということではなく、出来るだけ内容を忠実に訳しました。
彼ということになっていますが、もちろん彼女でも一向に差し支えありませんね。


    足跡  ------FOOTPRINTS------

ある夜一人の男が夢を見た。彼はイエスと共に海岸を歩いていた。
空に、彼の人生のいろいろな場面が、浮かんでは消え去っていった。
そのどの場面にも、砂の上にふた筋の足跡がついていた。
ひとつはイエスのもの、もうひとつは彼のもの。
最後の場面に来た時、今まで見た砂の上の足跡を思い起こしてみた。
彼の人生の至るところに、ひと筋しかついてないところがある。
しかも、それは彼の人生の中で、もっとも悲しく困っていた時である。
そのことは非常に彼を悩ませた。彼はそれについてイエス様に聞いてみた。
イエス様、私はあなたに付き従うと決めた時、あなたは、いつも私と共に歩んでくださるとおっしゃいましたね。
しかし、わたしは人生のうちで もっとも苦しかった時にそこにはひと筋の足跡しかありませんでした。
私があなたを一番必要とする時に、どうしてあなたは私と一緒にいてくださらなかったのですか。
するとイエス様は答えられた。
わたしの大事な大事な子どもよ。
わたしはあなたを愛するし、わたしは決してあなたを見捨てない。
あなたの試練と受難の時に、あなたはたった一つしか、足跡を見なかったね。
それは、わたしがあなたを背負って歩いた足跡なのだ。

どうもありがとうごさいました。




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