大きな神様と小さな人間


酒井千尋兄

(吉祥寺福音集会、2013/05/12)

引用聖句:ヨブ記38章31節-32節
31あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。
32あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。

今日のテーマは「大きな神様と小さな人間」というテーマです。
旧約聖書を見ますと、主は人間に対して恵みをいっぱい下さることも多いんだけども、ある時は突然、ものすごい絶望に直面するようなことをなさるということがありますね。
旧約聖書に書いてございます。そんなに多くはないんですけど、人間が主なる神に近づきたい、主に喜ばれたいと思って努力しますが、にもかかわらず主が与えられるのは、時として絶望、試練ということがあるんですね。

その試練には2種類あるようで、1つ目は、主の圧倒的な大きさに人間が自分の小ささを身にしみて実感して、そして絶望してしまうこと。自分が小さく木っ端微塵になること、その代表は、今読んでいただきましたヨブでしょうか。
2つ目の試練は、自分がいかに努力しても、主の定められた規範に到達できないという試練、絶望です。つまり、私はどんなに努力しても、神の律法を全うできないという現実に直面して、心底自分自身に絶望しきること。こういうこともありますよね。これはダビデが代表でしょうか。
万物の創造主であり、主は圧倒的、絶対的な巨大なお方であるということを、私たちは解かっているつもりが、実は忘れている。本当にものすごく大きなお方なんですね。

それがどうしても、この集会は恵みがいっぱいだから、つい隣にいらっしゃって、ああイエス様と言う感じの方が強く出てきてしまって、本当の神様の持ってらっしゃるものすごい力、圧倒的なるものというものを、つい忘れがちになりはしないだろうかと思うのです。
主なる神は、恐ろしく巨大であり、超能力的であり、人間の認識をはるかに超えたお方です。聖書の初めに当然書いてあります。「初めに、神が天と地を創造した。」
これを読んだらもう解かりますよね。だけど僕たち普段忘れている。

近年、ハップル宇宙望遠鏡というのが宇宙に打ち上げられましてね、望遠鏡の性能がものすごく良くなりました。そうしますと、宇宙の果てまで無数の渦状星雲、びっしりと散らばっています。びっしりとですよ。
僕たち子供の頃習ったことでは、せいぜい渦状星雲というのは、銀河系が一つ、それからオリオン座にいくつかあって、どこやらにいくつかあって、まあこの宇宙で10個ぐらいかなというふうな感じで教わりました。だけども、とんでもない。渦状星雲がぎっしり詰まっている。天文学は一変してしまいました。
そして、この驚くべき宇宙を創造した存在を、私たちは神と呼ぶのです。これは逆じゃないんですね。神様は、そんなこと出来っこないよと言うんじゃないんです。造られた方を神と呼ぶんです。私たちの信仰する神というのは、そういう方です。神の創造した世界は、人間はその一端すら知ることが出来ない巨大なものです。

神は、想像を超えた存在です。人間から見れば、まさに一種独特、絶望的な隔たりがある。この関係を旧約聖書で、主ご自身が語っておられるところが、先ほど兄弟に読んでいただきました所です。

ヨブ記38:31-32
31あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。
32あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。

すばる座というと、冬にこの真上に上がってくる、とってもきれいな、モアモアとしたちっちゃいきれいな星ですよね。全天の中で最もきれいかもわかんない。そのすばる座の鎖というのは、それが並んでいる配列を解くことができるか。結びつけることができるか。
十二宮ていうのは、春、夏、秋、冬、東から登って西に沈んでいく多くの星座、その時々にしたがって引き出すことができるかと、ヨブに語りかけられたということは、お前はいったい何者なんだと仰ったんですね。
ヨブは、大変大きな試みを受けて、ここはあんまり詳しくはやっている暇がないので、ものすごく単純に飛ばしてしまいます。

ヨブは大きな試みを受けて、主に対して、その試みの理不尽さを訴えたのです。「私は、もう死んだほうがましだ。」と言ったんですね。こんな目に会うなら、死んだほうがましだ。
なぜこのような不正を受けたのか。その祈りに対して、その叫びに対して、主が嵐の中からお答えになった。ほんの一部が今読んでくださった所なんです。圧倒的な主の権威が、一方的に感動的に語られています。
ヨブは、この神のお答えに接して、自分の前に、自分がどのような存在であるか解かっちゃったんですね。ちりと灰の中で悔い改めます。

ヨブ記42:1-2、5-6
1ヨブは主に答えて言った。
2あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
5私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
6それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

これこそが、神と人間の本来の、真の関係。想像を絶した神と絶望的なまでにちっぽけな人間、そしてヨブは、主と自分の真のあり方に目が開かれて、神が望んでおられる正しい関係に立つことができました。これが、神が望んでおられる最も基本的な立場ではないでしょうか。
もちろん、僕たちイエス様大好きだし、祈れば必ず聞いてくださるし、本当にもう至れり尽くせりで、面倒を見てくださる。この辺にイエス様っていそうな、やさしいお方というふうに、本当に感じきっているけども、本来はそれぐらい隔絶したお方なんですね。
また逆に言えば、それだけ確立した神様が、私のためにどれだけ多くのことを、親身になってやってくださるか、それが解かれば、そのありがたさも、さらにさらに解かってくるのではないでしょうか。

さて、もう一つの旧約に書いてある絶望、試練は、人間が自分で、自分の隠された本質を知り、その酷さに気づき、どうあがいても神の基準に達し得ないと気がつく絶望です。
神の基準に達し得ない。これは信仰を持つとね、何ヶ月目かに来るんじゃないですか。必ず。すごく良い子になろうとしてね、教会には毎回出ますとかね、ご奉仕をいっぱいしますとか言っているうちに3日もたてば嫌になってくるんですね。
そういう本当に自分が出来ることと、人間の本質とやりたいと思うこととの間の、あまりの大きなギャップにほとほと嫌になってしまうというのが、必ずやって来るんじゃないかしら。僕もやって来ましたね。それでどうしていいのか解からないから、しばらくそのままほってあった。

その一つの例はダビデ。ダビデは、主に祝福された王でした。彼の行く所すべて強力な神の命令があり、備えがあり、支えがあり、勝利がありました。もう本当に神様と一つになっていたダビデ王。
ただですね、彼は心から主を崇め、彼に従い、主を愛し、主を頼りとしていたけれども、たった一度ですね、部下の妻を見初めて、その妻を欲しいと思い、手に入れるために、その部下を戦場に出して死なせてしまったんですね。
これはもう大変な罪です。「汝、殺すなかれ。姦淫するなかれ。」というモーセの十戒のうち2つを、もうこれ以上ないくらい完璧に破ったんですね。

ただ、ダビデはそれでも、あんまりよく気づかなかった。ちょっとぐらいはね、良心が痛んだかもしれない。それで預言者に言われて「それは、あなただ。」と言われて、そこで打ち砕かれてしまった。絶望して「ああ、私はもうダメだ。本当に申し訳ないことをした。」
この集会にも、そういう方がいらっしゃいますし、私もそれに近い経験をしたことがございます。

詩篇38:5、8
5私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。
8私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

詩篇51:14
14神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。

主は、やっぱりダビデがとっても可愛いかったのですね。神様は何といっても、大変人間が可愛いです。だから、彼の絶望と悔い改めが、真実であることを認めて、主は王の位をシオンに継承させないという罰を与えて、その罪を赦されます。
主は、何といってもダビデが可愛い。そしてそれ以後さらにダビデは主なる神と一つになります。本当にもう一体になっちゃうんですね。
ということは、一度こういう経験を経た方が、本当に神様とより近い、親しい、真実の関係に立てるんじゃないかなと思います。そして彼が言いましたのは、

詩篇62:1
1私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

「私の救いは神から来る。」そうして、あのすばらしい詩篇を全部自分で作って、そして大きな証しを残しました。あそこに書いてある信仰というのは、何も難しいことは何も書いてないんです。ただ、「主よ。助けてください。主よ。私はこんな者です。何とかしてください。」というふうな訴えが、叫びが切々と書かれているんですね。ですから、主が喜ばれたんです。
その頃の時代は、今と大きく違いました。主なる神と人間が一対一で向き合っていた。恐ろしいですね、一対一ですよ。
主なる神と彼らの間には、まだイエス様の十字架による罪の赦しがなかったのですね。モーセの十戒がドーンとあって、いろいろな律法があって、それを守るか守らないかは、直接その個人が主の前に責任を持っていた。これは大変厳しいですね。

それともう一つ。人々は、神からの命令律法、それは、「それをしなさい。」というのと「それはしてはいけません。」というのをしっかり守っているかを直接神様に問われているという、厳しい時代だったのです。
そして、旧約聖書は、超越的な神が人間に与えた律法、戒め、モーセの十戒、その他を人間がどこまで行っても、守ることができなかったということを、繰り返し記録しております。
主なる神は、長い年月を通して、人間のダメさかげんを、いやというほどお解かりになったのです。しかし、神は、そんな哀れな人間を捨て去ってしまうには、あまりにも人間を愛し、慈しんでおられました。そして、人間が救われるために、道を別に開いてくださいました。

それが2,000年前の十字架の御業です。これこそが、主なる神の人間への、これ以上ない大きな愛の証しです。主なる神は、その一人子イエス様を地上に遣わして、人類の罪のすべてをその身に負わせて、十字架につかれて、命を捨ててくださった。罪を赦すため。
僕たちいっぱい罪を犯してきましたけれども、それはすべて赦されたんです。またこれからも犯すでしょう。ですけど僕たちはまた、神様の前に「ごめんなさい。」と言って悔い改めれば、神様は赦してくださいます。
そして、イエス様による救いの時代が来ました。イエス様の救いの時代と超越的な神と、人間の関係が赦しと救いによって、新しく結び直される時代です。私たちは、先ほど見てきた旧約の絶望から解放されたんですね。もう絶望することはない。

今日、私たちは、聖書を通して十字架のゆえに、イエス・キリストから、そして父なる神からお赦しをいただいていることを知っています。
つまり神の前に、どんなに小さくても、どんなに出来が悪くても、私たちは絶望しないで立ち続けられるというお赦しを得ています。永遠に希望を持って、神の前に立ち続けられるのです。
つまり神の前の絶望はもう存在しません。イエス様を信じた時から、神の前の絶望はもう存在しません。あるのは赦しです。主なる神とイエス様は、巨大な神と小さな人間の隔たりを、ご自分の側から神様が、ご自分の側から飛び超えて、私たちの所へ来てくださいました。

主なる神の人間への愛の御手は、実際に身を持って示してくださるものです。
人間がどうしても神の基準、律法に到達できないという絶望を、十字架による罪の赦しという形で永遠に解決してくださいました。このことを明快に解き明かしているのは、エペソ人への手紙です。

エペソ人への手紙2:1-5、8-9
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

今、私たちは、このような恵みを受けているのです。
大きな主なる神が、まさに取るに足りない私たち人間を、愛を持って扱ってくださっているのです。子供にしてくださるのです。永遠のいのちをくださる。あらゆることを益としてくださる。永遠の平安を与えてくださる。永遠に主と共におられる。
そこには、どのような意味でも、もはや絶望はありません。

ペテロの手紙第I、1:3
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

絶望ではなくて、生ける望みを持つようにしてくださいました。このように私たちは、十字架による救いによって、超越的な神の前に立たされた時の恐れと、信仰上の絶望から救い出され、解放され、すべての望みを持っているのです。
神とイエス様のくださる愛によって、救い出され絶望から解放されている。それも根本的に否応なく、永久に。私たちは、それを知ってさらに神と強く結ばれます。余分なものが入り込む隙間もないほどに強く結ばれます。
大きなものと本当に小さなものとの懸隔した関係にもかかわらず、その繋がりは太く、濃く、近い、同一、一体感。そしてその体験を通った後に、私たちは、超越的な神がこの希少の小さな私ごとき者に、手を差し伸べてくださるという驚くべき恵みと愛に驚き、そのありがたみが、しみじみと解かるようになります。そうして心から喜んで、次のように告白するようになります。

ヨハネの手紙第I、4:15
15だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。




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