わたしは、戸の外に立ってたたく


酒井兄

(吉祥寺福音集会、2007/08/26)

引用聖句:ヨハネの黙示録3章16節
16このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

人間は、本来、安心して幸せに生きていくべきものです。生きていく確実な地盤に立って、生き甲斐を持って、楽しく生きていく。楽しく生きていく。そして、そのような人生は、天地創造の神様がちゃんと備えられているはずなんですね。
ところが、多くの方は、その素晴らしい世界を全くご存じない。また、せっかくの素晴らしい世界をご自分で知ろうとなされない。
なかには、見てみようとなされない。つまり、聖書が提供する素晴らしい世界を、ご自分の方から知ろうとしたがらないで、自分で目隠しをして、耳をふさいで、すべての問題を自分一人で背負って、苦しみ悩み、さびしく、とぼとぼと歩いておられる。

そんなことは全く必要のないことなんですね。
暗く寂しく、冷たく頼るものもなく、生きていく目的もなく前も見えず彷徨って生きている。それは、滅びへの道です。
それはなんと痛ましいことでしょう。聖書はそのような方々に、つぎのように呼びかけています。

ヨハネの黙示録3:17-18
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
18わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

火で精錬された金とは、一言で言うと、主にある命と言えましょう。主にある命を私から買いなさい。白い衣は、罪赦された白い衣、十字架のきよめ、贖い救い。目に塗る目薬は、神様のことば、真実が見えること。聖霊の助け。

ヨハネの黙示録3:19-20
19わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

食事をすると言うのは、心からの語らい。真の交わり

ヨハネの黙示録3:21
21勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

ヨハネの黙示録の3章の17節は、イエス様がラオデキヤの教会に向けて、語られた言葉ですが、同時に、今の時代の人々に対する心からの呼びかけでもあります。
そこにあるのは、目隠しされて人生を彷徨う人々に対する心配と思いやり、溢れるばかりの愛。呼びかけです。

さて、このような主の呼びかけに応えて主の御許に来る人々を、私たちは、救われた人々、幸せな人々と言います。ではこのような集会でよく耳にする言葉のひとつ、「救われる」「救われた」という言葉がございますが、救いとはなんでしょうか?
簡単に申し上げますと、神様が提供される新しい世界、素晴らしい世界を、素直に受け取ることであります。その世界に入ることです。
救われた状態とは、安心して幸せに、確実に生き甲斐を持って、永遠に楽しく生きていく世界に入れて頂くことです。暗闇から、光の世界へ入ることです。

では、神様に救って頂くためにはどうすれば良いのでしょうか。
まず一番大切なのは、人間が本来持っている罪を赦して頂くことが必要です。なぜかというと、実に積み深い生き物です。テレビを見て下さい。新聞を見て下さい。人ごとと思わず、自分の心をまっすぐに見てください。それが、実はどんなにひどいものであるかがわかります。
表に見えないだけなのです。なんと打算的、なんと陰険、なんと自己中心。なんと愛のないこと。ここで、もう畳んで逃げてしまいと思いますけど、そういうものなのです、人間と言うのは。そういうものを持って生まれてきているのです。

原罪と申しますと、神様の前にまっすぐに立つことができるようになるためには、この罪の問題を解決することが必要です。罪が解消されていなくてはなりません。
この罪の問題の解決は、人間の力とか、自分の力とか努力とか、修行では解決できないのです。
ですから、天地創造の神は、その一人子のイエス様を十字架につけて、命を失わせ死なせ、その血によって人間の罪を贖ってくださったのです。

イエス様が罪の身代わりの犠牲として、十字架で血を流されることによって、私たち人間のあらゆる罪を赦してくださった。解放してくださったのです。
聖書に書いてあるこのことをまず受け入れ、そしてイエス様に罪を赦されていること、イエス様の十字架を感謝し、そしてイエス様を信じる。これが救われるということなんですね。救われるということなんです。
それも、いったんこれを受け入れたら永遠に救われます。これを救いの確信と申します。これは、この集会の持っています大きな信仰の確信のひとつです。

いったん主を受け入れれば、永遠にその時から救われているというのが、私たちの立場です。
その後、イエス様に、教会にご奉仕しないといけないとか、良い行いをしないといけないとか、なにかそういうことを神様は期待してはいらっしゃらない。
ただ、ひたすらイエス様を信じ、そして、罪を悔い改め従ってくるということを期待されている。そして、それをした人は、永遠に救われています。

では、救われた人、つまりイエス様を信じると、その人はどういうふうに変えられていくのでしょう。その特徴とは、どういうものでしょうか。
いくつもありますが、最も大切な5つをあげてみましょうね。

まず、喜びがある。
イエス様を信じる者は喜びを持っています。その喜びは、この世の喜びではありません。天から来る自然に湧いてくる、心が満たされる、口では言えない喜びです。
それは、神によって愛されているという実感から来るものです。イエス様は言われました。

ヨハネ福音書15:11
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

つまり私たちが喜びに満たされるために、イエス様は、福音を伝えてくださった。

2番目は、主と語る、いつも主と一緒にいるという安心感。
安心感と言いましたが、聖書の言葉で言うと「平安」と申します。
イエス様を信じる人は、平安を持っています。平安とは、どんなにたいへんな状況にあっても、不思議に恐れや不安がない。それはどこから来るのか。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

もう、心配することは全部神様にゆだねなさい。神様があなたがたのことを心配してくださるからです。
主を信じる人は、イエス様といつもお話しすることができます。うれしいにつけ悲しいにつけ、イエス様とお話しすることができます。
お話しするということは、つまり祈るということです。心の中のものをすべてイエス様に打ち明け、そうして祈ることです。語ることです。

するとイエス様は必ず聞いてくださいます。そして答えてくださいます。
この祈るということについては「絶えず祈れ」という素晴らしいご本が、主からこの集会に与えられていますので、ぜひ一度お読みになってください。
多くの恵みがあると思います。

3番目、主は生きておられ、私たちのために最善をなしてくださる。
主は、十字架にかかって3日後、天に昇られ今も神の御座の右にいて生きて働いていてくださっています。私たちに、目を注いで祈りを聞き、すべてを最善になしてくださいます。
これも、神様の言葉をひいてみましょうね。

エレミヤ書33:3
3わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

主のお答えは、私たちの理解を超えた素晴らしい解答です。それは、キリスト集会に集っていますと、ごく普通にこの目で見ることができます。つまり、神の存在ははっきりと証明され、実感され、目で見えるのです。
ところで、神はいないと思いこんでいらっしゃる方。もし、神はいないと思いこんでいらっしゃるなら、ひとつお尋ねいたします。神は存在しないということを、証明することができるでしょうか?

4番目、心の中にイエス様が住んでおられる。救われた人に聖霊を与えられる。
イエス様を信じると、ひとりの例外もなく、主は私たちの心に聖霊をお与えになります。聖霊というとたいへんわかりにくいのですが、つまりは私たちの心の中におられるイエス様、心の中の聖書の言葉、そして、心の導き手であり助け手である。
そういう聖霊を、本人が意識するしないは別として、ちゃあんと、イエス様を信じた瞬間からくださっているのです。ここは、ヨハネの福音書14章の16節から17節がいつも引用されるところです。

ヨハネの福音書14:16-17
16父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

つまり、イエス様を信じない方は、聖霊様がどういうものかわからない。世はその方を見もせず、知りもしない。
しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

5番目、死から解放されている。イエス様を信じる者は、死の恐怖から解放されていて、永遠の命を神様から頂いています。
死ぬということは、イエス様を信じていないお方にとっては、暗闇で滅びで消滅を意味しています。それが、永遠に続くということ。そういうことであるならば、死は恐ろしくて恐いことです。
でも、イエス様は次にように言われます。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

イエス様を信じる者は死んでも生きる。ですから、死はすべての終わりではなく永遠の命のひとつの通過点にすぎません。
イエス様を信じる人の霊と魂は必ず天国に昇ります。そして、イエス様と永遠に共にいることになります。
イエス様を信じる者は、天国へ行けば先に死んだ人と必ず会えます。この希望がありますから、家族や友人の死は寂しいけれども永遠の別れではありません。必ず再会できます。

このように5つのポイントだけ簡単に、イエス様を信じる者の特徴を見て参りました。これ以外にも主が下さる喜びはいっぱいあるのですけれども、それを語っていれば何日あっても足りません。
また信じた、つまり救われた者は、救われたという確信を持っています。「私なんかダメだ。」とか「たぶん救われるだろう。」とか、いいことすれば救われるだろうとか、教会に通っていれば救われるだろうとか、不確かなことじゃないんです。
ここは、非常にはっきりとして頂きたい所なんです。

イエス様の十字架を信じた瞬間に、信じた人は一人の例外もなく永遠に救われるのです。
「私は、十字架によって罪の赦しを得た。これは、人生のすべての問題は基本的に解決されている。主が最善に解決していて下さる。もう心配はない。だから、喜びが湧き出して来る。」
これこそが救いの確信です。救われた確信です。それを持って、一生を永遠を生きていけるということは、なんと大きな喜びでしょうか。

まだイエス様を信じていない方、神様によって救われていない方に、お勧め致します。ぜひ、信じない者にならないで、信じる者になってください。そして平安で、喜びに溢れた人生を手に入れてください。
救われるためにすべきことは何か?それは、ローマ人の手紙10章9節、10節にあります。ここも、いつもいつも引用される箇所です。

ローマ人への手紙10:9-10
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

これが、天地創造の主である神が人間を救うために提供しておられる唯一の道です。どうか、あなたもこの提供されている素晴らしい世界、喜びの世界の住人になってください。
ここで終わってもいいんですけど、いつも気になっていることが実はひとつあるんです。それで、もうちょっと話しさせて欲しいのです。
とても大切なことなんです。

キリスト集会に長い間、たびたび顔を出していらっしゃる方がよくおられる。これは、姉妹よりも兄弟に多いんじゃないかなと思うのです。奥さんに付いて来て、御代田のホールに入ったり、入らなかったり...
最初は入るのが嫌だったり。車の中に、暑いのにこもってらっしゃったり。やっと、集会の中にいらっしゃる。
また地方に行きますと、集会に、おうちを提供されていて、その方は社会的にも非常に立派な方らしくて、非常に丁重に僕たちを遇して下さる。うちの集会の兄弟たちが、足下に及ばない程、愛想もいいし、にこにこされていて、人当たりも良くてね。

とても人当たりが良くて、集会の方とも仲が良い。でもはっきりと私はイエス様を信じるとおっしゃっていないんです。おっしゃっていないんでだろうなーと僕は考えるのです。
その方はもしや、こんな風に考えていらっしゃるじゃないかなと思うのです。
「私は集会にこうやって顔を出しているんだ。メッセージも聞いているんだ。ベックさんとも握手もしたんだから。みんなと仲良くしているんだから、別に私はイエス様を信じていますと態度を明確にしていなくても、永遠の命とか天国とか、話しに出てくる神様の恵みは私もきっと頂けるのだろう。」と錯覚していらっしゃるのではないかと思うのです。

はっきり申し上げますが、神様が素晴らしい世界を下さるのは、イエス様を信じた救われた人々だけです。罪を認め、告白し、イエス様に従うことを口で告白した人々だけなんです。
ここの所が、神様は非常にはっきりとしておられます。神様は、いつもあなたの心の扉を叩いておられます。
が、いつまでもたっても、受け入れたか受け入れないかはっっきりとしない人、優柔不断な方々、そういう方々は、そのままの状態では神様は、いくら素晴らしい恵みをお与えになりたくても、お与えになることはできません。

なぜって、本人がはっきりすることを拒んでいるのですから。
「はい、従います。」とはっきり神様に言っていないから。
ここで最初に読んでくださった、熱くもぬるくもないから、私はあなたを吐き出そうという言葉。いつまでたっても、いつまでたっても態度を鮮明にしない方。

ヨハネの黙示録3:16
16このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

つまり、態度を明確にしないということは、たいへんなことでしょう。神様が下さろうとしても、下さりようがない。本人が、はっきりしていないのです。
奥さんも、息子も、娘も、おじいちゃんも、おばあちゃんもみんな天国へ行きます。神様を信じてね。みんな神様の子供になっています。
だけどこの方だけは、態度が曖昧だから天国へ行けないし、恵みからはずされている。平安も、本当の命も実はないのです。これは本当に悲劇ではないでしょうか。

これを誤解していらっしゃるんだったら、私が今日言いたいのは、それをはっきりさせるのが兄弟たちの勤めではないかなと、その話しをしているのですけれども、これは本当に悲劇です。誤解していらっしゃるんだったら。悲劇は解消されなければなりません。
あなたのために、ご家族のために、お友達のために。そうして、もちろん主のために神様のために。
どうか今夜にでも、「イエス様、私はあなたを信じ従います。」と祈ってみてください。そういう態度こそがすべてのスタートです。そして、神様の素晴らしい救いを、思い切ってあなたも自分のものにして下さいますように、心からお勧め申し上げます。

「はい、信じます。」がスタートです。
そこから、考えもしなかった平安で喜びに満ちあふれた人生が始まります。




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