イエス様のやさしさきびしさ


酒井兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:ヨハネの手紙第I、3章16節
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

今日はイエス様のやさしさときびしさということで、みなさまとご一緒に聖書から学んでみたいと思います。
この中に、もしまだイエス様をご存じなくて、初めてお見えになっている方がいらっしゃいましたら、なんでこの集会に、これだけの人が日曜日の午前中にも関わらず集まっているのかなと、思われるかもしれません。
私たち自身どうして集っているのか、実はあまりよく分かりませんが、ただ一つ言えることは、イエス様のやさしさに...、ぼくたちはすごく心の中にイエス様のやさしさが響いてくるから、そのやさしさに惹かれて、私たちはこうやって集まって来、そして日々の生活をイエス様に導かれて、やっていくというふうなことではないかと思います。

今日は、イエス様のやさしさということをまず考えてみて、それからきびしさということを考えてみて、きびしいままで終わりますと、大変後味が良くございませんので、もう一度、やさしさに返って終わりにしたいと思うわけでございます。
イエス様がなぜ私たちを大好きなのか、なぜ愛しているのか。それはイエス様が本質的に大変やさしいお方であるからということが言えると思います。

聖書の中で、もっともよく典型的に出ているところを一つ挙げたいわけでございますが、これはいたるところにあるわけですけども、ルカの福音書7章の36節、ここに一人の罪深い女の話が出てまいります。
これとイエス様の対話が、そこでしばらく出てくるわけでございますが、ここから、イエス様のやさしさということをまず学んでみたいと思うわけでございます。

ルカの福音書7:36
36さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

パリサイ人というのは、みなさまよくご存じのとおり、ユダヤの徹底した律法主義者の党派で、徹底した律法の厳守を旨としていた一派でございます。
人呼びまして、当時の宗教界では上層部であり、エリートだったわけですね。大変なエリートだったんです。
このパリサイ人のひとりが、あとで出てきますが、シモンという人が、食事にイエス様を食事に招いたというところですね。

ルカの福音書7:37
37すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、

ここからの2節がすごいですね。私はここが聖書の中で本当に好きなところの一つです。

ルカの福音書7:37-38
37香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38泣きながら、イエスのうしろで

うしろですよ。前じゃないんです。うしろで、

ルカの福音書7:38
38御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

こういうふうに、罪深い女がイエス様に、涙でぬれた足を自分の髪の毛でぬぐって、そして香油を塗ったと。
ところがその上層部のエリート、パリサイ人がこれを見てこういう考えをしたわけですね。

ルカの福音書7:39
39「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

つまり批判的に見ていたわけです。
イエス様はああいう女を身近に、その・・からだをぬぐってもらっていると。しかしあの女は罪深い女だ。さばきですね。批判ですね。こういったことを、このパリサイ人シモンは考えたわけです。心ひそかに思っていた。

ルカの福音書7:40-44
40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。

このあとの4節ほどもまた、すばらしいところですね。本当にすばらしいところです。イエス様のおことばです。

ルカの福音書7:44-47
44そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

ここでイエス様の本当のやさしさというのが出るわけです。
本当のやさしさ。つまり罪深い者。そして本当にイエス様を心から愛してやさしい人。この罪深い女というのは、おそらく非常に感情的で、自分の思ったことをすぐからだで表現するような、そういう女性だったと思うのですね。

したがいまして彼女は本当に、自分が罪深い女だということを知っておりまして、そうして泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、本当の・・・何て言うんでしょうか、自分の罪の姿を、本当に悔い改めてる姿ですね。
そして髪の毛でぬぐい、御足に口づけをして、香油を塗った。愛にあふれた人。そしてやさしい人。感じるとすぐからだで表わす人。本当にイエス様を愛してる人。
しかしこの人は非常に罪が深い。逆に言えば、こういう性格ですから、よけい罪が深くなったとも言えましょうね。

ともかくイエス様は、この女を非常に愛されたわけです。律法主義のエリートのシモンなんかよりも、こういった弱い者、本当に罪に沈んでいる者、悲しんでいる者を本当にイエス様は愛された。
したがいまして、この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女は余計愛したからですというふうに仰いました。

イエス様の色々な、その・・・生きていらっしゃる、人間の形をとっていらっしゃると、色々なことを見てみますと、すべてこういったやさしさに貫かれているんです。
典型的なものは、マタイの福音書5章の3節。これはもう、今さら引用するまでもないところでございますが、イエス様がどういう人を愛されたかというのが、ここにも端的に出てきますね。

マタイの福音書5:3-7
3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
6義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
7あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

心の貧しい者というのは、心が貧しいということはつまり満ち足りていない、そういう状態の者は幸いです。
つまりイエス様はそういった本当に・・満ち足りていない者、悲しむ者、やさしい者、あわれみ深い者を本当に愛されたんですね。本当に。
もう理屈抜きに弱い者、罪深い者、貧しい者、それから苦しみ抜いている者、こういう者をイエス様は本当に愛されました。

そういったところは聖書にいっぱいございますが、今日は時間がございませんので、読みませんけれども、マルコの福音書7章の25節から、小犬の話が出てきます。
机の下の小犬でもあわれみを受けますっていう、ここもぼくは本当に好きなところで、小犬が出てくるというのは本当にイエス様がそれに対して大きなあわれみを示される、やさしさを示されるところが出てまいります。

これは、小犬が出てまいりましたから言いますけれども、イエス様のやさしさというのは、決して実は人間だけではなくて、このように生きとし生けるものすべてにわたっているんですね。
あの創世記を読みますと、動物とか植物とかは人間の支配に任されてるというところが出てきますが、イエス様は例えばルカの福音書12章の6節、本当にすてきで可愛いところが出てきてます。

ルカの福音書12:6
6五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。

いいですね。本当に好きなところですね。雀とか鳩とか色々・・・小犬とか猫とか、これはやっぱり主がお造りになられたもんですから、雀には雀の聖書がありまして、それから犬には犬の聖書があると思うんですね。

それはただぼくたちが手にしている聖書が紙で印刷されていますが、連中は紙なんか使いませんから、心のどっかにプリントされていると思うんです。主の心が。
ですから雀を見てご覧なさい。雀は本当にやさしいですよ。本当にお互い同士、つっつき合うことはあまりない。本当にやさしい。これはやっぱりその・・主がなにかを植えつけてらっしゃるせいだと。

このようにイエス様のやさしさというのは、理屈抜きで悲しむ者、それから弱っている者、それからやさしい者、あわれみ深い者、心の貧しい者に向けられます。本当にやさしいんですね。

それに対して、イエス様が大変きびしくなる、本当にきびしいことばで攻撃なさるということがあるんですね。
それはどういうことであるかというのは、マタイの福音書23章をちょっと開けていただきたいんです。
ここは飛び飛びに、本当はイエス様が、大地主さまが、あのやさしいイエス様が大変大変きびしくなるというところを見てみましょう。

マタイの福音書23:1-2
1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。

この意味は、エリートたち、モーセの律法を非常に厳守することを中心にユダヤのエリートたち、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな行ない、つまりモーセの律法はみな行ない、守りなさいと。
けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。パリサイ人たちの行ないはまねてはいけませんと、イエス様が直接仰っているんです。

その次。ここから色々出てまいります。耳が痛いです。本当にね。ですから、あの・・・ちょっときびしいことばですけども、順番にやっていきましょう。

マタイの福音書23:3-11
3彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。

マタイの福音書23:13
13人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。

マタイの福音書23:23
23十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。

マタイの福音書23:25
25杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

マタイの福音書23:28
28あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

マタイの福音書23:14
14あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。

そのほか、いっぱい書いてございます。それから、もう一つ、

ルカの福音書19:45-46
45宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
46こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

非常にきびしいですね。聖なる宮を、そのビジネスとか商売の道具にすることを非常にきびしいことばで、ここで戒めておられます。
むしろそういうものを、イエス様は徹底的に排斥なさったお方であります。

ここで出てくるのは、実は大変困った問題でございまして、私の内側には大なり小なりこれらがいずれもございます。困りましたですね。
みなさんの中にも、ここに指摘されたようなことは大なり小なり、きっとあると思いますね。私たちはつまり、そのイエス様のやさしさに従って行こうと思って、本当にやさしくなるのと同時に、こういった困ったこととの間を、両方の中間をウロウロ、ウロウロしている者ではないでしょうか。

ここでイエス様が、非常にきびしく指摘なさったものをちょっとまとめてみますと、まず、口先だけ。それから、正義がないということ。それから、なんかその・・・上席に座ったり、尊敬を集めたりということ。こういうことすべて排斥なさったわけですね。
それから思い上がる者。師とか先生と言われる者。それから、仕えない人。それから人につまずきを与える人。

献金はするけれども、正義もあわれみも誠実もおろそかにしている人。外側だけで、中身を見ると強奪と放縦の人。見かけだけの者。外側が正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱい。
それから、見栄のために、なにかそういうことをする人。みたいな者については・・・、

マタイの福音書23:38-39
38見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
39あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

こういうふうに、やさしいイエス様が、同時に大変きびしい態度を取られるということを、私たちはここに学ぶことができるわけです。
ここで、このままではあまりにも、「あっ痛〜。」ということで、もう本当に打ちひしがれて、「どうしましょう?」ということになりますから、もう一度イエス様のやさしさに戻っていこうと思うわけでございます。

イエス様のやさしさの本質は、あわれみにあるんですね。あわれみ。やさしさ。
本当に、私たちをあわれんでくださる。しかしそれは単にやさしいだけではない。
それは、私たちがやさしさと言うと、つい、なんか困っている人に手を差し伸べて、横にいて、それで「大変だったわねぇ。」とか、「元気をお出しなさい。」とか、そういうことがやさしさだと感じますが、肉にあるやさしさというのは、これはやさしさのうちではそのごく一部分なんですね。

それは一時の慰めになるかもしれませんが、本質的な慰めにはなり得ません。
本当のやさしさというのは、主にある、霊にあるやさしさ。それは一時の慰めではなくて、永遠のものであって、そして主にある永遠のもの。そういったもの。
そのやさしさ。永遠のいのちへと導いていく、こういったやさしさが本当のやさしさであろうと思います。

それで、やさしさと言いますと、ヒューマニズムが思い浮かぶと思うんですね。
私たちはかつて、やさしさ、ヒューマニズムと言うと何を思い浮かべますか?
『雨ニモマケズ風ニモマケズ』じゃないですか?

ぼくは宮沢賢治のそれを、今日実は持って来たんです。これ、なかなか、学校の教科書で読んだぐらいみなさんあると思うんですけど、実際これ探すとなると大変なところで、これを読んで・・・口頭的に読むんじゃないですよ、このことをすこし考えてみたいと思うんです。

宮沢賢治は、この『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』というのを、人生の一番最後に書いたんですね。
彼は、あらゆることに挫折を重ね、なんかユートピアを夢見て、農民運動とか、そういうことにすべてもう本当に懸命に努力し、努力し、努力し、努力して最後に出てきたところが、自分は肺を病んで、そうして死ぬために郷里に帰って、自分の死期を感じて、死ぬために郷里に帰って、そこで書いた詩なんです。

つまりこの詩は、決してぼくたちが学校で学んだように、なんかこういう、ヒューマニズムの、「こういう人に私はなりたい。」って、これ、若い賢治が書いたんだったら良いんですよ、二十歳くらいの。そうじゃない。
この人は人生の最後に、『ソウイウモノニワタシハナリタイ!』って言ったんです。つまり、なれなかったんです。
これは、彼の挫折の詩なんです。

本当に人生の最後まで来て、「こういうものになりたい!」と言って、なれなかったという意味でこれを読みますから、聴いていただきたい。
彼は法華経を信じていました。そうして、・・・ここに『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』とありますけども、これは本当に、自分の体がボロボロになって、雨にも負けず、風にも負けない人間になりたいなー!っていうことなんですね。
以下全部そうなんです。最後に、『ソウイウモノニワタシハナリタイ』、ついになれなかった。一生私の人生は挫折だったということがここに書いてあるわけです。

「十一月三日。」、これがタイトルです。日記に書いてあるんですね。

『雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
慾はなく決して瞋らず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の蔭の
小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいヾと言い

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないから止めろと言い

一人のときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにデクノ坊と呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい』

これが賢治の、挫折の最後の姿です。そうして絶筆を読みます。短歌です。
『病(イタツキ)のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし』
ただ秋に死ぬということだけを嬉からまし。これが、あの宮沢賢治の一生の結論であります。

私は、もし宮沢賢治が生きていれば、「絶えず祈れ」と「光よあれ」を持って、「あなた、そこから人生が始まるんですよ!」とこう言ってね、渡してあげたら本当にいいなと思います。
だってこの痛みというのは、私たちによく分かる痛みでしょ?本当の挫折なんですね。これがヒューマニズム、やさしさの終着駅なんです。この中に書いてあります。

東に病気の子供があれば行って看病して、南に死にそうな人がいれば行って怖がらなくてもいい!こんなことが、慰めになりますか?慰めにならないでしょ?
これはヒューマニズムの限界なんですよ。
もし私たちは、イエス様に救われたら、「あなた今苦しんでるでしょうけど、もっともっとすばらしいところ、行くんですよ。」と。「そこであなたはイエス様の横で永遠のすばらしい時を過ごすんですよ。」って力づけてあげられるでしょ?

横にいて、「怖がらなくていい。」なんて、そんなこと言われて、怖がらない人がいますかね。
しかも、これでさえ賢治はなり得なかったんですね。これはヒューマニズムの終着駅でございます。
これに対してましてもう一つ、詩でお話が始まりましたが、本当に救われた詩人、これがどういうふうに詠っているかっていう、短い詩ですから・・ちょっと読んでみますね。

これは、自分の可愛い娘に対して詠んだ詩ですね。八木重吉です。みなさんよくご存知だと思いますけど。「花」という題です。

おとなしくしていると花々が咲くのねって桃子が言う

これで終わりなんです。もう一つ、

「光る人」

私をもぐらせてしまい
そこのところへ光るような人を
立たせたい

本当にすばらしいでしょ?私でなくキリストっていうことですね。

それから同じく八木重吉の絶筆を詠みますよね。実は絶筆の一つ手前です。「雨」という題です。これも短い詩です。

雨の音が聞こえる雨が降っていたのだ
雨音のようにそっと世のために働いていよう
雨が上がるように静かに死んでいこう

同じ日本人です。やはりどちらも日本人ですから、共通点があるんです。
ですけども、本当にイエス様を信じて、心に平安をもって死ぬということが、一時の通過地点に過ぎない人。これが八木重吉ですね。

私をもぐらせてしまいそこのところへ光るような人を立たせたい、と詠うんですから、完全にもう自己を超越して自己の、何て言うんですか、自己否定、私でなくキリストというところに立ってる。そういうことなんですね。

ここをなぜ私が引用したかと言いますと、本題に戻りますけども、イエス様のやさしさの本質というのは、決して賢治が言うような、その病める人の横にいて、怖がらなくてもいいと言うというヒューマニズムじゃないんです。
決してそうじゃないんです。そんな生やさしいやさしさじゃないんです。

イエス様のやさしさというのは、その霊にあるやさしさ。
そして本当に私たちを救って罪を赦してくださって、そうして救ってくださって、十字架についてくださって私たちの罪を全部洗い流してくださって、そうして主にある永遠のいのちへと導いてくださって、そうして死ぬことなんか怖くなくしてくださって、そうして、いつまでもわたしはあなたを決して離さないという、愛の世界に抱き取ってくださるというやさしさなんですね。

つまりイエス様のやさしさというのは、すべての人を本当に幸せにする。それは霊的であり、それから超時間的です。一時のものではありません。
本当の意味で幸せにしてくださるということで・・・

ヨハネの手紙第I、3:16
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

やさしさの極致ですね。やさしさの最後の最後。自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。
つまりここで、いのちを捨てるということはどういうことかと言いますと、なにも、例えば、ハイジャックされた飛行機に、友だちの身代わりになって乗り込んで行って、友だちを解放するとか、それから、車が飛び込んでくるときに、子どもの身代わりになってパッと前へ出て自分がやられて、その・・・ということも、もちろんあるかもしれませんけれど、いのちを捨てるということは、先ほど八木重吉が詠みましたとおり、私をもぐらせてしまいそこのところへ光のような人を立たせたい、これなんですね。

本当に自分の一生を捨ててしまいなさい。兄弟姉妹のために、つまり、私たち救われたその喜びのために、そういった自分のいのちなんか捨ててしまうべきです。そういうふうに仰ってるわけですね。
・・と言ってるのは、これは・・・ヨハネですね。ごめんなさい。イエス様じゃありません。

ヨハネの手紙第I、3:16-22
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
19それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
20たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
21愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

主のご栄光のために、求めるものは何でもいただけるというお約束です。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
この愛し合うという意味は、肉にある愛し合うではありません。主にある、霊にある、主にある愛し合うということですね。
ですから、イエス様のやさしさの本質というのは、ひとり残らず、一時の慰めでなくて、永遠のしあわせに導くということではないでしょうか。

ですから私たちは、このやさしいイエス様について行く。行きたい。どうしてもついて行かざるを得ない。
本当に私たちは、イエス様の十字架のみわざに比べて愛が少ない者であるということが本当に分かりますね。

それからやさしさというのは、自分の苦しみよりも、相手の苦しみに目を向けること。そばにいることを第一にすること。それにもまして、やさしさ、永遠のもの、救いへと導く、主にある永遠のいのちに導く。
そこまでが本当の意味のやさしさではないでしょうか。
私たちも、主にあって本当の意味でやさしい者でありたいと思います。

最後に、

ヨハネの手紙第I、4:7-12
7愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
12いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

ありがとうございました。




戻る