イエス様の優しい呼びかけ


酒井兄

(御代田喜びの集い、2006/08/05)

引用聖句:イザヤ書43章1節
1だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

イザヤ書43:4
4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

まだイエス様をご存じない方のために、少しお話をさせてください。
生きていくということは、本当に頼りない、不安で孤独なことではないでしょうか。
特にイエス様を知らないで生きていくということは、本当に不安で頼りなくて、誰しも骨を噛むような痛みと孤独と不安を心の底に持っているのではないでしょうか。人には決して見せません。

友だちや家族といる時は陽気に振る舞っていても、独りになると本当に孤独です。孤独というのは言い換えると、頼りなさ、不安、寂しさ、うつろ、むなしさ。この寂しさはいったいどこから来るのでしょうか。
たった一人で郷里から出て来て、働いて、食べてらっしゃる若い方。本当に大変だと思うのです。大変だと思うのです。よって立つところがまだ確立していない。それであらゆる大人に問題が、大人の問題が降りかかってくる。それをたったわずかな自分一人の力で耐えて、頑張って、頑張ってやっていくというのは、本当に大変です。
大変です。本当に大変だと思う。これを一人で背負えるかどうか、という問題があると思うのです。

中年で、「仕事しかない。」という方もいらっしゃいます。仲間と仲良くやっていて、ゴルフをやったり、夜、飲みに行ったり、お得意さんと仲良くしたり。
自分はとっても幸せな環境にいると思うけれども、一旦転勤し、または定年になった途端に、そういったものは影も形もなく吹っ飛んでしまいます。
つまり人間というのは、そこまで人に気持ちを委ねるということはもう無い。現代では無いのです。ですからそういったものに何か自分の安心、喜びみたいなものを置いて生活して来た人は、仕事から離れた途端にガックリとくる。いったい自分は何のために仕事をしてきたのだろう。自分はいったい、どうして今、この地点にあるのだろう。みんなどこへ行ってしまったのだろう。

家庭にいる奥様も奥様で、これまた色んな問題がありまして、例えば、ご主人は仕事へ行ったきりでほっぱらかって、およそ相談に乗ってくれない。
それから、家には口やかましい姑さんがいて、事ごとに顔色を見てやるのであって、もうやってられない。
姑さんも姑さんで、「うちの嫁はともかく勝手な者で。」とか。やっぱりお互いに親が違うのだから考え方も違う。そういう問題がいっぱいでございまして、とどのつまり、自分一人で解決することなど何一つ無い。

仕事などでもよし、これは自分の力でやった、と思うかもしれないけれど、それは単に運がいいか、たまたま会社の力があったか、そういった程度のことでございまして、自分の力というのは、本当に何も無いということを早く気が付けばいいのですけれども、歳を取ってから気が付くというのは非常に困ります。困ります。
それに、このようなことを色々経験していく、生きていく上の痛み、孤独、むなしさ、不安、寂しさ。これはみんな持っている。私たちも救われる前も持っていたし、今も持っています。私たちも持っています。
ただ、私たちはイエス様といっしょなのです。だから随分違う。ただ自分一人で立っている方というのは、自分で全部やらなければいけない。これはたまらない。死ぬ前にどうなりますか?死ぬ前に。

ぼくの姉は頑固に、30年間イエス様を拒み続けてきました。「私はそんなもの必要無いのよ。」、「私は死ぬのは平気なのよ。」と言っていました。
だけども、本当にダメだと分かった時、姉は追い詰められた獣のような、そういった状態になりました。
意識が戻る3日前にぼくは、そこで聖書のみことばだけを伝えたのです。聖書のみことばだけを伝えた。ぼくが何か言って・・・、弟の言うことを大体馬鹿にしているから、聞くような姉ではないのです、

「これは、ぼくではないよ。聖書に書いてあるんだよ。読むからね。」と言って、永遠のいのち、主の愛、そういったことを読んでいきました。
そして3日前にイエス様を信じることができました。最後のチャンス。最後のチャンスに間に合いました。
それまでの姉の生活を見ても、やっぱり自分で何とかしようと。お医者さんと何とかしよう。医学で出来ることって、本当に限られているのです。

その痛み、孤独、むなしさ。そういったことをいっぱい味わっていくのが、この世の人生です。
そしてこの世の痛みが大きければ大きいほど、苦しみが多ければ多いほど、実際、その方は大きな幸せのすぐそばにいる方なのです。
非常に大きな幸せのすぐそばにいる方なのです。実は、こういう方こそ、すばらしい幸せのすぐ横にいる方なのです。

心の痛み、それから孤独、不安、ひとりぼっち、心細さの原因とは何でしょうか。それはただ一つ。あなたがイエス様を知らない。イエス様を知らない。神様を知らないというところから来ています。
あなたさまは、イエス様に本当に愛されているということをご存知ないので、寂しくて、孤独で、むなしくなる。
イエス様を知っておられる方は、かつてそのような苦しみの中にもがき続けて、脱出して来ました。そして、不安も孤独も心細さも心の痛みも持っているにも関わらず、いつもイエス様といっしょだから、本当の愛と安心と希望を持っている。それも、本当に静かに持っているのです。

今日は、まだイエス様のことをよくご存じない方、たまたまここに、どういうわけか・・・ぼくらから言えば神様の力でここに来ていらっしゃる。
この中に何人いらっしゃるかは、私は存じ上げません。一人だけかもしれない。3人はいらっしゃるかもしれない。もっといらっしゃるかもしれない。私は存じ上げませんが、その方へのイエス様の優しい呼びかけを、七つ、聖書から見てみましょう。
たくさんやってもしょうがないからね。その気になれば、100や200あるのです。聖書全体がそうですから。1,000や2,000あるのです。それは、あなたをここに連れて来られた方に聞いてごらんになるといい。周りの方に聞いてごらんになるといい。今日挙げるのは七つです。

しかしわたしは、神様、イエス様は、「わたしはあなたを愛しているよ。寂しがることも、不安がることもない。わたしがいるのだから。」と、仰ってくださいます。きっとあなたもイエス様の声を聞いて、心の底から温かくなるでしょう。
七つのみことばの紹介に入っていきますけれども、まず、神様のあなたへの呼びかけの第一番目は、聖書の神様はあなたを愛しておられるということです。
聖書には次のようにあります。エレミヤ書31章の3節。ここはリンデにもありますよね。

エレミヤ書31:3
3永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

この、「わたし」というのは神様です。神様はあなたに、誠実を尽くし続けた。神様のがわは、いつも誠実に、私たちに目を注いで愛してくださいます。私たちが知らないで、背中を向けているのです。主はいつも誠実です。
別のところには、「わたし、主は、生まれる前からあなたの名前を刻んだ。」とあります。神様はあなたが大好き。大きな喜びなのです。喜びなのです。しょげててはいけない。あなたはとっても大きな主の喜び。私たちはいつも神様に愛されていますから、どんな時でも安心。孤独ではない。
人はわたしを捨ててゆく。だけれども主は、誠実を尽くし続けられる。愛されているから安心。囲まれているから安心。

第二番目。イエス様を信じる者は、神様の子とされます。ヨハネの福音書1章の12節。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、

つまり、イエス様を受け入れた人々、

ヨハネの福音書1:12
12すなわち、その名

イエス様の名

ヨハネの福音書1:12
12を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

条件はただ一つ。イエス様を受け入れて、その名を信じた人。その途端に神様の子どもになっている。聖書に書いてあるから真実。単純です。信仰というのは単純です。聖書というものは単純です。
イエス様のもとに来た人は、信じた人は、神の子どもです。ですから、いつも主の慈しみと愛の中にいます。母親のように。母親以上に与えられる愛。無償の愛の中にいます。
それは、神様がくださる無条件の愛なのです。無条件なのです。何かしなければいけない、というわけではないのです。無償の愛なのです。これが人間の愛と違うところなのです。

第三番目。イエス様の愛は、いのちを捨てるほどの愛です。私たちのためにいのちを捨てるほどの愛です。
ペテロの手紙第Iの2章の24節。

ペテロの手紙第I、2:24
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。

これはイエス様のことです。

ペテロの手紙第I、2:24
24それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

イエス様は罪も無いのに十字架について血を流し、その尊い血によって私たちの本来持っている罪、罪の性質を洗い流して、赦し、救い出してくださったのです。
尊いご自分の血に代えて、寂しい、頼りない、おののくあなたをご自分のものにしてくださったのです。
イエス様のあなたへの愛は、ご自身のいのちを捨てられるほどの愛です。

終戦記念日がやってまいります。私たちの先輩というのか、ぼくは終戦の時、小学校四年でした。そこからもう少し上の人というのは、全部戦争にかり出された。そして日本の国のバックアップも何も無しで外地に放り出されて、本当に飢え死にをしたのです。
飢え死にをする寸前まで行くと、現地の人から物を盗る。それから、現地の人の女性に乱暴をする。もう、あらゆる悪事をやり尽くしたのです。
これは本当に恐ろしいことですよ。人間というのは、私たち日本人というのは、本当に恐ろしい。猛獣以上の存在です。

これらの現在、私たちはたまたま今、この平和な時代に生きているから、そういう事態を見せないです。だけど、本当に自分の命が脅かされるというところにいけば、平気でどんなことでもやる者なのです。
そういった罪というのは、一体だれが赦してくれるでしょうか。多くの人を殺してきた。上官の命令で。また、ご婦人方だと、家を追われ、赤ちゃんを胸に抱いてさまよってきた。そして子どもがギャーっと泣くと発見されるから、そのお母さんは自分の乳房で自分の子どもを窒息死させて死なせた。
その人たちが持っている心の痛みというのは、一体だれが赦してくれるでしょうか。だれが赦してくれるでしょうか。決して赦されることではない。ただ、イエス様はその身代わりとなって十字架に架かって、その罪を全部赦してくださった。そうです。すばらしい方。

女性の中には、幼い生命を処置した方もいらっしゃると思う。これも殺人罪です。
この罪は、一体自分でも許せない。気になっている。いくつになっての気になっている。
これを赦してくださるのはイエス様。自分の血を流して、いのちを捨ててくださった十字架。それだけです。これがイエス様の愛であり、私たちの救いです。

第四番目。イエス様はいつもあなたを愛して、見つめておられる。そして、いつもあなたとともにいて、背負い、運んでくださるのです。
イザヤ書43章1節と4節の、もう一度ポイントだけちょっと読みましょう。

イザヤ書43:1
1わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

「わたし」というのは神様。天地創造の神様。
ぼくだったら、「千尋、おまえはわたしのものだよ。」、ここへ全部ご自身の名前を当てはめてごらんになると、すごくいいのです。
特に未信者の方。花子さんなら、花子さん。「花子、わたしはあなたの名を呼んだよ。あなたはわたしのものだよ。」

イザヤ書43:4
4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

さらに、イザヤ書の46章の4節では、年配の方には大変嬉しいことばが書いてございます。

イザヤ書46:4
4あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

しらがになっても運ぶ。いくつになっても運ぶ。また、本当に天に召されるその時も、背負って運んでくださります。
このちょっと前には、あなたが若いときから私は運んで来たのだよ。フットステップという、素敵な詩があります。ここで紹介している暇はありませんから、お近くの方に是非聞いてごらんなさい。
イエス様、主は私たちを背負って運んでくださる。これは本当に実感なのです。

第五番目。イエス様は疲れたあなたを休ませてくださる。
もう本当に疲れ果ててここに来ていらっしゃると思うのです。この世の中はメチャクチャですからね、今。会社の仕事なんて、本当にもう殺人的です。さもなければ、病気、それから倒産、失業。もうあらゆる不幸が身にふりかかってきます。
そうした人にイエス様は、

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

また、ペテロの手紙第Iの5章の7節には、こういうことも仰っているのです。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

どうか、苦しみを持ってここへ来られた方、このひとことだけでも覚えて帰ってください。

ペテロの手紙第I、5:7
7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

思い煩いを、いっさい神にゆだねますと、神様が心配して、最もいい時に、最もいい方法で、不思議な方法で解決してくださいます。
この実例は私たちの周囲に、それこそ山とあります。この周囲の方に聞いてごらんなさい。どなたも幾つかは語ってくださると思う。
もしくは、一年ぐらいこの集会に時々顔をお出しになれば、目の前で、それが目に見える形で出てきますから、それを信じることができます。

第六番目。神様はあなたの祈りを必ず聞いてくださる。マタイの福音書18章の19節。

マタイの福音書18:19-20
19もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

祈りというのは何も改まって、宗教的な行事でやるものでは決してありません。仏教のようにお坊さんを呼んで来て、みんなで手を合わせて、という、そういうものではありません。これは、生きている主、生きている神様との親しいお話なのです。
あるときは悲しい愚痴。それから、あるときは喜び。その全てをイエス様に話し、イエス様と分かつことです。これが祈りです。
ということは、当然多くのことを主にお願いする。主の名によって祈る、と。

これも言い出すと、ちょっと難しくなるのですが、何でもいいのです。ともかく片っ端から、「イエス様、お願い。」と言って、天に放り上げればいいのです。
下手に考えるより、そのほうが手っ取り早い。人間の力なんか知れている。もしくはゼロ。
だけど、何かそういう相談を受けたり、自分がそういう立場になったらすぐ、「イエス様、こうなっています。助けてください。」、これが祈りです。

どんな人でも、もうこの飛行機が落ちるという時には祈ります。「神様、助けてください。」って祈るのです。
そこまで行くまでに、早く自分の力を知っていただきたいと思うのです。どん詰まりのどん詰まりに行くまでに、早くそれを気が付けば、それだけあなたは幸せになれる。
祈りとは、あなたの心をただそのまま神様の前に差し出すことです。そこからイエス様との本当にすばらしい関係が生まれてきます。

第七番目。イエス様の愛は永遠に変わることのない、地上でも天国でもそういう愛です。ヨハネの福音書10章の28節。

ヨハネの福音書10:28
28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

つまり、地上にいようが天国にいようが、絶対にイエス様といっしょにいるというお約束なのです。彼らを奪い去るようなことはさせない。滅びることはない。
この神様の私たちへの愛は、この地上にいるときも、死んで天国に昇ってからも、いつまでも変わりません。私たちはイエス様とともに永遠に天の御国にいることになります。死は終わりではありません。
この中でご病気で、大変重いご病気の方、死は終わりではありません。それに、いずれ私たちはみんな天国に行くのです。ここにいるイエス様を信じている人は。いずれ天の御国で私たちは全部再会するのです。それは何と楽しみでしょう。

このように、神様の私たちへの愛、これを七つだけ紹介しましたけれども、これは単なる理屈とか、教えとか、空想とか、概念とか、といったものではない。
ひとたびイエス様を知って受け入れれば、信じて受け入れれば、どこでも、昼も夜も、心で、肌で、本当にひしひしと感じられるものです。現実にちゃんと実在するものです。
この神様の愛は、あなたにも是非知っていただきたいと、みんな心から思っているのです。あなたがイエス様に、心から愛されているということを知っていただきたいと思うのです。体験していただきたい。

イエス様はいつも私を愛し、見つめていてくださる。子どもとしていてくださる。永遠にイエス様とともに私たちはいられる。
このことを知れば、もはやあなたは痛みや孤独や寂しさの中から解放されます。
どんな大きな問題であっても、全能の主イエス様がいつも横にいてくださるのだから、何の心配があるでしょう。何の寂しさがあるでしょう。何の心を痛めることがあるでしょう。

では、最後に、このイエス様を、どうすればいいのだ。イエス様をもっと知ってみたい。だけど、どうすればそうなるの?イエス様の愛を受け入れるためにどうすればいいのか。それは本当に簡単です。こういうことを口に出して言えばいいのです。

「『イエス様。私はあなたが私を愛してくださる。』そういうことを今まで全く知りませんでした。本当にありがとうございます。
今までイエス様に背中を向けてきました。けれども、ごめんなさい。これからはあなた様の愛を受け入れて、あなたを信じて生きていきたいと思います。
よろしくお願いします。」と。
言葉なんかは、どうでもいい。そういう意味のことをイエス様に直接申し上げてくだされば、それだけでいいのです。

ローマ人への手紙10:10
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

と、ローマ人への手紙10章10節にあります。そして、その瞬間から、考えもしなかった素晴らしい世界が広がっていきます。それは本当に素晴らしい世界。
私たち、ここに集まっている者は、みんなその中にいるのです。本当に素晴らしい世界なのです。だから、あなたにも入って来ていただきたい。
だけど、ドアを開けなければ、素晴らしい花園に入って行くことはできない。だからどうか心を、ドアを開けてください。イエス様に対して心を、ドアを開けて、「どうぞイエス様、入ってください。」

イエス様自身はこう仰っておられるのです。あなたへの呼びかけ。ただ、あなたへの呼びかけです。
「信じない者にならないで。わたしを信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」これは、ヨハネの福音書20章の27節の後半です。




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