引用聖句:詩篇39篇4節-13節
信仰の先輩である、さる高名なキリスト者は、次のように言っているんですね。 「人間が主なる神の前に取れる唯一の真実とは、『私は罪びとです。』という正直な告白だけだ。」と。 人間が神様の前で取れる唯一真実な態度は、「私は罪びとです。」という告白だけだということです。 今、読まれた詩篇39篇を書いた、3,000年前の世界を支配したダビデという王様も、この、人が主なる神の前に取れる唯一の真実をもって、ここで主の前に出ております。なぜなら、ダビデは8節で 詩篇39:8
私は罪人です、惨めな哀れな者ですという、正直な悔い改めの祈りをもって、主の前に出ているからであります。更に9節で 詩篇39:9
と、ダビデは祈ることができました。主なる神への完全な従順と、服従を意味しています。そして12節で王、ダビデは 詩篇39:12
と、完全な信頼を持って、祈り出ているからであります。 この詩篇を書いたときに、ダビデはもう年老いていて、恐らく死を目前にした状態であったようです。しかし、このときにおいてなお、ダビデは主なる神の前に正直に、悔い改めの祈りをしております。 すべてを主なる神の御手から受け取ることができ、そして主なる神に、完全に信頼する信仰の希望を持って祈り出ているのであります。 詩篇39編は、ダビデという世界一の王でありながら、一人の信仰者だった者の正に、「私は罪人です。」という正直な告白であります。悔い改めの祈りそのものであります。 老境にあって、死を前にした人生のむなしさ、命のはかなさ、信仰者でありながら罪、過ちを繰り返してしまう惨めさ、失敗と挫折の半生、ここに主なる神によって無力にされた者の、魂の叫びがあります。 しかし、このダビデの祈りに対して、すべての答えがもうすでに与えられているのを私たちは知ります。なぜなら、ダビデは7節で 詩篇39:7
と、はっきり祈ることができたからであります。 ダビデという名前の意味は「愛される者」です。ダビデはこの名前の通り、主なる神によって豊かに祝福され、豊かに愛され、そして多くの恵みに与り、主の祝福を一身に受けた者であると、旧約聖書を見るとよく分かります。 サムエル記第I、16:1
サムエル記第I、16:11
ダビデのことですね、 サムエル記第I、16:11-12
祝福しろ、という意味です。 サムエル記第I、16:12-13
名もない貧しい羊飼いの少年ダビデは、主なる神の約束によって、祝福によって、イスラエルの王とされたのであります。大変な祝福であります。 そして、信仰者としてのダビデの心情とは、「わたしは自分の道に気をつけよう。」と、いうものでした。すなわち、「いつも、主の側にいよう。いつも、主のみことばの下にいよう。」と、いう主なる神への忠実と従順によって、ダビデは意識して主なる神から決して離れない、ということを彼の生活の根本に置いたのであります。 しかし、主なる神の約束通り、祝福通り、サウルの後を継いで王となったダビデは結局、その権力と傲慢によって、主の言葉をさげすむ者となりました。すなわち、みことばから離れたんです。 それは主への忠実と従順を忘れ去ることとなりました。結果として、主の側から離れてしまったということです。 聖書は主から離れることを罪と言います。 結局、ダビデは罪を犯す者となったのであります。主なる神によって大いに祝福され、世界一の王とされ、たくさんの恵みをいただいたにもかかわらず、その祝福の頂点において、ダビデは結局罪を犯したと、旧約聖書は記しております。 サムエル記第II、12:7-8
大変な祝福ですね。 サムエル記第II、12:9-14
預言者ナタンを通して、主なる神によるダビデの犯した罪の告発であります。 ダビデは自分の部下である、ヘテ人ウリヤの妻バテシバと姦淫をし、それをそれを正当化するために、バテシバの夫であるウリヤを、戦いの最前線に出して殺害してしまいます。 ダビデのように、主なる神によって、祝福された信仰者であったとしても、結局得意の絶頂にあり、権力を持ち、そして主のみことばをさげすみ、主から離れるとこのようなとんでもない罪を犯してしまう、ということです。 自分の意思と欲望を第一とした結果、主なる神からダビデは離れ、おぞましい罪を犯してしまいました。聖書はそのことを、克明に記したのであります。 人は罪に生きたとき、その結果は主の祝福が取られるということです。聖書は人間の幸せとは、万物の創造主なる主の祝福だけだと断言しています。 主の祝福を失ったダビデには、次々と災いと不幸が襲います。まず、あのバテシバが生んだダビデの最初の子どもは、ナタンの予告通り死にます。そして、次にダビデの息子のアムロンによる、娘タマルへの強姦という近親相姦の悲劇がダビデとその家族に襲いかかります。 サムエル記第II、13:10-15
さらに、この事実を知ったアムロンの兄である、ダビデの長兄アビシャロムは、それゆえに弟アムロンを殺してしまいます。近親相姦の後に、ダビデとその家族には、尊属殺人という惨劇がふりかかったのであります。 サムエル記第II、13:28-30
考えられない惨劇であります。そして、このアブシャロムは、ダビデがだれよりも愛した長兄のアブシャロムは、父である王ダビデに反逆します。アブシャロムはダビデを殺そうといたします。 サムエル記第II、18:32
ダビデは、 サムエル記第II、18:32-33
父、ダビデに反逆したアブシャロムは、ダビデ王の部下によって殺されました。そのことを知ったときに、33節で、ダビデは慟哭します。聖書の中でもっとも悲しい場面と言われているところです。不幸とか、悲劇とか呼べないような想像を絶する惨劇がダビデとその家族に襲いかかったのであります。 主なる神に祝福され続けた者が、主なる神から離れて、罪に生きた結果の、主なる神の祝福の対極にある呪いの凄まじさが、主に愛される者と名づけられたあの信仰者ダビデと、その家族の上にふりかかったのであります。聖書はそのことを、このように記録しております。 しかし、人生の途上において、ダビデは自ら犯した罪、過ちのゆえに、すなわち信仰の破産ゆえに、彼は自我を粉々にくだかれました。それ以来、ダビデは日々、悔い改めの祈りをする者と変えられたのであります。 あの罪を犯して、罪の結果、主なる神の祝福を取られて、考えられないような悲劇に遭遇して、それからのダビデは毎日主の前に悔い改めの祈りをする者と変えられました。 すなわち、いつもダビデの祈りの最初は、「私は罪人です。こんな惨めな、哀れな私を主よ、どうか、憐れんでください。」という祈りで始まる悔い改めの祈りをする者とされたのであります。 このような悲劇の後も、ダビデは尚、当時最高の詩人でした。もっとも優秀な哲学者でありました。たくさんの歌を作った歌人でもあります。そして、ダビデは何にも増して卓越した軍人でありました。彼に敵う軍人は当時いなかったんです。そして、成功した政治家でありました。 しかし、そのような世界一の王でありながら、ダビデは毎日、「私のすべての背きの罪から 、私を助け出してください。」と、悔い改めの祈りをする者とされたのであります。 さらにダビデは、「私は黙し、口を開きません。あなたがそうなさったからです。」と祈ることができました。毎日、毎日祈り得たのです。意味は、「すべてあなたの御手から受け取ります。」、ということです。 詩篇の109篇の4節。4節の後半、短いひと文章です。 詩篇109:4
と、ダビデは書いております。意味は私は祈りそのものです。この聖句こそ、ダビデの信仰者のしての、生涯の証しとなりました。 聖書の中には、詩篇は全部で150篇書かれております。その内の実に半数近く、73篇はこのダビデによって書かれたのであります。 兄弟姉妹は経験あると思いますけれども、いろんな問題で、ベック兄に相談に行った時に、ベック兄は大概の場合は、「詩篇を読んで静まっていなさい。」と言われます。 結局、私たちが途方にくれた時、孤独に泣く時、理不尽な迫害に遭う時、故なき攻撃に晒される時、苦しみ悲しみ絶望した時、祈ることさえできなくなった時に、「詩篇を読んで静かにしなさ。」という勧めの意味は、このダビデの祈りにあるからです。 「私は祈るばかりです。」、と言い得たダビデのこの悔い改めの祈りに、その秘訣があるからなんですね。 罪とがゆえに、主なる神の祝福を一時的に剥奪された、世界一の王ダビデ。彼はその時、信仰の破綻者でもありました。しかし、信仰の破綻者ダビデは、その時から毎日、悔い改めの祈りをすることができるようになったのであります。 その結果とは、主なる神の呪いではなく、祝福の回復でした。ダビデは、今言いいましたように、詩篇の半分近くを通して、今に至るまで、福音の大いなる伝道者であります。ダビデを通して、信じる者たちもまた、励まされます。 実生活においては、あの姦淫の妻バテシバが生んだソロモンによって、ダビデはこの世的にも大いに祝福されました。 そして、何よりもダビデの祝福の最大なものは、あのダビデの家系から、千年ののちに、私たちの主イエス・キリストが生まれたということです。このような祝福をダビデは受ける者となりました。どうしてでしょうか。理由はひとつです。 ダビデは「私は罪人です。」という祈りをもって、日々、主の前に悔い改めの祈りをすることができたからであります。ダビデは詩篇の中で、次のようにうたっております。 詩篇130:3-5
詩篇30:4-5
ダビデはいたるところで、このように感謝と賛美のうたを歌うことができました。 結局彼の犯した罪は、赦されているという確信です。それゆえに賛美と感謝のうたを歌うことができました。悔い改めの祈りの結果として、私たちもまた、ダビデのように、主なる神への感謝と賛美のうたを歌うことができるようになる、と聖書は言っているのです。 「私は祈るばかりです。」とダビデは言いました。結局祈りとは、結果として「自己否定」を意味します。この自己否定こそ、主なる神の祝福にあずかる最良の秘訣であります。そして、あの主なる神からいただいた、「初めの愛」に立ち返ることを意味するのであります。 聖書全編を見るとよくわかりますけれども、未信者だけでなく、信じる者もまた、罪、過ちを犯す。失敗と挫折を繰り返す、ということです。霊的に破産し、信仰の破綻に陥ることがある、という事実です。 しかしそのような試練と艱難を通して、あのダビデのように、悔い改めの祈りをもって主なる神に立ち返るならば、主は更に祝福すると聖書は約束しております。 内村鑑三は次のように書きました。 『信仰は書斎にこもり、書籍に培われて得られるものではない。教師の説法を聞いて得られるものではない。人生の実際問題に遭遇して、血と涙をもって、遂に得られるものである。』 そして、彼は最後に、 『尊きかな、艱難。尊きかな、試練。試練を経て、我に臨む大いなる光明。』と、結んだのであります。 キリスト集会で発行している雑誌に、「主は生きておられる」というのがありますけど、最近発行された第3号の巻頭メッセージでベック兄は次のように語られているんですね。 題は「飛べない鳥を見つめて」という題です。ちょっと紹介しましょうか。 『1996年の「ドイツ喜びの集い」でのことです。私は170人の日本人参加者と一緒に、私は生まれ故郷にシュトゥットガルトの街へ行きました。 そのときヴィルヘルマという小さな動物植物園に入ったのですが、一羽の惨めな鳥が私の目に留まりました。 おそらくだれも気づかなかったでしょう。その鳥は外国から運ばれて来て、馴れない環境の中でおかしくなってしまったようでした。 立派な羽を持ち、普通なら飛べるはずなのに、もうどうにもならなくなっていたのです。 写真に撮る価値などない鳥かもしれませんが、私はカメラを向けました。この鳥のことを記憶にとどめたいと思ったからです。 こうしてその鳥の写真は私の机の上に置かれ、いつも見るものとなりました。』 6年前からこの惨めな飛べない鳥は、ベック兄の机の上に置かれて、ベック兄は毎日この鳥を見るようになったそうです。 どうしてかというと、 『私はよく枝葉のことを大切にし、一番大切なことをいつの間にか忘れてしまう、そういう者である、という自戒に気持ちがそうさせたのだと思います。いわゆる”良いもの”は、最もいいものの敵である、ということをいつも心に留めるべきです。私は主イエスに頼るために救われ、また、祈りを通して主と共に働くべき者です。 しかし、現実の私はどうでしょう。自分を無視して主だけに頼ればいいのに、忙しさのあまり最も大切なこと、すなわち主イエスの前に静まること、主に心から尋ね求めることが少なすぎるのではないか、と自問する日々であります。』 結局、べック兄はイエス様からこの日本で、世界で福音を宣べ伝えるという豊かな翼を与えられているのに、私はこの飛べない鳥のように、主の福音の翼を使っていないのではないか、ということです。ベック兄の日々の祈りはダビデの祈りです。 詩篇139:23-24
という祈りから、ベックさんは毎日悔い改めの祈りをしておられるようです。 「主を第一にするということをしないで、主の前に私は日々罪を犯している罪人ではないか。」という祈りです。 『私はいつも自分自身に問いかけます。数えられないほど多くの救い主イエスを知らない人々は、私にとって重荷なのか、と。主イエスの心構えが私にできているのか、と。』 ベック兄は一年、365日、一日も休まずに求霊のために働いています。しかし、そのベックさんが、飛べない鳥の写真を見て、これは私だ、私は主からたくさんの賜物をもらっているのに、使っていない。大ぜいの未信者の魂の救いが、私の重荷になっていないのではないか、という正直な告白をもって、日々、主の前に悔い改めの祈りをしております。 だから、主なる神は祝福せざるを得ない。結局、このような祈りを祈り得る者は、主から恵みと力をいただくからです。主から、あの「初めの愛」をいただくことができるからであります。 私たちのこの集いに、群れに多くの人々が日々加えられる秘訣とは、この祈りのせいであると言ってもいいと思います。 エぜキエル書33:10-11
悪者とは、罪、過ちを犯してしまった信仰者という意味です。 エぜキエル書33:11
ローマ人への手紙2:4
私たちが悔い改めの祈りを、祈り得るということは、「主なる神の慈愛と忍耐と寛容の結果である。」とパウロはここで記しております。 ヨハネの黙示録2:4-5
イエス様ご自身の言葉です。イエス様もまた、私たちに悔い改めの祈りを勧めています。 もし、そのことができないならば、私たちの信仰生活に祝福はないと、主はここではっきりと言っております。 イエス様が言われるように、悔い改めの祈りとは、主なる神のあの「初めの愛」に立ち返ることであり、それは私たちが「罪の許しを確認すること」であり、結果として「神との平和の回復」であります。 そして、何よりも蘇えりと永遠の命に対する希望そのものを、私たちはこの祈りの結果、さらに括弧とすることができると聖書は約束しているのであります。 人が悔い改めるとはどういうことでしょうか。それは主なる神の前に、「私は罪人です。」と正直に告白することです。「だめです。どうしようもない者です。救いに与りながら、わたしはさっぱりいい人になれません。」、ということです。 あのダビデが祈ったように、主の前にいつも、「私のすべてのそむきの罪から、私を助け出してください。」と祈り始めることであります。 このような祈りをする兄弟姉妹には、主は間違いなく恵みと祝福を与えてくださいます。なぜならば、イエス様は次のように約束してくださったからです。 ルカの福音書22:32
このイエス様の約束は、直接的にはペテロに与えられました。 ペテロという男はイエス様の弟子たちの中で、いつも「1」を自負した男です。3年半もイエス様と共に生活ををした男です。しかし、あのペテロは、信仰者ペテロは、三度にわたって「私はイエスキリストを知らない。」と言ったんです。最後は呪いをかけて、「私は主イエスなど知らない。」と誓って言ったと聖書は記しております。 結局、信じる者が犯す最大の罪をペテロは犯しました。そのペテロにイエス様は「わたしはあなたのために祈りました。だから、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。」と仰ったのであります。 イエス様はこのペテロに、よみがえりの朝、一番最初に会いたかったようです。だから、復活の朝に主イエスは、あのマグダラのマリアに、「まず行ってペテロと弟子たちに、『わたしはよみがえった。』と言いなさい。」と。そして、マリアはそのことをペテロに告げました。その時ペテロは、この言葉を思い出したんです。 ルカの福音書22:32
主なる神に最大の罪を犯し、主から離れ、結局、主の祝福を取られたペテロにイエス様は、祈りをもって、悔い改めの祈りに導いたのであります。おそらく、それからのペテロは、毎日、毎日悔い改めの祈りができる者とされました。 ペテロは新約聖書を読むとわかりますけれども、パウロとも共にイエス様の栄光を表わす福音の証人として、主の祝福に与った者として、今に至るまで働いております。 ダビデもまた、神の栄光と、臨在を証しする主の用いられる器として、今に至るまで大いに主の栄光を伝える者として用いられております。これこそ、悔い改めの祈りを祈り得た信じる者たちに対する、主の大いなる祝福ではないでしょうか。 あの罪を犯したペテロはここで、主の栄光を表わしました。 使徒の働き2:38-41
ペテロを通して、三千人の者が救われた、と使徒の働きははっきりと証ししております。 詩篇51編から。ここに注意書きがありますけれども、 詩篇51:1-4、10-13、17
悔い改めの祈りとは、主なる神がもっとも喜ばれるものであります。 主なる神の前に、正直に告白された祈りゆえに、主なる神はそのような祈りを祈り得た者に、「わたしはあなたをさげすまない。」とここではっきり言っております。内容は何よりもそれを喜ぶ、ということです。 そして、イエス様は私たちがそのような祈りを祈るために、祈ることができるようになるために、「毎日祈る。」と約束されました。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」と、そういう意味です。 イエス様には、600以上の名前がついておりますけれども、その名前の一つに「祝福された望み」という名前があります。 祝福された希望の神であるイエス様が、「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈りました。だから、立ち直ったら兄弟姉妹を励ましてあげなさい。」という祈りがあるから、私たちは希望があるのです。 ですから、兄弟姉妹たちは祈るべきです。あのダビデのように、ペテロのように、ベック兄のように、毎日、毎日主の前に悔い改めの祈りをするべきです。そうすれば、主はあの「初めの愛」をもって、聖霊の力をもって、私たちを大いに祝福してくださいます。 その祝福の内容とは、福音の証人としての祝福です。兄弟姉妹を励ます力としての祝福です。 聖書の中の最大のテーマとは、神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者の恵みをお授けになる、というものです。 結局、それはどこからもたらされるものか、というと主の前に正直な告白をすること、悔い改めの祈りをすること、によってしかもたらされません。 ローマ人への手紙の中に、「罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました。」と。 表面だけ見ると、よくわからないところがあります。どうして、罪の増し加わるところに、恵みが増し加わるのでしょうか。どうして、恵みが満ち溢れるのでしょうか。 それは、罪を犯した兄弟姉妹たちが泣いて、主の前に出て、正直に「こんな罪人の私を憐れんでください。」という悔い改めの祈りを、祈り得た時だけ、恵みが増し加わるということです。 最後に詩篇の32編を読んで終わりましょうか。 詩篇32:1-7
ダビデは詩篇の39編の13節で死を前にして、イエス様に主なる神に祈りました。 詩篇39:13
しかし、悔い改めの祈りを祈り得る者は、いつもほがらかになります。結局、聖められ、主なる神から生きる喜びを与えられるからです。生きる力を与えられるからです。 ですから、そのような兄弟姉妹はいつもほがらかに、たとえ明日天に召されるとしても、ダビデのようにほがらかになることができると、聖書ははっきりと約束しております。 以上です。 |