引用聖句:イザヤ書40章28節-31節
31節でイザヤは書きました。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」と。 この31節冒頭の接続詞「しかし」ということばは希望です。一つの希望であり、また主なる神の励ましであります。 どうしてかと言うと、「しかし、主を待ち望む者は…」と続くからです。 聖書が終わりの時代と呼ぶ、私たちの生きる今の時代にあって、主を待ち望む者、すなわちイエス様の再臨を待ち望む者は新しく力を得るからです。 鷲のように翼をかって上ることができるからであります。そして、走ってもたゆまず、歩いても疲れないと続くからであります。 ですから、「しかし」で始まるこの31節のみことばは今の時代にあって、信じる者にとって希望であり、主なる神の力強い励ましそのものであります。 今年の1月1日、この吉祥寺の元旦祈祷会で多くの兄弟たちは祈りました。そして、その祈りに共通の内容はどういうものであったかと言うと、 「イエス様、去年私たちは、あなたが来られることを切に願って『来てください』と祈りました。兄弟姉妹、心を一つにして主のご再臨を祈り求めました。しかし、イエス様。去年、あなたは来られませんでした。どうか今年こそ、イエス様来てください。」 兄弟たち共通の祈りの内容でした。 先ほど、礼拝の時にも「まもなくイエス様は来てくださいます」と祈られた兄弟がおられましたけど、この主の再臨を祈り求める祈りとは、一昨年よりも去年、去年よりも今年とその数を増し、切実さを増していくのであります。 そして、この切実さゆえに主の再臨を願う祈りには、主なる神の励ましがどうしても必要です。 主の励ましと慰めがないと、希望は損なわれていくからです。そして最後には色あせて、やがて失われて行きます。 ですから、聖書は力強く刻印します。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」 このみことばこそ、去年から今年への架け橋です。そして信じる者たちは新しく力を得て、明日にかける橋、この希望の架け橋を今年もまた渡りました。 どうしてイエス様の再臨を待ち望む者たちは、新しく力を得ることができるのでしょうか。どうして走ってもたゆまず、歩いても疲れないのでしょうか。その答えは同じイザヤが書いたイザヤ書52章の中に見出すことができます。 イザヤ書52:7-8
結局今の時代において、イエス様の再臨を待ち望むものは、その絶えざる祈りと共にいつも主のことを伝えるべきであるということであります。イザヤがこの52章の中で、山々の上にあってと書いたのは、町を過ぎ、丘を越え、山々を越えて行く絶えざる福音の伝道を意味します。 日々の生活にあって新しく力を得、イエス・キリストを告げ知らせるその足は、走ってもたゆまず、歩いても疲れないとイザヤはここで書くのであります。 それだけでなく、良い知らせを伝える者の足は美しいとまでイザヤは言います。なんと美しいことよと聖書はみことばは書くのであります。 十字架にかかって死なれる直前、捉えられ捕縛されたイエス様は、多くの人の質問、多くの人の尋問に対して何一つ答えませんでした。 最後にひと言だけイエス様は言われました。何と言ったでしょうか。マルコの福音書に書かれています。 マルコの福音書14:61-62
しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」 イエス様はここでひと言、「わたしは再臨する。」とはっきり言われました。 イエス様はご自身の再臨を予告された、「再臨の章」と言われるマタイの福音書24書の中で次のように預言されました。 マタイの福音書24:3-11
イエス様の再臨が間近に迫った今の時代、終末のときの特徴とは、イエス様がここでおっしゃったように、信じる者たちが、すなわち兄弟姉妹が苦しい目にあう。そして憎まれると言われています。 さらに人々が互いに裏切り、憎みあう。そういう時代であるとイエス様はここで預言されました。 イエス様の救いに与かった兄弟姉妹たちは例外なく、試練の中に置かれるとここで語られているのであります。 そしてこの預言は、私たち兄弟姉妹たち、信じている者一人ひとりが経験している現実ではないでしょうか。 集会の兄弟姉妹たちは、多かれ少なかれみな、この経験の中に、試練の中に置かれているのではないでしょうか。 ペテロは一通の手紙を書きました。 ペテロの手紙第I、4:12-13
すなわち、主の再臨のとき ペテロの手紙第I、4:13
とペテロはここに書きました。試みにあって、燃えさかる試練にあるけれども、しかしそのことは驚くべきものではない。むしろ喜ぶべきことであると、ペテロは逆に試練の中にある兄弟姉妹を励ましています。 励ましの理由は、まもなく主が来られて、あなたがたはそのことを大いに喜ぶことができるからだと言っているのです。 ペテロは、このペテロの手紙第Iの12、13節の前の7節からそのことのより深い内容について記しております。 ペテロの手紙第I、4:7-11
と、書かれています。特に11節には ペテロの手紙第I、4:11
と書かれています。ペテロも、イザヤも同じように、「福音を宣べ伝えよ。主が近いからである。」と言っているのであります。 11節でペテロは、「イエス・キリストを告げ知らせよ。」ということを命令形で言っているのです。 それこそが主を待ち望む者が、さまざまな試練、困難、迫害の中にあって、解放と自由を生きる秘訣である。力強く、なお美しく今の時代を生きる唯一の秘訣だと聖書は記しているのであります。 ペテロの二通目の手紙があります。 ペテロの手紙第II、3:3-4、7-9
この手紙によると、イエス様の再臨のためには、まだ救われるべき人の数が満たされていないとわかります。9節にありますね。 ペテロの手紙第II、3:9
すなわち、イエス様のご再臨のこと ペテロの手紙第II、3:9
主を待ち望む者たちにとって、主の再臨の間近い今はさまざまな困難、試練にさいなまれる。しかし、このような絶望的な状態に置かれるからこそなお、主イエスを宣べ伝えよ。福音の伝道者たれ、と聖書は勧めます。 なぜならば、イエス様の再臨がなるためには救われるべき多くの人があなたがたの回りにまだいるではないか、とペテロは手紙に書いたからであります。 そしてこの手紙は試練の中にいる兄弟姉妹の元に、その一人ひとりに、今年も届けらました。 私は38歳でイエス様の救いに与かった者であります。その3年前に家内が救われました。続いて娘も救われました。妻と娘はイエス様の祝福に与かったのであります。けれども、私が救われるまでの3年間は地獄の日々であったようであります。 絶望的な状況が続きました。私は、アルコール中毒の末期症状にのた打ち回っていたからであります。朝から酒を飲み続け、半ば仮死状態になりながら、何かあるとすぐに暴力を振るう狂った獣のような私に、家族は恐怖に怯える日々でした。 このような苦難と試練の中にあって、イエス様を私伝えるというようなことは至難の技、全く不可能なこととに思われましたけど、妻は次のような方法を取ったのですね。カセットテープに子ども賛美歌を録音して、そして聞かせたのです。 私が座って酒を飲むすぐ頭の上にある戸棚の中にカセットテープを置いて、私が酔い潰れるとカセットテープのスイッチをオンにして、微かに聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で流し続けたそうです。 全く気付かれずに音量を小さくして、子ども賛美歌を毎日、毎日、来る日も、来る日も流し続けたそうです。 それは私が救われるまでの3年近く、たゆまず続けられた行為でした。 驚いたことに私が救われて、集会の礼拝に参加するようになって、その時リクエストされた聖歌の中の子ども賛美歌を私は憶えていたんですね。 メロディーが流れると、曲が流れると私は歌詞を全く諳んじていて歌うことができました。記憶に全くないことが、子ども賛美歌を歌うということによって、現実のものとなったのであります。 この不思議は、後でわかったことでありますけど、つまり家内が流したあの子ども賛美歌のせいであったとわかりました。 どうしてそのようなことが現実になったのでしょうか。意識もなく、絶えず泥酔して、仮死状態である私のどこでそのようなことが可能だったのでしょうか。 この不思議もまた、あとでわかったことですけど、聖書は「人間は肉体と精神だけではなく、霊との三つから成る」と言います。 肉体が衰え果てても、精神が狂ってもその奥底にある霊は健在であるという事実です。 霊の部分とは、あのパスカルが言った人間の奥底、深奥にある神の形をした部分、そのようなところでしょう。 ソロモン王は伝道者の書で、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とも言いました。 救われた後で、信じる者たちの中に住んでくださるあの聖霊が住むところであります。内在の主と言われるイエス様が、とこしえに住んでくださるところです。それが霊です。ですから、霊はいつまでも健康であり、霊は永遠です。 妻の流したあの子ども賛美歌は、先に衰弱した正に腐り果てた私の肉体を通って、狂った精神を潜り抜けて、そして霊に響いたということであります。 そして、驚くべきことはこの子ども賛美歌の歌詞は、みなイエス様の救いの本質をすべて伝えていました。 例えば聖歌655番の子ども賛美歌は 主は命まで、捨てて私の罪の汚れを取ってくださる。 主は私を、主は私を、主は私を愛してくださる。 と歌われています。656番は 何者よりも、罪過ち、お赦しになる イエス・キリストをくださいました父なる神に 感謝します。感謝します。感謝します、神様。 と歌われています。654番は イースターの朝には、白百合を生けましょう。 イエス様が命にかえられた良い日です。 ああ、白百合、主イエス様が蘇った良い日を 記念して香るのか、イースターの良い日に とイエスの復活の恵みを歌っています。聖歌687番は 銀のように光る、流れのそばで お目にかかりましょう、救いの君と 神さまのそばのきれいな、きれい川で みんなで集まる日の、ああ、懐かしや と天国を歌っているのであります。 イエス様の十字架の贖いの死と、その罪の赦し。そして神の愛と、神との平和への感謝と賛美。イエス様の復活によるよみがえりの命。永遠の命と天国への確信。 これら、イエス様の救いの恵みのすべてが、あの子ども賛美歌を通して、死んだような私に伝えられたのであります。これは事実です。 どうして家内はこのような方法をもって、私を救いへと導いたのでしょうか。彼女は主を待ち望んだからであります。 主を待ち望むもの者とは、結果としてイエス様の再臨を仰ぎ見ることができます。 ですから、家族の救いのために、周りの人の救いのために急いで走ることができます。 「主によって語られたことばは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と言った、あのバプテスマのヨハネの母エリザベツのことばを彼女は握りしめました。 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と、あのピリピの町で、あの暗黒の牢獄の中で叫んだパウロとシラスの雄たけびを彼女は握って離さなかったからであります。 それは主を待ち望んだからであります。 絶望的な状況に置かれていたからこそ、待ち望む主だけが希望そのものとなりました。唯一の希望となったのであります。 今から2,600年ほど前に、あの旧約時代に、エレミヤという預言者がいました。彼は非常に困難な状況の中で、主なる神を宣べ伝えた男であります。悲劇的な状況の中で主なる神を宣べ伝えたゆえに、エレミヤは涙の預言者と言われております。 彼が生まれ育った時には、すでに隣国である北イスラエルは、アッシリアによって滅ぼされていました。そして、彼の祖国である南ユダもバビロンの攻撃に晒され、正に風前の灯でありました。正に終わりの時でありました。 正に祖国を失おうとしているような状況にも関わらず、神の選びの民であるユダヤ人たちは、主なる神から遠く離れてしまい、そして主に立ち返ろうとしませんでした。 宗教的な指導者たちさえ堕落し、人々は不道徳に限りを尽くし、金持ちや資本家は、不正の富を追及する正に不信仰と不法がはびこる時代でありました。 エレミヤが生きた時代は、ユダヤ史の中でも暗黒の時代と言われております。正に終末の様相を呈していました。 主なる神はエレミヤを通してこのような人々に、再三ご自身を現しましたけれども、人々は全く耳を貸そうとしませんでした。主は次のように言っております。 エレミヤ書15:1
エレミヤ書16:13
エレミヤ書25:11
と主はエレミヤを通して預言せざるを得なかったのです。主なる神の救いの恵みではなくて、さばきによって、もはや神の選びの民であるユダヤ人たちは滅びに定めようとされていました。 そして、エレミヤを通して主なる神が言われたように、紀元前586年にあの南ユダはバビロンのネブカデレザル王によって滅ぼされ、その民は捕集の民として、バビロンに引かれていったのであります。 このような悲劇的な、絶望的な状況の中で、エレミヤはどうして最後まで主の救いを宣べ伝えることができたのでしょうか。答えは一つです。エレミヤは主を待ち望んだのです。 哀歌3:22-25
エレミヤ書23:5
イエス様のこと エレミヤ書23:5-8
これらの聖句にあるように、エレミヤは主を待ち望むことができたから、悲劇的な状況の中にあっても主を宣べ伝えることができました。 イザヤもエレミヤもそうですけど、旧約の預言者たちが待ち望んだ主とは、直接的にはイエス様の初臨のことです。イエス様の誕生を意味します。 メシヤ、救い主としてイエス様が生まれること、来られることでした。 しかしあの預言者たちは、ペテロが「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」と言ったように、時空を遥かに越えた目で、主の誕生以後のすべてを見通したのであります。 すなわち、この世に生まれたイエス様は十字架にかかって、私たちの罪のために死なれそして復活される。そして天に昇られて、そして私たちを迎えに来られる。 旧約の預言者たちが言った最終的な待ち望んだこととはイエス様の再臨であります。彼らはそれをはっきりと霊の目をもって見ることができました。 旧約聖書にはイエス様の誕生を意味する初臨の預言よりも、イエス様の再臨の預言のほうがはるかに多く書かれている事実が、そのことを証明しているのではないでしょうか。 主を待ち望んだエレミヤは、苦しい、悲しい状況の中でも主を宣べ伝えました。絶望的な伝道であったようであります。 困難の底で、絶望の果てでエレミヤは正直に言っておりますね。 エレミヤ書6:10-11
エレミヤを通して語られる主なる神の救いと預言は、だれ一人として耳を傾けることがありませんでした。 ついにエレミヤはエルサレムの町へ一人で出て行って、道端にいる子どもたちに語りかけます。そして、この子どもたちの中に少年ダニエルがいました。 後年、聖書にダニエル書を記したあのダニエルであります。ダニエルは次のように書きます。 ダニエル書9:2
ダニエルがここで証したように、ダニエルはエレミヤによって主に立ち返った者であります。エレミヤによって、しっかりと主の側に立った男でありました。ダニエルはエレミヤによって主を大いに学んだ人でありました。 そして、エレミヤが預言したように、その民は70年バビロン捕囚となり、ダニエルもまた捕囚の時代にあって、あのバビロンの歴代の王に仕え、そこで主なる神の証しをし続けたのであります。 エレミヤを通して主なる神の証し人として立てられた預言者ダニエルは、捕囚の身でありながらあの敵国バビロンにあって、主なる神を証しし続け、ついに当時の世界一の王であるネブカデネザル王を主の元に導くことができたのであります。 ダニエル書2:46-47
ダニエル書3:28
ダニエルの3人のともがらです ダニエル書3:28-29
ダニエルを通して、主なる神の救いに与かったネブカデネザル大王の、凄まじいばかりの証しであります。 ダニエルは、バビロンに代わって支配したペルシャのクロス王の時代まで生きました。 そして、その強靭な確固たる主なる神の証しによって、とうとうクロス王の心を動かし、70年に亘るユダヤ民族のあの滅びの旅のバビロン捕囚からの解放を勝ち取ったのであります。 エレミヤの伝道は、彼が生きている間は全く報われませんでした。ひとりとして耳を貸そうとしなかったからであります。 預言は蔑まれ、侮られ、エレミヤの書いたものはみな焼かれ、そればかりではなく彼は何度も投獄されました。 家族からも捨てられ、彼はエジプトに逃げたこともあります。そして最後はエジプトの町タパネスで石打の刑にあって殺されたと伝承は伝えております。 しかし、エレミヤはこのような絶望的とも思える困難な状況の中でもなお、主を語り続け、主の救いを伝えました。 そして、それは最後の最後にあのエルサレムの路上で少年ダニエルによって聞かれました。 そして、エレミヤの伝道は彼の死後、ダニエルの大いなる働きにあって、主の栄光となって祝福されたのであります。 イエス様がピリ・ピカイザリヤ地方に伝道に行かれたときに、弟子たちに聞かれたんですね。「イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』、弟子たちは、『イエス様、みな、エレミヤのようだと言っております。』と答えた」とマタイは書いております。 この地上の預言者としての生活に、全く不遇を囲ったあの涙の預言者エレミヤも、天でイエス様に大いに褒められ、大いに慰められているという事実を、私たちはこのマタイの福音書の記事の中に見ることができます。 イエス様に似ていると、エレミヤは言われたのです。つまりエレミヤは天で栄光を受けたのです。 新約時代にあって、パウロは「歩く福音」と呼ばれた人でした。特に異邦人の救いのために、主によって立てられた兄弟でした。 けれども、彼の福音伝道はエレミヤと同じように困難を極めました。パウロは次のように言っております。 コリント人への手紙第II、11:23-28
そしてパウロはその生涯において、「歩く福音」と言われながら、7年間に亘って牢獄の中に足かせをはめられたのであります。 また彼は持病を持ち、生涯苦しめられ、そして晩年には盲人に近かったとも言われております。 終末の時代とは、神に敵対するこの世の支配者である悪魔の働きが、もっとも苛烈を極める時代であります。 終末はイエス様が来られる時代ですから、主が再臨されると悪魔は縛られて、この地上での活動が全くできなくなります。ですから、悪魔はイエス様の再臨を拒もうとします。 それは、人が救われないように、救われないように徹底して抵抗することであります。 悪魔の別名は人殺しですから、人を何とかして霊的な救いから殺そうとするのであります。ですからパウロもまた、この悪魔の徹底した攻撃に会ったことでしょう。 しかし、歩く福音パウロはどうしてこのような苦難と迫害に会いながら、悪魔の攻撃を一身に受けながらなお、福音のために走り続けることができたのでしょうか。 その理由についてはパウロ自身が答えております。 コリント人への手紙第I、9:19-23
とパウロはそのわけについて書いております。 「何とかして、幾人かでも救うためです。」と言うのは、どうしてかと言いますと、イエス様の福音の恵み、すなわち主の再臨を一人でも多くの兄弟姉妹たちとともに受けたいからですとパウロはここで言っているのであります。 このパウロの告白こそ、イエス様の心を満たしている思いに他なりません。ですから、逆境の中あっても、パウロは福音のために走り続けることができました。 コリント人への手紙第II、1:8-10
パウロの福音の推進力は一つの希望にかかっていました。そのパウロの希望とは、正に主を待ち望む希望でした。 パウロは、近い将来必ず来られるイエス様の再臨を、だれよりもはっきりと見据えていました。 パウロにとって主の再臨は、正に手の届くところまで来ており、彼は霊の眼を見開いて、その光景の一部始終を見ることができたのであります。 テサロニケ人への手紙第I、4:14-16
主は再臨されます。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
主イエス様は再臨される時に、すでに召されている兄弟姉妹たちをすべて連れて天まで降りて来られる。死んだ兄弟姉妹たちはみな、主の栄光のからだに変えられている。 そのとき地上に生きている私たち信じる者も、また主の栄光のからだに変えられて一挙に天に引き上げられる。 それから永遠にイエス様とともに、そして愛する兄弟姉妹たちとともに、天の御国で生きると、パウロは主の再臨のその一部始終さえ見届けておりました。 主の栄光のからだについて、聖書は詳しく記しておりませんけれども、多くの兄弟たちは次のように考えます。 結局、最も美しいからだで信じる者たちはよみがえる。完全な美しいからだで復活すると考えられております。 パウロはこのように主の再臨をはっきり見たから、すなわち、主を具体的に待ち望んだからこそ、あらゆる困難の中にあっても主を伝えることができました。 いつ読んでも感心する、感動する場面があります。それは使徒の働き14章にあります。 使徒の働き14:19-20
デルペに向かったと書いてあります。パウロはここで石打ちの刑に会いました。福音を伝えたゆえに、石打ちの刑に会いました。 石打ちの刑とは、私もかつて映画で見たことがありますけど、極めて残酷な処刑方法です。大きな穴を掘ってその底に人を置くんですね。 そして穴の淵に大勢の人が並んで、それぞれが一抱えもあるような大きな石を持って、次から次へと穴の底の人に投げ下ろすのであります。恐らく、一撃で即死するような処刑方法ではないかと思います。大きな石を次から次と投げ込まれるのです。 パウロはそのような処刑に会い、死んだと思われ、街の外に引きずり出された後で、何もなかったようにスックと立ち上がり、街の中へはいって行ったのです。 そればかりではなく、翌日にはバルナバとともに福音伝道の旅に出たと、使徒の働きは記すのであります。 正にイザヤの言った「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」というみことばの極みであります。 ベック兄のドイツでの信仰の先輩である一人のユダヤ人の兄弟は、第二次世界大戦中はユダヤ人であるということだけで、ヒットラーに捕えられて、ホロコーストの悲劇に会いました。ユダヤ人殲滅作戦に彼は引っかかったんですね。 捕えられて捕虜収容所で死を待っているときに、ヒットラーが対戦に敗れて彼は解放されたんですね。 彼は喜んで、勇んで主イエス様を伝えました。しかし、まもなく彼は癌に侵されて内臓の大部分を摘出する羽目になりました。最後には悪性の糖尿病で両足を切断してしまったそうです。 その時、彼はこう言ったそうです。「これで、私は鷲のように翼をかって天に上ることができる」と。 これもまた主の救いに与かった者の信仰の極致であります。 イエス様は、再臨の章と言われるマタイの福音書24章の中で、次のようにも言われております。 マタイの福音書24:12-14、30-31
イエス様の言われたように、今の時代は主の再臨の予兆に満ち満ちています。正に、待ち望む主、イエス様の再臨は近いのであります。 ですから、ペテロは手紙の中で「まもなく主は来られる。そのためにも一人でも多くの人が救われる必要がある」と書きました。 今年、ベック兄に新年の挨拶をした時に、ベック兄に言ったんですね。「去年もイエス様は来られませんでした。」と。その時、ベック兄はひと言「ごめんなさい。」と言ったのであります。 まるで去年、病気したベック兄ご自身の働きがなかったかのように、それはご自分の責任かであるかのようにひと言「ごめんなさい。」と言われました。 「でも、もうすぐです。もう少しの辛抱です。」と言われたのであります。 聖書は主の再臨の近いこの終わりの時代にあって、イエス様の救いを告げ知らせることは、困難と迫害が必ず伴うと言います。 しかし、イエス様の再臨に希望を置いて私たちが歩むならば、主は必ず祝福をもって、励まし、助けてくださるとも約束しております。 最後にイザヤ書、40章から イザヤ書40:31
イザヤ書52:7-8
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