引用聖句:申命記30章19節-20節
11月に入って良い天気が続いておりますけれども、新聞の夕刊でですね、毎日「明日天気になあれ」というタイトルで、人間探訪シリーズのような記事が掲載されております。今は、笠智衆(りゅうちしゅう)さんが採り上げられて、彼のことが書かれています。 笠智衆というのはもう87歳になりますけれども、俳優です。みなさんもよくご存知のあの「フーテンの寅」という映画の、柴又の帝釈天の住職の役で今は有名ですね。 若い頃から老け役で有名だった俳優ですけども、今は87歳ですから、あえて役を作ることはなくやっております。あの笠智衆さんの人間探訪シリーズの中に、面白い記事があったので、ちょっとお読みいたします。 「鎌倉の秋も深まった10月下旬、笠さんは大船駅に近い自宅からタクシーで円覚寺に向かった。金木犀の花が、辻々を木に染めていた。 森閑とした境内の石段を杖をついて登る。中腹にある墓地の前で、白のベレー帽に落ち葉を拾い始めた。 黒大理石の墓標には「無」の大きな一文字。小津監督の墓である。」 これが、有名な小津安二郎監督ですね。おそらく世界で最も有名な映画監督と言えば、日本では黒沢明と小津安二郎ではないか、と言われています。 「黒大理石の墓標に一文字、「無」の大きな文字が書かれた、小津監督の墓である。28年前、自らの60回目の誕生日12月12日に終生した。 線香をあげ、白菊を供え、手を合わせる。別にお経を読むわけでもない。笠さんは言う。 『僕は僧侶でもありますが、もの言わぬ者に語りかけたりはしませんから。』 この後小津監督を偲んで、『大船日記 小津 安二郎先生の思い出』を上梓した。その中に、『やはり僕は、いつまでも先生から離れられんのです。』と綴られている。」 ま、短い記事です。笠智衆さんが詣でた小津安二郎監督の墓標には、一文字大きく「無」と刻まれております。これは何を意味しているのでしょうか。 人間にとって「死」は終わりでしょうか。「死」は完全な別離であり、断絶であり、人は死ねば何も無くなるという、完全な消滅を意味しているのでしょうか。人間にとって「死」は絶望であり、虚無そのものなのでしょうか。 この墓の墓碑銘が、われわれに語りかけることはたくさんあります。現代の高名な作家の一人に、井伏鱒二という作家がおりますけども、彼は「花に嵐の例えがあるさ、さよならだけが人生だ」と言ったんですね。 「花に嵐の例えがあるさ、さよならだけが人生だ」が、彼の言うように、人生、人間の命というものはただ虚しく「さよなら」と言って終わってしまうものなのでしょうか。 あの「無」と刻まれた恩師の墓を前にして、この87歳になる名優笠智衆はですね、次のように言ったんですね、「僕は僧侶でもありますが、もの言わぬ者に、語りかけたりしませんから」 寂しい告白ではないかと思います。小津安二郎に対する笠智衆の思いを満たしているものは、連綿たる追慕の情と愛と尊敬であります。「僕は、いつまでも先生から離れられんのですよ」と彼は言っています。しかしあの名監督の小津安二郎はですね、自らの墓に「無」と刻印しました。まるで人の思いを、愛を拒否するかのようであります。 死者は、死んだ人間は、生きている者の思いと記憶の中にしか生きられない存在なのでしょうか。 死んだ後でも人々に愛され親しまれているアメリカの俳優に、ハンフリー・ボガードという俳優がいます。『カサブランカ』という映画で有名ですね。『キー・ラーゴ』という映画でも、彼はよく知られております。 彼は「ボニー」という愛称で呼ばれ、今でも世界的に人気の高い俳優です。彼の墓には次のような言葉が刻まれています。 「もし会いたくなったら、口笛をふいておくれ。いつでも会いに来るから。」 この墓碑銘は彼の愛する妻、ローレン・バコールが刻んだ言葉であります。この言葉が私たちに語りかけている意味というものは何でしょうか。 「人間はいつまでも愛する者とともにいたい」、という願いではないかと思うんですね。人の愛も究極は、その極みは「死」によって人が互いに分かたれたとしても、「いつまでも共にいたい。いつまでも、いつまでも共に暮らしたい」という願望ではないでしょうか。 その人たちが愛し合っていればなおであります。 聖書は「死」を前にした、この人間の愛の極み、切なる願望はかなえられると約束しております。それは人に対する神の愛の極みにおいて実現されると言ってるんですね。 そしてその究極の神の愛こそ、イエス・キリストの「十字架の死」と「復活」である。そこに人が導かれれば、その前に人が立てば、「愛する者といつまでも共にいたい」というですね、人間の願いは必ずかなえられると、聖書は約束しております。 聖書は「人間の死」について次のように記しています。 創世記2:16-17
私たち人間を造られた、万物の創造主なる神の「死」の宣告であります。そして、 創世記3:17-19
ま、19節は「死」の介入であります。人間が神の意思を無視して、神の言うことを聞かず、すなわち神から離れて自分の意思と欲望を第一にして生きた結果、聖書はそのような生き方を罪と呼びます、その罪に生きた結果、人間は神の言われた通り死ぬべき存在となりました。 神によって創造された最初の人間、アダムとエバが罪に生きたから、人類に「死」が入ったと聖書ははっきりと記しております。 だからパウロは ローマ人への手紙6:23
と書きました。 すべての人間は死ぬべき存在となったということであります。 聖書によると「人間の死」とは、「肉体」と、そして「たましい」と、「霊」との分離であると言っております。 「死」によって分離した「肉体」は、どこに行くのでしょうか。それは、先ほど読んだ創世記に書いてある通りであります。 創世記3:19
人は死ぬと、誰でもその肉体は「朽ち果てて、ちりとなって土に帰る」と聖書は言っています。 それでは「死」によって「肉体」と分離した、私たちの「たましい」と「霊」は、どこに行くのでしょうか。ルカはそのことを次のように書きました。 ルカの福音書23:39-43
ここでイエス様は、ご自身を主なる神キリストと信じたこの犯罪人に対して、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と明言しています。 主イエスを救い主と信じた者の「霊」と「たましい」はパラダイスに行く、と聖書ははっきりと言っています。 この犯罪人の「肉体」は、十字架上で処刑され、死んでちりとなって土に帰りますけれども、「霊」と「たましい」は、ただちにパラダイスに行くと、イエス様はここではっきり言われています。 もう一箇所、 ルカの福音書16:19-26
ここでイエス様は、二人の死んだ人のことを語っています。一人は金持ちで、「主イエスを信じない未信者」と言っていいでしょう。 もう一人はおできだらけの、病気だらけの貧乏人ラザロで、ラザロという名前の意味は『神は助ける』という意味です、その名前が示すように「イエス様を信じる信仰者」であります。 すなわち未信者と信仰者の二人がここで死にました。 そして死んで「肉体」を離れた、未信者の金持ちの「霊」と「たましい」は、どこへ行ったかと言いますと、ハデスと呼ばれるところに行った、とここで書かれています。 ハデスとは『苦しみの場所』という意味であります。あるいは『よみ』、あるいは『死の世界』。 未信者の「霊」と「たましい」は、ここではっきり分かるように、「明確な、はっきりとした意識を持って、ハデスと呼ばれる死者の世界に下って行く」と、聖書は言ってるんですね。 それはこの「金持ちが、アブラハムのふところに抱かれているラザロを見上げた」という表現でよく分かります。 ハデスは下って行くところです。そしてその世界は、ハデスの世界は、「炎が燃え盛り、それゆえに霊魂は苦しみもだえ続ける」と、聖書は記しております。 一方イエス様を信じたラザロの霊魂は、「アブラハムのふところに連れて行かれた」と、聖書は書いてあります。おできだらけの貧乏人ラザロが死んだ後、アブラハムのふところに連れて行かれた。 「アブラハムのふところ」とは、あの犯罪人が行ったパラダイスと同じ意味であります。同様にですね、主イエスのおられる天の御国のことであります。ま、ラザロは「アブラハムのふところ」に上って、ハデスに下ることなく、「アブラハムのふところ」、パラダイスに上って、そこで慰められた、と聖書は言ってるんですね。 ラザロの「霊」と「たましい」は、「肉体」を離れてパラダイスに上って、そこで主イエスとともに交わることができ、それゆえに喜びと慰めに満たされた、と聖書は書いてあります。 聖書によれば、信じる者も未信者も等しく、「死ぬ」とその「肉体」はちりとなり、土に帰ります。しかし「肉体」を離れた「霊」と「たましい」の行き先は、全く異なることがここで分かります。 信じる者は、パラダイス、「アブラハムのふところ」に上り、主イエスを信じない未信者は、ハデスに下る。「よみの世界」、「死の世界」に下る。「炎が燃え盛る世界」に下るとはっきり書いてあるんですね。 そして信仰の父、神の友と呼ばれたアブラハムはですね、次のように言いました。「パラダイスとハデスの間には、大きな淵があり、その淵は渡ることも超えることもできない」 ハデスであまりの苦しみのゆえに金持ちは叫びました。「私には兄弟が5人おりますが、まだ生きている彼らまで、こんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください」と言ったんですね。しかしハデスではいくら悔い改めても、もうすでに遅すぎるのだ、と聖書ははっきりと言っております。 私たち救われた、主イエスを信じる者が必死になって家族や友人・知人や、親しい者たちの人の救いについて、必死になって、熱心になって働くのはこの金持ちの叫びを私たちが知っているからであります。 死後の未信者の絶望的な悲劇を知っているからであります。 すべての人間にとって、「死」は終わりではないと、聖書ははっきり言っています。「死」は消滅ではなく、「無」なのでは決してない、と聖書は言っていますね。 そして聖書は一度死んで朽ち果てた、私たちのこの「肉体」もまた復活すると言っております。 今から4,000年前に、この死者の「肉体の復活」についてヨブは確信を持って次のように語っております。ヨブの信仰ゆえの確信です。 ヨブ記19:25-26
私は私の肉体を持って神様を見ます。 ヨブ記19:27
ヨブはここではっきりと「肉体の復活」について語っております。 へブル人への手紙11:17-19
アブラハムもまた、死者の肉体の復活を書き記しておりました。だから彼は自らの最愛のひとり子イサクをいけにえとして神にささげることができたのです。 「イサクは死んでも、神様は私の子孫を永遠に祝福してくださっているから、イサクは死んだ後に復活する」 この確信があったからこそ、イサクをですねアブラハムはささげたんですね。死に渡すことができた、ということであります。 ペテロとヨハネも、死者の肉体の復活を宣べ伝えております。 使徒の働き4:2-4
ぺテロとヨハネもですね、死者の復活をイエスの福音として宣べ伝えました。その結果男5,000人が救われたとここで書いてあります。 パウロもまた、死んだ人間が後にその肉体を持って復活することを証ししています。 使徒の働き24:15
「義人も悪人も必ず復活する」、これがペテロの証しです。イエス様はまた同じことを証ししました。 ヨハネの福音書5:28
すなわち死者がみな ヨハネの福音書5:28
肉体の復活があると、イエス様がここではっきり言ってるんですね。 ヨハネの福音書5:29
聖書は新約聖書だけでも、死者の身体的、肉体的復活について実に40回以上に渡って宣べております。 神のみことばである聖書は、「人間が死んだ後、その肉体も復活する」と断言しているんですね。それはすべての人間が復活すると言っているんです。信者、未信者に関わらず、すべての人間であります。 テサロニケ人への手紙第I、4:13
「眠った人々」という表現は聖書独特の表現で、これは「主にあって死んだ人たち」「イエス・キリストを信じて死んだ人たち」ってことですね。 テサロニケ人への手紙第I、4:14-16
「空中携挙」のことであります。「再臨」のことであります。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-18
イエス・キリストを信じる救われたキリスト者も、「肉体の復活」は「空中再臨」「携挙」の時である、とはっきり言っております。 この時イエス様は天から空中まで下られます。そこでまず、すでに死んでいる、神を信じた人たちが復活し、その後でその時まだ地上に生きている信者たち、キリスト者がですね、「よみがえりの肉体」を持って空中で再会する、とパウロはここではっきりと書いております。 すでに死んだ後召されてパラダイス、「アブラハムのふところ」にいる「霊」と「たましい」は、イエス様の携挙の時にあの朽ち果てた「肉体」とともに、栄光の身体に復活する、と聖書は言っているんですね。 想像もできませんけども、これは聖書の語る真実であります。イエス様が私たちに、信仰の結果恵みとして与えてくださった「永遠のいのち」とは、このようにして始まっていくと言ってもいいのではないかと思うんですね。 そして信じる者たちは「栄光の復活した肉体」を持って、7年間天で主イエスとともに平安と喜びのうちに暮らす、と言っております。 主が空中まで来られるわけは、私たちに「肉体」を与えるためだけではなく、その時に地上に生きているイエス・キリストを信じるキリスト者を、すべて天に引き上げるためなんですね。 なぜ「携挙」の時に、主は地上に生きているキリスト者を天に引き上げる必要があるのでしょうか。 なぜならば「空中携挙」の後に続く7年間というのは、この地上は破壊と破滅の大戦争になるからです。いわゆる「大患難の時代」。別の名前では「ハルマゲドンの戦い」あるいは、「第3次世界大戦」「終末戦争」というさまざまな名前で呼ばれている「大患難の時代」が、7年間この地上に繰り広げられるからですね。 その試練から私たちは守られ、天に引き上げられるのです。結局聖霊がこの地球上にいなくなりますから、それは悪魔が自由自在にこの地上を暴歩します。その結果この地上では、「大患難の時代」がやって来る。主が空中まで来られる意味というのは、多くはそれなんです。 もう一つは、この「大患難の時代」を通して「裁き」とも言える試練を通して、未だかつてイエス・キリストを信じていないあのイスラエルの人々をですね、救いに導くためなんです。 この二つが、主が空中まで来られる、私たちを天に引き上げる大きな理由なんですね。ユダヤ人たちは、神の選びの民でありながら、未だかつてイエス・キリストを救い主として信じておりません。しかしあのユダヤ人たちを愛して止まない神がですね、この7年間の大患難を通して、彼らを悔い改めに導くと聖書は言っているんです。 すべての信者は、復活して「よみがえりの肉体」を持って、天に引き上げられます。その時は「携挙」の時であります。そしてその後7年間を天でイエス様とともに平安のうちにキリスト者は過ごしますけども、この地上では凄まじい地獄が展開されるんですね。 ヨハネはヨハネの黙示録の中で、「おびただしい人が殺され、流れる血は、馬のくつわに届くほどになった」と、この「大患難の時代」を言っております。 オッペンハイマーはですね、この時代について「次の終末戦争では、死人を葬るために生きている人があまりにも少ないだろう」と言いました。 アインシュタインは、終末戦争、ハルマゲドンの戦いについて聞かれた時に、「その戦いのことは分からないけれども、その後にもし第四次世界大戦というものがあるとすれば、その戦いは原始時代のような戦いになるだろう。戦うものが何もない。人々は石を投げ合って戦うだろう」と言っています。 間接的に第三次世界大戦が、いかにこの地上を、地球を破壊し、破滅に導くかということを間接的にアインシュタインは言ってると思うんですね。 戦争の専門家であるダグラス・マッカーサーは、あの第二次大戦が終結したミズリー号の艦上でですね、「『ハルマゲドンの戦い』『終末戦争』は、もうわれわれの戸口まで近づいている」とはっきり言ったのです。 そして「その戦いでわれわれがそのいのちを救おうと思うならば、霊に頼る以外ない」と、彼は信仰を告白したわけですね。戦争の、あのスペシャリストがです。 まことのいのちを得ようと思うなわば、私たちは聖霊に頼る以外ないと、マッカーサーははっきりと、あのミズリー号の上で言ったのであります。 「おびただしい人が殺され、流れる血は、馬のくつわに届くほどだ」とヨハネは書きました。おそらくこの時代に人類の三分の一が死に絶える、と聖書は言っております。そしてゼカリヤは、この「大患難の時代」の父なる神の目的の一つであるユダヤ人の救いについて、ユダヤ人の三分の二は残念ながら死に絶えると言ってるんですね。聖書はそのように預言しています。 そして残った三分の一が、この地獄という試練を通して、イエス様に悔い改めて主の救いにあずかることができる、と聖書ははっきり言っております。ま、マッカーサーが「終末戦争は、もう戸口まで来ている」と言ったようにですね、今の時代はまさに終末が近いということを、私たちに示しております。 終末が近いということは、その前に「空中携挙」があるということなんですね。もうすでに死んだ人たちも、もし明日来るならば、私たちはこの「肉体」が「よみがえりの肉体」を持って、すでに死んでいる兄弟姉妹たちと顔を合わせることができます。終末は近い。 例えば多くの人たちは、第三次世界大戦はおそらくアラブ連合、アラブ民族と、ロシアの共同戦線によるイスラエルの侵攻によって始まると言っております。 現在の世界の動向の中であわただしく動いているのは、ソビエト、ロシアではないでしょうか。そしてまた多くの問題を抱えているのは、アラブとイスラエルではないかと思うんですね。 あの湾岸戦争から続く国際状況を見れば、聖書を通して多くの人たちが考えているこの「終末戦争」は、もう間近にあると言ってもいいと思います。「携挙」は近いということなんですね。 この大患難の時代に、復活の「栄光の肉体」を持って天に上げられた私たちは、どのような生活をしているか、ちょっと聖書から見てみたいんですね。 マタイの福音書8:11
私たちは、このような生活を天ですると聖書は言っています。 詩篇133:1-3
この地上の大患難の7年間、天では「しあわせ」が満ちている。「喜び」が満ちている。アブラハムやイサクやヤコブと一緒に、愛する兄弟姉妹と一緒にわれわれは楽しい食事をとる、と聖書はその生活の一端を語っているんですね。なんという主の守り、祝福ではないかと思います。 主なる神を信じた者たち、主イエスの救いにあずかった者たちは、「空中再臨」の時に、その「肉体」も復活してそして天で7年間過ごし、やがて主イエスが「公に再臨」される時、すなわち今度は空中までではなくこの地上に、あのオリーブ山にですね、自らの御足をお着けになる時、「公の再臨」の時に私たちもすべての兄弟姉妹とともに「復活の肉体」を持ってこの地上に来る、と聖書ははっきり言ってますね。 私たちは一度死んで「肉体」は滅びますけれども、その後また「復活の肉体」を持ってこの地上で生活すると聖書ははっきり言ってるんです。「公の再臨」の後に始まる「千年王国」であります。 聖書には「千年王国」っていう言葉は使ってませんけども、多くの人はそのことを「千年王国」と呼びます。この地上で一度死んだキリスト者は、栄光の「復活の肉体」を持って、「霊」と「たましい」との一致を持って、この地上で千年の間生活する。そしてその「千年王国」が終わると、新しい新天新地、まことの神の世界で永遠に生きると言ってるんですね。 途方もない、われわれの理解を遥かに超えることをですね、聖書は神の真実として、神の約束としてイエス・キリストが与える永遠のいのちの展開として、私たちに言っています。ですから「死は決して終わりではない」ということであります。 ヨハネの黙示録20:4
すなわち、信じるキリスト者たち ヨハネの黙示録20:4
と、ヨハネはここではっきりと書いております。イエス様が「主のいのり」の内に言われた「御国が来ますように」という、この「御国」は実はこの地上にイエス・キリストが支配者として具体的に建設する「千年王国」のことなんです。 私たちは天から下って来て、「公の再臨」の時にこの地上に完全な肉体を持って、千年間「王」としてこの地上を支配すると、ヨハネはヨハネの黙示録の中に神の約束としてはっきり書いております。 「千年王国」のイメージについては、何十という箇所が聖書の中に書かれていますけれども、一箇所だけ見てみましょうか。 アモス書9:13-15
ま、千年王国の一つの・・・ (テープA面 → B面へ) ・・・の8月でしたか、当番で沖縄の集会に行って来ました。そしてあの、皆さんもよくご存知の兄弟のお宅にうかがったんですね。兄弟は筋肉が死んでいく病気で、もう上半身の筋肉は全く駄目なんですね。下半身の筋肉も次第に死んでいく。「死」が間近にある兄弟です。 兄弟の小さなアパートでですね、私たちは交わったんですけども、四畳半ほどの部屋だったんですね。兄弟と奥さんと二人の子どもと、そして沖縄集会の兄弟姉妹4〜5名と、そしてたまたま帰省していたある兄姉ご一家、子どもは5人ですから7人と数えてください。四畳半にそんだけ入ったのです。8月の沖縄です。 しかしあの兄弟は、交わりの間中笑顔を絶やさず、そしてゆったりとしており、そして穏やかでした。 帰省していた兄姉のですね、下は生まれたばかりの赤ちゃんからあの小さな5人の子どもたち。みずみずしいいのちです、それが兄弟の周りをうろうろ、うろうろ・・・、そして兄弟は、「死」が目の前に来ている。 あのコントラストを見て、ちょっと残酷かなと思ったんですけども、兄弟は1時間半位の交わりをしたけれども、終始ニコニコしており、穏やかであり、ゆったりしておりました。イエス・キリストの完全な統御、平安の支配があったから、あの四畳半の20人近い交わりは、まさに時が止まったようにゆったりとしており、広々としており、そして喜びと平安が満ちていた。そのとき僕は「ここがまさに千年王国だ」と思いました。 あの兄弟は、11月の沖縄キャンプで奥さんとともに洗礼を受けたそうです。彼は今の奥さんと結婚する前に、5人の子どもまでつくった前の奥さんがいてですね、その家族を捨てて今の奥さんと結婚したんですね。人間的に言えばちょっとひどい。 しかし11月の洗礼式にですね、前の奥さんとの間にできた5人の子どものうちの一人は、兄弟の証しを聞いてそして救われたんです。そして親子3人、洗礼を受けたのです。何という主の栄光の現われではないかと思うんですね。 兄弟は、おそらくご自分がまもなく死ぬことを、よく知っておられるはずに違いない。しかし「死は終わりではない」。死んですぐ、私の「霊」と「たましい」はパラダイスのイエス様のところに行く。そしてその後で、今はなえて死んでいくこの筋肉も肉体も、必ず「栄光の肉体」に復活してこの地上でイエス様とともに、また楽しく暮らすことができる、という確信があるから、彼はあの小さなみずみずしいいのちを前にしても、くじけることなく、穏やかであり、心豊かであったに違いないと思うんですね。 私たちはこの地上で「完全な肉体」を持って千年の間生きます。そしてその千年が過ぎて、まことの「新天新地」「神の国」に私たちが入っていくんですね。そこで永遠に私たちは生きると書いてあります。 「新天新地」についてはヨハネの黙示録の21章の1節に書いてありますね。 ヨハネの黙示録21:1-4
キリスト者の特徴とは、永遠なるものに価値を置くことです。ということは、永遠なるものに対する私権を持つということなんですね。そういう私財を持つということです。 まさにこの「新天新地」は、われわれが永遠なる私権を持っていることのできる「希望の国」ではないかと思いますね。それはあの「千年王国」の後に、神様によって用意されていると、聖書ははっきりと言っております。 信じる者たちの「死」は、決して終わりではなく希望の始まりです。 一度死によって分離した「肉体」と「霊」と「たましい」とは、「空中再臨」の時に一つとなり、イエス・キリストの栄光の身体へと復活し、あの大患難の7年間も天上で過ごすことができ、そして「公の再臨」を通してこの地上に再び帰ってくる。そして千年間、この地上を主とともに支配していくことができ、「王」として支配することができ、そして「新天新地」「まことの神の国」で永遠に生きる、と聖書は はっきりと約束しているのであります。 しかし先ほど言いましたもう一種類の人間、すなわち主イエスの救いを拒み続ける人間、すなわち「信者」に対して「未信者」たちの復活はどうでしょうか。 聖書は彼らもまたその「肉体」が復活する、とはっきり言ってるんですね。未信者たちの「肉体の復活」は、「千年王国」の終わりにもたらされます。すなわち私たちが「新天新地」に入る時に、未信者たちは復活するんですね。 「空中携挙」に会うこともなく、7年間の天上での素晴らしい生活を知ることもなく、「千年王国」の「王」としての喜びの支配を経験することもなく、あの死んだ未信者たちはハデスで、永遠に「霊」と「たましい」は明確な意識を持って生き続けるんです。そして「千年王国」の終わりに、彼らはあの朽ち果てた「肉体」が復活するんですね。 そしてその「肉体の復活」は、永遠のいのちへの復活ではなくて、それは主なる神の最後の審判、すなわち裁きを受けるための復活である。すなわち主なる神イエス・キリストの前に二つの足で立つための「肉体の復活」である、と聖書ははっきりと言っております。 ヨハネの黙示録20:12-15
と、ヨハネはここで書いております。 「千年王国」の終わりに、主イエスを信じない未信者たちは、あのハデスから出されて「霊」と「たましい」とともに、その「肉体」も復活して主なる神イエス・キリストの前に立たされます。 それは最後の審判を受けるための復活であり、裁きの結果は「火の海に投げ込まれる」ことであると、聖書はここではっきりと言ってるんですね。ヨハネの黙示録の20章のこの12節から15節までは、聖書の中で最も恐ろしい箇所だと言われております。 「火の海」というのは地獄のことであります。そこで彼らは永遠に生き続けなければならない、と聖書は言ってるんですね。 「復活の肉体」を持って、「霊」と「たましい」を持って、彼らは永遠に生きると聖書は言っております。ですからそれは、「永遠の滅びである」とも言われるものであります。断末魔の苦しみが終わることなく、永遠に続くということなんですね。 ヨハネは別の箇所で、「あまりの苦痛に彼らは死を求めるが、死さえも逃げて行く」と記しています。あまりの苦しさのゆえに、自らのいのちを断とうと、復活した未信者たちはするのでありますけれども、自殺すらも許されない、と聖書は書いてあるんですね。永遠に生きなければならない。 悲嘆を通り越した、なんという悲劇でしょうか。しかし主イエス・キリストを拒み続けた人間の行きつく先は、この最後の審判であり、「千年王国」の後に待っている、最後の審判であり、そしてこの裁きの結果は「火の海」の中で、いわゆる地獄でその断末魔の苦しみを永遠に生き続けることであると聖書ははっきりと言ってるんですね。 聖書が「恵みの書」、「救いの書」として私たちにどうしても必要なわけは、実はここにあるんです。「主を信じない者は、永遠の滅びに行く」、これが聖書が言っていることであります。 救世軍のブース将軍は、「人がもしこの光景を見たならば、必死になってイエス・キリストのしてくださった『救い』のために働かざるをえないだろう」、神学校に行くよりも、聖書を勉強するよりも、一度この光景を見れば、人はイエス・キリストの「救い」のために必死になって働くとブース将軍は語っています。 私も初めて経験したことでありますけれども、今年の1月に天に召された兄弟、彼は88歳で召されましたけれども、その88歳の最後の最後に彼は救われたんですね。 兄弟姉妹の必死の祈り、働きに主は答えてくださって彼は救われたんです。彼の遺体をですね、火葬場で火の中に入れた時に、兄弟姉妹たちの中から盛大な拍手が起こったんです。隣にいたどっかのお坊さんはお経を読むことを止めてしまった。私も多く火葬場に行っていますけれども、あの経験は初めてであります。 多くの人々にとっても、初めての経験ではないか。火葬場で遺体が火の炉の中に投げ込まれる時に、拍手がわき起こるということは、ちょっと不思議な出来事に違いない。しかしあの拍手こそ、永遠のいのちをいただいた者だけがですね、「新しく、とこしえのいのちを神の国で生きられる」という喜びの爆発ではなかったか。 敬虔なクリスチャンの両親のもとに生まれ、クリスチャンホームに育ち、しかし神から離れた88歳の生涯を生きた兄弟が、その最後の最後に救われた。「満塁逆転ホームラン」に対する、喜びの爆発ではなかったかと思うんですね。それは雄叫びであります。あの火葬場いっぱいに響いた兄弟姉妹の拍手はですね、主への感謝と賛美に満ちた、イエス・キリストの栄光の輝かしい証しに違いない。 一人の罪人が悔い改めるならば、すなわち主イエスによって救われるのならば、神の御使いたちの喜び、すなわち拍手喝采が天であると聖書は言ってるんですね。その投影に違いないと思います。 ベック兄姉の2番目の娘さんの墓は軽井沢にあります。彼女は生後6ヶ月で死にました。6ヶ月で天に召されました。 幼くして死んだ、あの子の小さな墓には次のような言葉が書かれていますね。「ここに上れ」、ヨハネの黙示録のみことばであります。 ヨハネの黙示録4:1
ベック兄姉の信仰の証しであります。彼女はなぜか生まれて6ヶ月で死んだけれども、彼女もまた「完全な肉体」を持って復活して天で会える。この地上で千年間生活ができる。「新天新地」で永遠に生活ができる。だからベック兄姉はあの小さな墓に、ヨハネの黙示録の1節、「ここに上れ。」という言葉を書いたのであります。 主イエスの救いにあずかった者の「死」は喜びに変わります。なぜならば「死」は、主イエス・キリストが天で「ここに上れ」と呼んでくださった時だからであります。 そして「死」は終わりではなく、やがて「肉体」の復活を伴った、「永遠のいのち」を神の国でとこしえに生きるための、新しい旅立ちに他ならないからであります。そして神の国で主イエスとともに、愛する兄弟姉妹たちとともに、永遠に生きるそのスタート地点であるからなんですね。 「霊」も「たましい」も「肉体」もすべて復活するのであります。 生きて働くまことの神、イエス様は今日もまた次のように呼びかけております。ヨハネの福音書から終わりたいと思います。 ヨハネの福音書5:24
主イエスの前に正直に出ることが、今日もまた求められております。そして悔い改めて主の恵みにあずかった者は、その救いの結果として「神の裁きに会うことがなく、死からいのちに移っている」と、聖書は約束しております。 どうもありがとうございました。 |