引用聖句:マタイの福音書26章26節-29節
今読まれた箇所は、イエス様がその信じる者たちに聖餐式とはどういうものか、礼拝の中心である聖餐とはどういうものであるかということについて語ったみことばでした。 嬉しい箇所もあるんですね。天の御国で新しくぶどう酒を飲もう。アル中はこの地上では酒を飲めませんけども、天国ではイエス様と共に誰はばかることなく、お酒を飲めるとあります。 むかし兄弟は薬中毒から救われて、もう薬は飲めない。薬を追っ払うことが出来ないということを話したら、姉妹は「天国では飲める。ヨハネの黙示録に書いてあるでしょう。天国の都の中には大きな川が流れてて、その周りに十二本の実のなる木がなっている。」って。「それは諸国の民を癒す木であるから、薬の木です。兄弟、天国で薬飲めますよ。」って。アル中、薬中にとっては天国は希望でありますね。 何べんも話してるから、もうみなさん知ってると思いますけれども、30年前の暑い夏の日曜日に、私が初めて吉祥寺のキリスト集会の礼拝に参加しました。その数ヶ月前にベック兄と交わって、罪を悔い改めて、イエス様を信じる者とされたからであります。私が集会に行ったときに、ベック兄の奥さまのミンヘンさんは二階の窓から私を見て、急いで酒屋に走ったんです。 アル中が来た、酒を飲まそう。ではない。酒屋に走ってぶどうジュースを買ったんです。それまで何十年もあの集会では、礼拝の聖餐式の杯の中はぶどう酒でした。しかし、一人のアル中が救われて、集ったという事実を前にして、ミンヘン姉妹はあの杯の中のぶどう酒をぶどうジュースに変えたんであります。 それから30年。集会の聖餐式の杯の中は今に至るまでぶどうジュースです。ドイツの集会でも、ロサンゼルスの集会でも、ほかの集会でも、どの集会に行っても杯の中身は今に至るまで、もちろん日本の集会もそうですけども、ぶどうジュースであります。後で分かったんですけども、あのぶどう酒をぶどうジュースに変えたのは、イエス様でした。 ベック兄とミンヘン姉妹はドイツの集会で一人のアル中の兄弟が集って、そして聖餐式のぶどう酒を飲んで、それからあの兄弟は集会に来なくなりました。訪ねて行ってみると、彼の部屋は酒瓶だらけで、彼はその中で死んでいたそうです。 アル中は長い間、酒をやめていたとしても、一滴でも酒が入ると、それが呼び水となって前にも増して飲むようになります。その事実をドイツの集会でベック兄姉は知っていたから、私が行ったときから杯の中身はぶどうジュースになったのであります。 あの30年前の暑い夏の日曜日の初めての礼拝の聖餐式で杯にあずかったとき、それは私がイエス・キリストの愛を個人的に体験した初めであると断言することが出来ます。ですから私にとって礼拝の聖餐式は、あのイエス様の初めの愛にいつも帰ることを意味します。 日曜日ごとに主の杯にあずかるということは、イエス様のあの初めの愛に満たされることを意味します。それは私にとって生きる喜び、生きる力となりました。 イエス様はご自身が最初の奇蹟を行なった、あのカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられました。私たちの集会では、ぶどう酒をぶどうジュースに変えてくださったのであります。どうしてイエス・キリストはこのように人を恵んでくださるのでしょうか。ヨハネの福音書の6章の37節からお読みいたします。 ヨハネの福音書6:37-40
とイエス様はおっしゃいました。わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。これが私たちに対するイエス様の思いです。 イエス・キリストは、ご自身の救いにあずかった信じる者ひとりひとりを誰ひとり失いたくない。これが主の思いを満たしている唯一であります。 ですからあの最後の晩餐の席でイエス様は、この祈りを父なる神に祈られました。ご自身が十字架に架かって死なれる時、その時が来たことを知った上で、主は最後の祈りとしてこの祈りを祈り得たのであります。有名な大祭司の祈りと言われている箇所ですね。ヨハネの福音書の17章9節。イエス様は繰り返し祈られます。 ヨハネの福音書17:9
彼らとは私たち信じる者です。 ヨハネの福音書17:9
すなわち私たちは、父よ ヨハネの福音書17:9
とイエス様は祈られました。 ヨハネの福音書17:10-11
イエス様はさらに繰り返します。同じヨハネの福音書の17章の24節から。 ヨハネの福音書17:24-26
イエス様の祈りの中心とは、イエス・キリストの救いにあずかった私たち信じる者がいつも一つとなり、そしてイエス様と共にいることであります。ですから、そのために主の救いにあずかった信じる者たちがいつもイエス様と一緒にいる。 そして、いつも神の愛の中にとどまっていることが出来る。そのように主は父に祈ったのであります。 そしてこの祈りの最後に、聖書が提供する主なる神の人間の救いについてイエス様ご自身が断言していますね。同じヨハネの福音書の17章の3節。 ヨハネの福音書の17:3
聖書は神の救いを永遠のいのちと呼びます。唯一まことの主なる神が、イエス・キリストを通して人を救うときに、その信仰の賜物として信じる者たちもまた、結果として永遠のいのちをいただくからであります。 ですから人が救われるためには、永遠のいのちと呼ばれるイエス・キリストを知る以外に無いと、聖書は言い切るのであります。イエス様は十字架にあの架かられる前の最後の夜、あの最後の晩餐の席で・・・。この最後の晩餐は最初の聖餐式ともなりました。愛する弟子たちにパンを裂き言われました。 ルカの福音書22:19-20
わたしを覚えてこれを行ないなさい。私たちが聖餐式でパンを裂き、いただき、杯を飲むということは、イエス・キリストを覚えることである。と主は言われます。ここで裂かれたパンとは、十字架で私たちすべての人間の罪を負って、罪の塊として断罪されるイエス様ご自身の、あのからだを意味します。 杯を満たすぶどう酒もまた、全人類の罪の身代わりとして死ぬために流されるイエス様の血潮を象徴しています。私たちがこの日曜礼拝であずかる聖餐式とは、あのパンと杯にあずかるということは、結局、イエス様の十字架のみもとに立ち返ることであります。 それは具体的には、決してあなたを捨てない、わたしはあなたがたを決して失うことがないという主なる神のあの約束に確信を持って立ち返ることであります。そしてイエス様の十字架の死が罪の赦しに満ちた神の愛ならば、それはいつもイエス様の最初の愛に帰ることにほかならないからであります。 ヨハネは次のように手紙に書きました。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
同じヨハネの手紙第Iの5章。6節、8節。 ヨハネの手紙第I、5:6
水とは、イエス様が受けられたバプテスマのヨハネによる洗礼式のことです。血とはご承知のように、十字架上の死であります。イエス様のこの生涯の始めとこの生涯の終わりをここで意味します。 ヨハネの手紙第I、5:6-8
ヨハネの手紙第I、5:11-12
ことばを変えて言うならば、ここでヨハネが証ししたように、私たちが聖餐式でパンと杯にあずかるということは、永遠のいのちと呼ばれるイエス様のよみがえりのいのちにあずかることでもあり、結局、永遠のいのちをよりよく知る最善の方法であるからであります。ですからイエス様は、わたしを覚えてこれを行ないなさいと言いました。 たった一人のアルコール中毒者のために聖餐式の杯の中身を変えるということは、私にとってはイエス様の愛と言わざるを得ません。他にことばが無いんですよ。 ですから日曜礼拝は、そしてその聖餐式は、私の人生において第一となりました。そこから喜びと力がもらえるからであります。 私は結局、イエス様からもう離れられない。何があっても離れられないのであります。 そして日曜日ごとに、イエス様の十字架の死とよみがえりのいのちによって、イエス様の初めの愛に帰って行くことが出来るからであります。 聖餐式でも礼拝でも私たちの祈りが祈られますけれども、その祈りの中心とは、みな同じです。私を愛し、私のために十字架に架かって死んでくださったイエス・キリストという信仰の証にほかなりません。 これも前に話したんですけども、2007年の3月17日のことです。御代田で洗礼式がありました。二人の兄弟姉妹が洗礼を受けたんですね。一人は17歳の若い姉妹です。一人は71歳の兄弟でありました。 2007年3月17日。17歳の姉妹と71歳の兄弟。7だらけ。こじつけじゃないですけども、この数字が示すように、あの洗礼式は非常に祝福されました。二人だけの洗礼式でしたけども、非常に祝福されたものでありました。 17歳の娘の洗礼式で母親の姉妹が祈ったんですね。あの姉妹の祈りとは次のようなものです。「愛するイエス様。私はたった一人で、一人であなたのみもとに来ました。一人ぼっちでした。しかし、あのときからもう私は一人ぼっちではありません。」と祈ったんですね。 「あのとき私は孤独でした。しかしあれから、あなたの救いにあずかってから、もう一人ぼっちではありません。あなたがいつもあれから一緒にいてくれたからです。」と彼女は祈りました。 「そればかりではなく、イエス様、あなたは私の家族を次々と救ってくださり、そして今日、愛する一人娘も救い出してくださいました。娘もやっと神の家族の一員となりました。」と祈ったのであります。 この祈りに象徴されるように、イエス・キリストの救いとは、孤独からの解放です。昨日までの過去からの解放であります。あの姉妹が洗礼式で祈ったように、彼女は救われる前はまったく孤独でした。 父親は私と同じアルコール中毒者で、家に帰って来ませんでした。家庭崩壊です。母親も精神を病み、姉妹自身も病みました。彼女はずーっと笑わない娘になりました。そして電車も乗れなくなりました。彼女はまったくの孤独でした。 しかしイエス様の救いにあずかってからすぐに、母親が救われ、それから父が救われ、おばが救われ、その息子、娘が救われ、甥や姪がどんどん救われていったのであります。血族が神の家族となりました。それもたくさんであります。彼女自身も集会の兄弟と結婚して、そして娘が生まれました。それから17年経っての祈りです。 「イエス様。私はずーっと一人ぼっちでした。しかし、あなたに救われてから、一人ぼっちではない。そればかりではなく、この17年の間にあなたは多くの親族を神の家族としてくださいました。」、こういう祈りが祈り得たところでは、主のご臨在がありますから、主の祝福がある。 僕たちは何で東京から喜んでこの掛川の地に来るかと言うと、ここにイエス様が豊かにご臨在しているからです。ですから主の聖日の祝福というのは、主が豊かにおられるかどうかにかかってます。そして主が豊かにおられる、例えばこの集会の日曜礼拝のようなところでは、私たちは喜びと力をいただいて、また帰ることが出来るのであります。 ちなみに、あのたった二人の洗礼式のもう一人の71歳の兄弟は、姉妹の叔父であります。お母さんの弟であります。非常に祝福された洗礼式となりました。 結局、あの洗礼式の中心におられたイエス様は、何をもって豊かにおられたかと言うと、あのパウロとシラスの叫びではないかと思うんですね。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という約束の確信をもって、あのみことばそのものとしてイエス様はあの洗礼式の中心におられたようであります。 主はどうして信じる者たちをこのように恵んでくださるのでしょうか。イエス様はかつて次のように約束してくださいました。 ヨハネの福音書14:16-20
ここでもイエス様は、わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしないと言われました。イエス様は十字架に架かって死なれました。しかし、三日後に復活され、やがて天に召天された後で真理の御霊、聖霊を私たちに送ってくださいました。 イエス様が豊かにおられるという意味は、聖霊なる神としてこの集いの中心におられるということです。そしてまた、聖霊なる神として私たち信じる者たちの霊の部分に住んでいてくださるということであります。 あの17歳の姉妹と71歳の兄弟。二人だけの洗礼式でありましたけれども、母の祈りに象徴されるように、豊かにイエス様がご臨在してくれた洗礼式となったのであります。 ガラテヤ人への手紙3:26-28
バプテスマを受けて、すなわち洗礼によってキリストにつく者とされた者はみな、神の子どもであり、神の家族として一つにされる。とパウロは手紙に書いたのであります。 あの洗礼式もまた、このみことばの成就でありました。洗礼とはイエス・キリストによって救われた者が、信じる者が一度水に沈んで、再び水に上がるというあの儀式は、イエス様とともに罪に死んで、そしてイエス様とともに永遠のいのちに生きるということの証であります。 コロサイ人への手紙2:12-14
すばらしいみことばであります。そして、洗礼式のもうひとつの証しとは、洗礼を受ける兄弟姉妹たちがイエス様に愛された者として主を愛そうという愛の告白、愛の信仰告白にほかなりません。 イエス様に愛された者として主イエスを愛そうということはどういうことでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。そのことについてイエス様ははっきりと私たち、主のバプテスマにあずかった一人ひとりに明示しています。 マタイの福音書の25章の35節から。イエス様に愛された者として主イエスを愛そうという信じる者たちの愛について主はここで語っています。 マタイの福音書25:35-37
正しい人たちというのは、私たち信者のことです。 マタイの福音書25:37-40
王とはイエス様ですね。私たちに答えて言います。 マタイの福音書25:40
イエス様はこのように私たちに言われております。 ここで王として語られているイエス様は、私たち信じる者が、救われた兄弟姉妹たちが困っているとき、すなわち空腹であるとき、渇いているときその空腹を癒し、渇きを癒し、旅にあるとき宿を貸し、裸でいるとき着る物を与え、病や牢にいるときにたずねて励ますこと。このことがわたしを愛することだと主は言うのであります。 そしてそれは同じ兄弟姉妹ではなく、周りの未信者にもしろ。とイエス様は言います。最も小さい者たちにしろ。それこそ主イエスに愛された者として、主イエスを愛することであるとイエス様はここではっきり言うのであります。 結局、主の証し人として兄弟姉妹たち、互いに愛し合い、その愛をもって未信者に接しよとイエス様はおっしゃいます。 これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。愛された者として主イエスを愛するとはそういうことであるとイエス様ははっきりここで私たちに言われます。 マルコの福音書の12章の中で次のような一節があります。 マルコの福音書12:29-31
ここでイエス様が言われるように、私たち信じる者が主への礼拝とあの聖餐式を第一として守り、そしてイエス様が言われたように、その日常を信仰生活の中にあって空腹の人に食べ物を与え、渇いている人に飲み物を与え、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病や牢の中にいる人をたずね、そして慰め、励ますなら、ここでイエス様の言われた最も大切な二つの命令、すなわち主なる神の愛の律法をまっとうするのだと主ははっきりと言われます。 そしてこのことこそが、主なる神イエス・キリストの最も喜ばれることにほかならないのであります。 主に喜ばれることをすることとは、主を愛するということと同義語であるからです。 私事になりますけれども、私の息子の結婚式は、普段あまり歌われない聖歌で始まりました。それは聖歌の418番で始まったんですね。歌詞が次のようになります。 「わたしは今日までさすらいの旅を続けておりました。光を受けたこの日をばさかいにすると別れます。世の罪人を救うため、お死になされたキリストよ。けがれも罪も洗いさり、きよい私となしたまえ」 まず結婚式では歌われない聖歌です。ある兄弟は最後の祝辞の中で「いやぁ。この結婚式はよかった。どうしてかと言うと、最初にこの聖歌418番を歌ったから。」だと言ったんですね。 後で息子夫婦に聞きましたら、「どうしてこの聖歌を選んだの?」答えは、「私たちはきたないから。」私たちはまったく恥とけがれに染まった者だから。だからどうしても人生の再スタートである結婚式の最初に、この聖歌を歌いたい。これが答えでした。 「けがれも罪も洗いさり、きよい私となしたまえ」これがイエス様に対するあの二人の祈りであります。結局この聖歌を歌って始まったということは、この祈りから始まったということであります。 人間の清さとは一体何でしょうか。それは私たち信じる者の優しさでしょうか。正しい行ないでしょうか。思いやりや献身的な奉仕でしょうか。聖書は違うと言います。聖書は、人間の清さとは主なる神に「あなたの罪は赦されている。」と言われた者がそのみことばを喜んで受け取ることだと言います。 人間の清さとは、私は主イエスによって罪赦された者ですと証しするところから生まれて来ます。 イザヤは、たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。と言いました(イザヤ書1:18)。また別の表現でイザヤは、わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ書44:22) 人間の清さとは何でしょうか。イエス様に罪赦された者が、その者だけが確信を持って主のもとに帰ることであるとイザヤが言います。 結局、私たち人間が主なる神の聖潔、清さにあずかるという唯一の方法はそれしかないと聖書は言うのであります。 イザヤ書43:18-19、25
聖書が繰り返し語るように、私たち人間は万物の創造主なる唯一まことの主なる神によってその罪を赦されたとき、すなわちイエス・キリストの十字架の死とあの贖いによってその罪を赦せたときに、その自覚をしたときに、結果として主の強さにあずかることが出来ます。どうしてかと言うと、人間は神の赦しによってのみ、砕かれるからです。 絶望や恐怖や人間的な愛をもってしても、人間の頑なな心は砕かれません。人間の頑なな心は主なる神の赦しによってのみ砕かれていくからであります。 その時から人は変わります。なぜかと言うと、主なる神の清さにあずかるからであります。 私たちの信仰生活においても、私たちはみな、数々の罪や過ちを犯します。失敗し、挫折し、時には信仰の破綻もきたします。しかし、そのこともすべて正直に主に告白するときに、イエス様は受け入れ、赦し、そして私たちを慰め、励ましてくれるからであります。 この経験によってのみ、私たちはイエス様のあの優しさに、へりくだりに、主の謙遜に少し近づいていくわけです。 すなわち、主の聖潔に近づいていくことが出来るからであります。 かつて弟子たちが、イエス様、あの兄弟、あの姉妹が罪を犯したらどうしましょうか。七度までは赦してあげましょうかと言ったとき主は、頑として、違う。七を七十倍するまでわたしは赦しますと言いました。 結局、どこまでも、いつまでも赦すということです。だから私たちがいつも、いつも主のもとに悔い改めの心を持って立ち返る必要があります。そうすれば主なる神のきよさにあずかることが出来る。主の謙遜に少し近づくことが出来る。 パウロは、罪の増し加わるところに恵みも増し加わりますと言いました。それは、そういうことを意味するのであります。 あの息子夫婦が結婚式で選んだ、聖歌418番の三番目の歌詞は次のようなものでした。 「私の神よ、キリストよ。ほかには誰も頼りません。あなたばかりをあてにして、この世の中を旅します。」この賛美にあるように、信じる者が主イエス・キリストだけに頼るとき、主は必ず助けてくださり、最善へと導いてくださいます。 どうしてかと言うと、主なる神は私たちを決して捨てない神であり、私たち信じる者を一人も失いたくない神であるからです。 イエス・キリストに救われたクリスチャンとはどういう人でしょうか。イエス様は「決して捨てない。」と言われた人たちです。主の恵みから失われることのない人たちです。 イエス様の救いにあずかった人とはどういう人でしょうか。主なる神が、一人ぼっちにしないと言われた人たちです。孤独から、過去から解放された人々であります。そして神の子どもとされ、神の家族として一つになる喜びに満たされた人たちであります。 イエス・キリストに救われた信じる者たちとは、どういう人たちでしょうか。主イエスに愛された者として、主イエスを愛そうと喜ぶことの出来る人たちです。そして、その喜びによって元気になる人たちであります。 イエス・キリストの救いにあずかった信じる者とは一体どういう人たちでしょうか。イエス様に罪赦された人たちであります。その罪、咎を忘れた。もう思い出さないと言われた人たちです。 そしてイエス様に救われたクリスチャンとは、悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる人たちのことを言います。 死を前にしても恐怖に怯えない人たちであります。なぜならば、イエス様のよみがえりのいのち、永遠のいのちを生きる天の御国をみな相続しているからであります。 最後にマタイの福音書の25章を読んで終わりましょうか。先ほど読んだマタイの福音書25章の前半ですね。 マタイの福音書25:31
すなわち、主の再臨の日です。 マタイの福音書25:31-34
私たちにですね。 マタイの福音書25:34
これこそが、私たちがすがるべきイエス様の約束、みことばであります。 |