主に帰ろう


染野兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:詩篇122篇1節
1人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。

アメリカのSF小説の作家に、カート・ヴォネガット・ジュニアと言う人がいます。
(よっちゃん注 Kurt Vonnegut(,Jr.)
http://members.tripod.com/~sanaes6/kvjnenpu.html)

1959年に、タイタンの妖女【The Sirens of Titan】と言う彼の作品があります。その中にハーモニュームと言う不思議な生命体が出てきます。ハーモニュームは、女性で、すい星の洞穴に住み、美しい歌だけを歌って生きているのであります。そして、彼女は、美しい歌を食べる時にアクアマリン・ブルーに輝くそうです。また、ハーモニュームは、ふたつの言葉だけで、交信します。そのふたつの言葉とは、

「わたしが、ここに、います。」

「あなたが、そこに、いて良かった。」

この祈りにも似た、祈りそのものとも言える、ふたつの言葉だけで、ハーモニュームは、全世界のすべてとコミュニケートしているのであります。彼女は、なんと、イエス様に救われたキリスト者に似ているのでありましょう。イエス・キリストに、救われた者は祈る者になります。そして、彼らの祈りとは、

「イエス様、わたしは、ここにいます。」

と言う言葉で始まり、その祈りのもたらす結果は、必ず、

「イエス様、あなたが、そこにいて良かった。」

と言う賛美で終わるからであります。救われたクリスチャンとは、一言で言えば、イエス・キリストに祈る人の事です。そして、極言するならば、この二つの言葉だけで、生きる人のことでも、あります。

「イエス様、私は、ここにいます。」
「イエス様、あなたが、そこにいて、良かった。」

このふたつの言葉だけで生きるとき、人は、ハーモニュームのように、光輝くことができます。なぜでしょうか。ハーモニュームが、美しい歌だけを食べて、アクアマリンブルーに輝いたように、人は、主イエス・キストへの賛美の歌だけを食べて生きるとき、人がイエスさまに、賛美の歌だけを歌うとき、人は美しく光り、輝くからであります。

わたしたち人間は、誰でも、幸せになりたい。幸せを願っています。
そして、聖書は、人間が幸せになる秘訣について、イエス・キリストご自身の言葉を持って、つぎのように記しています。

ルカの福音書15:11-24
11またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

有名な放蕩息子の話しです。12節から、16節に語られている放蕩息子とは、イエス様に出会う前の、わたしたちです。まことの神の救いに預かることのなかった私達です。なぜなら、私達は、この放蕩息子のように、自分のことしか考えられなかったからです。
自己中心の我侭な人間は、祈りません。祈りを知らない人間、祈らない人間は、不幸です。必ず不幸になります。

イエス様は、ここで、落ちぶれたみじめな放蕩息子の姿を通してその事を私に、鮮やかに、示しておられます。ここで、語られている父とは、主なるイエス様です。そして、イエス様は、この放蕩息子が、はじめて祈り得た時、どのような態度を取られたでしょうか。
それは、17-19節です。

放蕩息子は、ここで祈りました、悔い崩おれて、ここで彼は、祈り得たのであります。孤独と、絶望的な不幸の中で、彼は祈る人となったのであります。結局、彼は、「イエス様、わたしは、ここにいます。」と言うことができました。この憐れな放蕩息子に対する父親の答えは、祝福に満ちたものでした。それは、20節から答えがあります。

父は、傷ついた息子のたましいを癒しました。父は、すべて失った息子の必要を満たしてくれました。父は、彼自身の喜びと愛で、息子を抱きしめたのであります。ここで、語られている父とは、イエス様、ご自身です。そして、息子とは、イエス様を必要としないで、自分勝手な自我に生きた、すなわち罪に生きたかつての私達自身であります。そして、決って、不幸に泣いた私達のことであります。しかし、そのような者が、「わたしは、ここに居ます。」と、祈り得た結果とは、「あなたが、そこに居て良かった。」と言う賛美の歌であります。それは、父が、その必要を満たしたすべての事柄で、ここに書かれている事柄が、そのことを物語っています。
その事だけで、人は、美しく幸せになります。結局、この放蕩息子のように、ふたつの言葉だけで、人は、十分に幸せになれると、聖書は約束しています。

室生 犀星(ムロオ・サイセイ メチャむつかしい漢字^^;;)
(よっちゃん注 :http://www.kanazawa-net.ne.jp/~bunji/index27.html) と言う詩人は、かつて、次のような詩を書きました。

ふるさとは遠きにありて思うもの 
そして悲しくうたうもの 

よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても 
帰るところにあるまじや 

ひとり都のゆうぐれに ふるさと思い涙ぐむ 
そのこころもて 遠きみやこにかえらばや 
遠きみやこにかえらばや

故郷は、遠くにありて思うもの。
そして、悲しく詠うもの。

「うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても」挫折して、落ちぶれて異土=遠い国で、孤独と不幸で泣いている生活を意味します。
そして、この詩の中心は、そのような絶望的な悲惨な状況の中にあったとしても、故郷に帰るのはよそうと言う決意の詩であります。ですから、中心は、人間の悲しみそのものです。人は悲しみの存在、悲の器と言われます。悲とは、孤独と不幸のひとりじめです。結局、この詩の主人公は、あの放蕩息子の対局に存在します。絶望と孤独の中で、なお、自分の力にすがろうとする時、人は、悲しみそのものであります。

そして、故郷は、いつまでも遠いのであります。なぜなら、彼は、放蕩息子のように、祈ることができないからです。だから、結局、彼は、故郷に帰ろうとしないし、帰れないのであります。

ペテロの手紙第I、2:25
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

聖書によると、故郷に帰ると言うことは、「たましいの牧者」「監督者」であるイエス様のもとに帰ることを意味しています。イエス・キリストご自身に立ち帰ることを意味します。そのことこそ、人が、不幸を通して、幸せになれる唯一の秘訣であるからであります。

ルカの福音書18:13-14
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

「この人が義と認められ家に帰りました。」取税人は、家に帰ることができたのであります。あの放蕩息子も、また、家に帰ろうと、心から願いました。父の家に、たましいの故郷に帰ることができたのであります。ドイツの古いことわざに、「不幸とは、たましいの故郷に帰る道しるべ」と言うのがありますが、意味することは、ペテロの手紙と同じであります。人間は、不幸を通して、主の家に帰ると幸せになれます。故郷に、すなわち、たましいの牧者であり監督者であるイエス様のもとに帰ると、人は誰でも幸せになれます。

ペテロの手紙第I、2:24-25
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

なぜ、人は幸せになるか。その理由は、ここで書かれているように、第一に、イエス・キリストの十字架の贖いの死により、私達が、罪を離れることができるからです。自分自身、自我を含めて、あらゆる束縛からも、解放を意味します。

第二に義のために生きるとあります。私達が、かって、一度も罪も過ちを犯したことのない者のように、主が、私達を取り扱われる事を意味します。完全な赦しを意味すると言うことです。

第三に、キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。ここでペテロは書きました。私達は、回復され、平安と希望を与えられます。そして、このたましいの平安は、イエス・キリストの永遠の命へと、続いている神の約束にほかならないからであります。

ですから、回復は持続します。一時的ではありません。ま、みなさまもご存知のように、プロ野球の大投手に、江夏 豊と言う投手がいます。名前が、示すように、夏の大きな川を想像させる大投手でした。あのプロ野球の大投手は、覚せい剤の現行犯で逮捕されたのであります。その時、新聞のトップニュースで、「江夏 孤独 中毒」と書いてありました。孤独中毒と新聞は報じました。彼は、朝起きると、死んでいるのでないかと寝るのが恐いと、言っていたそうです。
彼は、不安と不眠に怯える者でした。また、俺に会いたければ、パチンコ屋を捜せとも言っていたそうです。パチンコとは、最も、孤独なギャンブルのひとつでしょう。

不安と不眠は、孤独の特性です。人が、どんどん自分から離れていく孤独感にさいなまれて、彼は、覚せい剤の中毒者となってしまったようです。そして、不安と不眠に象徴される孤独とは、聖書によると自己中心の人間にもたらされる心の病いであることがわかります。
そして、この孤独こそ、人間を不幸にし、人を破滅に追いやる最も恐ろしい病気であると言えると思います。

江夏投手と同じ覚せい剤中毒の泥沼から救われた兄弟姉妹が、私達の集会にもおります。ほかの薬物中毒の兄弟姉妹、アルコール中毒の兄弟姉妹、ノイローゼの兄弟姉妹たちは、火曜にAAのミーティングで集まったことがありました。そのAAの場は、一言で言うなら、孤独からの解放の場であるからであります。精神病の場であるからであります。なぜなら、私達のAAの中心には、イエス様ご自身がおられました。そして、私達は、ただふたつの言葉を持って、イエス様と交わることができます。 「 私は、ここに います。」そして、「イエス様! あなたが、いて良かった。」

私達は、AAで正直で、自分自身の弱さを、みじめさを、わがままを、孤独を、かっての放蕩を、あの放蕩息子や取税人のように告白します。それは結局、イエス様に対するひとつの祈りにほかなりません。
ですから、私達は、人間的な力を持ってしては、決して解決できない、薬や、アルコールや、孤独から解放されるのであります。そして、AAから帰るときに、私達は、決って、「イエス様、あなたが、そこにいて良かった。」主を賛美することができるのであります。
私達が、回復され平安と希望を持って、明日に向かうことがきでるのであります。

吉祥寺キリスト集会のAAの回復の力は、このふたつの言葉によって成り立っていたと思います。「イエス様、わたしは、ここにいます。」、「イエス様、あなたが、そこにいて良かった。」この短い、祈りと賛美のふたつの言葉こそ、人を孤独から解放する力があり、心の病いからの回復の力を持つものであります。私達は、AAで不可能を可能にする主イエス様の力を見せて頂きました。

族長時代のヨブの証しもそのことを明らかにしています。
ヨブは、多くのものを持っていました。そして、ヨブは、彼の持っているもののすべてを失いました。考えられない苦しみと悲劇であります。
彼の妻は、ヨブに向かって、「神をののしり死んでしまえ。」と、暴言を吐きました。しかし、この試練の中にあって、この試練を通して、主なる神の前に、ヨブは、こう語りました。

ヨブ記42:5-6
5私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
6それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

ヨブはここで、はじめて主の前に、「わたしは、ここに居ます。」と言うことができました。この短い祈りに対する主の答えはどう言うものでしょうか?

ヨブ記42:10、12
10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。
12主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。

結局、ヨブは、あのひと言葉を持って、主に祝福されたのです。だからヨブは、あなたがそこにいて良かったと言うことができたのであります。ヨブの人生は、ひとことの賛美で終わっていると言っても良いのではないでしょうか。「あなたが、そこに居て 良かった。」

モーセもまた、ヨブと同じ態度を主の前にとりました。モーセは、エジプトの王国を相続する王子の地位から、荒野の羊飼いと言う孤独で苦しい生活を、40歳から80歳まで、40年間送りました。しかし、モーセは、その孤独と苦しい生活を通して、神の前に出るときに、つぎのような態度をとることができたのであります。

出エジプト記3:4
4主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。

モーセは、私は、ここに居ますといい得たのであります。

出エジプト記3:9-12
9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
11モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
12神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

モーセはここでおも、「私はいったい何者なのでしょう。」と言う謙遜の態度をとっています。言いかえれば、私はここにいます。と言っています。結局、モーセが、この態度をとった結果、主は、すでに、祝福を与えておられます。「私は、あなたと共にいる。」
モーセは、この主の約束に導かれて、あの、何百万人と言う民を、エジプトの捕囚から解放することができたのです。出エジプトに際して、主なる神は数々の奇跡をなします。みなさまもよくご存知の数々です。その最たるものは、エジプトに追っ手に追われて絶体絶命のときに、紅海を真っ二つに割って、助けます。出エジプト記を読むと、その数々の奇跡の中で、そして、最終的な紅海を二つに割る奇跡。6-14章のはじめの一節は、すべて「主は、モーセに仰せられた・・・」と言う書き出しになっています。これは、何を意味するのでしょうか。それは、モーセがいつも主の前に「わたしはここに居ます。」と言う態度を取り続けたからであります。

出エジプト記15:1-2
1そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。
2主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。

モーセはここで、主なる神を賛美することができました。わたしはここに居ますと言う態度を取り続けたモーセは、ここで、「あなたがそこにいて良かった。」と言うことができました。

サムエルは、「あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなど、とてもできない。」そう言いました。サムエルは祈りの人であります。イスラエルの偉大な預言者であり、大祭司として、四方八方から攻撃されるイスラエルの平和の統治者でもありました。そして、イスラエルにはじめて王制を創設しました。サウル、ダビデ、ソロモンのイスラエル王朝は、サムエルによって建てられました。
サムエルは、約3000年以上も前の、イスラエルに多くの主なる神の祝福を、もたらしました。その秘訣とは、なんでしょうか。
サムエルは、いつも、幼い少年の頃から、主なる神の前に次のような態度をとったからであります。

サムエル記第I、3:4-10
4そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
5エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
6主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。
7サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。
8主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
9それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
10そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

「はい、ここにおります。」サムエルもまた、私は、ここにおりますと言う態度を取り続ける者でした。イエス様も、人の子として、この地上の生涯を歩まれたときに、ヨブや、モーセや、サムエルと同じように、父なる神に、「わたしは、ここに居ます。」と言う祈りの言葉を持っていつも、神に祈られた。人の子として、絶望的な状況に置かれた時も、イエス様はその態度を少しも変えることはありませんでした。

ヨハネの福音書17:1-3、5
1イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
2それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
5今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

イエス様は、最後の晩餐の終わりに、「父よ!」と祈られました。目の前に置かれた十字架の苦しみと絶望的な状況の中で、父よと祈られた。「父よ、わたしは、ここに居ます。」と言う祈りでした。

17章だけで、イエス様は5度も 「父よ」と祈られています。イエス様のとられた「わたしは、ここに居ます。」信仰の姿勢こそ、み父の主なる神の祝福を得る秘訣です。なぜなら、イエス様の祈りこそ、イエス様に救われた者に幸せをもたらしてくれるからであります。

この17章は、その事の証しでもあり、また、約束でもあります。
イエス様が「父よ、わたしはここに居ます。」と言ったとき、その結果として、私達の幸せのすべての条件がここで与えられている事が、わかります。すなわち、信じる者たちが、イエス・キリストご自身を知ることができるように、永遠の命を頂きました。父なる神と、御子キリストと、愛する兄弟姉妹たちと、聖霊によって、ひとつとなる事もできました。「わたしの愛する子」と言う神の愛と喜びのうちに、いつまでもいる事ができる事が約束されています。

そして、神の栄光と輝きは、それを持って、信じる者たちが、主の福音を述べ伝える者とされました。真理と聖別と守りも、信じる者のものとなりました。

ですから、イエス様は、十字架にかかって死なれる時に、次のように言うことができたのです。「完了した。」結局、すべては終わったと、イエス様は言うことができたのです。それは、御父に対する、「あなたが、そこに居て良かった。」と言う賛美であります。

人間にとって、最も必要なもの、人が幸せになるすべてが、ここで、私達に与えられました。イエス・キリストを信じる信仰とは、さきほど兄弟が言われましたが、きわめてシンプルなものであります。あの放蕩息子のように、取税人のように正直に、イエス様の前に出ることです。あとは、ひとつの祈り、ひとつの賛美だけで、十分だからです。

「わたしは、ここに居ます。」

「あなたが、そこに居て良かった。」

イエス様も御父と、このふたつの言葉で交わり、そして祝福を得ました。また、言葉を変えて言うなら、イエス様の救いとは、このふたつの言葉を持って、父の家に、すなわち魂の故郷に帰ることを意味します。だからダビデは、

詩篇122:1
1人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。

と、語りました。
イエス様は、ヨハネの福音書の中で、次のように言われています。

ヨハネの福音書14:1-4
1あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
4わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

イエス様は、ここで、もうなんの心配もいらないよとおっしゃいました。 主の昇天と再臨。イエス様は、私達のために、御国にやすらぎの家を備えに行かれています。 そして、再びこの地上に来られ、主の家で、主と共に住むようになります。ですから、 私達は、いつでもどんな時も、ふたつの言葉だけで、主と交わることができるのです。

「わたしは、ここに居ます。」

「あなたが、そこに居て良かった。」

なぜならば、イエス様もまた、「わたしは、ここに居ます。」そして、「あなたが、そこに居て良かった。」とおっしゃってくださるからです。




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