掛川家庭集会


染野兄

(掛川家庭集会、2003/09/06)

引用聖句:ルカの福音書23章32節-34節
32ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

今日ここに来る途中で、午後3時ごろ清水で東名を下りまして、こちらの兄姉の長男のお嫁さんのお父様と初めてお会いしました。彼は大腸がんで、本当は8月いっぱいで召されるという医師の診断でしたけども、手術前に家族はがんであるということを告知したようであります。
それを受けて、今日集会の姉妹たちとお見舞いに行きました。もちろん末期症状ですからやせ細って、元気な頃は立派な体格であろうかと思われるような方でしたけども、寝たきりでおりました。

奥様と、お嫁さんが看病しておりましたけれども、本当のこと言って「もう、がんであなたのいのちは3ヶ月です。」「もうあなたはあと半年です。」と死の宣告をされた、イエス様を知らない人のところに行くことは、本当は苦痛なんです。
何を言っていいか分からないから。頑張れと言っても、頑張りようが無いんです。結局人間の言葉は、そのような死を前にした人間にとって無力です。何を話そうかと思ったときには、本当に心配と不安に駆られます。
しかし聖書は、主の御心を尋ねるならば、そのときイエス様に祈るならば、必ず時にかなって、その場にかなって、その人にかなって、最善の言葉を用意してくれるという約束があるんです。ですから私たちは、心配だけどもそのようなところに行くことが出来ます。

聖書は非常に厚い書物です。旧約聖書が39巻ですか、新約聖書が27巻、あわせて66巻。これはバイブルと呼ばれておりますけども、別の言葉で「ヒズ・ストーリー(His Story)」=「彼の物語」、すなわちイエス・キリストの物語です。
聖書はイエス様の書物です、といわれております。そしてこのヒズ・ストーリー=「ヒストリー(History)」という言葉が、「歴史」という言葉の語源になりました。ですから、歴史というのは、私たちは「今年は西暦2003年だ」と言いますけども、これはヒズ・ストーリー、すなわちイエス・キリストが生まれてから2003年目という意味です。
私たちは紀元後を「A.D.」といいます。これはラテン語で「Anno Domini」、「神のもとにある時代」ということになります。それから紀元前を「B.C.」といいます。これは「Before Christ」、イエス様が生まれる前。これが紀元の語源です。すなわち「ヒストリー」と我々が何気なく英語で言っている言葉の語源は、イエス・キリストの物語である、聖書であるというこの認識から発しているということなんです。

聖書の中にイエス・キリストについて、イエス様の呼び名について、実に600近い名前が書かれています。その一つでたとえば、イエス・キリストについて聖書は「神の愛」といいます。「永遠のいのち」といいます。あるいは「わが岩」「わが盾」「わが隠れ場」・・・いろんな言葉があります。
しかしイエス様ご自身は、ご自分について何と言ったかといいますと、「わたしは真理です。」
人間で、「私は真理そのものです」ともし言う人がいるならば、気違いか、あるいは神だけです。イエス様ははっきりと「わたしは真理です」「真理そのものです」と言いました。
そして「真理はあなたがたを自由にする」、結局人間をあらゆる束縛から解放して自由にするのは、唯一まことの真理、すなわちイエス・キリストだけだというイエス様ご自身の証しであります。

今日もお見舞いに行くことは苦痛でした。しかし真理が語ってくれると思うと、その不安を超えて行くことが出来ます。たぶん私は「死は終わりではない。」ということをはっきり申し上げることができました。
どうして言えるかというと、イエス様ご自身が「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

「ね、おとうさん。人生、この地上だけの生活で終わったら、もう人間はめちゃくちゃです。何でもありです。結局死後の世界があって、死が終わりではなく、イエス・キリストを信じる者は、イエス様が備えた神の国・天国で永遠に生きるという約束があるから、すなわちこれが、人間の内なる良心として、かろうじて地上のこの生活を保ってるんです。
この約束が人間からすべて取られていたらば、おそらく人類はとっくに滅亡していたでしょう。死は終わりではない。」

数日前にがん告知された、もう本当にこの地上にいのちを残されていない、あのお父様にこういうことを言えるんです。どうして言えるかというと、真理だからです。
そう話したとき、お父さんは「復活ですか。」と言うんです。そしてお父様と一緒に祈って、今までのわがままをイエス様に赦してもらって、「イエス様ごめんなさい。どうかこれからは、あなたがよみがえりと永遠のいのちで、このお父様を御国まで導いてください。」と祈ることができたんですね。
お父さんは終わったあと、しっかりと握手して、行った姉妹たちとも嬉しくてね、喜んで手を握って。

結局永遠のいのちと天国は彼のものです。たとえ明日召されたとしても永遠に生きる。そして残された家族はあのお父様と、信仰を持っているゆえに再び会うことができる。それが楽しみだという希望に変えることができる。
結局聖書がどうして人間に対して力を持つかというと、この一点なんです。「死は終わりではない」ということなんですね。
聖書の中に一つの鋭い告発文があります。

ローマ人への手紙1:21
21というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです

ローマ人への手紙1:28-32
28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

パウロがローマにいる人々に向けて告発した文章であります。
ここに書かれているように、聖書は罪について、まことの神を知っていながらあえて無関心を装うこと、あえて無知を装うこと、そのような人々は結局むなしく滅びるだけだ。意識して神から離れて、自分の思いや自分の考えで生きようとする者、そのような人々の人間群像について、29節から31節にまでパウロは記したんですね。
おそらくイエス様を知る前の、ここに集っている兄弟姉妹たちはほとんどに該当するでしょう。救われた後もみな該当するのです。
しかしそのような者であったとしても、イエス・キリストは、イエス様ご自身を信じる信仰ゆえに、この罪の縄目から私たちを解放してくださっているということは、私たちの生きる喜びであります。

このパウロが聖書に刻印した、神を知ろうとしない人々が不幸に泣かないように、むなしく死に渡されないように、イエス様は死の直前あの十字架の上で祈られたんですね。司会の兄弟が引かれたルカの福音書の中にも記されております。
「父よ、万物の創造主なる父なる神よ。わたしを十字架につけたこの人たちを赦してください。この人たちは何をしているか分からないのです。この人たちはわがままで、神様を神様として知ろうとしないし、もちろん感謝の心など持っていません。しかしそのような人でも、どうか父よ赦してください。」とイエス様は祈られたのであります。

結局十字架の上で祈られたイエス・キリストのこの祈りこそ、福音の中心をなすものです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか、自分では分からないのです。」別の言葉でいうと、この祈りは「神の啓示」と言ってもいいでしょう。
啓示とは、神ご自身がご自身をあらわすことであります。そして聖書は人間は理解や知識では決してまことの神、すなわちイエス・キリストを知ることはできない、とはっきり言っております。
人はイエス様を知ることができるのは上からの啓示だけだ、神様の啓示だけだ、とはっきり言っているんですね。

ルカの福音書の23章。今読まれた少し先に、次のような記事があります。

ルカの福音書23:39-43
39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

聖書の中で最もドラマチックな、ある意味でクライマックスの場面と言ってもいいでしょう。ここで一人の犯罪人は告白しました。彼は一人の犯罪人に対して、「おまえは神をも恐れないのか。」と言うことができたのです。
言葉をかえて言うならば、この犯罪人は「私は神を恐れる。」という告白をすることができました。なぜ彼はこのように言うことができたのでしょうか。イエス様の、あの十字架上の祈りをはっきり聞いたからです。
この方は私のために死んでくれる。なぜならばこの人は父なる神にあんな祈りをした。私の赦しをとりなして祈ってくれた。イエス様のあの十字架の祈りを、この犯罪人ははっきり霊の眼を開いて聞くことができたのです。
だからイエス様に対してこの犯罪人は、「私は神を恐れる」と言うことができました。これは信仰告白であります。そしてこの犯罪人は、イエス様に対して「この方は悪いことは何もしなかった。」と言うこともできました。
この告白の意味は「この方こそまったくきよい、罪とは無縁な神の子です」という神認識であります。

どうしてこの犯罪人は、神をイエス様を、今十字架にかかってまさにぼろぼろになって死んでいくイエス様に対して、「この方こそ神である。神の子である。」と認識することができたのでしょうか。
結局神を恐れると言って、イエス様の前に無条件降伏することができたからです。無条件降伏を人間がするときには、人はへりくだることができ、人は悔い改めることができます。
そしてそのような告白の最後に、この犯罪人は「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言うことができました。
彼は啓示によって、イエス様を約束された救い主と確信することができ、その救い主イエス様だけが提供してくれる永遠のいのち、天国に将来と希望を置くことができたからであります。
「御国で私を思い出してください。」と彼は言うことができたのであります。

このように言える人は本当に幸せだと思います。今日お見舞いした方も、ともに祈ったときにおそらくこの祈りを心の中でしたに違いない。「イエス様あなたでしたか。どうぞ、あなたの御国で私を思い出してください。」と彼は心の中で祈ったに違いない。
だから、姉妹たちとあのような握手をすることができました。

自らの犯した罪ゆえに、この犯罪人は間もなく十字架の上で死刑に処せられます。この時代の十字架刑というのは極刑の一つでした。もともとユダヤには無かったようです。
ローマ軍、当時イエス様の時代にイスラエル・ユダヤを占領していたローマ軍が持ってきた、最も厳しい死刑の一方法が十字架刑だそうです。そして十字架刑に処せられるのは、極悪人に限られていたといわれております。
ですからこの犯罪人はおそらく生きている間、いいことは何一つしなかったでしょう。おそらく聖書などとても読んだことが無いし、みことばの一つに触れることもなかったでしょう。もちろん祈る生活も経験しなかったに違いない。何一ついいことを彼はしなかったのではないかと思われます。

しかしこの犯罪人は、十字架の上で死刑に処せられる前に、イエス様に救われました。どうして救われたかというと「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言うことができたからです。「私を思い出して!」という叫びは、「助けてください!」という意味です。
聖書は、イエス様に向かってそのような叫び・祈りを祈り得るものは、みな救われるとはっきりと言っております。「主の御名を呼び求める者は、みな救われる。」ということであります。
この犯罪人のように、イエス様の名前を呼んで「イエス様、助けて!」と言うことを、聖書は私たちに要求しているようであります。

多くの人々といろんな場所で交わりますけども、多くの人は言うんですね。「神様は信じる。」、あるいは、「神様は信じたい。だけども、どうしてイエスという人が神なんですか?」
この質問に対して答えることは非常に難しいんです。結局私たちは「聖書に書いてあるから。」としか言うことができないんですね。しかし唯一、人としてこの地上に現われ、十字架の上で死なれ、そして三日後に死を打ち破ってよみがえった、神の子イエス・キリストだけが私たちをこの世のあらゆる束縛から解放し、そして死の恐怖からも解放し、永遠のいのちと天の御国を提供することができる、と聖書ははっきり約束しているんです。
ですから、なぜイエス・キリストが神なのですかという質問に対して、私たちは「聖書に書いてある」、「コリント人への手紙第Iの15章を読んでください。」「ヨハネの福音書の4章を読んでください。」と言うだけで充分なんです。
聖書がはっきりと答えているからなんですね。

アメリカの、あの社会事業家として有名なヘレン・ケラーは、2歳のときに口が聞けなくなり、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなりました。三重苦の人と呼ばれております。
目が見えず、口が聞けず、耳が聞こえないという暗黒と絶望の中で、それでもまだ彼女には彼女を抱きとめるやわらかい膝があり、口に含ませる乳房があり、自分を愛する誰かがいることがはっきり分かったそうです。
おそらく彼女のお母さんでしょう。しかし自分を膝の上に置いて抱きとめ、そして乳房を含ませる、自分を愛している者は誰か、おしでめくらでつんぼのヘレン・ケラーには分からない。それが彼女の長い間の不満だと言っておりました。
彼女はいつも満たされていない。誰が私を愛してくれているんだろう。誰がこのように私を養ってくれているんだろう・・・。分からないからです。このようなヘレン・ケラーが長い間抱いていた不満と不幸は、結局まことの神と出会っていない、現代人の不満と不幸につながります。

あの十字架の上で、あのとりなしの祈りを祈られた後で、犯罪人の「私を思い出してください。」という切なる願いに、イエス様ははっきりと「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束されました。
この十字架上の、イエス様のこの約束こそ犯罪人にとって、自らを絶望と孤独と暗黒と死の恐怖から救ってくれた、すなわち彼自身をどうしようもない人生を生きた彼を受け入れてくれる、抱きとめてくれる膝であり、腕でありました。
あの幼いヘレン・ケラーと違って、彼ははっきりと自分を愛してくれる方がイエス・キリストだと分かったのであります。

私たちの信仰の喜びとはここにあります。だからパウロははっきりと「私を愛し、私のために十字架に掛かって死んでくれた主イエス・キリスト」、と何度も何度も言うことができたのであります。「私を愛し」・・・

集会の発行している証し集(聞き取り者注:「光よあれ」第8集)の中で、ベック兄は、及川廣太郎兄弟という高名な数学者の救いの場面について、次のような証言を記しております。ベック兄の証言です。

『及川廣太郎先生は、竹田清先生の後輩でした。数学者として東大の名誉教授になり、日本だけでなくドイツでも著作が出版されている有名な方です。
「自分は無宗教だ」と言っておられましたが、がんになり、その病は彼にとって大きな重荷になったのです。
廣太郎さんはイエス様の招きのことば「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)を聞いたときすぐに従いました。』

どうして従ったかというと、彼はもう死を前にして恐怖と暗黒で絶望していたからです。彼の名声も何一つ役に立たない。富も、彼を助けることができない。愛する家族も彼にとって何一つ、力となり得なかったからです。
そのような絶望的な状況で、まさしくあの十字架の上の犯罪人と同じような状態で、真理そのものであるイエス・キリストのみことばに接したからです。これも啓示です。ですからいっぺんに救われました。

『彼は祈りました。「主イエス様。私のわがままのために死んでくださったことを感謝いたします」別れる時、彼は言ったのです。「救われることはかんたんなことですね」。』

結局彼は、ごめんなさいと言っただけなんです。

『聖書の知識があってもなくても、救われたいと思う人はだれでも救われます。頭の知識を得る必要はないのです。
救いとは、理性の問題、理解力の問題、また感情、気持ちの問題ではありません。』

救いとは結局啓示だからです。上からの恵みだからであります。そしてそれを受けるかどうかが私たちの救いの結果を分けます。ですからベック兄はここで、

『意思の問題です。救われたいと心から望む人は、必ず救われます。それを廣太郎さんは経験したのです。
そして、「救われることは本当にかんたんなことだ」と言われたのです。(中略)
今すぐ、永遠の救いにあずかろうと思えば、かんたんに救われるというすばらしい事実を、廣太郎さんは経験したのです。その結果彼は精神的に元気になり、心配から解放されたのです。
奥様の恭子さんはそれを見て、医者から聞いていた真実の病状を話されました。』

おそらく奥様はずっとこのときまで、がんの末期症状である、死は目前であるということを告げなかったのでしょう。だけども救いを得たご主人を見て、はっきりと言ったんですね。

『「実は、がんです。手遅れです。いつ死んでも不思議ではないような病状です」と。廣太郎さんはすぐ「私は主イエス様を信じたから、すべてを任せたから、心配しません」と答えられたそうです。』

これこそイエス・キリストだけが私たち人間に提供できる、救いの実であります。死を前にした人間が、明日に向かって希望を持って歩むことができる。
そしてその後で廣太郎兄弟はすぐに遺書を書いたそうです。正確に言うと、夫人の恭子姉妹が代筆しました。もうそのときに字を書く力が廣太郎兄弟には残っていなかったからです。ですから、それは口述筆記になりました。それは、その遺書とは次のように書かれます。

『「私の葬儀は無宗教でやってもらいたい。聖書に基づいてやって欲しい。そして、葬儀に来る人々はみな主イエス様を知ることによって生きる望みを持つように」。』

これは一つの奇跡であります。死を目前にして、及川廣太郎兄弟は生きる希望を持つことができました。これこそ福音の力であります。

死を前にして犯罪人の一人はあの十字架の上で、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。この祈りに対して、イエス様は答えられました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
この応答こそ、廣太郎兄弟の、「救われることは簡単なことですね。」という喜びの証しそのものであります。そしてこの応答こそ、イエス様が十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた、あのとりなしの祈りの結果、すなわち救いの実そのものであります。

永遠のいのちと呼ばれ、永遠のいのちそのものであるイエス様と、天国で永遠に生きる、これこそ救われた私たち信じる者たち、キリスト者の生きる喜び生きる力であります。ですから聖書は、この及川廣太郎兄弟や、今日ともに祈った方や、あるいはすでに救われた今日集われている多くの兄弟姉妹たち、すなわち救われたクリスチャンの特質について、パウロはローマ人への手紙の中に次のように書きました。

ローマ人への手紙5:1-5、11、21
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
11そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

聖書の中の有名な箇所ですね。パウロの歓呼の雄叫びと呼ばれているところであります。私たちの主イエス・キリストによって罪赦され、受け入れられ、私たちは神様との、万物の創造主なる神との平和を持っている。
私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいる。私たちの主イエス・キリストによって、私たちは永遠のいのちを得ている。すなわち神の国・天国の相続人である。これこそがイエス様によって救いにあずかった信じる者たちの、喜びの存在証明といっても過言ではないと思います。

パウロは聖書に記しました。

ローマ人への手紙8:31-39
31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

素晴らしいパウロの証しであります。初代教会の兄弟姉妹たちはこの確信に立っていました。ですからあのローマ皇帝・ネロの迫害に遭っても、大いに喜んで迫害に耐えたのであります。
多くの兄弟姉妹が捕らえられて、あの闘技場で獣の餌にされました。大勢の見物人の前で獅子の餌にされたのです。また多くの兄弟姉妹たちは、捕らえられて生きたままロウソクにされました。
あの初代教会の兄弟姉妹たちがこのような交わりを持つのは、いつも地下の墓場だったんです。そのような迫害が実に300年近く続きました。しかしネロを始めとしたローマ帝国が国をあげて迫害しても、迫害すればするほど彼らは増え続けたんです。
死は終わりではない。死はむしろイエス様と一緒になる喜びです。この証しがローマ帝国をして、あのキリスト者の信仰を「キリスト教」という宗教にしたのです。結局初代教会の兄弟姉妹たちの信仰の力ゆえに、あの世界一の帝国は彼らを宗教という形で束ねる以外方法がなかったんですね。これがキリスト教の始まりです。

私たちが──「あなたたちの信仰はキリスト教ですか?」「違います。私たちはキリスト教に反対しています。私たちの信仰は聖書だけです。聖書の中にご自身を現わされているイエス・キリストだけです。」──と言えるのは、このような歴史的な背景が物語っているからです。
その聖書の信仰からはるか数百年遅れて、キリスト教という宗教はできました。できた経緯は今言ったような初代教会の兄弟姉妹たちが証しした、死を前にした大いなる喜び、将来への希望です。

最後にイエス様が十字架に捕らえられて、縄に掛けられ引かれていって十字架に掛けられるまでの間、あのペテロを始めイエス様に3年半付き従って福音をともに宣べ伝えた、いわば十二使徒といわれたリーダーたちは、みんな逃げてしまったんです。
もちろんそのとき、イエス様が捕らえられたときにはイエス様を訴えたユダは直後に自殺しました。しかし残った11人の使徒と呼ばれる弟子たちで、イエス様が捕まったとき、ヨハネ以外はみんな逃げてしまったんです。
リーダーのペテロなどは、はしために「あなた、イエス様の弟子ではなかったのか?」と言われたら、もう恐くなって3度も「違う!」、最後はのろいをかけて「私はイエスなど知らない。」とペテロは誓ったんです。

あの臆病な弟子たちはその後どうしたでしょうか。イエス様は約束どおり3日後に復活されました。よみがえられたのであります。そしてご自身を否んで、のろいをかけて知らないと言ったペテロにまず現れたんです。それから残りの10人の使徒に現れました。それからいっぺんに五百何十人の愛する兄弟姉妹たちに、イエス様はよみがえりのご自身を現したのです。
結局主は嘘つきではない、間違いなく神の子だ。その証しとして、十字架に掛かって死んだけども3日後に約束どおりよみがえったではないか。そして私たちにご自身を現してくれたではないか。
これこそがあの臆病な初代教会の信仰者たちを勇気づけ、そして大胆に福音を宣べ伝える者としたのであります。

ヨハネを除いた10人の使徒は、みなイエス様を宣べ伝える福音のゆえに最後は殉教の死を遂げました。みなその最期は悲惨な生涯でありました。しかし彼らは喜んで死んでいったのであります。
どうしてかというと、「死は終わりではない。天国でイエス様に会える。イエス様からいただいた永遠のいのちを、愛する兄弟姉妹とともに、とこしえに生きる。」、という喜びがあったから彼らは喜んで死んでいったのであります。

伝承によれば、あの取税人のマタイはエチオピアの王に捕まって、剣で刺し殺されました。アルパヨの子のヤコブは実に撲殺されたといわれております。なぐり殺されたと伝承はつたえております。
皆さんよく御存知、ペテロは逆さ十字架で処刑されました。アンデレはV字十字架という処刑で殺されました。
トマスは南インドまでイエス様を宣べ伝えました。トマスは復活のイエス様に会ったんです。けども「イエス様、あなたの釘のあとを見せてください。槍で突かれたあとを見せてください。そうしなければ私は信じません。」と言ったんです。しかしイエス様と出会って、トマスは釘のあとを確かめ、槍で刺された脇腹の穴を確かめ、それから主の復活に出会った力によって、南インドまで出かけていってイエス様を伝えました。
しかし彼は槍で突き殺され、バルトロマイはインドで生皮をはがされる皮はぎの刑で殺され、ピリポはアジアで石打ちの刑で殺され、そしてゼベダイの子ヤコブは首を切断され、熱心党員シモンはペルシャでのこぎりで切り刻まれたといわれております。タダイは槍で突かれ、殉教の死を遂げました。
伝承はそのようなことを多く語っております。

臆病な弟子たちは、大胆な者・勇敢な者に変えられ、人の目には悲惨な死と見える殉教の死を喜んで遂げてゆきました。
ペテロは十字架に掛けられるときに、「私がイエス様と同じ十字架刑で殺されるとはとんでもない。私は主イエスの足元にも及ばない。」と言って、イエス様と反対の逆さ十字架に掛かったというのは有名な話であります。それほどペテロは、あの臆病なペテロは変えられました。
ペテロはイエス様のナンバー・ワンを自任しておりましたけども、主が捕まったときには逃げてしまい、はしための告発にもおびえ、結局あのペテロはそのような試練と絶望を通して小さくされたんです。もう高ぶることはできなかったんです。
ですから主は、結果として本当の意味で初代教会のリーダーとしました。主の前にへりくだった者は、小さくされた者は、主によって大いに用いられます。

犯罪人の一人は、十字架の上で「イエスさま。私を思い出してください。」と言いました。イエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられました。及川廣太郎兄弟は、「救われることは、かんたんなことですね。」と言いました。みなイエス様を啓示によって経験した兄弟たちです。

ぜひ、今日ここに集ってまだイエス様を知らない方々がおられましたら、自分の知識ではなく、努力ではなく、イエス様の前に出て行って、──疲れました。こんな問題を持っています。人には言えない悩みを持っています。イエス様どうか聞いてください。──と言ってください。
そうすれば主は必ず聞いてくれます。それだけでなく、救いの結果として永遠のいのちと、御国を約束してくれます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という福音の中心をなすものは、「永遠のいのちの約束」であるからです。




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