私の味方


染野兄

(掛川家庭集会、2003/03/23)

引用聖句:マルコの福音書9章40節-41節
40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
41あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

礼拝の中で兄弟たちが祈っていましたけれども、今アメリカはイラクを攻撃しております。どうしてアメリカがイラクを攻撃したか、たくさんの理由がありますけれども、ひと言で言えばですねイスラエルが世界から憎まれるためです。
かつてソビエト連邦とアメリカ、この二つの大国が二大国として世界を二分しておりました。いわゆる東西冷戦の時代です。
しかしソビエト連邦は崩壊して、今や軍事的にも経済的にもアメリカという一国が世界を支配しようとしております。一極支配ということばが、最近よく使われておりますけれども、アメリカの一極支配の正に象徴的な出来事が、今回のイラク攻撃であると思われます。
そして表面には出て来ませんけれども、アメリカが世界を支配するということは、イスラエルが世界を支配するということです。なぜならアメリカはユダヤ国家であるからです。

ある兄弟はさまざまな人の名前を言ってですね、どうしてこんな戦争が起きたのか、全世界の人々の大多数の人は平和を願っているのにどうしてこのように残酷な戦争が起きたのか、と祈られましたけれども、どうして起きたかと言えばですね、これは「神様の計画」です。
イスラエルがアメリカという国の力と支配を借りて、世界を支配した時に主が来られるからです。聖書はそのことをはっきりと約束しております。
そしてアメリカ(ユダヤ国家イスラエル)が世界を支配するということは、世界中を敵にするということで、恐らくこの戦争はアメリカの圧倒的勝利、つまりイスラエルの圧倒的勝利で終わるでしょう。
しかしその結果は一極支配に対する憎しみが世界中に沸き起こります。

具体的な憎しみの結果とは、恐らくテロの多発ではないかと思われます。9.11のあの同時多発テロのようなテロもたくさん起こるでしょう。
しかし僕は一番恐ろしいテロの武器とは、世界中で多発するテロに使われる武器とは、恐らく細菌兵器ではないかと思っております。
核兵器も大量破壊しますけれども、細菌兵器もいっぺんに大量の人間を殺します。

ヨハネの黙示録の中で、青ざめた馬に乗ってくる死と呼ばれるサタンの武将と言ってもいいかな。要するに武器はですね、一つは剣、これは軍事力です。一つはききん、飢えです。もう一つは疫病。
それからもう一つは不思議な表現をしているんですね、それは「地の獣」です。青ざめた馬に乗ってこの世界を最終戦争の中で、大艱難時代に陥らせるため、悪魔が使う武器とは地の獣である、と。
この地の獣について聖書は詳しく語っておりませんが、ベック兄を始め多くの兄弟たちは細菌兵器ではないかと今は考えております。
ですからこのイラク戦争がどのような終結を持ったとしても、まもなくアメリカ・イスラエルは世界中から憎まれます。そしてその結果、世界中に収集のつかない混乱と戦いが起こります。この戦いは恐らくテロです。

民族と民族との戦い、国と国との戦いは単一ですから収集し易い。しかし世界に飛散してしまったテロというこの戦いは収集がつかない。
しかしこれをまとめる、「平和の君」が出て来るんです。これが聖書では獣と呼ばれている反キリストです。
幸いなことにこれらのことの前に、主は来られますから私たちは獣の顔も見ることはないし、恐らく最終戦争にも皆さんはいないし、大艱難の時代には私たちは天で主のそばで栄光の肉体に変えられる。
そしてこの地上での7年間の最終戦争、艱難の時代の終わりの時に、我々はみんな一緒にイエス様とあのエルサレムのオリーブ山にまた帰って来る。これが公の再臨です。

まあ、いずれにしても私たちはこのイラク攻撃を見て、ほんとの意味で主は真近いとわかります。
湾岸戦争の時は大義があったんです。しかし今回のアメリカの、あるいはイギリスの連合軍はやはり大義がない。だから結果としてこの戦争は大変な勝利を収めるでしょうけれども、結局憎しみの対象になる。

ブッシュという男は救われた兄弟です。間違いなく我々と同じ信仰を持っています。しかしブッシュの政治的な力、基盤はですね、ユダヤの石油の資本です。
ブッシュ政権を支えているラムズフェルドも、その他あの中核を成すメンバーは皆、ユダヤ石油メジャーの恩恵を受けています。ま、これが今回のイラク攻撃の推進力になったでしょう。
もう一つは、ブッシュは救われた兄弟ですから、ブッシュを支援するクリスチャンたちが、一説によると六千万人から七千万人がアメリカにいて、彼らが一つの世論として今回の攻撃を後押ししている。

最近テレビにキリスト教原理主義というのが出ていますけれども、これは「聖書だけを信じます。聖書の言っている事はすべて事実です。」という信仰です。ま、僕たちと全く同じ信仰です。
ただアメリカのブッシュと同じように、救われた兄弟たちの残念なことは教会に括られている。そしてその教会はビリーグラハムに代表される、あのプロテスタントを代表する力を持った兄弟たちに組織化されている。ここが僕たちの信仰と決定的に違うんです。

あの六千万人とも言われているアメリカの救われた兄弟姉妹たち、クリスチャンたちは再臨信仰が非常に強いんです。ですから今度の戦争を通して終末は近い、と。
そして彼らはね、イスラエルに行くんですって。みんな。団体で。
僕たちはイスラエルには行きませんけれども、「イスラエルのために祈ろう。」という祈りは非常に大切です。

僕たちは携挙されて地上にはいませんけれども、大変な最終戦争が始まって大艱難の時代の7年間の間、舞台はエルサレム。そして7年間の最終戦争の主なる神の目的とは、「選びの民」であるユダヤ人の救いです。
二人の伝道者が起きて、これは獣と呼ばれる反キリストに殺されますけど、この二人の大伝道者、聖書はエリアかモーセのような伝道者と言っておりますけれども、この二人を通して十四万四千人のユダヤ人がまず、救われるんです。
そしてこの十四万四千人のユダヤ人を通して、多くの異邦人が救われると聖書は言っています。

ですからベック兄は、「ユダヤ人のために祈ろう。」とおっしゃるんです。それは艱難の時代のユダヤ人の救いの計画です。僕たちはいないんですけど、地上には。
しかし主の最終目的はやはり、選びの民であるユダヤ人の救いです。
ま、こう考えると、なぜ、どうしてとヒューマニズムは我々に問いかけますけれども、やはりこれは主の計画である。そして主の救いの計画の最終の段階に入っている。すなわち、主の再臨は近いと私たちは考えるべきです。
ですから僕たちはやはり、心を一つにしてユダヤ人の救いのために祈るべきです。彼らが最後に主の救いの計画の舞台で主役になるからです。

ま、今日は前にもちょっと話したことがあると思うんですけど、証しを交えて、聖書から話してみたいと思うんですが、私には一人の弟がおりました。
彼は私が救われて間もなく、二十年近く前ですけど死んでしまったのであります。当時40歳の若さでした。彼の死は自殺です。
彼は私と違って家族、兄弟の中でも非常におとなしくて、親にも従順で問題も起こさないし、そして父親の家業を継いでですね、結婚もして幸せに暮らしておりました。放蕩無頼を繰り返す兄の私とは全然違う生活をした男です。

しかし彼は下町の祭りの夜にですね、上機嫌で帰って来て、着替えをするために二階に上がって中々降りて来なかったそうです。奥さんが二階に行ったら鴨居に着物の帯をくくり付けて、そこで首をつって死んでいたということです。
弟の死は私にとってもそうですが、家族にとってもそれは衝撃でした。理由がわからなかったからです。彼は幸せな生活をしていたんです。子どもはいなかったけれども夫婦愛し合っていたし、経済的にも豊かだったし、さまざまな町会の役員やカメラの社会でも活躍したようです。
どうして死んだのか、さっぱりその理由がわからない。事実家にいた奥さんは三日も警察で調べられたそうです。二人しかそこにいなかったから。

弟の死は私にとって今でも謎であり、不思議であり、衝撃であります。でもその報告があった後にですね、残された奥さんを、義理の妹になりますけれども、慰めたんですね。その時、意外なことを聞いたんです。
私は弟に対しても暴力を振るう兄でしたから、救われた後、証しはしましたけれども中々コンタクトが取れなかったんです。しかし弟の死を報告した義理の妹はなんと言ったかといいますと、
「最近は、死ぬ前の彼はどこに行っても、誰と会っても口を開くと、お兄様のクリスチャンになったことを大いに喜んでいました。あの兄貴がクリスチャンになったんだって。考えられないよ。」
と言ってどこでもそれを話題にしていました。死の報告と共に義理の妹は話したのであります。

弟の死が私にとって謎であり、不思議であり、衝撃であったように、弟にとってもあの放蕩無頼の、傍若無人の我がまま勝手の、家族の悩みの種である兄がクリスチャンになったということは、やはり一つの謎であり、不思議であり、大変な衝撃であったようです。
「良かった。あの兄貴がクリスチャンになって本当に良かった。」というのが死の直前の弟の話題の中心であったようです。
そうは言っても弟は救われていませんでしたし、彼の死も自殺であったから葬儀に行く前にベック兄に報告して相談したんですね。
「弟はどこに行ったんでしょうか。」その時のベック兄の開いてくれたみことばが、今兄弟に読んでいただいた箇所であります。

マルコの福音書9:40-41
40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
41あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

ベック兄は、「ねえ茂男。あなたの弟さんは大変喜んだんでしょう。あなたが救われたことをそんなに喜んだんですか。それは一杯の水です。」というのがベック兄の判断だったようであります。
弟の死は今でも謎です。暗い謎です。暗闇の中に光がないんです。どうして、なぜと問うても答えが返って来ません。
しかしあのマルコの福音書に書かれているイエス様の聖書のみことばの真実があり、約束の確かさがあり、その弟の死がどうであれ、私たち信じる者にとっては希望があります。結局天国への確信があるのです。
このことを私が痛感したのは弟の葬儀の時にですね、親族を始め、友人、知人、たくさんの人々が集ってくれました。その人々の前で私はイエス・キリストに救われたことを証しすることが出来ました。
そして特に迷惑をかけた兄弟たちには心から謝ることが出来ました。いっぺんに。
弟の葬儀の結果として、このようなことが出来たということは、私にとってイエス様のあのみことばの確信でもありました。このイエス様の証しと祝福があれば、弟の死の謎を通して私たちは天国への希望を持つことが出来ます。

私たち夫婦には三人の子どもがおります。
現実的には二人ですけれども、幸いなことに上の娘も、下の息子も救われて、今は家族一緒に礼拝に行く祝福に与っております。
下の倅の下にもう一人子どもが与えられました。残念ながら、この子は母親の胎内で僅か六ヶ月で死にました。
母親の腎臓機能が低下して、母体が非常に危険になって、医療行為として死産にさせてしまったのです。余りに可哀想なので名前も付けました。
「うらら」という名前を付けて、そして火葬にもしました。まるで生まれてきた子のように火葬にしたのであります。我々夫婦が、家族が救われる前の話しです。そしてスプーン一杯ほどの小さな骨を骨壷にいれて家に持ち帰ったのであります。
もう25年以上前の話しですけれども、それから家族が救われて御代田で、あの生まれる前に死んでしまった、母の胎内で僅か六ヶ月で死んでしまった、「うらら」の納骨式をしてもらいました。

大きな骨壷に混じってほんの小さな骨壷が置かれました。ベック兄はですね、その小さな骨壷を大きな手で抱きしめて、頬ずりしてですね、まだ誰も会ったことないんですから、でもまるで会ったように、「可愛いね。可愛いね。うららは可愛いね。」と言ってですね、本当にいとおしくあの骨壷を抱きしめたのであります。

その時の納骨式のベック兄のメッセージとは次のようなものでありました。
「どのような理由であれ、母の胎内の子どもは生まれる前に死んだとしても天国に行きます。母親の胎内の胎児と生まれたばかりの嬰児はすぐ死んだとしても、みな、間違いなく天国で永遠に生きるという聖書からのメッセージであります。
この骨壷の中にある小さな骨は、主の空中携挙の時に、再臨の時に栄光の肉体に復活して蘇える。」と、言われたのであります。
まだ聖書もその当時ほとんど読んでいませんでしたから、何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたけれども、ベック兄のメッセージの内容とはこういうものでした。

もし、生まれる前に死んでしまった父親も、母親も会ったことのない小さな骨壷に入っているこの娘が、ベック兄がおっしゃるように復活して天国で永遠の命を生きるならば、我々は間違いなく会えます。可愛い彼女に会えるという約束は、信じる家族にとってそれから希望になりました。ですから今に至るまで私はいうことが出来るのであります。
「私には子どもが三人います。」
「いました。」という過去形ではない。それは「います。」という現在進行形であり、明るい未来形であります。どうして明るい未来形かといいますと家族揃って天国で共に会うことが出来るからです。
この聖書の約束があれば、人はどのような問題があったとしても、元気になるのではないかと私は深く思う次第であります。

詩篇22:10
10生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

イザヤ書49:15-16
15「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
16見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。

母の胎内にいる子はみな主のものです。主はその手のひらに名前を刻んだ、とまでおっしゃっているからであります。
万物の創造主なる神の救いの実としての、復活と永遠の命と天国とは、聖書によるとこのように胎児と嬰児とには無条件に与えられていると、はっきりと記しているのであります。
またイエス様の再臨と死者の復活と再会については、聖書は次のように記しております。

テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
13眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

あの生まれる前に死んでしまった私の娘のうららは、主の空中携挙の時にまず最初に蘇えってイエス様と一緒に空中まで、他の召された兄弟姉妹と一緒に降りて来ます。そして私たち、その時地上に生き残っている家族も天に引き上げられて、主の栄光の体に変えられて、うららと会うということを、私たちはこのみことばから確信することが出来るから希望があります。

聖書は、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。他にはいない。」と、すべての人が救われることを望んでおります。
イエス様もまた、「事実私の父の御心は子を見て、すなわちイエス様を見て信じる者がみな永遠の命を持つことです。私はその人たちを終わりの日に蘇えらせます。」と、はっきりと語っております。
結局、主なる神が私たちを救う大きな目的の一つとは、ご自身の復活と永遠の命に与らせることである、ということであります。すべての人が救われてイエス様の復活による永遠の命に与ることこそ、神の御心を支配している

(テープ切れ、裏面へ)

確かに聖書は次のように言っております。

ローマ人への手紙10:9-13
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

確かにこの通りです。ここに集っている兄弟姉妹たちも、このみことばの通りにイエス様を口で告白して、そして救われた兄弟姉妹たちでありましょう。
しかし主なる神の救いの順番は、まず母の胎内にいる胎児です。それから生まれたばかりの嬰児です。彼らは無条件に神の救いの内にあります。たとえ死んだとしても、それは神の時、神の召しであり、永遠の命も復活による栄光の肉体も、天国もすべて彼らに与えられております。

次に、聖書は主なる神の救いを条件なしに幼子に与えられていることがわかります。イエス様ご自身が次のように約束されました。

マルコの福音書10:13-16
13さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
16そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

とあります。知識ではなく、理解でもなく、まして修行や善行や努力といったものではさらさらありません。ただ幼子のような素直と、全き信頼と従順こそ、神の救いを受ける第一の条件であると、イエス様は幼子の無条件の救いを通して、ここに比喩的に象徴的に私たちに語りかけているのであります。
さらに主なる神の救いの順番は、優先順位は生まれつき精神障害者、または人生の途上に於いて多くはその心を病んでしまい、社会的適応能力を喪失してしまったような人々に与えられております。病んだ結果、適切な判断力や理解力が破壊されてしまった人たちであるからであります。
このような人たちはすでに主なる神の憐れみに入れられていると、聖書は明言しております。

コリント人への手紙第I、1:27-28
27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

と書かれております。この世の弱い者、この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者を主は優先的に救い出されます。そして主なる神のいつくしみと憐れみのゆえに、このような人々はすでに主の救いに入れられていると我々は判断しております。
結局イエス様は愛の神ゆえに、人間を愛してやまないゆえに、神の愛の証しそのものとして救いが主の一方的な恵みであるという証しとして、今言ったような人々を優先的にご自身の救いに取り入れているということが言えるのではないでしょうか。

ここにいる兄弟姉妹たちが、経験して証し出来ることでありますけれども、今の時代で特に我々のような普通の健常者に対しては、主なる神は時に過酷とも思えるような方法でご自分のものとされます。

マルコの福音書9:43、45、47
43もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
45もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
47もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

ゲヘナというのは火の海、やがて創造される地獄のことです。永遠の滅びを、イエス様を信じない者たちが、未信者がとこしえに泣き叫びながら生きるところです。
ここでイエス様の語られたこの短いことばは、極めて残酷な響きを持っておりますけれども、ここでイエス様のおっしゃっている手と足とは私たち人間の力を意味します。体力だけではなく、ある人にとって手を足とは経済力であり、ある人にとっては権力の象徴であります。
ここでイエス様のおっしゃっている目とは知力を意味します。知性、理性、感情をも包括する人間の知的能力を指します。
結局、イエス様のおっしゃっていることは、人が救われない最大の原因は人が自らの力に信頼して生きるからだということであります。主なる神の救いを拒む罪の根源である自我の中心を成すものはこの力であります。
ですからイエス様はこの力を取り去って、そしてご自分の救いの中に人々を取り込むのであります。

今元気に集会に集っている多くの兄弟姉妹たちが、理不尽な試練や出口なしの絶望的な困難や、不治の病といった人間の力の到底及ばない悲惨と悲劇を経験して、そして救われたという事実が、イエス様のこのみことばの一面の真理を証ししているのではないでしょうか。
人は過酷な状況に投げ込まれて、自らの能力の限界に、自らの力の埒外に放り出されて、無力と孤独と絶望を通して救われるのであります。
多くの兄弟姉妹たちの経験とはこのような救いの証しではないかと思います。

順番を付ける必要もありませんけれども、あえて主なる神の救いの順番を付けるとするならばまず胎児であり、生まれたばかりの嬰児であり、幼子です。それからイエス様の憐れみによって、この世の弱い者、取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者が主の救いを優先的に受けます。
まあ、残念ながら今日元気に礼拝に集っている私たちはその後のようです。手足をもぎ取られて、目をえぐりだされて、そしてこのように主の前に来た者たちであります。

どうして、主はそのような兄弟姉妹たちを救いの中にいれるのでしょうか。このようの兄弟姉妹たちこそ救われるだけではなくて、主の証人をして用いるためであります。
ヨハネはヨハネの黙示録の中に次のように記しました。

ヨハネの黙示録7:13-14
13長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

口で告白して救われるということは、「この子羊の血で、私はその罪咎を癒されました。罪の縄目から開放されました。」ということを証しすることです。
そして、それは救われた兄弟姉妹たちが、試練を通して、困難を通して、神の謙遜と従順を恵みとして与えられた結果言えることです。
この悔い改めの経験のない兄弟姉妹たちというのは、やはり救われた後でも躓きます。
ですから多くの兄弟姉妹たちは、主によって徹底して打たれて、そして主の前に出た時にはもう自分の力に頼ることを止めて、主のあの十字架の贖いと、復活と永遠の命に与って行こうというですね、思いに満たされます。
結果として主の従順と謙遜を学ぶ兄弟姉妹たちであります。

コリント人への手紙第II、2:14-16
14しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
16ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

主は、それは「あなた方だよ。」と、試練と困難を通して、私の十字架の血潮によって罪咎を聖められた、謙遜で従順な、「あなた方だよ。」と言います。
主の務めを成すのは、私たちこのような試練と困難を通って救われた兄弟姉妹であると、聖書は言うんですね。ここで私たちのことをキリストの香りとパウロは表現しております。

かつて祭壇に罪の供えとして、贖いの供えとして動物が捧げられました。そして動物の流された血潮ゆえに、贖いの罪の許しを主に願ったのであります。
その時に祭壇に焚かれたのは香です。香は祈りを象徴します。香の種類は今に至るまでたくさんありますけれども、多くの香はですね、そのかぐわしい香りを主の前に立ち上らせるために焚かれます。ある香料は火に干してからからに干からびさせられます。そうしないといい香りが出ないんです。

結局私たちがどうして試練にあって救われたのか、また多くの兄弟姉妹たちは試練によって救われた後もなお多くの困難があるのか、結局主の前にかぐわしい香り、すなわちキリストの香りを放つための、かぐわしい香りになるためです。
そのためにはある者は砕かれなくちゃいけない。ある者は焼かれなくちゃいけない。ある者はからからに乾燥させられなければいけない、ということです。そのような兄弟姉妹たちが主の証し人となると、聖書は言っているのであります。
すなわち神と共に働く者、神の使節とそのような兄弟姉妹たちは呼ばれるようになります。

コリント人への手紙第II、5:18-20
18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。

とはっきりと書かれております。キリストの使節、神の使節の役目とはイエスキリストの復活の証人として、主なる神と人間の和解の仲介者になることであります。
福音の外交官、福音の大使とも呼ばれます。その働きの第一の目的とは、まだイエス様を知らない人たちのところへ行って、イエス様を紹介し、まず我が陣営に、私たちの味方にすることであります。聖書はそのような福音の証人としての働きの一端について次のように記しました。

マタイの福音書25:35-40
35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

直接的には、イエス様によって救われた兄弟姉妹たちの互いに愛し合う働きの、主に仕えるように愛し合う働き、仕えあう姿勢であり、信仰の姿勢でありますけれども、この先に未信者の救いに対してのですね、私たち兄弟姉妹たち、主の福音の証人としての働きがここに記されております。
主に仕えるように、兄弟たちの最も小さな者に仕える兄弟姉妹たちの働きこそ、未信者の頑なな心を柔らかくすることが出来、砕くことが出来、結果としてそのような人々から、「水の一杯をいただけるようになる。」ということです。

そのような者は、私たちに反対しないゆえに私たちの味方ですと、イエス様はおっしゃっております。その人は決して報いを失うことはありません。確かなことですと、イエス様は約束してくださっているのであります。
ですからキリストの香り、神の使節と呼ばれている艱難を抜け出して、子羊の血潮によって白くされた私たちキリストの証人としての働きとは、まず家族や友人やまわりの人たちにイエス様を紹介し続け、そして結果としては公に信仰告白まで導かれる希望であります。

しかし、もし反対し続ける人であっても、そのような信仰告白をしないとしても、その過程において水一杯のもてなしでも私たちにしてくれるならば、私たちには希望がある、と聖書ははっきりと言っております。
救いとは、主なる神の熱心が最終的に成し遂げることです。

天国に行けば、私たちはほんとにびっくりすることだと思います。結局一生懸命福音を伝えたのに救われなかった人たちが、恐らく天国にいっぱいいるんです。
目の前で信仰告白はしなかったけれども、なぜか天国へ行ったらいっぱいいた。恐らく兄弟姉妹たち、天国へ行ったならばそのような人たちとの挨拶で忙しい。あなたもいたんですか。どうしてあなたがここにいるんですか(笑い)。いるわけがない人がたくさんいるんです。
私たちに必要なのは、私たちに反対しない者を私たちの味方にすることです。そこからは主の熱心が救いに導いてくださいます。
最後にマタイの福音書の8章からお読みしましょうか。

マタイの福音書8:11
11あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

私たちも含めて、今導いている多くの人々が間違いなくこの食卓に着くという確信こそですね、私たちの生きる喜びにならなければと思っております。
以上です。




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