引用聖句:マタイの福音書14章22節-33節
「カサブランカ」という映画をご存知の方がいらっしゃるとは思うんですけど、もう何十年も前に世界中でヒットした名作であります。 私と同じような年齢の兄弟姉妹は観た方も多いと思いますけれども、主役はハンフリー・ボガード、そして相手役の女優はイングリッド・バーグマンであります。 ハンフリー・ボガードという俳優はもう死にましたけど、今でもアメリカで最も有名な俳優です。ボギーという愛称で特に若い学生たちに人気があるそうです。 バーグマンは北欧の出身の女優ですけど、非常にノーブルな美しい女優でした。この女優も死にました。 このカサブランカという映画がどうして世界中にヒットしたかと言うと、一つのセリフがあるんですね。恋人のバーグマンがハンフリー・ボガードに聞きます。 「昨夜、あなたは何をしたの?」、彼は答えるんですね、「そんな遠い昔のことは忘れた。」、「今夜、あなたはどうするの?」、「これからのことはわからないよ。」 このセリフがヒットの原因であります。みんなこのセリフに痺れたのであります。 私はベック兄のことをパパと呼んで慕っております。大分前のことですけど、ベック兄に聞いたことがあるんですね。 「パパ、昨日、何してました?」、「忘れた。」、「今日、これから何するんですか?」、「知らない。」 実はこの心の態度こそ、私たちが元気になる秘訣ではないかと、私は今、思っております。非常に聖書的な信仰の態度であるからであります。 万物の創造主なる神は聖書の中で、何度も何度も私たちの昨日まで犯した罪咎に対して「忘れた。」と仰います。 それだけではなく「もう、二度と思い出さない。」と。 「たとえ、私たちの罪が緋のように紅くても、わたしはそのことを忘れた。雪のように白くする。思い出さない。」、と仰います。 イエス様は「あしたのことはあしたに心配させます。」と仰います。どうしてかと言うと、「労苦は、その日その日に、あなたがたひとりひとりに十分あるでしょう。」 だから、わたしはあしたのことは、あなたがたが心配しなくてもいいように、明日に心配させます。こう言えるのは神の子だけです。 聖書はどうしてこのように言うかと言いますと、私たちが不安や思い煩いや恐怖に苛まれないために、私たちが疲れ果てて、元気を失わないために、そのようなことを私たちに示しているのではないかと思うのであります。 引用聖句のマタイの福音書14章27節で、イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。 「恐れることはない。」と主なる神イエス・キリストは言われます。主なる神が「恐れるな。」と言われる時、それは神の命令です。 なぜ、神は命令するかと言いますと、私たち人間は恐れる者でからです。 ここで言われる恐怖の中身とは心配と不安であります。 主なる神の診断は、「人間は心配と不安に慄くものである。」ですから、聖書の中で「恐れるな。」という神の命令は、聖書の中に実に365回も出てまいります。 私たちが毎朝聖書を開いてこの「恐れるな。」という主なる神の命令に従うならば、私たちは一年365日、毎日、心配と不安から解放され、何の恐れもなく平安な日々を過ごすことが出来るのであります。 イエス様は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」、すなわち「心配するな。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と仰いました。 主なる神イエス・キリストの断固たる命令であります。 信仰とは、主なる神に対する絶対的な信頼であります。信頼すれば、神が「恐れるな。」と命令される時、その命令に従う私たちは全く恐れる必要がなくなります。 詩篇56編、3,000年前の世界を支配した王ダビデの証しです。 詩篇56:3-4
人間 詩篇56:4
詩篇56:11
主なる神の言われたことに対する絶対的な信頼と服従、これこそが心配と不安からの解放であり、人が安心して生きる秘訣であると、この詩篇のダビデの証しを通して、私たちは知ることが出来ます。 主が「恐れるな。」と命令される時、なぜ、私たちは恐れる必要がないのでしょうか。 それは主なる神イエス・キリストの救いの手がいつも私たちに差しのべられているからであります。 もう一度、マタイの福音書14章22節からお読みいたします。 マタイの福音書14:22-27
イエス様は群集を解散させた後、ひとりで祈るために山に登られました。 その時、湖に舟を漕ぎ出した弟子たちは逆風に遭い、荒波に揉まれて悩んでいました。暗闇に閉ざされ、荒れ狂う波に飲まれ、弟子たちの恐怖はつのるばかりでありました。 その時を聖書は夜中の3時頃とここで記しております。正に暗黒と絶望と恐怖に翻弄されている弟子たちを、イエス様はここで助けに来られたのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」 この事件を通して、この場面を通してイエス様がどうして私たちをこのような恐怖のどん底から、救い出すことが出来るか、その解放の力は何処から来るのか。 言えることはマタイの福音書14章23節が答えだと思います。主は、 マタイの福音書14:23
まだ祈っておられた、ということであります。 イエス様と寝起きを共にした弟子たちは、イエス様が祈りの人であることを証言しております。 マルコは、「イエスは朝早く、まだ、暗いうちに起きて淋しい所へ出て行き、そこで祈っておられる、」と書いております。 ルカもまた、「イエスは祈るために山へ行き、神に祈りながら夜を明かした、」と証言しております。 イエス様はいつも片時も、私たちを忘れることなく、私たち一人一人のために祈っていてくださる方であると、福音書を書いた弟子たちは証言しているのであります。 主イエス様は誰に祈っているのでしょうか。 全能なる父なる神、万物の創造主なる神に、いつも主はとりなしの祈りをしてくださるからであります。 ですから、イエス様はいつもこの祈りの力によって私たちを助けてくださいます。 私たちが心配に苛まれる時、不安に捕らわれる時、恐怖に打ちのめされる時、「イエス様」と祈るべきであります。 たとえ、祈ることさえ困難な絶望的な状況にあっても、「祈るべきである。」と聖書は私たちに言っております。 どうしてかと言うとそのような時にこそ、私たちが「イエス様、もう。祈れない。私のために代わって祈ってください。」と祈るべきであるからです。 ルカの福音書18章の中で「いつも祈るべきであり、失望してはならない。」とイエス様は仰っております。結局、祈りは希望そのものであるということであります。 絶望的な状態にあっても、四面楚歌の状態に置かれてあったとしても、祈れば出口がある、祈れば希望があるとイエス様は仰っております。 このことを経験したパウロは手紙に次のように書きました。 ローマ人への手紙8:26
御霊というのは、イエス様を信じる私たちの心の中にいてくださるイエス様ご自身です。内在の主とも言われます。 ローマ人への手紙8:26
人間の心を探り、調べる方です。すなわち、私たちのことをよく知っている創造主なる父なる神はイエス様の思いが何か、御霊の思いが何かをよく知っておられます。御霊は神のみこころに従って聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 ローマ人への手紙8:28
パウロの主の祈りの助けを経験した証しであります。 マルコの福音書11:22-24
イエス様の祈りこそ全能者の力を持ち、イエス様が絶えず私たち一人一人のために祈っていてくださるから、私たちもイエス様に祈れば不安と恐怖から救われます。 祈りこそ不可能を可能にする力である、絶望から希望に解き放つ力であると、聖書を通して私たちは知ることが出来ます。 マタイの福音書14章25節で、夜中の3時ごろ、イエスは湖の上を歩いて彼らのところに行かれた、と記されております。 救いは、助けは、いつも神の方からやって来るということであります。 不安と恐怖からの解放も自由もイエス様によって私たちにもたらされる。すなわち、人間の力ではないということであります。 祈りとは力を放棄することです。自分の力を捨て去った時、自分の力が及ばなくなった状況に置かれた時に、私たちは祈ることができるようになるからであります。 申命記32:10-12
とモーセはここで記しております。 人を荒野から、すなわち心配と孤独と不安とから、人を荒地から、すなわち絶望と恐怖から助け出される時に、神のなさることは奇蹟ばかりであります。 イエス様がその信じる者たちを、愛する弟子たちを助け出された時、イエス様は真夜中にもかかわらず、すなわち誰もいない暗闇の中、「ご自身が水の上を歩いて来られた。」と記されております。 人知を越えた超現実的な神の奇蹟が現実となったのであります。 どうして、神はこのような奇蹟を成すかと言うと、信じる者は主なる神にとって「最も大切なもの」だからであります。 主はイエス・キリストを救い主として信じた私たち一人一人を、ご自身の瞳と仰っております。 ご自身の瞳というのは、最も大切なものであります。ですから、それが真夜中であろうと、私たちが助け祈り求める時、イエス様は荒れ狂う湖の上をも歩いて私たちの方に助けにやって来られるのであります。 マタイの福音書19:25-26
結局、人には出来ないことが神には出来るのです。これこそ主なる神の私たちに対する約束です。 神にとって不可能なことは何一つありません。神のなさることは奇蹟ばかりであります。それが聖書が私たちに啓示する救いの本質であります。 ですから、信仰の本質とは「人には出来ないから神にしていただく。」ということに他なりません。 このような態度を取る兄弟姉妹は必ず祝福されます。聖書は次のように約束しております。 詩篇121:1-8
天地万物すべていのちあるものを造られた創造主なる神が、すなわち、主なる神イエス・キリストが全能者が、ここでまどろむこともなく一睡もせずに、一瞬たりとも私たちから目を離さず、見守り続けていると約束しておられます。 今よりとこしえまで守り続けるという神の約束であります。 私たちの思いを越えた、理解の外にあるこの不思議と約束、全能者のこの約束こそ、私たちを不安と恐怖から解放する力の源であります。 マタイの福音書14章27節に戻りますけど、イエス様はここで「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。イエス様はただ、「わたしだ。」と言われたのであります。 イエス様はここで「神のひとり児だ。」あるいは「あなたの助け主だ。」、「イエス・キリストだ。」と言われてもよかったのに、そのようなことは言われずにただ、「わたしだ。」と言われたのです。 この意味に対してさまざまな解釈がなされておりますけれども、中国の殉教で召されたウォッチマン・ニー兄弟は次のように答えております。 仮にある人が門を叩いて中の人が「どなたですか?」と訊ねる時に、「わたしだ。」とその人が答えるならば、その人は門の中の人が最もよく知っている人に違いない。 中の人がよく認識している人であるからこそ、ただ、「わたしだ。」と言うことが出来る、と解釈しておりますけれども、イエス様は恐れと不安に怖じ惑う者に「わたしだ。」と答えることによって、イエス様をよりよく知ることを、私たちに最も大切なこととして示されているのであります。 イエス様が弟子たちを助けに来られて「わたしだ。」と言われたのはその裏返しの意味で、イエス様が彼らをよく知っていることを彼らに示されたのであります。 「わたしはあなたのことをよく知っている。だから、あなたもわたしのことをもっとよく知りなさい。」という信仰のメッセージであると、ウォッチマン・ニーはこの「わたしだ。」というイエス様の答えを解釈しております。 詩篇139:1-3
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。 主なる神は私のことをよく知っておられる。すべてご存知であられる。 このイエス様によく知られているという確信こそ、信じる者にとって「主なる神を個人的に経験する秘訣」となります。 人がイエス様をよりよく知ることが出来れば、人はイエス様に愛されているという喜びに満たされます。 知れば知るほどこの喜びは大きくなります。そして、このことこそ私たち人間が、不安と恐怖から自由になる力の源であります。 イエス様は私たちのすべてをご存知で、そして、すべてを受け入れてくださり、赦してくださり、愛していてくださるから私たちは昨日までの恥と汚れに捕らえられることなく、明日の不安と思い煩いから解放されるのであります。 ダビデは「あなたの愛する者を、あなたの右の手で救ってください。」と祈り得ました。 ヨハネという弟子は、彼が書いた福音書の中にしばしば出て来ますけれども、「私は主イエス様に最も愛された者」と言っております。 ヨハネは誰よりも祈ったからであります。 パウロはさまざまな考えられないような試練の中に置かれました。しかし、パウロはそのような中にあって、「キリストの愛が私を取り囲んでいる。」 結局、人知をはるかに超えてキリストの愛を知ることをパウロは出来たのであります。 ことばを変えて言うならば、イエス様を個人的に誰よりも多く経験したから、「イエスキ・リストの愛が私を取り囲んでいる。」と言うことが出来るようになりました。 イエス様は私たちに「しっかりしなさ、わたしだ。恐れることはない。」と言われます。 私たちはいつもこのイエス様の「わたしだ。」と言う声を聞くべきであります。 人間が恐れる不安と恐怖の中身には二つの意味があると考えられます。 一つは思い煩い、不安の先取りや心配であります。それは人間存在の生き方にかかわる問題であり、日常生活に深くかかわってきます。 もう一つは文字通りの恐怖であります。その恐怖の源とは死です。誰もそのことを超えることは出来ません。 それは人間存在の本質にかかわる問題であり、命そのものに関係しているからであります。 イエス様を知らない人々は、また主から遠く離れてしまった者たちは心配と不安の究極が孤独と絶望と恐怖であり、恐怖の行き着くところが断絶と死であることをイエス様はよくご存知だから「恐れるな。」と聖書の中で実に365回にわたって命令しているのであります。 イザヤ書43:1-3
イザヤ書43:4
イザヤ書43:25
預言者イザヤを通して主なる神は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。」と言われます。主に救われた者は恐れる必要がない、とここでも聖書は記しております。 なぜならば、主なる神がいつもともにしてくださるからであります。 イエス様の名前はたくさんあります。600以上あると思うんですけど、そのうちの一つに「インマヌエル」という名前がイエス様には付けられております。 インマヌエルとは「神が人とともにいる。」という意味です。 主なる神イエス様は、最も大切なものとして「ご自身のひとみそのもの」として、私たちをその愛と赦しで導いてくださるからであります。 それゆえに、私たちの日常生活において何があったとしても、たとえ水の中を歩くことがあったとしても、火の中を歩くようなことがあったとしても、私たちは心配と不安から解放されるべきであります。 なぜならば、主なる神イエス・キリストが私たちとともにいてくださるからであります。ですから、私たちは恐れる必要がないと聖書は断言しているのであります。 ヨハネの福音書14:1-3
これはイエス様の再臨の約束です。あの有名な「最後の晩餐」の席でイエス様はその信じる者たちに、愛する弟子たちに約束されたことばであります。 「わたしは、また来る。」と主はここで仰っております。 このあとすぐに主はご自身が言われたように十字架にかかって死なれました。 そして、三日後に蘇えり40日間復活のご自身を愛する者たちに現され、そして、天に昇られました。 その主が「また、わたしはあなたがたのところへやって来る。」という約束であります。これもまた人知を超えた超現実的な約束であります。 しかし、私たちは理解ではなく、信仰によって主なる神のこの空中再臨の約束を信じることが出来ます。 主は空中再臨の時に、すでに召された天にいる兄弟姉妹たちを復活させ、そして空中まで降りて来られます。 その時地上にいる信じる者たちも、一瞬にして主なる神の栄光の肉体に変えられて天に引き上げられます。生きたままの昇天であります。 結局、死は終わりではない。この主なる神の約束があるから私たちは死の恐怖からも解放されております。 すなわち、私たちの存在そのものを支配するあの死から私たちはすでに贖われているからであります。 ですから私たちはこのことも心配する必要がないのであります。 イエス様が信じる者たちに「恐れるな。」と言われる根拠はイエス様だけが私たちに与えてくださる「平安である。」と私たちは聖書を通してわかります。 ヨハネの福音書14:27
「わたしは再び来る。」と約束したあの同じ席で、イエスはその信じる者に、愛する者にここで「平安を与える。」と二度に渡って約束されております。 この約束は十字架にかかられる直前の約束であります。 ヨハネの福音書20:19-21
これはイエス様が十字架にかかって三日目に蘇えられ、その蘇えられた直後に主が約束されたみことばであります。 「平安があなたがたにあるように。」 ここでも二度主は繰り返しておられます。どうしてイエス様はその信じる者たちに「恐れるな。」と言うことが出来るのかと言うと、イエス様だけが恐怖の対極にある平安を、私たちに与えることが出来るからであります。 そして、イエス様が与える平安とは、結局十字架の死の直前に言われた約束であり、復活の直後に言われた約束であります。 主の平安の中身とはあの贖罪の死であり、そして、蘇えりの永遠のいのちであるからであります。 「赦し」と「永遠のいのち」そのものに主の平安は満ちているからであります。 ですからそれをいただくとき私たちは恐怖から解放されると聖書は記しております。 マタイの福音書14:27-33
夜の闇の中で、荒れ狂う風に翻弄されて弟子たちの心配と不安はつのり、恐怖は頂点に達しました。 イエス様に祈ることを忘れ、彼らは絶望に苛まれ、死に怯えていました。しかし、水の上を歩いて彼らを助けに来られたのはイエス様だと知った時、そして「わたしだ。恐れることはない。」というイエス様の声を聞いた時、すなわちイエス様だけを見て信頼した時にペテロは神だけが成しうる奇蹟を体験したのであります。 29節にイエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った、と書かれている通りであります。 神の奇蹟を神にとって不可能はないということをペテロは個人的に体験したのであります。 どうしてペテロはこのような奇蹟を経験したかと言うと、主だけを見上げてイエス様の「わたしだ。」という声に信頼したからであります。 しかし、ペテロがイエス様を見上げることを止めて、彼が置かれている困難な状況にだけ目をやった時、祈ることをしないで、そこに置かれている自分自身だけを見たときに、彼は再び恐怖に陥りました。 30節に、ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫びだし、「主よ。助けてください。」と言った、とこの記事は記してあります。 主の命令に絶対的な信頼を置くこと、従順に従うこと、結果としてこの箇所はそのことの大切さを私たちに示しているのではないでしょうか。 イエス様はご自身の祈りと全能なる神の約束と赦しと愛をもって私たちを恐怖から解放してくれます。心配と不安から解き放ち、神の平安のうちに入れてくださいます。 32節でそして、ふたり、イエス様とペテロが舟に乗り移ると風がやんだ、と書かれております。象徴的な記述であります。 平行箇所のヨハネの福音書によると、それで彼らはイエスを喜んで迎えた。舟はほどなく目的地に着いた、と記しております。 弟子たちがあのガリラヤ湖に舟を出して、嵐に遭い難破しそうになった記事であります。今から約2,000年前の記録です。 聖書は同じ記事を、このマタイの福音書他にマルコの福音書にもヨハネの福音書にも記されております。 なぜこのように同じ記事が聖書は三つの福音書に記しているのでしょうか。 結局、2,000年後の今に生きる私たちも内容は違うけれども、このような状況にいつも置かれているからであります。労苦はその日その日に十分あるからです。 そして私たちの労苦の多くはこのような解決の糸口すら見つからない絶望的な状況にしばしば見舞われるからであります。 そして、その時人は心配と不安と恐怖に捕らえられます。それからの解放を主はいつも願っているから私たちに今日もまた、「わたしだ。恐れることはない。」と仰っているのであります。 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」信仰とはこのイエス様の声を聞くことであります。 主の「わたしだ。」という声をいつも聞くことであります。 最後にイザヤ書の41章8節から イザヤ書41:8
私たち信じる者たちの名前ですね。 イザヤ書41:9-10
すばらしい約束であります。 ヘブル人への手紙12:2
これも主なる神の命令であります。その結果とは3節の後半に書かれています。 ヘブル人への手紙12:3
聖書は多くのことを記しておりますけれども、聖書が書かれた最大の目的の一つは私たちが疲れ果てて元気を失わないためである、ということであります。 |