引用聖句:ヨハネの福音書9章1節-8節
司会者の兄弟は四十歳だそうです。八十まで生きるとしたら、あと四十年。ちょっと心配だと悩んでましたけれども、この心配はほとんど意味がありません。八十まで生きないからです。どうしてかと言うと、間違いなく間もなくイエス様来られます。 イエス様が来られれば、信じる者たちは生きたまま天に昇ります。聖書のいう空中再臨、生きたままの昇天です。それは近いと聖書のあらゆる預言から私たちは今の時代にあって知ることができます。 春についても語られましたけれども、まさしく今は春です。こぶしの花も間もなく咲くでしょう。聖書は春、そよ風の吹く頃を主なる神は呼びかけている。 礼拝でも読まれましたけれども、「あなたはどこにいるのか。」、どうして私たちはこのような集いを持つかと言うと、主なる神の呼びかけを聞くためです。 集まった一人一人は神さまに、「あなたはどこにいるのか。」と問いかけられる。どうしてもそのことが人間には必要だから、私たちはこのようにイエス様のところに集まって来ます。 結果として、「はい、イエス様。私はここにいます。」と言えるようになれば、本当に幸せではないかと思うんですね。福音の呼びかけとは初め、「あなたはどこにいるのか。」で始まるものであります。 今、司会の兄弟に読んでいただいた、ヨハネの福音書の9章に出て来る生まれつきの盲人の生活は、こじきでした。彼の人生とは、盲目に生まれたゆえに道端にすわって、物乞いをする生活でした。自分の身に置き換えればちょっと悲劇的な人生です。 盲目とこじきは彼にとって重荷であります。しかしこの重荷を背負って、彼は生きなければなりませんでした。それは希望のない人生を意味します。さらに悲劇的なのは彼の両親でした。 息子のこの不幸は両親の悲しみであり、痛みでした。それは両親にとって絶望的な人生を意味します。追い討ちをかけるように、この不幸な親子に残酷な言葉が投げかけられます。 「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか?この人ですか?その両親ですか?」イエス様の愛されたあの弟子たちの質問です。 しかし、この過酷な問いに対するイエス様の答えは革命的です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」 神のわざが現われるためですと、イエス様は答えたのです。神のわざとは神の働きのことです。神が働かれるためですとイエス様は答えられました。そしてその言葉どおり、イエス様はこの盲人の目を見えるようにされました。 神のわざが現われるためですというイエス様の答えの意味は、ここでは不可能を可能にする神の奇跡でした。盲人を見えるようにすることによって、イエス様は全能者のご自身を、何でもできるという神の啓示をここでなさったからです。 しかし、この神のわざ、神の奇跡は、その肉体的ないやしの先にこの盲人の、この物乞いの男のたましいの救い、すなわち、霊のまなこが開かれて、霊的な覚醒をして、救われるというたましいの救いを獲得していると、ヨハネの福音書は記しております。 ヨハネの福音書9:33
こじきの盲人の告白です。 ヨハネの福音書9:33
この盲目のこじきは、イエス様を個人的に体験した事実を、すなわち何でもできる方への信頼とその確信をここで語りました。そして、この体験の結果とは、同じヨハネの福音書の9章の38節に書かれています。 ヨハネの福音書9:38
彼はイエス様によって救われました。そして、主イエスを礼拝する者へと変えられたのであります。 イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」と言われました。なぜならイエス様は、あなたの悲しみにわたしは働く。あなたの不幸にわたしは働く。だからあなたの不幸はあなたのせいではない。わたしのせいですとここで言えたからであります。 イエス様は、わたしのせいですと言って、人を救うことができるからです。 どうしてイエス様は、そのように言って人を救うことができるかと言うと、イエス様は私たち人間の救いのために働きたい方だからです。 かつてイエス様は、わたしの父は今に至るまで、すなわち、万物の創造主なる父なる神は今に至るまで働いています。だからわたしも働いているのですと言われたことがあります。 イエス様の心を満たしているのはこの思いだけです。だからイエス様は、わたしのせいですと言って、そして、だからわたしのところに来なさいと言うのであります。 有名なイエス様の言葉がマタイの福音書に記されております。 マタイの福音書11:28
これこそ今も生きて働く神、イエス・キリストの存在証明そのものであります。 かつてイエス様は山に登られて、次のように言われました。有名な山上の垂訓です。「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。」とイエス様は言われました。 人間が幸せになる条件として、イエス様は驚くべきことに、それは心の貧しい者だと言われました。心が貧しいとは、たえるべきもの、誇るべきもの、そのようなものの何一つ持たないみじめな状態をさします。すたわち、まったく無力にされた、完全にギブアップした人を、聖書は心の貧しい者と言います。 次に、悲しむ者は幸いですとイエス様は言われました。この悲しみは原語では、非常に強い意味を持っているそうです。人にとっての極度の悲しみを意味するそうです。人間が耐え切れないような強い悲しみを意味するそうです。しかしイエス様はそのような者こそが幸せですと、人の思いをはるかに超えたことを言われました。 なぜ、イエス・キリストはこのように言うことができるのでしょうか。答えは簡単です。イエス様は神だからです。人ではない。 人間には決して言うことができないこのような言葉を、イエス様は神ゆえに断言することができました。そしてイエス様は、この心の貧しい者、悲しむ者たちはその無力さゆえに、みじめさゆえに、耐え切れない悲しみゆえに、ご自身のところに来ることを知っておられるからです。 聖書は、すべてのものはイエス様によって、イエス様のために作られたと書いてあります。ですからイエス様は、私たち人間の心をよーく知っている。どうしてイエス様は、わたしのせいですと言うかというと、結局人間はすべて罪人だからです。 そして罪人の特徴とは、人のせいにする性質です。あのアダムは神さまがしてはいけないと言ったことをしたときに、「妻のエバのせいです。」、エバは「蛇のせいです。」、結局人のせいにすることが私たち罪人人間の罪の特徴です。そのことイエス様、よく知ってるから、わたしのせいにしなさいと私たちに言うことができるのであります。 そしてイエス様は、「わたしのところに来なさい。」と言って、そうすれば私たちは幸せになることができると約束してくださいました。 どうしてイエス様のところに来る人は、幸せになることができるのでしょうか。これも答えは簡単です。 イエス様が、「幸せになる。」と言ったからです。心の貧しい者は幸せになります、悲しむ者は幸せになりますとイエス様が言ったからです。イエス様は嘘をつくことができません。だから間違いなくイエス様のところに行った者は幸せになります。 具体的には、どうして私たちがイエス様のところに行くと幸せになるかというと、われわれのすべての負い目をイエス様は負ってくださるからです。私たちが本来取るべきすべての責任をイエス様が全責任をもって、取ってくださるからであります。 ですからイエス様は、あなたのせいではない、わたしのせいですと言えるわけがここにあります。わたしのところに来なさいと、イエス様が呼びかける理由もここにあります。 旧約時代の預言者のイザヤは次のように書きました。 イザヤ書53:4
彼とはイエス様のことです。 イザヤ書53:4-6
主なる神は私たちのすべての咎を彼に負わせた。イエス様に負わせたと、ここに書かれてあります。咎とは、私たちの負い目と言ってもいいでしょう。罪に生きた者の結果としての不幸と言ってもいいでしょう。それらすべてをここで主なる神は彼のせいにした、イエス様のせいにしたと書かれております。 われわれがその罪ゆえに、自分の自己中心の生き方や自己追求の人生や、あらゆるわがままの結果起こった咎、さまざまな不幸を主なる神はイエス様に負わせた。イエス様のせいにしたと、実に今から2,600年前にイザヤはここに書いております。 ヨハネの福音書19:17
ご自分で十字架を負って、 ヨハネの福音書19:17
私たちのさまざまな不幸の原因が、本来私たちの罪咎にあるにも関わらず、イエス様はただ一人でその罪咎を犯した者として十字架に向かわれました。そして罪のかたまりとして、全人類の罪をその身に負われて、断罪されたのであります。これがイエス様の十字架の死です。 罪をまったく犯したことのない方を、その可能性すらない方を、父なる神は十字架に殺されました。イエス様のせいにしたのであります。私たちの本来負うべき、一人一人が本来負うべき負い目を主は全部負われました。 イエス様はそれらのすべてを受け取ったとヨハネは書いております。そしてイエス様は一言の反論もせずに、黙って受け取られました。この沈黙こそ、イエス様が私たちに対して、「わたしのせいです。」と呼びかけられるひとつの証拠ではないでしょうか。 ヨハネの福音書は、自分で十字架を負って、イエスはゴルゴタの丘に出て行かれたと簡潔に記しております。イエス様は自らの約束した、その約束の言葉の重さに耐え、そして、その責任を取られました。 ルかの福音書23:33-34
「父よ。彼らをお赦しください。」と、イエス様は死を目前にして最後の最後まで、私たちのためにとりなしの祈りをされたのであります。私たちの病を、痛みを負い、私たちの痛みをにない、私たちのそむきの罪ゆえに刺し通され、私たちの咎のために殺されても、イエス様はなお祈られました。 私たち一人一人の名前を挙げて、父なる神に祈られたのであります。「父よ。彼らをお赦しください。」 なぜイエス様は、「わたしのせいです。」と言うことができるのでしょうか。今は分かります。イエス様は十字架の上でこのとりなしの祈りを祈り得たからであります。 もう何年も前のことですけれども、幼児虐待の泥沼から救われた母親の状況は本当に悲劇的でありました。彼女は娘が産まれるとすぐに夫に捨てられました。夫を失った、産まれたばかりの子どもを残された彼女の悲しみは、あの産まれたばかりの幼いひとり娘に向けられたそうです。 すぐに怒って、子どもを切諌するという幼児虐待の泥沼に彼女はハマっていきました。 この娘に対する虐待は日常化していって、彼女はその苦しみから酒に逃げたそうですけれども、なお酔っ払って、その暴力はエスカレートしていったそうです。普通の人には考えられないこのような地獄の状況の中で、彼女はもがき続けました。 最後には、娘を柱に縛り付けて、指の跡がはっきり付くほどに幼い娘の首を絞めたと彼女は告白しております。これは悲劇を通り越した凄惨な光景です。出口なしの絶望です。 そのとき、実の母親に殺されるかもしれない恐怖と苦痛に耐えながら、あの娘は言いました。 「お母さん。ここまで育てて殺すなんてもったいないよ。」と、あのふたつかみっつの娘は言ったそうです。このような過去をもつ母親にとって、あの娘とともに生きる明日は暗黒です。 このような仕打ちを受けた娘にとって、母親とともに暮らすそれからの日々は、苦痛そのものでしょう。たとえ一時的に修復されたとしても、親子関係はもう完全に回復しないに違いない。二人の心の傷はあまりに深く、そのいやしは不可能だからです。 しかしイエス様はこの親子が泣きながらご自身の前に出て来たときに、二人に言われました。 「このことはお母さんのせいではない。もちろん、娘のせいでもない。あなたがた二人を捨てて行ったご主人のせいではさらさらない。わたしのせいです。」とイエス様は言われたのであります。 イエス様にこう言われたときに、この親子はいっぺんに救われました。 なぜならば、二人にとって自分たちをとらえて離さないあの忌まわしい過去と、だれにも言うことのできないような悲惨な体験を、イエス様だけがわたしのせいですと言ってくれたからであります。 そしてあの親子は、そのような人とかつて出会ったことがないからです。人間の頭では想像をすることすらできない答えだったからであります。だからこの親子はイエス様によって過去から解放され、それからイエス様に頼って生きようと決心することができました。 イエス様によって救われたそれからの二人は、次のような生活をしました。二人の生活の中心は、二人を捨てて逃げて行ったご主人、父親に対する救いでした。 あの親子は心を合わせて、逃げて行ってしまった夫に、父親のためにイエス様に救いをとりなす毎日になったと告白しております。これはもうひとつの奇跡です。人はなぜこのような態度を取ることができるのでしょうか。それはイエス様が、「わたしのせいです。」と言ってくれたからです。 結果、救われた者は言うことができます。周りの人々にたとえそれが自分の身に覚えのないことだったとしても、直接関係のないことであったとしても、それがどんなに理不尽なことであったとしても、イエス様に救われた者は、イエス様の真似をして言うことができる。 「ごめんなさい。わたしのせいです。」、このように言えるようになれば人は幸せです。明日はもう暗黒ではない。希望の毎日になります。 ルカの福音書7:48
この女は罪深い女と呼ばれた者でした。そして罪深い女に、 ルカの福音書7:48-50
イザヤ書43:25
イエス様だけが人間にもたらすことのできる救いとは、罪の赦しであり、過去の克服です。ですから人が安心して明日に向かって、将来に向かって歩むことができる。 そしてイエス様はすべて赦してくださっただけではなく、すべて、昨日までのことを忘れてくれたばかりではなく、もう思い出すことさえしないとここで言われております。だから私たちは今、自分の身に起こっている、あるいは、自分の置かれている状況に起こっている不幸の原因をイエス様のせいにする必要がある。 そしてそのことは非常に大事です。なぜなら結果として人は、イエス様のせいにした結果として、人はイエス様に頼るようになるからです。自分の力でそれまでしてきたことをもうすることを止めて、イエス様に、何でもできる方にしてもらうようになるからであります。 さらにイエス様に出会った人は、罪赦された者は、その過去から解放された者は、救いの恵みとして悔い改めることができるようになります。先ほども言ったように、たとえそれが自分のせいでないとしてもそうです。私のせいです。ごめんなさいと言うことができるようになるからです。 そのような者に、今日から始まる明日は暗たんたる日々ではなく、光り輝く日々です。明日は苦痛ではなく、希望そのものと言えます。だから、二人を捨てて逃げて行ってしまった夫に対して、父親に対して、あの幼児虐待の泥沼にあえいでいた母子は、親子は、イエス様と出会った結果、祈る毎日を与えられました。それは幸せの日々であります。 あの母親は証しの中で次のように言われました。あとで思ったことですが、「私を殺すなんてもったいないよ。」と首を絞められた小さな娘が言ったあの言葉は、イエス様が言わせたに違いない。 もしあの一言がなかったら、私たち親子はもうとっくに死んでいたでしょう。主に、イエス様に働いていただいた、あれこそ神のわざですと母親は証しできました。事実、主なる神も私たち人間に対して言われます。「もったいない。」主にとって人間はもっとも大切なものだからです。主なる神にとって、人間が罪に死ぬことなどとんでもないことです。とても赦すことができない。主にとって人間は、その慈しみと愛の唯一の対象だからです。だから主はいつも私たちに対してもったいないという思いでいっぱいなのであります。 しかし、主がもったいないと言われるときに、それは切実な思いであり、痛切の極みであり、愛惜の念に満ちております。 エゼキエル書16:6
エゼキエル書18:31-32
エゼキエル書34:11-12
エゼキエル書34:15-16
エゼキエル書34:26
エゼキエル書34:31
エゼキエルをとおして語られたこの主なる神の人への慈しみと人への愛はイエス様そのものであります。パウロはそのことをテトスへの手紙に次のように書きました。 テトスへの手紙3:4-7
パウロが記したように、イエス様は神の慈しみのゆえに、神の愛の完全な現われであるから私たち人間を救うことができます。その救いは聖霊による、新生であり更新であるとパウロはここで書いてます。 主なる神が罪に死んでいた人々を赦し、赦すだけではなく、なお生きよと言われた新しいいのち、永遠のいのちの初穂であるから、イエス様に出会って救われた人は、希望を持つことができます。永遠のいのちの望みを持つことができます。 あの生まれつきの盲目のこじきとその両親の悲劇は、あの幼児虐待に苦しんだ親子の悲しみと同列です。そして終わりの時代と呼ばれている今にあって、現代にあって、今の時代が生み落とすさまざまな不幸。例えば心の病、あるいは家庭内暴力、あるいは少年犯罪、登校拒否、不和、離婚、不治の病などなどはそのようなものにとらえられている人々もまた、同様な人々ではないかと思われます。 だからイエス様はそのような人々に呼びかけています。 マタイの福音書11:28
さらに、イエス様のみもとに来た人々に、イエス様は語られました。山上の垂訓です。 マタイの福音書5:1-4
マタイの福音書5:11-12
ここでもイエス様は、わたしのせいですと言われています。11節に、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を言われる。」と、イエス様ははっきり、「わたしのために。」と言われているからです。 しかしそうであっても、あなたがたは幸いですとイエス様は言われます。答えは12節にあります。なぜならば、どうしてわれわれはそのような状況にあっても、幸せかというと、天においてあなたの報いは大きいからですと、主はここで約束してくださっております。結局答えは一つです。イエス様の救いにあずかった者は、永遠のいのちを持っているという事実です。 永遠のいのちとは、天国の報酬であるとイエス様は言われました。パウロは別の言葉で、永遠のいのちの望みと書きました。もうすでにイエス・キリストの永遠のいのちをいただいているから、信じる者は天国が用意されているから、救われた者はその確信を持っているから、ののしられ、迫害され、理不尽な不幸に合ったとしても喜ぶことができる。 だからイエス様は、「喜びなさい。」、そればかりではなく、「おどりなさい。」と言うことができるのであります。 すべてのあらゆる問題の答えは、この一事にあると言ってもいいと思います。天で天国の報酬がわれわれを待っている。ここに希望と確信を持つならば、この世の問題は大した問題ではないとわれわれは知るようになるからであります。 イエス様の救いにあずかったすべての者が、救いの実として持つ永遠のいのち、すなわち死は終わりではないという神の真実、神の真理。 結局私たちの人生がこのように限定されているならば問題は重荷になります。しかし人生は死んでから始まるとイエス様が言うときに、人のいのちは死んで初めて、天の御国で、神の国で始まるとイエス様が仰るときに、私たちはたとえ、この世の絶望的な状況にあったとしても、希望を持つことができるのではないでしょうか。 聖書の提供する救い、イエス・キリストの救いの確信をなすことは、この一点であります。 この地上の生活において、あらゆる不幸の行き着く先である滅びと死は、信じる者たちにとって、イエス様に救われた者たちにとって、恐怖と絶望にはなり得ないからであります。 人間には、決して自分の力では解決できない問題が二つあります。一つは主なる神との断絶による罪の問題と、もう一つは罪の結果にによる死の問題です。 そして聖書は、この世のあらゆる不幸は、その問題は罪にあり、すなわち人が主なる神から離れて生きる結果であると断言しているのであります。イエス様は、この二つの問題を解決するためにこの世に来られました。そしてその解決をご自身の十字架の死と復活によって、成就したのであります。 「わたしは死にます。しかし三日目によみがえります。」とイエス様は何度も何度もくり返し語られましたけれども、人々はもちろん、弟子たちさえもそのことはまったく理解できず、信じることもできませんでした。ですからイエス様はその予告として、ひとつの神のわざを明らかにする必要があったようです。 ヨハネの福音書11:32-44
ラザロと呼ばれた一人の男は死にました。しかし死んだラザロはここで復活しております。どうしてかというと、イエス様が働かれたからであります。主が働かれると必ず奇跡が起こります。神の奇跡として死んだラザロは復活しました。 主なる神のわざは、イエス様の働きを通して死者の復活として成し遂げられたのであります。聖書は、この死からのよみがえりについて、ここで神の栄光と言っています。 もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると聖書は言っております。神のわざの究極とはこの神の栄光のことです。内容は死者の復活と言ってもいいでしょう。この神の栄光こそ、すべての問題の解決であると聖書は私たちに言っているのであります。 一時的な問題解決は、何にもならない。結局病気が治っても、人間は必ず死にます。だから、根本的な解決がどうしても必要です。永遠のいのちの祝福にあずかることによってのみ、その根本的な問題は解決すると聖書は答えているからであります。 イエス様は、この神の栄光を受けられていたから言うことができます。ラザロが死んだのは、わたしのせいです。なぜならば、ラザロの死にそうな病気に対しても、そのような状況にも関わらず、イエス様はすぐにラザロを治しに行こうとしませんでした。 イエス様が行かれたときに、ラザロは死んでもう四日も経っていたからです。聖書は、イエス様はラザロを愛していたと書いております。そして、その姉妹のマルタやマリヤをもイエス様は愛していたと書いております。 結局イエス様は、その愛してるゆえにラザロにおける病気のいやしよりも、すなわち一時的な問題解決よりも、本当の意味での根本的な解決を示したかったに違いない。死よりの復活。永遠のいのちの確信が人間にとってどうしても必要ということを示したかったに違いない。 この神の救いと愛の象徴はもちろん、ご自身の十字架の死と復活でありますけれども、イエス様はその前に愛するラザロとその家族に、前もって永遠のいのちの証しを、死者の復活を示す必要があったようであります。 愛する弟を病気で失ったこのベタニヤのマルタは、イエス様のみわざによるラザロの復活、すなわち神の栄光を見たときに、ラザロが死んだのは「わたしのせいです。」と言うイエス様のことばを信じることができました。その真実を知ることができました。 そしてイエス様はご自身の語られた言葉の真実が神の唯一の真理となるために、十字架に架かって、ゴルゴタの丘に出て行かれたのであります。その姿を見たときに、そして三日後に、神の真理としてイエス様が死者から、死から復活したときに、マルタは主を礼拝したに違いない。 よみがえった弟ラザロとマリヤとともに、家族揃って、主を礼拝せざるを得なかったからであります。 最後にヨハネの福音書を読んで終わりましょう。 ヨハネの福音書11:3-6
ヨハネの福音書11:21
ヨハネの福音書11:25-27
ヨハネの福音書11:39-40
ヨハネの福音書11:43-45
ヨハネの福音書6:29
イエス様のことですね。神が遣わした者、イエス様を信じること。 ヨハネの福音書6:29
イエス様のなさった神のわざを通して、多くの人がイエス様を信じたと福音書は記録しています。そして主なる神が人間に求めている唯一の神のわざとは、神の栄光とは、主なる神が遣わした方、すなわち、主なる神イエス・キリストを信じることだと、イエス様はご自身、言われております。 その言葉の重みゆえに、イエス様は、今も生きて働く神として今日も呼びかけておられます。 マタイの福音書11:28
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