引用聖句:コリント人への手紙第I、1章26節-31節
テモテへの手紙第II、2:1
「救い」ということは一言で言うならば、人間が自由になることです。あらゆる束縛から解放されて、人が自由に解き放たれることです。 この集会の証しとは、救われた兄弟姉妹は、本当に自由を喜ぶ証しではないかと思うんですね。 私は、アルコール中毒者であります。けれども、自分自身どうしてアル中になったのか、よく分からない者でありました。精神科の医者の主治医に聞いても明解な答えは得られませんし、ただ繰り返し、「この病気は、一生治らない。死ぬまで治らない」と言うだけでありました。 この病気は、おぞましい病気でありまして、もし私がこのメッセージの後、ホッとして一杯のビールを飲むならば、おそらく数日後には朝から晩まで飲むようになり、また入院している…。 アルコール中毒という病気は、「失われた病気」と言われ、「治りたくない病気」とも呼ばれ、「進行性自殺症」とも名づけられている、実に不可解な心の病であります。 この忌まわしい病気になぜ罹ってしまったのか、今は分かります。それは、イエス様に出会うためであった。主イエス・キリストの救いにあずかるためであったと、今は断言できます。 今から10数年前になりますけれども、救われる直前の時です。アルコール中毒の末期症状で、もうすでに会社も首になり、友人・知人からも捨てられ、家族からも除け者にされて、まさにすべてを失った状況の中で、一杯の酒を求めて墓場をさまよったことがあります。酒場ではなく、墓場です。 ちょうどコブシの花の咲く今ごろの頃です。彼岸の頃であります。コブシの花の咲く彼岸の頃には、墓場には酒がたくさんある。どうしてそのことが分かったのか、今もってよく分かりませんけれども、おそらく酒への渇きが、あの獣の本能のように、墓場に向かわせたのだと思います。 アルコール中毒は精神病でありますけれども、肉体も疲弊します。引き裂かれた心と、ボロボロになった痩せ細った体を引きずって、酒を求めて夜の墓場を徘徊したことがありました。 私も、一時期はテレビ番組のプロデューサーとして成功したことがあります。製作する番組が、次から次と高視聴率を取り、テレビ局の廊下を風を切って歩いているような時期がありました。 しかし40を前にして、アルコール中毒者となり、夜の墓場をさまよう者となり、恥も外聞もなく、そのみじめさすら忘れてしまうような者となってしまったのであります。なぜでしょうか。答えは一つです。イエス様に出会うためでありました。 先ほど兄弟に読んでいただきましたけれども、パウロは「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい」と言いました。「兄弟姉妹たち、あなたはどうして救われたのですか、よく考えてごらんなさい」ということです。 結局パウロの言うように、人は愚かな者とされ、弱いみじめな者とされ、まさに、とるに足りない者とされて救われるのだということであります。そして、そのようにしてまで人を救い出すのは、主なる神であるとパウロは言っているのであります。 あの、夜の墓場で酒を漁り歩いて、ホッと一息ついて夜空を見上げた時に、今でも鮮やかに思い出しますけれども、コブシの花が夜の空に満開でありました。 三好達治という詩人は、「山なみに遠に春はきて辛夷(コブシ)の花は天上に…」と詠いましたけれども、彼が言ったように、コブシの花は「天上の花」と呼ばれております。 そしてコブシという字は、漢字で書くと2文字からなる熟語でありますけれども、実にイエス様を象徴的に語っている熟語であります。 コブシの「コ」という字は、「辛い(からい)」という字です。「辛い(つらい)」という字です。すなわち、立つという字を書いて、下に十を書きます。象形文字で読むならば、「十字架に立つ」という字ですね。「辛酸をなめる」とか、「辛苦に堪える」というような言葉によく使われます。 そして、コブシの「ブシ」という字は、訓読みで読むと「夷(えびす)」という字です。「一」を書いて「弓」を書いて「人」です。蝦夷(えぞ)の「ぞ」という字です。 すなわち「未開の人」、あるいは「未開の異邦人」という意味であります。そして、その意味するところは、「滅ぼす」、あるいは「閉廷する」という意味があるようです。 「辛夷」という字は、何とイエス様を象徴的に表わしている字ではないでしょうか。私たちの罪ゆえに十字架に立たれ、極限の苦痛の末に断罪され、そして死から復活によって、罪と死を滅ぼし、主なる神から遠く離れていた、救いから全く遠く離れていた異邦人にも救いをもたらし、とこしえのいのちの平和を与えてくださった、私たちの主イエス・キリストを、辛夷の花は黙示的に啓示していると言えます。 ヨハネは、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と聖書に記しましたけれども、あの夜の墓場で、やみの中をうごめいていた、みじめな一人のアル中を見守るように咲いていた、あの純白の夜の辛夷は、私にとってやみの中の光、すなわち主イエス・キリストの啓示そのものである、と今は言えます。 なぜ、私はアルコール中毒者になったのでしょうか。今は、喜びを持って断言できます。繰り返しますけれども、イエス様に出会うためです。 結局人が救われるためには、取るに足りない者とされ、見下されている者とされ、まさに無に等しい者とされる、その必要があると、パウロの言っている通りだからであります。パウロは、その晩年に一通の手紙を書きました。 「そこで、わが子よ。 キリスト・イエスにある恵みによって 強くなりなさい。」 と、パウロはローマ皇帝ネロによって獄中につながれていたにもかかわらず、愛するテモテにこの手紙を書きました。 人が強くなるためには、一つの条件があります。人は強くなるためには、弱いという前提条件が必要です。 パウロが「キリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい」と語る時、それは同時に「キリスト・イエスの恵みによって弱くなりなさい」ということをも意味します。 主イエスの恵みによって強くなるためには、主イエスによって弱くされることが、どうしても必要であるということです。そしてパウロは、そのこともまた神の恵みだと言うのであります。 このように、確信に満ちて断言できるパウロという人は、いったいどのような人だったのでしょうか。その生い立ちと経歴を、ちょっと見てみたいんですけども、 ピリピ人への手紙3:4-6
パウロが書いている通り、「八日目の割礼を受けた者」というのは、純粋のユダヤ人であることを示す、すなわち由緒正しい出生であるということです。 「ベニヤミンの分かれの者」という表現は、ユダヤ最初の王、サウロを出したあのベニヤミン族の一員である、という意味ですね。ベニヤミン族は、ダビデ王朝の重心の家系、家柄でもありました。すなわち、私は名門の出であるとパウロは言ってるのであります。 「きっすいのへブル人」というのは、へブル語だけをしゃべるという意味での愛国者という意味だそうです。「律法についてはパリサイ人」、すなわち、最も律法を遵守する私は、パリサイ派に属している。 「パリサイ」という意味は、「分離された者」、すなわちこの世の汚れから分離された、きよい者という意味です。私は、ユダヤ教を厳粛に遵守するパリサイ派である、律法による義については何の落ち度もない者であると、パウロは言っています。 すなわち、極めて彼は道徳的で倫理的に高い生活をした者であるということなんですね。この世の価値あるものを彼は守り、それを多く持っていました。 さらにパウロは、生まれながらにしてローマの市民権を持ち、あのアグリッパ王が「博学」と呼んだほどの教養人であり、パウロは当代一の聖書学者でありました。 パウロは人間的に見れば、誇りと尊厳に満ち、聖書に精通し、道徳的に高潔な生活をし、そしてローマ市民権を持つ特権階級に属し、博学と教養の人でありました。パウロは、誰もが羨望と尊敬を持って見る、恵まれた人であったと言えます。 その生い立ちも環境も。さらに彼自身、あり余る能力と、強い意思を持って、順風満帆たる人生を歩んでいた男だったんです。 しかし、パウロはイエス様と出会った後で、次のように言っております。 ピリピ人への手紙3:7-8
パウロは、彼の持っている、彼の意思と能力で築き上げた、そしてしっかりと握って離さなかった、この世の価値あるものをいっさい手放したのであります。有力なパウロが無力にされたということです。価値観の逆転によって、強いパウロが弱いパウロにされたということです。 誰によってでしょうか。パウロは「主なる神イエス・キリストによってである」と、ここで言っております。 なぜでしょうか。イエス・キリストの恵みによって、主の恵みによって、彼が強くなるためであるということです。 結局、パウロの救いの経験とは、彼自身も愚かな者、弱い者、無に等しい者にされることによって、そして取るに足りない者にされることによって、彼の救いのスタートが始まった、ということであります。 コリント人への手紙第II、11:23-28
この聖句に記されているように、パウロの受けた迫害、苦難、試練は数えきれないほど多くあります。そしてその試練はいつも、死と隣合わせの、死を覚悟するほどの厳しいものでありました。 一人の人が救われるということは、聖書によると、全世界を得ることよりも尊い、価値あることだと分かります。すなわち、神の価値判断は、そこにあります。 失われた人たちの救いのために、すなわち福音を宣べ伝える者として、イエス・キリストの使徒として生きるパウロは、なぜこのような厳しい試練にあわなければならなかったのでしょうか。 パウロは、その答えを自ら出しております。 コリント人への手紙第II、11:30
自分自身については、自分の弱さ以外には誇りませんとパウロは言いました。結局、イエス・キリストにより頼むためであるということです。イエス様に徹底して。 そのことを、主は私に学ばせるためである。だからこのような試練、苦難は当然だとパウロは言ったのであります。 この告白こそ、パウロにとって、イエス・キリストの恵みによって強くなる絶対条件でありました。だからパウロは、さらなる告白をしております。 ピリピ人への手紙3:10-11
救われるということは、結果として「イエス・キリストの十字架の死」を信じることです。そして、イエス様の十字架を信じるということは、私たちの古い人もまた、十字架にかかって死ぬということを意味します。 古い人とは、救われる前の、罪に支配されている自分自身のことであり、自我のことであり、この世の価値に囚われていることを意味します。この古い人、すなわち自我は、救われた後での肉なる者として、断続的に兄弟姉妹たちを襲ってくるものであります。 それは、より人間的な力に頼るものであり、自己中心のわがままであり、ある時は人をねたむ心であり、またある時は、高ぶる思いであります。 この古い人、すなわち自我が死ぬために、徹底して抹殺されるために、試練は避けて通れない道であり、この過酷な、理不尽な苦難と試練の向こうに、あの復活の主イエスの「新しいいのち」があるとパウロは言います。 そしてその「いのち」に完全にあずかりたい。これが私の願いである、とパウロは告白しているのであります。 2年くらい前ですか、御代田のキャンプの時に、たまたまベック兄と向かいあって食事をしました。ベック兄は、出されるものを本当に、次から次と、おいしそうに召しあがります。 「ベックさんは嫌いなものはないんですか?」、これは、食べ物のことを聞いたんですけども、ベック兄はその時即座に、「自分自身」と言ったんですね。 徹底した自己否定、自我の死への希望、徹底した肉なるものへの絶望というものを、ベック兄は、意識して自分に言い聞かしているように思われます。 いつの頃か忘れましたけれども、ベックさんは次のように言われたことがあります。 「イエス様は、一度たりともご自分を楽しませたことがない。だから、私も自分を楽しませることをやめたいと思う。」 ちょっと、すごいなぁと思いました。しかし今は分かります。ベック兄は、なぜあのように自由で明るく、なぜあのように穏やかで、賛美の口笛を吹きながら、なぜこのように軽やかに人生を歩めるのでしょうか。 結局、徹底した自己否定、自我の死への希望、徹底した肉なるものへの絶望であります。「私は、意識して自分を楽しませることをやめた」という、主にあるこのような意思こそ、軽やかに自由に、この人生を歩める秘訣ではないかと、今は分かるようになりました。 コリント人への手紙第II、12:7-10
パウロのすばらしい証しであります。 パウロは、肉体に一つのとげ、すなわち病気を持っていました。パウロは、偏頭痛、眼病といった持病を持ち、さらにマラリヤとか、てんかんの病気をも持っていたようであります。 パウロはイエス様に、この病からの癒しを願いました。三度も主に願ったのですが、主の答えは、イエス様の答えは、どうだったでしょうか。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言って、主はパウロの病を生涯癒しませんでした。 しかし、パウロのとった態度はどうだったでしょうか。ここで、パウロは「大いに喜んだ」と書かれています。それは、イエス・キリストの力によって、彼が覆われたからであります。結果として、パウロは次のように証しすることができました。 「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」 今見てきたように、主の用いられる器として建てられたパウロは、主イエスによって徹底的に弱くされました。なぜでしょうか。イエス・キリストの恵みによって強くなるためであります。 ペテロは、彼の手紙の中で「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」、と書きましたけれども、主なる神の力強い御手の下にへりくだるということは、苦難と試練を通して、弱くされるということです。 そうすれば、神は高くしてくださる。私たちを強くしてくださるということであります。 へブル人への手紙11:24-27
ここで、キリスト・イエスの恵みによって強くされた者の特徴が書かれています。イエス様の恵みによって強くされた者とは、モーセのように、パウロのように、主によって用いられます。そして結果として、主の栄光を現わす者とされます。 あのモーセは、今から3,500年前の世界一の王国、エジプトの王子として、王国を相続することが決まっておりましたけれども、モーセは、同胞であるユダヤ人たちと苦難の人生を生きることを選び取りました。 その結果彼は、40歳から80歳まで荒野で羊飼いとして、孤独と苦しみと戦いながら、苦難の生活を送ったのであります。しかしこの試練を通して、この信仰に堅く立って、モーセは忍び通したからこそ、すなわち、モーセが主によって徹底して弱くされたからこそ、主なる神はモーセを高くしてくださいました。すなわち、何百万人と言われる、神の選びの民であるユダヤ人たちを、あのエジプトの捕囚から、パロの奴隷から解放することができたからであります。 パウロもまた、今から約2,000年前に、異邦人伝道によって主の栄光を現わし、そして今に至るまで、世界一の伝道者であると言ってもいいでしょう。新約聖書の手紙の多くは、彼によって書かれ、そのことを通して、今なお彼は多くの人をイエス様のもとに導いているからであります。 また、キリスト・イエスの恵みによって強くされた者の特徴は、聖霊に満たされていることです。 聖霊に満たされている人とは、どのような状況においても、それがたとえ考えられないような試練と苦難の中にあっても、イエス様を大いに喜ぶことのできる人であります。 「喜びの書簡」と言われているピリピ人への手紙は、パウロによって書かれましたけれども、この短い手紙の中に、実に20回以上にわたって、パウロは「喜べ」と書いております。 そしてパウロは、このピリピ人への手紙を獄中で、死を前にした暗黒と絶望の中で書いたのであります。 ピリピ人への手紙3:1
主を喜びなさい。イエス様を喜ぶことは、私たちが安心して安全に生きるためであると書かれています。 ピリピ人への手紙4:4
ピリピ人への手紙4:10-13
「主を喜ぶこと」の結果とは、13節にパウロが書いている通り、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできます」 これこそが、イエス様の恵みによって強くされた者の、確信に満ちた証しではないでしょうか。 もう一つ、キリスト・イエスの恵みによって強くされた者の特徴とは、謙遜と愛の人であるということです。あの出エジプトを指導したモーセについて、民数記は次のように書いてあります。 民数記12:3
と聖書は記しております。また、パウロはローマ人への手紙12章の中で、 ローマ人への手紙12:14
「私たちの敵を祝福しろ。迫害する者をのろってはいかん」とパウロは書いたのであります。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 結局パウロもまた、愛と謙遜の人であると言えます。そして、パウロはそのことを実践する者とされました。使徒の働きの16章、パウロはここで、人としてはとても喜ぶことのできない状況の中でも、喜ぶことができるという証しもしてますし、とても祈ることができない状況の中でも、祈ることができるということを証ししています。 すなわち、主によって徹底して弱くされた者、結果として主によって強くされた者の証しをしております。 使徒の働き16:24-28
自分を捕らえて牢に入れて、殺そうとしている人に対して、パウロはここで「自殺してはいけない」と言っております。 使徒の働き16:29-31
愛と謙遜の人は、どのような状況の中にあっても、喜ぶことができる人です。祈ることができる人です。そして、そのような人だけが、結果として周りの人にイエス・キリストを宣べ伝えることができる。失われたたましいを、主の救いのもとに導くことができると言えます。 最後に、イエス・キリストの恵みによって強くされた者とは、イエス様に似る者とされます。ピレモンへの手紙。これも、パウロがローマの獄中で書いた手紙であります。 ピレモンへの手紙1:10-12
ピレモンへの手紙1:16-19
主人ピレモンのものを盗んで、逃亡した奴隷のオネシモは、ローマで捕まって、パウロのいる牢獄につれて来られました。そこでオネシモは、パウロに出会ったのであります。 当時、主人のものを盗んで逃亡した奴隷は、十字架にかかって処刑されるというのが普通だったようです。この逃亡奴隷オネシモは、パウロと出会うことによって救われ、イエス・キリストを信じることができました。 パウロは、そのような絶望的な状況におかれているオネシモに対して、「彼は私の心そのものです」と言ったのであります。 当時の奴隷とは、全く取るに足りない存在でした。まして、主人の者を盗んだ逃亡奴隷は、虫けらのような者でした。しかしパウロは、彼を「私の心そのものです」と言ったのであります。 そればかりでなく、パウロはオネシモの背負っている、彼の払いきれない負債を「私が支払います」とまで言っております。 死ぬべき運命にある、滅ぶ行く運命にある奴隷オネシモに対するパウロの愛は、何とイエス様のわれわれ人間一人一人に対する愛と似ていることでしょうか。 イエス様は、罪に死ぬべき私たち一人一人に代わって、十字架にかかって死んでくださいました。そして、父なる神に和解の許しを請うてくださいました。この手紙に書かれているオネシモに対するパウロの愛は、主のわれわれに対する愛と酷似しております。 キリスト・イエスの恵みによって強くされた者の特徴とは、イエス様の御姿に似る者とされるということです。 どうして主は、私たちに次から次と、このような理不尽な試練や苦しみを与え続けるのか、どうして主は、私たちの人間的力を持ってしては、どうしても解決できないような問題を、次から次と起こすのか。 「なぜ」「どうして」という私たちの問いに対して、パウロは、生涯の証しをもって答えているのではないでしょうか。すなわち、そのことを通して私たちはキリスト・イエスにある恵みによって強くなるためである、これがパウロの生涯の証しではないかと思うんですね。 最後に何箇所か読んで終わりましょう。 コリント人への手紙第II、4:8-10
コリント人への手紙第II、4:16-18
コリント人への手紙第II、6章10節は、パウロの雄叫びと言われているみことばです。 コリント人への手紙第II、6:10
ローマ人への手紙8:35
ローマ人への手紙8:37
すなわち、イエス様によって、 ローマ人への手紙8:37
多くの兄弟姉妹をはじめ、まだイエス様に救われていない方々も、多くの試練や苦しみや悲しみを持っていると思います。しかし、その試練も苦難も、すべてイエス様の恵みとして、主の御手から受け取るときに、私たちは圧倒的な勝利者になると聖書は約束しています。 なぜならその時、キリスト・イエスの恵みによって、私たちは強くなるからであります。 |