引用聖句:エペソ人への手紙2章8節-10節
ただ今読んでいただきました引用聖句をもとに、今日は、死からいのちへと、滅びから永遠のいのちへと移されることについて、みなさまとともに聖書のみことばを通して味わってみたいと思います。 私たちキリスト者は、かつては罪過の泥沼の中をさまよいまして、暗やみの圧制のもとにありました。 しかし、主の一方的な憐れみによって、今は光のもとに導き出されまして、愛する御子イエス・キリストのご支配の中へと移していただきまして、主にあって、喜びと平安を与えていただいたのであります。私たちはかつては罪の奴隷であったと。 そして今では、その罪の束縛から解放されて、義の奴隷になったと聖書ははっきりと言っております。 かつての私たちは、暗やみの真っ只中にあって、自分がこの世に存在する意味、また人生のまことの目的も知らずに、また死んだのちのことについてもまったく考えたこともなく、ただ見えるものだけに目をとめ、自分の頭で考えて、理解できることだけに価値観をもって行動しておりました。 そして身の回りの現実や、その現実の延長線上にある先のことについてだけは、心配や不安や恐怖の最中に置かれまして、焦り、苛立ちや怒りに自らが振り回されてしまいます。 職場での仕事においても、また自分が住んでいる地元の町内会とか、その辺の活動においても、また場合によっては家庭の中においてすらも、かつての私たちは自分中心で、自分の利ばかりをはかり、自分の思いを遂げる、まことに夢中だったのであります。 しかし、主からいただいた試練とか、また色んな出来事を通して、私たちは自我の泥沼、サタンの支配下から解放されまして、主にあって喜ぶ者とされて、この世の価値観から一応解放されました。 しかし私たちは救われた者であると言っても、この世の価値観からまったく完全に、すなわち100%解放されましたとは、なかなか言い切れないものであります。 特に、私の何かそうなんですが、ことあるたびに自分の内側に潜む醜いものが、自然消滅したのではなくて、今もなお健在に残っていることに、嫌でも気が付かされます。 人との競り合いとか、ぶつかり合い、そういった生き方からは一応解放されました。とは言えるのかも知れませんが、人の前に自分を少しでも良く見せたいとか、自分がやったことについて、少しでも良い評価を受けたいとか、そういう古い自我の思いがまだ残っております。 このような性質は、昔から持っていたもので、救われたのちのいまでも、残っていることを気付かさせられることが時々あります。 特に職場の仕事では、何かあることを自分がやった、そして陰ながらその自分のやったことが、非常にうまくいった物事の大きな陰の支えになっていることを自分では確信している場合があります。 しかし、周りの人は、自分がそういうふうにやったことについて、まったく知らなかったり、また知っていても、うまくいったことに対する絶対的な理由、要因とはなっているとは思ってくれない場合があります。 そのようなときに自分としては、どうしてもそのことを周りに説明して、理解させて、自分の行ないも認めてもらう。それをせずにはおれなくなってしまうのであります。 それによって自分の行ないや存在価値を少しでも周りの人に認めてもらいたい。という、非常にあさましい自我の思いにとらわれてしまうことが時々あります。 また朝の電車、通勤ラッシュですが、タッチの差で席が取れるかどうかという状態に置かれますと、知らず知らずに人を押しのける者となってしまいます。 やはり、アダムとエバが禁断の木の実を食べてしまって、主なる神への反逆を行なって以来、人間は自分中心の判断をするようになりまして、罪がこの世に入り込みまして、私たちの心に浸透したために、私たちには生まれながらの自我が救われたのちにも拭い去られないのを、痛感させられます。 事実、救われても死ぬまで罪人の性質は変わらないのであります。 人は罪を犯すから罪人であるというのではなくて、罪人だから罪を犯す。そういうことから主イエス様の十字架が私どもにとって、必要不可欠となるのであります。事実私たちは、主にあってありのままの自分を周りの社会に出すこともできません。 周りからの反応に対しても、それを主の御心と信じて、完全に主の御手から受け取ることがなかなかできない者であります。 みなさんよくご存知のみことばですが、ローマ人への手紙7章15節、ここでは内在する罪の問題についてパウロが次のように証しをしております。 ローマ人への手紙7:15-17
このように証ししております。パウロはダマスコへの途上で、主イエス・キリストとの劇的な出会いによりまして、この律法学者、パリサイ人の中のパリサイ人から、キリスト者へとどんでん返しの生まれ変わりを体験しました。 このパウロでさえも、その一、自分の中に罪が宿っています。二番目、自分は善を行ないたいといつも願っていますが、なかなかそれをなすことができません。三番目に、逆に自分は、望んでもいない悪を行なっているという、三つの事実を認めております。 そのため、それゆえに、キリスト者の歩みは、主がその人の心の中に注ぎ込んでくださった霊の力と、生まれながらのその人の心に、未だに根付いておりますこの罪の力との闘いであると言われております。 聖書には、あなたがたは罪の奴隷であったと記されておりますが、旧約と新約を合わせて、1,900ページの聖書には、その冒頭の5ページ、すなわち創世記4章に兄と弟の物語、すなわちカインとアベルの物語を置きまして、次に同じ創世記の25章辺りからもう一つの兄弟、すなわち、エサウとヤコブという双子の物語を置いております。 聖書の最初に出て来るアダムとエバの話では、エバが蛇にそそのかされて、まず妻が禁断の実を食べて、それを夫にも食べさせました。これによって人間に罪が入り、肉の目が開かれて、自我に左右されるようになってしまいまして、現実を肉の目で見て判断し、思考するようになりました。 これは神の御心とは大きく離れた自分勝手な行動でありました。 最初に出て来るこのアダムとエバの二人の子ども、この兄弟の物語では、兄カインは自分のささげものには目をとめてもらえず、弟アベルのささげものにだけ神が目をとめられたことを、ひどく怒り、憤り、嫉妬のあまり弟アベルを野原に誘い出して、襲いかかって殺してしまいます。 この弟のアベルさえいなければ自分の行ないは無駄にはされず、自分の存在を神さまは認めてくださり、自分の行ないもきちんと評価してくださるものなのに、この弟がいるばかり。という思いであったわけでした。 しかし、すべてをご存知の神はカインに「弟アベルはどこにいるのか。」と問われても、カインは、自分の行ないを隠して、「知りません。私は弟の番人ではありません。」と神に対して白々しい態度を取ってしまいます。 弟アベルを殺したあとも、悔い改めるどころか主を欺き通そうとしました。神はすべてをご存知であられるのに、自分は神に隠れて、神の目の届かないところで弟をこの世から抹殺したつもりでおりました。この世の物語では、寓話とかの教訓的なものに昔よく登場する兄と弟の話では、兄が弟を守り、リードします。 一方、弟は兄を敬い、慕い、兄に聞き従います。そして兄弟は、互いに力を合わせて外なる敵に立ち向かう。このような兄弟愛をもとにして、兄と弟を描いたものは一般的に多くあります。一方聖書に登場する兄弟の話では、決してそのようなものではありません。 いや、それとはまったく反対のもので、人間が罪そのものであるという原点に立って、兄弟としての訓話や寓話における建て前を捨て去りまして、互いに本音でぶつかり合うという骨肉相争うといったような兄弟が聖書の冒頭から登場してまいります。 兄エサウと弟ヤコブの物語も、始めからこのようでありました。 創世記25:21-26
とあります。 アブラハムの子、イサクの妻リベカは不妊の女でありましたが、イサクの祈りに主が答えられたので、妻リベカはみごもることができまして、ふたごが授かりましたが、この兄エサウと弟ヤコブは、母の胎内にいるときからぶつかり合いを始めましたので、母リベカは、「こんなことでは、私はいったいどうなるのでしょうか。」と主の御心を聞きに行ったほどでした。 いよいよ出産の時が満ちると、先に出たエサウのかかとをつかんだままで、つながった状態で弟のヤコブは生まれ出たと云われるのですから、実に闘争心の溢れる、ものすごい弟でありました。 だからその子をヤコブと名づけたとあります。ヤコブという名前は、押しのける者、欺く者という非常に嫌な意味をもっております。 このようにヤコブは、母の胎内にいるときから、すなわちまだ太陽を見ないうちから問題を起こす者でありました。ふたごの弟ですから、順序はあとなのでしょうけど、先を争う者として一歩でもエサウより先に出ようと、兄エサウのかかとをつかんで、生まれ出たわけであります。 それでも神は、自分の器としてこのヤコブを、まだ母の胎内にいるときから選ばれたのであります。 このふたごの兄弟が成長して、兄のエサウは猟師となって、野山を駆け回る野人の生活となります。一方弟ヤコブは、母の側で手伝ったり、家の側で畑仕事をしたりしまして、母リベカに可愛がられて育ちました。 ある日エサウはひどい空腹状態で疲れ果てて、野山から戻って来ました。空腹を満たすためには、どんな条件でも受け入れるから、とにかく食べ物にありつきたいという弱み丸出しの状態でした。 ヤコブは大変目先のきく人でしたので、兄エサウの飢えた状態にあるという弱みにつけこんで、パンとレンズ豆入りの煮物を与えまして、それと引き換えに、兄エサウの持つ長子の権利を買い取ります。 むしろヤコブは、空腹の弱みにつけこんで、長子の権利を兄から奪い取るようにして自分のものにしたと言ったほうがいいのかもしれません。このようにして兄エサウはイサクの長子でありながら、父のあとを相続する権利を空腹を満たすために売り渡してしまいました。 なるほど、ヤコブは長子の特権を重んじ、神の約束を尊重していることは良いことと言えます。しかし、このような策略的な方法で、長子の特権を手に入れるのは不当でありますし、主の御手が働かされる前に自分で、自分の力で奪い取ったわけであります。 そればかりか、年を取って視力が衰えた父イサクがエサウに狩りの獲物をしとめて、料理して食べさせてくれるのと引き換えに、祝福を与えたいと言われまして、兄エサウは張り切って狩りに出掛けたことを母から聞いて、兄エサウの留守を利用しまして、鹿の肉の代わりに、母の協力を得て、小ヤギの肉を料理してもらって、自分はまんまと兄エサウになりすまして、父イサクを騙して、父が兄に与えるはずの祝福までも兄から横取りしまして、自分のものにしてしまいました。 創世記27:30-45
故郷を離れて、二十年間も逃亡者として母リベカの兄である伯父ラバンのもとで過ごすことを余儀なくされたわけであります。主の訓練はこのように、自分の知恵と力、手段と方法に頼る人に下される場合が多いのであります。 ここでちょっと、この双子の兄弟について振り返ってみますと、母の胎内で二人は衝突し合っているときに、主の御心を求めに行った、母リベカにあなたの胎内にいる双子のうち、兄が弟に仕えると主の御告げがありました。 もしも私たちがこの世の価値観で見た場合、この神の選びについて、なぜ神は弟のヤコブのほうを多く愛し給い、兄エサウをあまり愛されなかったのかと、疑問をもちたくなります。すなわち、ヤコブを退けて、エサウを立てようとするのがこの世の人間の考えであるかと思います。 兄エサウは少々乱暴ですけど、気さくな人、あっさりして男らしい人、善良であって、この世的に見て非常によい人のようでありました。 一方ヤコブは、その名前からして、押しのける者、欺く者という、非常に嫌な意味をもっています。その名にふさわしく、人を押しのけ、人を欺く。人と競り合い、ぶつかり合い、さらに目先の効く者、抜け目のない者、油断のならない者。転んでもただでは起き上がらず、何かを掴んで立ち上がるといった本当に嫌なタイプのようであります。 やはり人間的な判断を下せば、私たちはヤコブよりエサウのほうがはるかに好きになってしまいそうであります。 しかしながら、旧約聖書にもありますが、主の思いは人の思いと異なり、主の道は人の道と異なる。主の思いはわれわれ人間のちっぽけな頭での理解を超越しています。 主はご自身の御心の実を確実に実行されますが、主のご計画を人は測り知ることはできないのであります。 ローマ人への手紙11:33-36
一体だれが神の定めを極め尽くせますでしょうか、神の道を理解尽くせようか、それはだれにもできないのであります。 一体だれが主の御心を知っていたでありましょうか、だれもいません。だれも知っておりません。 一体だれが主のご計画に関わることができるでしょうか。だれが主のご計画の相談相手になれるのでしょうか。だれもなれません。 また、だれが主と持ちつ持たれつの関係をもつことができるでしょうか。もちろん、だれもおりません。 結局、すべてのものは神から出たものであり、神によって成り立ち、神に帰されるとみことばは云っております。 再びヤコブの話に戻りまして、ヤコブは、ベエル・シェバ立って、伯父ラバンのところ、カランへと旅立ったのであります。 旅の途中でヤコブは夢を見ました。その夢は、あまりにも主のご臨在に満ち溢れておりました。彼は眠りから覚めて、まことに主がここに立っておられたということを実にはっきりと気付いて、恐れおののいたのであります。 創世記28:10-17
と、あります。 このときのヤコブは、伯父ラバンのいるところに安息の地を求めるさすらいの一人旅にあったのですが、疲れきったヤコブがこの石を見つけて、それを枕に使いました。 そのような状況のもとで、神はヤコブに一つの夢を与え給いました。その夢は一見単純なようであって、非常に奥深い夢でありました。 夢の中でヤコブは見ました。一つのはしごが天から地に向けて立てられており、その頂が天に達しているのをヤコブは見たのであります。そして、そのはしごの上を神の御使いたちが、天から下り、また、上るのを彼は見たのでありました。 そして側に主は立っておられて、ヤコブに約束されました。「この地をヤコブとその子孫たちに与える。そしてヤコブの子孫は、地のちりのように多くなり、東西南北にと広がり、地上のすべての民族はヤコブと子孫によって祝福される。」と仰せられたのでありました。しかし、それは夢でありました。 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。主はヤコブに夢を与えてくださり、この夢の中でヤコブに現われてくださったことをヤコブは確信できたのであります。 主はヤコブの今までの歩みのすべてを知っておられました。ずっと、見ておられたわけです。そしてヤコブに、「わたしはあなたとともにあり、決してあなたを見捨てない。」と約束されました。 ヤコブは、主の御前に恐れおののいたのであります。人を押しのけ、欺く者であったヤコブが、心の底から叫びました。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家、天の門である。」 それは、天が開かれていることを示し、天から地上へと垂直に立っているはしごは、天と地がつながっていることを示し、人が、おりてこられた神と出会う通路であることを意味しております。 ヨハネの福音書14:6
ここで主イエス様は、「私は道である」と言われましたが、それは水平な道ではなく、天と地を結ぶ垂直な道でありまして、これを通して神が側まで来てくださるので、人は神のみもとに行けることをみことばは云っております。 ヨハネの福音書1:51
と、主は言われました。 神の御使いが人の子の上を上り下りする。このように主イエス様は仰せられたのであります。人の子とは、もちろん救い主メシヤであられる主イエス・キリストのことであります。主イエス・キリストは、神と人とを隔たっているこの天と地を結ぶ垂直のはしごとなられました。 御子イエスが、私たちひとりひとりの罪の罰を身代わりとしてなられて受けてくださいまして、十字架の死によって償いを成し遂げてくださいました。神は、はしごとなられた主イエス・キリストを通して、十字架のみわざを信じ、受け入れた人にもご自身をもたらされ、また人を神ご自身のもとへと導かれます。 このようにして、主であられる神は、自我の固い殻の中に閉じこもり、暗やみの圧制の中にあった人々を、はしごとなられた主イエス・キリストを通して、神ご自身のもとに導かれるのでありました。 創世記28:18-22
夢から覚めたのちヤコブは、自分が枕として使った石を柱として立てまして、その上に油をそそぎ、この場所の名をベテル、すなわち神の家と名づけ、呼びました。 なお、そそがれた油は聖霊を象徴しております。22節では、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石こそが、「ベテル」、すなわち神の家となると、ヤコブは言ったのでありました。 そののちヤコブは、カランの地で主から訓練を受けます。母の兄にあたる伯父ラバンのもとで、二十年間も働かされました。 伯父ラバンは、ヤコブとどっか似たタイプの人で、大変したたかな人でした。ヤコブは伯父の二人の娘の妹のほうのラケルを妻に所望して、七年間働いたのですが、騙されて姉のほうを押しつけられました。 それでも妹のラケルを諦めきれずに、結局十四年間も働いて、二人の娘のために働きまして、さらにその上に六年間は羊の群れのために働き、合計二十年間を伯父ラバンのもとで過ごしたわけであります。 この試練の期間に、主はヤコブを造り変えようとなされましたが、彼は、この彼の生まれながらの肉は依然として健在でありまして、残っておりまして、まだまだ狡猾で非常にずる賢いし、最後には伯父ラバンをも手玉に取ってしまう。そのようなヤコブを完全に造り変えるために、さらに神の御手が動かされるのでありました。 ヤコブは、カランの地で手に入れたすべての家畜とすべての財産、妻子たちとしもべたちを連れて、カナンの地にいる父イサクのもとに帰途の旅につきました。 しかし、その道中に気になる知らせがもたらされました。兄エサウが四百人をも引き連れて、ヤコブを迎えにやって来るという知らせでした。 ヤコブにとって兄エサウは、二十年前の怒りをいまだに残して、四百人もの供を用意したのではないかと疑い恐れました。 そこでヤコブは、人々や家畜を二つの宿営、二つのグループに分けまして、一つのグループが仮に襲われても、残ったもう一つのグループが難を逃れられるという、今で言う危険分散をはかります。 その準備が整えられたあと、ヤコブは神の前で初めて祈るのでありました。これではやはり、自分の知恵を働かせて計算しながら祈っております。自分の知恵と力で困難を乗り切ろうとして、それから祈ります。 それでもまだ不安が残るので、さらにはかりごとをめぐらすわけであります。自分よりも先に贈り物を携えたしもべたちを進ませ、第一、第二、第三の贈り物を届けさせまして、エサウの気持ちを徐々になだめ、ほぐしていった上で、リスクは、危険のなくなった状態で兄と対面しようと、計画するわけであります。 そしてそれをみなに命じて、ヤコブは贈り物グループの一番あとを進みました。そのようなヤコブに対して、ちょうどヤボクの渡しでみなを渡して、一人だけ残ったときに神の御使いが現われて、ヤコブと夜明けまで格闘しました。 最後にヤコブは、もものつがいを外されてしまいました。ヤコブが自分の知恵や力や策略にすぐにより頼もうとする、その思いを主は打ち砕かれたのであります。 もものつがいは、人の体の中のもっとも強健な関節であります。股関節というんでしょうか。そして、体力の源と言われております。自我を支える生まれながらの力のポイントを象徴しております。 これを外されたヤコブは、もう自分では何もできなくなってしまいまして、まったく無力となって、主の前に完全に屈服して、すべてを主により頼む者と造り変えられまして、その状態でエサウとの再会を、主がお守り、導いてくださいました。 ヤコブ自身は、今度は彼らの一番先に立って進んで、兄エサウに近づくまでに、七回も地に伏しておじぎをして、そうすると兄エサウは、弟を迎えて走って来て、弟を抱いたとあります。 ホセア書12:3-6
とあります。 かつては押しのける者、欺く者であったあのヤコブでさえも、神は一方的な憐れみによって、豊かなる恵みと祝福をそそいでくださいました。 びっこになってから、あのヤコブはイスラエルとなりました。イスラエルというのは、「イスラ」が「戦」うで、「エル」が「神」だと言われてます。神が戦って守ってくださる人。神が支配し給う人。 このイスラエルとなりまして、完全に造り変えられまして、二度と再び自分の知恵やはかりごとに頼らず、人を疑う者から人を信じることのできる者。人を騙す者から騙される者へとなりました。 果てには、自分の子どもからも騙される者となってしまいましたが、それでも、主のお守りとお導きによって、この世的な疑いや恐れから解放され、喜びと平安のうちを歩める者となりました。 エペソ人への手紙2:1-7
2節では、この異邦人キリスト者であるエペソの人たちを、あなたがたは自分の過ちと罪のために霊的に死んだ状態にあって、この世に押し流され、この世に支配されて、神に従わない者たちの内側に今も働くこのサタンの霊に従って、このサタンの霊に支配されたそのままに生活していました。 3節では、ユダヤ人キリスト者である私たちのように、自我の欲の赴くままに生活し、生まれながら神の御怒りを受けるはずの者でしたとありますが、私たちにとってはいずれもこれは、救われる前の私たちを指しております。 4節からは、しかしあわれみ豊かなる神は、私たちをこよなく愛してくださり、ただ恵みによって救ってくださいました。 それは、過ちのために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださり、イエス・キリストによってともに復活させてくださり、ともに天の御座に座してくださいました。 これは将来においてこのように約束されております。こうして神はキリスト・イエスを通して、私たちに賜わった慈愛によって、その限りなき豊かな恵みを来たるべき世に現わそうとされたのであります。 続いて、引用聖句お読みいたします。 エペソ人への手紙2:8-10
このように8節では、私たちは神の一方的なあわれみと恵みによって、信仰によって救われたのです。それは自らの力や努力によるものでなく、神さまからの賜物によりますと云っております。 9節では、だれも誇ることがないように、私たちは自分たちの行ないによって救われたのではありません。なぜならば、私たちは神の作品であり、キリスト・イエスに基づいて造られた者です。それは神が前もって準備してくださった良い行ないを実行するためなのです。 このように私たちは、主イエス様が十字架上で流された贖いの血潮によって、私たちそれぞれに主が定められたもっともふさわしいときに、本当に瞬時に、生き返らせてくださいましたことをいつも覚え、常に感謝すべきもんではないでしょうか。 その感謝を通して、日頃の歩みを自分の思いではなくて、主の御心にそった者となれますようにと祈らずにはいられない毎日であります。どうもありがとうございました。 |