引用聖句:コリント人への手紙第I、8章4節-6節
ただ今、司会の方に読んでいただきましたが、これに関することですけど、最近20世紀も終わりに近づいておりますが、一般に世紀末は荒れるというのは、昔からのよく言われる俗っぽい言葉ですが、今回もそのような感じです。 次々に大事件が起こってきます。 みなさんもご存知のように、地下鉄サリン事件。これがきっかけとなって、オウム真理教がかなりクローズアップされて、新聞紙上を賑わしております。 私どもの会社においても、この話でもちきりで、同僚とか上司は、私のほうをチラチラ見ながら、「宗教は恐ろしい。」と。 だから、「いや、私のものは宗教じゃないんだ。」と、そこを言っても、これを聞いてもらえないから、こういう時は黙ってるしかない。そういう状況です。 そしてここの中で教祖が、この方は仏教でスタートしたはず。それで、それに聖書の教えを途中で入れたり、ヒンズー教の教えを入れたりして、そしてそれをチャンポンにしてしまって。自分はなんか、煩悩から解脱を図ったと言っておりますが、肝臓が悪いとして、死を相当恐れているようですから、とても解脱なんてしてるとは思えません。 そういうことで、本当に今の空中浮遊もそうですけど、やはり入信の儀式や修行に、非常に感覚を麻痺させるテクニックも駆使しておりますから、何らかの薬物を使っているケースも非常に多いようですが、こういうところで、その取り巻く人たちは、かなり一流大学の博士課程、修士課程出た人なんか、最高学部を出た人がおられます。 それで私、つくづく思わされました。人はやっぱりいくら学問を積んでも、人間本来の愚かさからは逃れられないと。人間はやっぱり、愚かだということを考えさせられます。 それはやっぱり、われわれというのは愚かだから、自分は愚かであるということ知って、愚かな者である立場をとって初めて、その愚かさから解決が得られる、というんじゃなかろうかと思います。 そして人生には、確かに今、普通の人間の人たちはみんなそうだと思いますが、その人でも、人生に確かなものはない。人生に土台的なものは一つもない。そういうことで、若者なんかは、こういうヨガとか超能力に憧れます。 なんかそれに関わるうち、何かを求めようとすると、そういうところへいっちゃう。そしていってしまうと、そのとんでもないところに最後は辿り着いてしまって、こういうサタンのかけたこの罠にハマってしまうということですが、もちろん、この教祖さまとその取り巻く人たちだって、恐らくサタンがその心の中に入り込んでいって、完全に支配してると、動かされているんじゃないかと思います。 そういうことで、たくさん不幸な信者さんたちがいるんでしょうけど、この人たちがもし、その前に聖書をとおして、まことの神を知っていれば、決してそのようなことにはならないはず。 またこういう不幸な信者さんもひょっとすれば、ここで本当のまことの神が、最後の最後に救いの手を差し伸べられるのかもしれません。それはもう、われわれには分かりません。で、今、司会の方に読んでいただきました個所、 コリント人への手紙第I、8:4
これにつきまして、詩篇の40篇6節を拝読します。 詩篇40:6
続いて、 詩篇51:16-17
再びコリントに戻りまして、 コリント人への手紙第I、8:5-6
自分は日本人ですから、家が仏教とかなんとかあり、幼い頃からそういう環境の中におりましたんですが、そういうものだけだったら決して信仰には入らなかったわけです。 やはりこの集会、みなさん方、あるいはベック兄をとおして、まことの神を紹介していただきましたことを感謝しています。今、このオウムのような、こういった機関の、こういう怪しげなところに入り込むということは、自分の足元をしっかり見つめてる人だったら、学問の有り無しとか、そういったものには関係ないかもしれません。 生まれつきの知恵とか、判断とか常識があれば、このような危険な罠には近寄らないと思います。そして、勧誘があったとしても、何とか身を避けることができたんじゃないかと思いますが、そういうふうに、この世的にしっかりした人、そういう人でも、もし自分自身に何らかの不幸が訪れて、その不幸が自分の知恵や努力ではもう解決できない、という種類のものであった場合、それがまた、そうであればあるほど、その不幸をとおして、自分には何にも拠り所となる確かなものをもたないことを知るはずです。 特に親、兄弟、夫婦のいずれか、自分の子どもなどの身近な人が死ぬという経験をもった場合、「人の世のはかなさ、そぞろ身に染む。」という言葉がよくありますが、その気持ちに至ることになります。病気や事故、その他友人や家族を失った場合、一般にこういうふうに言われてますね。 あなたの友人の死とは何だ。 それはあなたの一部を失う。 あなたの親の死とは、あなたの過去を失う。 あなたの配偶者の死は、あなたの現在を失う。 あなたの子どもの死は、あなたの未来を失う。 これが一般に言われる言葉ですが、配偶者や、子どもを失った場合、その人の悲しみというのは非常に深い淵に落ち込みます。 特に逆縁(注:ぎゃくえん=年長者が年下の者の法事をすること。)と言われまして、年下の者が年上の者より先に死ぬこと。 たとえば、自分の子どもを失った親の悲しみ。これはもう非常にひどいもので、それまで生きて来た人生の意味付け、それも奪われてしまう。これは、主を知らないままで、我が子を失った親というのは、人生の目標を失ってしまって、そのあとどうして生きれば良いか、もう一時的に分からなくなってしまいます。 で、心の痛みから解放されるまでに、少なくとも、十年以上はかかると一般には言われています。 しかし、どうやら立ち直ったように見えても、人生のやはり虚しさとか、儚さの気持ちで包まれております。残りの人生は、その後遺症を引きずって、ひっそり生きるということになります。 人は一度しか死にませんが、一度しか死なないということは、言い換えれば、一度は必ず死ぬ。早いか遅いかの差があるだけなんです。ということで、私どもは、死というゴールに向かって、歩み続けております。 昔、日本で、一休和尚さんがおられまして、この方は正月村の人々が、「めでたし、めでたし。」で、お屠蘇祝いをしてるさなか、杖の先に、てっぺんに骸骨をつけて、「元旦や冥土の旅の一里塚。」と唱えながら歩きます。 もう村の人たちは、なんか薄気味悪い坊主が来たというようなことですが、そういうお祭り気分に冷や水を浴びせたというのは、年が一年改まると、それがちょうど一里塚に相当すると。いずれ行くのは、ゴールは死である、冥土であるというふうに、その一休和尚は諭したんだと思います。 それで、もし聖書をとおしてまことの主を知り、主を信ずるわれわれキリスト者は、イエス様の備えられた道を歩めばいい。だから何も恐れもない、不安もない旅とすれば、未信者だったら目標なく、歩み回って、最後に至るべき死を恐れて、何とか生き長らえることに心を騒がせ、色々口にします。 この前テレビで見たのですが、秦の始皇帝、万里の長城を作った人ですが、絶大な権力をもって、欲しいままに振舞って、もう自分にはこの世では敵はいない。ただ、自分に忍び寄る死だけが敵である。 なんとか生きたいから、不老不死の薬を求めまして、どっかの島にその薬があるという噂を聞きまして、家来をそこにやらせます。 そして家来の帰るのをひたすら待っていました。家来は二度と戻って来ませんでした。結局、そういったことで、いくら権力を欲しいままにしても、死から逃れられないという、われわれは、そういう宿命にあります。 私も平成元年に、息子を亡くしましたが、これをとおして、まことの主に出会うことができました。 うちの妻は昔からの教会クリスチャンでした。だけど同時に、主イエス様に本物の信仰を与えられたということで、一応われわれ夫婦ともに、息子が天に召されて、主が引き取ってくださったんだということを信じ、喜ぶ者とされました。 私どもがここに導かれたときには、実は、私自身は息子が死んだあと、うちの姉妹がある大学の先生で同じような人がいると言いましたもんですから、「大学の教授で、そういうケースもあるのか。」なんて、思っちゃいまして、「会ってみない?」と言われたから、会いたくなったんですね。 それで家庭集会に行った。それがここに導かれたきっかけで、このとき兄弟が私に言われました。「もう息子さんは神さまがちゃんと先に引き取ってくださったんだ。」と、「あずかってもらってるから、もう心配ないんだ。」ということを一生懸命言っておられました。 それが分かるまでになかなか時間がかかりますけど、今、それが信じられるようになっております。 そういうことで、この世には多くの偶像礼拝の宗教がありますが、すべて、やっぱりご利益主義とご都合主義のもので、人間が作った偶像の神さまだと。 結局、私がこの間病院で週間雑誌読んでいると、色んな不幸があった人に、水子の祟りがどうだとかこうだとか、これを買いなさいとかいうのがありました。 なんか、どんぐりころころの歌の言葉ですね。お池にはまって、さあ大変が、罰が当ってさあ大変。ドジョウが出て来てが、神さま出て来てこんにちは、だからやっぱり、そんなふうにしか価値観を見出せない。 それは、本当に一生懸命走ってる人は分からないけど、端から冷ややかにですね。(笑) だから、そういうもので、はたして本当に心の空洞が満たせるか。満たせるはずがない。で、我が家も、日本は一般にそうですが、私の家もそうですが、神棚と仏さま、仏壇が一緒に置かれていました。 そして私の家は、台所には釜の神というか、影の守護神と言われる神を奉っていましたね。 だから、三本立てって言っておりまして、うちの母がキリスト者で教会へ、そして正月は神棚を拝むんですね。母は別ですけど、父が。そしてお盆には、坊さんにお経をあげてもらう。 非常に訳の分からんような、日本人の典型ですかな。本当にそう思いますと、人生の拠り所となる、確かなものという、これはまことの神を知ること以外にないんじゃないかと思います。 ギリシャの人は、昔からものを考えるのが非常に好きで、なんか学問のレベルも非常に高いっていうか、想像力豊かで、そしてギリシャ神話ができまして、神さまがたくさん出ますね。オリンピアの神が。 で、その他、色々な神がおりまして、冗談でよく言われていますが、目をつむって石を投げたら、神さまに当るんじゃないかと言われるぐらい神さまがおられます。 しかし、本当に全能の神はいないわけです。そして本当の神はいるんだけど、それは、それを求めているけど、それに到達できないのが、その頃のギリシャ人だったようであります。 では、そこのところに関連するところ。使徒の働き17章16節から。 使徒の働き17:16
これはパウロが第二回目の伝道旅行、ギリシャ方面に行ってたところだと。そういうことで、偶像がいっぱいなのでパウロは憤慨したと。 使徒の働き17:17
ということで、論じ合った。 使徒の働き17:18
ここで、色んなややこしい、難しいこと言ってる哲学者で、エピクロス派とか、ストア派とかがあるのですが、この人たち相手にパウロが討論したわけです。 そうすると、「この如才無いおしゃべりは何を言うのだ。」というふうなことで、色々言われるわけですが、 使徒の働き17:19
と。このアレオパゴスというのは、宗教思想とかを審議するための、然るべき場所らしいですね。最高法廷みたいなところです。 そこで、あなたの言ってる新しい教えを述べてくれということで、珍しいことを、ポッと言う、彼らには非常に奇妙に思えたらしいんです。 で、それがどんな意味なのかということを聞いて来ています。 使徒の働き17:21
彼らはいつも新しい情報を求めていたわけです。この場所で。 使徒の働き17:22-24
これが、イザヤ書42章5節をちょっと見ましょうか。 イザヤ書42:5
それから、 マタイの福音書11:25
そういうことで、神は天地の主であると。それから、万物をお造りになった方であると。また、 使徒の働き17:25
いのちと息とその他、すべてのものをお与えくださいました、備えてくださいました。 使徒の働き17:26
これは、地上の至るところに住まわせて、 使徒の働き17:26
決められた時代。これはなんか、季節みたいなそれと、その居住地の境界をはっきり定められました。 使徒の働き17:27
これは、神さまが人間に神を求めさせるためであって、本当に探し求めさえすれば、まことの神さまに到達することができますと、パウロはそのように教えております。ここで、 詩篇145:18
と、あります。 使徒の働き17:28-29
イザヤ書40:18-20
と、あります。また、 使徒の働き17:30-34
アレオパゴスの裁判官。かなりの地位の人で、反対する筆頭に立つような人が導かれております。 そういうことで、ここの一番ポイントは、23節にあります、「知られない神に。」と刻まれた祭壇。これは、彼らは多信教のように、たくさんの神が伝説でありますが、彼らには本当に創造主がおられるけど、それに行き当たらなかったと。ただ、それを求めているけど、知らなかったわけです。だからここに、「知られない神」と書いたんです。 だからこの古代文化の発祥地であるこのアテネの街角に、今だ知られざる神へという石碑が立ってるんだそうです。だから古代ギリシャ人は、まことの神というのは、全知全能の唯一の神であるということを知ったのは、聖書をとおして初めてだったそうです。 そして今、このギリシャも東方正教会ですか?ギリシャ聖教とかいうような、このカトリック、プロテスタントと並んで、三大分派の一つとなっております。 そして、ローマ皇帝の権力が教会の中に入り込んじゃったもんですから、カトリックの教えは、色々権威主義で問題があるようですが、 (テープ A面 → B面) 東方正教会の代表的なところはギリシャ。ギリシャの人たちもそういうことによって、かなり多くの人が導かれた。コリントとか、ガラテヤとか、全部パウロが伝道したわけです。 しかし、私どもキリスト集会をとおして、ベック兄の話、その他から色々と学んでおりますが、そこでわれわれが学んだことは、「主は、宗派とは無関係である。」 カトリックとかプロテスタントとか、そんなこととは無関係であるという、一番大事なことですね。そして主は、すべてをおさめる主であられて、すべてをおさめる万物の支配者であられる。それと、キリストの十字架による贖いを信じ、自分の罪深さを認めて、主に助けを求める者は、必ず救われる。 私はこの集会をとおして、これを学ばせていただきました。それと、信仰生活の失敗というのは、自分自身の力でなんとかしようとする。そしてその祝福とは、すべて主にゆだねることということを学びました。 私の父は、検査のために病院に入院していますが、この前我が家の家庭集会があったときに、ベックさんとお会いする機会を得たわけです。父がベック兄の側に座ってるんですね。 検査の前の日だったんですが、ベック兄が言われました、「お父さま、大丈夫、大丈夫。死ぬまで大丈夫。死ぬまでも。」 「死ぬまでも。」って言われて、うちのお父さんもそんな悪い気はしなかったんですね。 それと帰るときも、ベック兄はまた会ってくださいまして、うちのおじいちゃんともまた会いましょうということで、帰られたんです。そういうことで、イエス・キリストの実にやっぱりつながるということですよね。そしてこの世の見えるものには、もうあまり惑わされないとそういうふうに思いました。 それからベック兄がよく言われます。「この世に勝利するとは、どういうことか。それは主だけを見上げるんだ。現実というのは、足の下に踏みつけなさい。」 それは、口で言うのは簡単だけど、現実にもう包み込まれちゃうんですね、われわれは。弱いもんだから。そして右往左往しちゃう。それでキリスト集会というのは、本当に砕かれた者の集まりでありますけど、御代田で、ある初めて行った方がみなさんと会いまして、「なんだこれ。人生の惨敗者の集まりじゃないか。」と酷評したんですね。「なんだこれ。」、初めての人はそう思うんでしょうね。 だから、それはやっぱり砕かれた心、主の祝福が働いて、昔だったら、「何をー!」という気持ちが起こるんですけど、それが今ではあんまりないですよね。 そういうことで、この集会も同類相憐れみの会ではないし、仲良しクラブでもない。やっぱり、集まる救われた兄弟姉妹方のそれぞれが、主の十字架の贖いと天国を相続するという約束を信じて、それぞれが主に倣ってということが大事で、主がいつも集いの中心におられる、そして主のみことばを信じ、主により頼む。 そして十字架の贖いと天国を相続する約束があることを、多くの方々にもたらされるようにやはり働く。福音を宣べ伝えたり、共に祈ったりするというところではないかなと思います。やはり、現実に勝利する信仰というのは、 マタイの福音書14:26-27
ということで、やはりここのところでは、ちょうど私どもも、信仰の道に入った者も、目の前の色んな苦難、試練が来て、そしてイエス様の姿を見失うときがあります。 そのようなときにはイエス様に求めれば、声をかけてくださる。「わたしだ。恐れることはない。」と。そこでイエス様の声を聞くと、お弟子さんたちはみな、安心したんです。それからイエス様もこのお弟子さんの前にご自分を示されたわけですが、そこでみな安心した。しかしペテロだけがこう言ってますね。 マタイの福音書14:28
「あなたでしたら。」、「あなたですから。」じゃない。「でしたら。」という言葉ですから、半分ちょっと疑いがある。それでもイエス様は、「来なさい。」と言われました。 それで、それを信じて、水の上を歩いて行った。ところが周りを見て、また恐くなって、また再び、「主よ。お助けください。」そこで再びイエス様は手を伸ばされて、彼を救いあげられた。 「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」、このように、われわれ信仰者とは言っても、本当にまだ弱い者で、特に私なんかそうなんですが、いつもこの繰り返しをやっております。 最後に詩篇107篇を拝読させていただきます。 詩篇107:1-22
どうもありがとうございました |