私の日を手幅ほどに


白石康夫兄

(藤枝家庭集会、2001/06/10)

引用聖句:イザヤ書52章7節-8節
7良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。
8聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。

詩篇39:4-7
4主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。
5ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ
6まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。
7主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

与えられたこの生涯というのは、わずか手の幅ほどのものであります。主の御前には、私たちのこの人生も無に等しいものであります。

まことに、人は幻のように動き、あくせくして、だれの手に最後に渡るのか。それも分からないのに、たくわえを積み上げるという非常にむなしいものであります。
それならば主よ、私たちは何に望みをかけたらよいのでしょう。私たちの望みは、あなただけです。主よ。あなたを待ち望みます。

このように、この詩篇の作者は、人生を儚い存在だと自覚して、主なる神にすべて望みをかけたわけです。
確かに、この世だけがすべてと見るなら、人生は本当に儚くて、むなしいものであります。
しかし主イエス様を信じ受け入れた者には、永遠のいのちが約束されております。

詩篇103:15-18
15人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
16風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
17しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
18主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。

私たちは幸いにして、主のご計画に従いまして、時を移さず主の御手から救いを受けることができまして、今までさまよっていた暗やみの圧制のもとから光のもとに導き出されました。
では、この世の短い人生における私たちの目的とは何かについて、それに関するみことばを味わってみたいと思います。マタイの福音書の28章18節からです。
ここで主イエス様を裏切ったイスカリオテのユダを除く、十一人のお弟子さんたちがガリラヤに行き、主イエス様に指示された山に登って、復活された主にお会いして、主の御前にひれ伏しました。そのとき、主は次のように言われました。

マタイの福音書28:18-20
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

主はこのように言われました。すべての国の人々をわたしの弟子にしなさい。そして彼らに、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授け、そしてわたしが命じておいたすべてを守るように、彼らに教えなさい。わたしは、世の終わりまで、あなたがたとともにいます。
このように主は弟子たちに言われました。全世界に出て行き、すべての人々に福音を宣べ伝えなさいと。

しかしまだ、求める気のない人々にいくら福音を伝えても、当然聞く耳を持たないわけであります。
そのようなことに関して次のようなみことばがあります。コリント人への手紙第Iの2章4節から5節をお読みいたします。
ここで、十字架につけられた主イエス・キリストを宣べ伝えることについて、パウロがこのように言っております。

コリント人への手紙第I、2:4-5
4そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
5それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

とあります。このようにしてパウロの宣教は、この世の知恵にあふれた知識のことばではなく、神の霊と神の力との現われによるものでした。
なぜならそれは、人間の知恵のことばで人々は信じるのではない、神の力によって、人々の信仰はささえられるためですと、みことばは言っております。

このように伝道は、すべて主の御霊と主の力によってなされるものであります。
私たち信者が未信者の方に主イエス様を紹介するには、まず自分の思いを一切抑えること。そうすれば内側に住んでくださる聖霊の働きによって、人は初めて福音を宣べ伝えることができますと聖書は言っております。
その土台となるものはなにか。私たちがその土台に立てるためには、日常の歩みがどうであるかということになります。

その一つは、主に祈ること。
二つ目は、主の前にへりくだること。
その三つ目は、主によって喜ぶことであります。

すべてを感謝して、主の御手から受け取ることはへりくだること。また主によって喜ぶことにつながりますし、もちろん、祈ることにもつながってまいります。
しかし伝道のためにまず一番に必要不可欠なものは、その人の救いについて主に祈ることであります。

では、祈りによって光の中に導かれた例について見てみたいと思います。少し古い話ですが、また一番の例ですが、十七世紀のフランスにパスカルという若い学者がおりました。
彼は三十九歳の若さでこの世を去りましたが、世界的には有名な数学者、物理学者であり、且つキリスト者でありました。
パスカルの法則で有名であります。近代科学の創始者であると謳われております。大気圧や液体圧についてのパスカルの原理というのはあまりにも有名であります。この原理を応用して、便利な機械が数多く作り出されまして、今でも多く利用されております。彼は数学や物理学においてすばらしい色んな発表によりましてこの世での大いなる名声を博しました。

そして芸術家や知識人やその他の有名人で構成されるパリ社交界に、この若い学者は出入りして、もてはやされて、華やかな社交界に人生の喜びを求めて、そしてそれを心の支えとしておりました。
一方、パスカルの妹、ジャクリーヌは兄の名声とはまったく無関係でありまして、ポール・ロワイヤル修道院でシスターとして心から主に仕えていました。

しばらくすると不思議なことに、兄パスカルに変化が起こりました。兄パスカルの心の中には社交界での有名人同士との交わりに、次第に虚しさが生じてきました。果てには、社交界に対しても嫌悪の情に駆られるようになってしまいました。
そのような状況に置かれた彼には、決定的な回心の感情が高まるような回心の喜びを体験したのであります。

そのときパスカルは、主イエス様を自分の救い主として信じ、受け入れることができました。この兄の救いについて、父と母はすでにこの世を去って、残されたただ一人の兄に対する妹の、シスターとなった妹、ジャクリーヌの長い間の祈りがありまして、この孤独でささやかな祈りが聞かれ、成就されたのでありました。
その後パスカルは、罪人の回心についてとか、色んなキリスト者の書物を書き残しておりますが、彼はついにカトリック教会に対立もしたんですが、彼が残した最も有名な言葉に次のようなのがあります。

「無限の宇宙に比べれば、人間とその理性は無きものに等しい。しかし人間は考える葦として偉大である。人間のこの自己矛盾を救うのは、キリストの教えのみである。」と言っております。
ここで「葦」とは、川原に生えるヨシやアシのことを言うわけで、人間は一本の葦にすぎないと。それは自然界の中で最も弱いものである。しかしそれは考える葦である。

人はあれこれと思いをめぐらし、色々考えて迷う。しかし、主イエス様の教えしか真の救いの手立てはない、解決の道はないと、このように若い学者パスカルの救いは、彼の妹ジャクリーヌの敬虔な祈りによるものであります。

もう一つの例として、イギリス人のジェームス・ハドソン・テーラーという方がおられます。一世紀半前、十九世紀後半のキリスト者です。信仰の巨人と言われております。
イギリスからただ一人、最初はただ一人で動乱期の中国に渡りまして、二十二歳の若さで上海に上陸して、伝道にすべてをささげ、中国の地に大いなる伝道の機構を創設した人であります。
その名をチャイナ・インランド・ミッション、中国内陸伝道と言います。

彼は実際に、神さまの約束をすべてそのまま信じて生きておりまして、最高の水準を保った霊的な生活を、一貫してなし得るというこの事実を証明した人であります。
激動の時代に、ただ主の約束だけを信じて伝道にすべてをささげて、中国の内陸地方に福音の門を開いた人でありました。

ジェームス・ハドソン・テーラーは十七歳のときに主を信じ、そのときの様子は次のように記されております。
ハドソン・テーラーの母親が、数週間家を空けたこの留守中に、少年の彼は寂しさを紛らわすために、父の本を読み漁ろうと飽きるまで読もうと思って、今はなき父の書物が置いてある古い物置の中にはいりました。

ちょうどその頃、彼の母親は八十キロメーター離れたところで、友だちから離れてただ一人主の御前に何時間もひざまずいて、息子の救いについて熱心に祈り求めていたのであります。やがてその祈りが聞かれた。
主は・・・

(テープ A面 → B面)

・・・ハドソン・テーラーは、この父の書物の物置の中から小さい本を取り出して読んでいました。
話が核心に触れていくところで、キリストの完成されたみわざというそういう表現に、ハドソン・テーラーはとらえられました。するとすぐに、すべてが終わったという、その文字が彼の前に光り輝くのでありました。

身代わりとなられたすばらしいお方が、負債を払ってくださって、私たちのすべての人々の罪のために死んでくださった。すべてが完了し、軽くなった部分が今、支払い済みとなってしまったと、すべてを主イエス様がなしてくださったのだ。
では自分はいったい何をしたらよいのか。自分のなすべきこととして、いったい何が残っているのだろうかと、彼は考えたのであります。
主イエス様とその救いを受け入れて、いつまでも主を賛美すること。それ以外にこの世になすべきことはなにも残っていないという、そのことに彼は気づいたのであります。

主イエス様を素直に受け入れ、新しい生命を得た彼は、平安と喜びに満たされまして、常に主を賛美しつつ、伝道に生涯をささげる人となったのであります。
彼は、・・・余談ですが、医者であるとともに、赤ん坊の世話でも料理でも経理でも何でもこなした人で、絶えず祈る人であると同時にきめ細かく動く人であったそうです。
話が救われた頃に戻りまして、十七歳に戻しますと、二週間ほどして母親が帰って来たわけです。ハドソン・テーラーは主イエス様を受け入れた喜びを、まず母に伝えようとしました。ところがお母さんは、「もう知っていますよ。あなたが話そうとする嬉しい知らせを。二週間前から喜んでいました。」と母は言ったのであります。

彼が救われると同時に、遠くにいた母は祈りを通してそのことを示され、すでに喜んでいたのであります。
それから数日後にハドソン・テーラーは、すでにクリスチャンであった妹のノートを自分のノートと間違えて開けてしまいました。そこには、一ヶ月前ぐらいから書かれた妹の字がありまして、次のように記されていました。
「神が私の祈りに応えてくださって、ただ一人の兄が救われるまで私は一生懸命に祈ります。」と書いてあったそうです。

このようにして同じ時期において、異なった場所で母と妹が熱心に祈ったことで、若きハドソン・テーラーの目は開かれたわけです。
彼は幼い頃から、父親の祈りの中で中国という名を何度も聞いておりました。キリスト者となったあとも、遠くから彼を幾度となく招く中国であったわけです。
神の目的はどうか・・・祈りのうちに彼ははっきりと示されたんです。わたしのために中国に行きなさいという、主のみことばを示されたのであります。

ローマ人への手紙1:8-15
8まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
9私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
10いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
11私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
12というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
13兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
14私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
15ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

ここに、ローマの訪問に対するパウロの切なる願いが込められております。
9節には、私はあなたがたのことを思わぬ時はない。いつも思っています。そしていよいよ、今度はいよいよ道が開かれて、あなたがたのところに行けるようになることを願っています。
そして11節でも、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたい。あなたがたの力になりたいと願っております。

また互いに持っている信仰によって、ともに励ましを受けたい。ともに励まし合いたい。そしていくらかの実りを得たいと思って、何度もあなたがたのところに行こうとした。
14節では、すべての国々のすべての国の人々に返さなければならない、返さねばならない負債を負っていますと、信仰を宣べ伝える義務が私にありますと、そのように言っております。だから、ローマにいるあなたがたに、ぜひ福音を伝えたいと。

ローマ人への手紙1:16-17
16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

私は福音を宣べ伝えることを恥とは思いません。これはむしろ逆説的な言い方で、誇りに思っていますとパウロは言いたいのではなかったのでしょうか。
福音はユダヤ人はもとより、ギリシヤ人を始めとする異邦人にも、すなわち信じる者すべてに、救いをもたらす神の力ですと言っております。
福音の中に啓示されている神の義は、始めから終わりまで信仰をとおして実現される。

パウロは知らない兄弟のためにみことばを伝えたい。主イエス・キリストについて語りたい。信じる者に働く、非常に大きな神の力について全世界の人々に伝えたいという願いを込めております。

ローマ人への手紙10:8-14
8では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

このように、旧約聖書では「みことばはあなたの口にあり、あなたの心にある。」と記されていますが、そのみことばこそが、人を信仰に導くことのできる伝道のことばであると言っております。
9節でも、なぜなら、もしあなたが口でイエス・キリストこそが主であるとはっきりと公に認めて、心では神がイエス・キリストを死者の中から復活させられましたと信じるなら、あなたは救われるからですとあります。
10節でも、実に人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる。とあります。

主イエス様を信じる人々は、だれも失望させられることがない。なぜならば、ということは、もはやユダヤ人であるからどうだとか、日本人であるからこうだとかの差別はまったくなく、すべての人に同じ主がおられて、主を呼び求める人すべてを豊かに恵んでくださるからですと。

まさに、主の御名を呼ぶ者は、みな救われますとあります。
しかし14節では、信じたことのないお方の御名を、どうして呼び求めることができようか。いや、その前にまだ、聞いたことのないお方を、どうして信じることができましょうか。
いや、もう一つ前に、宣べ伝える人がいなくて、どうしてそのことを聞くことができるでしょうかとあります。
続きまして、

ローマ人への手紙10:15-17
15遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
17そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

とあります。信仰は聞くことにより、しかもそれも、キリストのことばを聞くことから始まると、このみことばは言っております。

使徒の働き16:6-10
6それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
7こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
8それでムシヤを通って、トロアスに下った。
9ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
10パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

とあります。ここでパウロは、御霊の働きによってマケドニヤ人の幻を見たわけであります。
10節後半にも、幻を通して、神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと、そういうふうに示されたと確信したわけであります。
私たちにも備えができると、御霊の働きによって主のみこころに従い、主に示されたとおりに動くことができるということをここから学び取ることができます。
聖霊の働きこそが大切であります。

先ほどお話しました、19世紀の信仰の巨人、ジェームス・ハドソン・テーラーは、1905年に召天されましたが、その5年前の1900年、19世紀のちょうど終わりの年ですが、チャイナ・インランド・ミッションには750人の宣教師がいたそうです。
しかしハドソン・テーラーは生涯を帰して、彼については次のように言われております。

「彼は組織の人ではなかった。神の方法は人であると。教会が必要としているよりよい機構ではありません。新しい組織でもありません。
力ある祈りの人を主は用いられるのであります。聖霊は機構や組織の上に下るものではない。祈りの人の上に下る。そして主は祈りの人を任命される。」と言っておりました。

最後に、引用聖句になりますが、イザヤ書52章お読みいたします。

イザヤ書52:7-8
7良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。
8聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。

福音とは、旧約時代までは良い知らせ、救い主の喜ばしい訪れでありました。
特に新約時代からは、救い主イエス・キリストによって完成され、その十字架の死と復活によって実現した、救いのみわざについての喜ばしい知らせであります。主イエス様を信じる者に救いをもたらす神の力であります。
また福音とは、人類に与えられた神さまからの贈り物と言われております。それほどすばらしいものであります。

キリスト信者として成長するためには、みことばを日々分かち合い、体験することが大切であります。
そのためにはまず感謝することであります。
信仰の実を結ぶとはまず、神のみことばに仕える、主イエス様に仕えること、そしてみことばによって成長することであります。それから第三に、みことばを運ぶ者となることを主は望んでおられます。
このようなことを通して、みなさんとともに聖書のみことばから今日学ぶことができました。

どうもありがとうございました。




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