誰でもできること


清水洋一兄

(西宮家庭集会、2003/09)

引用聖句:ルカの福音書19章5節-6節
5イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
6ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

今、兄弟に読んでいただきましたルカの福音書の聖句は、みなさんよくご存知の、ザアカイの話の一部です。
イエス様が、取税人であるザアカイに声をかけられて、ザアカイが大喜びをした場面です。誰でも自分が尊敬する人、あるいは大好きな人から名前を呼んで、声をかけられたら嬉しいと思います。それがイエス様であれば、なおさらのことだと思います。
しかもそれまで一度も会ったことのない方から、自分の名前を呼ばれたのですから、ザアカイは、この方はずっと以前から自分のことを心にかけていてくださったのだと知って、感激がひとしおだったと思います。
と同時に、聖書のみことばはやはり真実だと実感したと思うんですね。そのみことばといいますと、例えばイザヤ書にある「わたしはあなたの名を呼んだ。」とか、あるいは「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」、まあそのようなみことばが本当に真実だとザアカイは感じたと思います。

イエス様は、ザアカイだけでなく例えば、べテスターと呼ばれる池の近くで伏せっている男を見て、「泣かなくてもいい。」と声をかけられましたし、あるいはナインという町の門の近くで、やもめとなった母親の一人息子が死んで、担ぎ出されたところを見て、その母親に「泣かなくてもいい。」と、声をかけられています。
このほか、イエス様は聖書をとおして、すべての人に「わたしのところに来なさい。」と呼びかけてくださっています。有名なみことばですけれども、

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このように声をかけてくださっています。声をかけるということは、その人に関心がある、その人のことを思っているということの表われですから、私たち集会に集う者同士の間でも、大切なことではないかと思います。
イエス様が声をかけられたという行為は、もちろん私たちを愛してくださるためですけれども、信仰の創始者であり完成者であるイエス様が、私たちに示されたひとつの模範行動というふうに受け取ることもできると思います。
ですから、私たちもイエス様に倣って、声をかけるという、そういうことを心掛けることが必要ではないかと思います。

で、私は今年6月にドイツキャンプに参加したんですけど、今無職で年金生活してるもんですから、時間がたっぷりあるので、Aグループ・Bグループ通して21日間ドイツに行ってきましたけれども、出発日の成田空港で次々に兄弟姉妹が集まってきますと、必ず声をかけあって挨拶して、主にある兄弟姉妹ですから当然の行為でありますけれども、こういうふうにお互いに声をかけ合って握手するという光景は、見ていても本当に心温まる思いがします。
喜びの集いに限らず、普段でも何となく元気のない人、何か悩んでいるように見える人にはすすんで声をかけるべきですし、集会などでも一人ぼっちでいるような方を見かけたら、やはり声をかけるということが大切ではないかと思います。

私などは、非常に人見知りをする方で、きわめて社交的でない人間ですので、なかなか声をかけるっていうのも苦手なんですけれども、集会に集っている方々もそういう方が少なくないとは思いますけれども、それでもみなさん初めての人、面識のない人などに積極的に声をかけられています。
ということは、結局イエス様に従いたい、イエス様に喜ばれたい、そういう気持ちがあって、イエス様に背中を押されて声をかけているのではないかなあと思います。

ベック兄も、昔ものすごく恥ずかしがり屋だったということを聞いてます。お客さんが来て、何かを持って行くのに、そのお客さんの顔を見るのが恥ずかしくて困るので、お小遣いをほかの人に与えて行ってもらったっていう、そのくらい恥ずかしがり屋だったらしいんですけどね。
今は本当に積極的に未信者の人に声をかけておられるっていうのは、やっぱり声をかけることの大切さっていうことを、よく思ってそういうことをやっているのだと思います。
そういう、声をかけるという行為をイエス様が祝福してくださるということは、私の乏しい経験からもはっきり言うことができます。そういうこともあったもんですから、今度のドイツのキャンプでも、私もなるべく声をかけようと努力をして、かなりぎこちがないんですけども、なるべく初めての人とか、集会に集ってるんで面識のない人にも、勇気をもって声をかけることを試みました。

で、声をかけるという行為は、もちろんお金は一銭もいりませんし、誰にでもできることです。このように、信仰生活上大切な行動というか、多くのものっていうのはお金がかかりませんし、誰にもできることだと思います。
今日の話のテーマも「誰にでもできること」ということで、お話させていただきたいと思います。今まで述べてきた、声をかけるということは、誰にでもできることの一つです。

そのほかにもたくさんあります。誰にでもできることの二つ目は、例えば耳を傾けることだと思うんですね。
耳を傾けるということには二つあって、一つはイエス様に耳を傾けること。これは御心を求めるあるいは、聖書のみことばを素直に受け取る。さらには飢え渇きをもって聖書のページを開く、そういうことだと思います。
それからもう一つは、他人の話を聞く。特に悩んでる人、問題を抱えている人の話を聞いてあげるということだと思います。この場合には特に、忍耐ということが必要だと思います。問題を抱えている人の話っていうのは、一般に、多くの場合話が長いです。くどいしそれから理路整然としてないようなことが多いと思うんですね。

私のような非常に短気な者は、イライラしてしまうことが多いんですけれども、そういう話を、もう三十分も一時間も、とにかく辛抱強く聞くということが大切だと思うんですね。そういうことを実際に私、教えられたことがあるんですが、まだ信仰をもってない方と交わったことがあるんですが、その人は非常に色々な悩みをもってるということで、交わって欲しいということで紹介されて、交わったことがあるんですけれども、実際に会って話を聞いてみますと、色んな悩みがあると聞いてるんですが、その人の口から出る話っていうのは、自分の過去の栄光の話が多いんですね。
自分はこんなたくさん仕事した。これだけのことをやった。つまり自分が今惨めな状態にあるっていうことを言う前に、やっぱり自分が過去はこんなに素晴らしかったっていうことを言った上で、そちらの方に話をしたいということだろうと思うんですね。

いきなりそういう、初めての人に自分の惨めさをさらけ出すっていうことが、なかなかしにくいんだろうと思うんですけれども、しかしその話がもう延々と続くもんですから、本当にどういう悩みをもってるのかっていう話に、なかなか来ないんですね。
もう三十分、一時間と続いてるうちに、私もだんだんイライラしてきたんですけど、たまたま私一人で交わると言っても、私自身の霊的な状態があまり大したことがないもんですから、もっとしっかりした兄弟と一緒にいってもらうということで、別の兄弟に同席してもらったんですね。
そしたら兄弟は本当に忍耐強く、その人の話にもいちいち頷いて、相槌をうって、じっと静かに聞いてるんですね。その姿を見て、なかなか自分にはできないなあ、自分には本当に忍耐がない、愛がないと感じさせられました。そして同時に、自分もそのようにしなければいけないというふうに、教えられました。

忍耐をもって相手の話を聞けば、相手も心を開きますし、重荷を少しでも軽くできるのではないかと思います。そういう、ひいては何ていうか、相手の話にじっと聞いている、そういう姿は、背後にやっぱりイエス様の光を見るということもあると思うんですね。
ですから耳を傾ける、特に辛抱、そういう悩みを持っている人の話は一般に、話がまとまらなかったり、理路整然としていなくても、それは本当に静かに聞くという、そういうことが大切ではないかなあと思います。

それからもう一つは、話を聞く場合に感じるんですけども、やはり聞く側が発言を控えることが大切ではないかなあということを感じます。お説教とか、教えるというような話し方はしない方がいいのではないか。集会の姉妹の中には、非常に、大変活発で、教えることの大好きな方もいらしゃいますけど
も、自分の考えをあんまり押し付けるような話し方は、逆効果と言いますか、あるいはつまづきのもとになるかもしれないという気がします。
話すんだったら、やっぱり、何か教えるというよりも、自分の証し、自分が悩み苦しんだときの経験とか、あるいはイエス様からいただいた恵みとか、そういうものを控えめに話すことがいいのではないかっていうことを、自分の乏しい経験からも感じます。

それから、誰にでもできる第3は、今まで話してきたことと重なりますけども、信者同士の交わりをもつということだと思います。交わり、つまり語り合うということですね。
私の経験でも、交わりを通して教えられたこと、気付かされたことが少なくありません。信仰を保つ上で、同じ信仰を持つ者との語り合いっていうのは、本当に大切だと思います。

使徒の働き2:42
42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

初代教会の人たちが、このみことばから、交わりを非常に大切にしていたことがわかります。初代教会の人たちが、主イエス様の器として非常に大きく大いにもちいられた、その原動力の一つが、同じ信仰を持つ者同士の交わりであったことは確かだと思うんです。
もちろん交わりというのは誰にでもできることですし、お金もかかりません。

これは集会のある兄弟の話ですけれども、その方は一時的に集会を離れたことがあるそうです。集会の色んな問題があったんだと思うんですけれども、集会に集わなくても家族だけで主を礼拝し、聖書を読み、祈る生活をすれば信仰を守れると、そう思い込んで集会を一時的に離れたそうです。
ところが現実に集会を離れて、交わりを持つことが無くなると、何をやっても心に平安がなかった、でいつの間にか家族の間でも心が通じ合わなくなったそうです。
そしてあることを通して、自分が間違っていたことを気付かされて、悔い改めて集会に戻ることができ、再び平安と喜びをいただくことができたそうです。この例からも交わりの大切さっていうものがうかがえます。

コリント人への手紙第II、8:4
4聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

交わりの恵みと書いてありますけれども、この部分は1節から4節まで拝読したいと思います。

コリント人への手紙第II、8:1-4
1さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
3私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
4聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

マケドニヤの教会の方々は、非常に、極度の貧しさとか試練ですね、苦しみの激しい試練の中にあったけれども、本当に満ちあふれる喜びを持った。それをささえたのは交わりの恵みであると書いてあります。
ですからやはり、交わりというのは聖徒たちをささえる力がある、その力になることだと思うんですね。ですから逆に言いますと、交わりを持たない信仰生活には力がないのではないかと思います。

人間には好き嫌いがありますし、中にはあの人に会いたくないとか、どうもあの姉妹は怖いとか、あるいは苦手だとか、そういうことも時に耳にしますけれども、そんな時でも、勇気をもって集会に出る、積極的に交わりに参加するように努めると、恵みをいただけるのではないかと思います。
ですから、その逆を言いますと、交わりをしないということは、あるいはもっと悪いのは、交わりを妨げることというのは禁物だと思います。その極端な例は、例えば相手を無視する。
無視するっていうのは、交わりを拒むというようなことにも通じますし、無視することほど相手を傷つけることはないと思います。ですからやはり、交わりというものをもつ、それを妨げないようにする。そういう努力、これもまた誰にでもできることですし、お金もかからないことだと思います。

もちろん、誰にでもできることでお金もかからないっていうことは、ほかにもたくさんあります。例えば主イエス様を礼拝するっていうことも、お金も一銭もかからない。

(テープ A面 → B面)

私たちは平安と希望に満たされます。本当に大きな恵みだと思います。また感謝することも、感謝するよりも不満をすることの多いこの世にあって、やはりイエス様の光を放つ行為となると思います。そのほか、イエス様はへりくだることとか、高ぶらないこととかそういうことも教えられておりますし、他人に仕えることとか、そういうのをまとめてガラテヤ人への手紙に次のようにあります。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

こういうような心のあり方は簡単ではないですけれども、できることだと思います。
以上色んなことを言いましたけれども、これらの行ないを一言でまとめますと、結局隣人を愛するということに集約されると思うんですね。自分自身を愛するように隣人を愛しなさいという、これはイエス様ご自身がお弟子さんたちに言われました、神を愛することと並ぶ最も大切な戒め、その戒めとしてイエス様がお弟子さんに語られたことです。そしてこのような心のあり方、態度というのは、集会や集会に集う兄弟姉妹たちが一致するためにも非常に大切だと思います。

兄弟姉妹の一致ということは、教会や、集会が成長発展していくために、あるいはイエス様を紹介していくためにも非常に大切なことで、聖書も色んな箇所で、「一致しなさい」ということを繰り返し繰り返し強調しています。
有名なみことばでは、

エペソ人への手紙4:3-5
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
5主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

それから、

ピリピ人への手紙2:2
2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

誰にでもできるということでこれまで述べてきたことは、本当に誰にでもできることだと思いますし、お金もかからないことです。その気になればできることだと思います。
だけど実際には、そうであってもいつの間にか、そのできることを忘れてしまって、知らない間に違う行動に走ってしまうことが起こりがちです。ですから、今まで私は、誰にでもできることと言いましたけれども、実はこの誰にでもできることが、なかなか実はできないことでもあると思うんです。
へりくだろうと思って、確かにその時はへりくだることができても、いつの間にか自分が高ぶっていたりすることがよくあります。自分の内に根付いてる罪の性質によって、そうなってしまいます。

ローマ人への手紙の中でパウロも言っているように、自分では善を行なおうと願っていても悪を行なってしまう。そんなときにはもうイエス様ごめんなさいと、悔い改めるしかないと思います。
結局私たちの信仰生活っていうのは、ルターが言ったように、悔い改めの連続だと思います。でも悔い改めるということは、結局、善を行ないたいという気持ちが成せるわざですから、イエス様は善を行ってなかったとしても赦してくださいますし、悔い改めを喜んでくださいます。
ですから心すべきことは、できることをやろうという気持ちをいつも持つことと同時に、できることをいつの間にかやらないでいることに気付くことだと思うんです。そういう自分のいたらなさを自覚して、毎日自己点検し、悔い改めて歩んでいくことではないかと思います。
以上で終わります。どうもありがとうございました。




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