キリスト者の聖なる怒り


清水洋一兄

(吉祥寺学び会、2013/07/30)

引用聖句:詩篇139篇21節
21主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。

私たち人間は、感情の動物と言われますけれども、日常生活の中で、その感情をさまざまな形で現します。涙を流したり、笑ったり、ふさぎ込んだり、興奮したり、怒ったりします。これらの感情の中で、今日は怒りということについて聖書から学ばせていただきたいと思います。
なぜこんなテーマを取り上げたかと言いますと、怒るということは一般に良くないとされ、実際、怒りっぽい人はみな嫌われます。怒りっぽい人を好きだと言う人はほとんどいないと思います。
しかし、怒りの中には、御心にかなう怒り、必要な怒りもあり、そのことを知っておくことは、信仰上も有益である。主のみからだである教会、集会を聖く保つ上でも大切だと思わされたからです。

本題に入る前に、誤解のないために言っておきますと、怒るという感情は、基本的には押さえるべきでありますし、聖書にも怒ることを戒めるみことばが数多く記されています。

詩篇37:8
8怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

箴言29:22
22怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。

エペソ人への手紙4:31
31無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

しかし、怒ることはすべて悪いというわけではありません。まれなことではありますが、素直に受け入れられるそのような怒りもあります。先ほど兄弟に読んでいただきました引用聖句、詩篇139篇21節にもその怒りの気持ちが記されていると思います。
この詩で、ダビデは「主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。」と言っています
けれども、この主を憎む者を、あるいは主に逆らう者を憎まずにいられないという言葉は、主を憎む者に対して怒らずにはいられないと言っているのと同じです。

イスラエルの王ダビデという人は、人一倍、主を敬い、主を愛し信頼していましたから、主を憎む者を憎まずにはいられない、そういう者に怒りを燃やさずにはいられないという気持ちは理解できます。
特に自分の国民、主の選びの民であるイスラエル人でありながら、主を憎む、主に逆らう者に対しては、怒りを抑えきれなかったと思います。言い換えますと、この詩にあるダビデの怒りは、主を愛し敬う気持ちの現われ、主を絶対的に信頼する信仰の現れでもあったと言えるのではないかと思います。
ですから、日常見かける怒りのほとんどは良くない、控えるべき怒りでありますけれども、引用聖句のような怒りもある。

怒りには、許される怒りと控えるべき怒りの2つのタイプがるということを聖書も示しています。そして結論を先に申しますと、許される怒りは、主なる神の怒りに添う怒りであって、その意味で御心にかなう怒り、キリスト者にとって時に必要な怒りでもあります。
覚悟が必要な怒り、あるいは信仰が試される怒りにもなることがあるということです。
旧約聖書に記されている、皆さんよくご存知のモーセと言う人は、そのような怒りを示した人物の一人でした。モーセは、今から3千数百年前、エジプトの地から当時奴隷とされていたイスラエルの民を連れ出して、カナンの地に導いた人物です。

この大仕事をモーセは、直接神から告げられて行ない、成し遂げたのですけれども、その歩みは試練の連続でした。イスラエルの民は、しばしば神の命令に逆らって、モーセに反抗したからです。彼らの行動は当然の結果として、神の怒りをかい、モーセを苦しめ、時には怒らせました。
出エジプト記32章には、イスラエルの民が、子牛の鋳物、そういう偶像を作って拝んだ話が詳しく書かれていますけれども、この主に逆らう行動は、モーセが主に召されて、シナイ山に登っている間に起きた出来事でした。
そして、それをご覧になった神は、「わたしの怒りが、彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを立ち滅ぼす」とモーセに仰せられました。

出エジプト記32:10
10今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。

それでモーセは「どうか滅ぼさないでください。」と嘆願して、一時は神の赦しをいただきました。
ところが、本人がシナイ山から下りてきて、現実にその偶像の前で踊っている民を見た時に、こんどは先ほど民の赦しを願ったモーセ自身が、怒りを燃え上がらせてしまいました。

出エジプト記32:19
19宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。

そして自分の側についたレビ族に支持して、偶像礼拝する民を殺させたのです。

出エジプト記32:26-28
26そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
27そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
28レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

偶像礼拝をする者たちを立ち滅ぼすことは、主の御心であったと言っても、出エジプトの苦難の旅を、歩みを共にしてきたイスラエルの同胞3,000人を殺すように支持したのは、あまりに不従順な彼らのふるまいに、モーセ自身、怒らずにはいられなくなったためでもありました。
そしてこの厳しい処置は、その後のいろいろな経緯を経て、最終的には主の祝福につながりました。イスラエルの民と言いましても、カナンに実際にたどり着いたのは、大部分がエジプトを脱出した次の世代の人たちでしたけれども、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地を与えられて、大いに栄えました。
そしてその子孫からダビデが生まれ、系図上はダビデの子孫からイエス様が誕生されました。

反逆の民3,000人の殺害を命じたことによって、イスラエルの民全体が滅ぼされることは免れて、イスラエルの民を通してイエス様がこの世に遣わされた。
イエス様の十字架の御業によって、人類全体に救いの道が開かれたということですから、この経緯を見ますと、モーセの怒りは聖い怒り、御心にかなう聖なる怒り、そして必要な怒りでもあったことが解かります。
ここで引用聖句の139篇を書いたダビデに話を戻しますと、ダビデは詩篇26編5節や31篇6節でも、同じような怒りを語っています。

詩篇26:5
5私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。

詩篇31:6
6私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。

これらの詩にあるダビデの怒りというものは、正しいことが行なわれないことへの怒り、不当なことに対する怒り、いわゆる義なる憤り、義憤にあたります。この義憤は、パウロにも見られます。
パウロは、コリントの信徒たちの不品行、分派、高ぶり、やるべきことをしない罪などを指摘して、厳しい戒めの手紙を書いています。

コリント人への手紙第I、6:2
2あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

聖徒が世界をさばくようになるとは、イエス様が弟子たちに語られたことばです。

マタイの福音書19:28
28そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

このようにイエス様が語っておられます。このイエス様のことばに基づいてパウロは、「あなたがたは、小さな事件さえさばくことができないのか。それではイエス様が言われた、12部族をさばくことなど、とても出来ないのではないか。」とコリントの信徒たちを叱りつけたわけです。

コリント人への手紙第I、6:5
5私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。

このようにパウロは告げています。コリントの信徒は、パウロが信仰に導いた人たち、いわば教え子のような者たちでした。ですから、彼らの信仰が堕落しているのを見過ごすことができずに、怒りをにじませた厳しい手紙を書いたのだと、受け取ることができます。
そこには親が子を叱るような思いが込められていたはずです。としますとこのパウロの怒りは、主の怒りに習ったものと言えます。


箴言3:12
12父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。

ヘブル人への手紙12:6
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

無教会主義をとなえたキリスト者として知られる、内村鑑三という人も聖い怒りを肯定する文章を書いています。彼の文章は文語体ですので、それを口語文に直して紹介しますと、次のような内容の文章を書いています。
「キリスト者は、軽々しく怒らない。また怒って、罪を犯すことのないように努める。しかし、怒らないのではない。キリスト者は、聖く怒るように神から許されているのである。」
内村鑑三は、こう語ってパウロのことばを引用しています。

コリント人への手紙第II、11:29
29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

このみことばを、もう少し解かりやすく易しく言い直しますと、「つまずき倒れる者がいれば、同じように弱い私は、同情せずにいられません。つまずかせた相手を、激しく怒らずにはいられるでしょうか。怒らずにいられません。」そのような意味に受け取れます。
信徒をつまずかせた者に、怒らずにいられないというパウロの思い、それと重なる内村鑑三の思いは、現在の私たちキリスト者、集会や教会の信徒たちも、心に留めるべきことば、そういう必要があると言えるのではないでしょうか。
誤った教えで信徒たちを惑わす者、分派などを作って、教会のまとまりを乱す者に、私は怒りを燃やさずにはいられない、このように語りかけていると受け取れるからです。

内村は、このパウロのことばを引用して、聖い怒りは、神に許されていると書いたのです。
パウロの怒りと内村鑑三の怒りは、どちらも主のみからだである教会を聖く保ちたいという気持ちに根ざしている、そして兄弟姉妹たちが、イエス様にあって一つになって歩むことを願ってのことと思います。

コリント人への手紙第I、5:11
11私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。

今日の教会、集会にも当てはまる忠告ではないでしょうか。教会内、集会内の罪に無関心であってはいけない、見て見ぬふりをしてはいけないということではないかと思います。
ただしこれらの怒りは、御心にかなう怒りでありますから、その底に高ぶりや自己義認の気持ちが少しでもあってはならないということは、言うまでもありません。
その点は、充分気をつける、自己吟味をする必要があると思います。

以上、聖書から見てきた聖い怒り、具体的には聖さを保てなくなった教会や集会に対する怒り、あるいは、堕落した教会、集会への怒り、こういうものは、通常は教会や集会の責任者、あるいは長老などがいだくことが多いのではないかと思います。
そしてその怒りは、信徒たちに悔い改め、あるいは立ち直るための思い切った行動、新たな歩みなどを促していると思います。
ですから私たち一般信徒たちも、そのような聖い怒りを理解し、受け入れること、時には自らもいだくことが求められているのではないでしょうか。

始めのほうでお話したモーセの怒りにしても、レビ人全員が、その怒りを理解してモーセの命令に従ったからこそ、3,000人もの偶像礼拝者を、かつての自分たちの同僚でもありますけど、3,000人もの偶像礼拝者に罰を下すことができ、主の祝福につながりました。
主のみからだである集会が、御心にかなう歩みをし、主のご栄光を現すためにも、聖い怒りは大切であり、許される怒りであるということができます。ついでに言いますと、たとえば宗教改革を行なったルターも、ローマ法王を頂点とする教会の堕落に対して、激しい怒りを持ったことが基本にあったのではないかと思います。
旧約聖書には、たとえばエズラがバビロンの捕囚から帰還したユダヤ人たちが、集団離婚を勧める厳しい態度を取ったことが記されていますけれど、彼らは異邦人の女性を、たくさんの人が妻にして、ユダヤ人たちの信仰を乱す、そのことに対して激しい怒りを持ったからだと思います。それが最終的に祝福につながったわけです。

最後にみことばをお読みします。

コリント人への手紙第II、6:13-18、7:1
6:13私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
6:14不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
6:15キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
7:01愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

今日は、聖い怒り、許される怒りということについて、聖書から学ばしていただきました。
以上で終わります。ありがとうございました。




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