悲しむことの恵み


清水洋一兄

(福岡福音集会、2003/12/20)

引用聖句:ヤコブの手紙4章9節
9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

今日は、兄弟に読んでいただきましたヤコブの手紙のみことばから、「悲しむ」ということを中心に、みなさんと一緒に聖書から学んでみたいと思います。これは信仰上、非常に初歩的なお話ですので、多くの方には退屈かもしれませんけれども、忍耐を持っておつきあいください。

聖書を読んでいますと、一見他の箇所と矛盾するように思われる、そのようなみことばに出会うことがあります。もちろん神様のみことばには誤りがあるということはありませんから、それは読む側に問題がある、読み方が間違っている、あるいはみことばを表面的にしか捉えていないためであります。
けれども一時的に「おやっ?」と思うこともあるのではないでしょうか。このヤコブの手紙の「悲しみなさい」というみことばも、たとえばよく知られている

テサロニケ人への手紙第I、5章の「いつも喜んでいなさい」という聖句、あるいはピリピ人への手紙4章4節の「主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」というみことばとぶつかるように思います。
世の常識では、「悲しむ」と「喜ぶ」は、正反対のことであるからです。ですから、世の中の常識で言いますと、同じ書物の中に「悲しみなさい」とあり、また「喜びなさい」とあるのは、おかしいのではないかという、そういうふうに思うかもしれません。

けれども、ヤコブの手紙で言ってる「悲しみ」とは、世間で言う「悲しみ」とはもちろん違います。このヤコブの手紙に限らず、新約聖書にある手紙は、すべて信者宛てに書かれたものですから、そのことを前提に考えてみますと、ここで言っている「悲しみ」とは、普通の「悲しみ」ではなく、信仰を持っている者の「霊的な悲しみ」であることがわかります。

では、この「霊的な悲しみ」とはどのようなものかと言いますと、それは「自分の罪を自覚したための悲しみ」と言ってもいいのではないかと思います。イエス様を信じ受け入れた人は、自分の罪を認識し、その罪がイエス様の十字架の死によって贖われたことを信じ、感謝し、喜んでいる人です。
ですから、自分の罪を見つめる人間です。そして自分が犯してきた罪、自分の内側にある罪の性質を見る時、「なんと自分は罪深い人間だろう」と悲しまざるを得ないはずです。ところが実際はどうでしょうか。
私たちは、本当に自分の罪を自覚して、悲しんでいるでしょうか。自分の罪に盲目となり、本来悲しむべきものであるのに、悲しんでいない、悲しまない人間であることが多いのではないのでしょうか。だからこそヤコブは、信者に宛てた手紙で、「悲しみなさい」と呼びかけたのだと思います。

少し話がそれますけれども、最近ベック兄は、火曜日の学びで、「リバイバル」、「信仰の復活」とか「霊的な覚醒」と言うことができますけれども、「リバイバル」について、連続してメッセージをしてくださっています。
その中でベック兄は、「リバイバルのためには、主との交わりによって、罪が明らかにされることが必要だ」と言われました。そして「その罪には『怠慢の罪』と『欲望の罪』がある」と言われて、具体的にはたとえば「怠慢の罪」には、「感謝をしない」という怠慢の罪、あるいは「主への愛が欠けていること」、「祈りを怠ること」、「親戚や友人に対する愛がないこと」、「主にある兄弟姉妹のために目を覚ましていないこと」、「自分を捨てて主に従わないこと」などなど、たくさんの怠慢の罪というものを指摘されました。

それから「欲望の罪」についても、「地上のことを思う」とか、あるいは「高ぶること」、「ねたむこと」、「他人をさばく心を持つこと」、「悪口を言うこと」、「他人をつまずかせること」、さらに「偽善」、「気まぐれ」、「軽薄」など、たくさんの欲望の罪ということを指摘してくださいました。
それを聞いてて、私は本当に他人事とはおもえませんでした。ベック兄が指摘されました「怠慢の罪」と「欲望の罪」の多くは、私自身に当てはまるからです。

先日も、雨の日だったんですけれども、私、特別養護老人ホームに入っている母を見舞いに出かけ、午後から吉祥寺集会で葬儀があって、その葬儀に参列して、その日はまた、夜に祈り会があったんですけれども、何か疲れてしまって、祈り会に出ることを怠けてしまいました。これなども典型的な「怠慢の罪」です。
その他、たとえばあの、私自身たくさんの恵みを受けています。たとえば、今ここにこうして福岡喜びの集いに参加できてることも恵みですし、参加できるだけの時間、それなりのお金も与えられてることとか、そういうことも、全部感謝すべきであるのに、必ずしも感謝していない。何か当たり前のことのように思っている。これも罪です。

こうした罪を、私は毎日毎日積み重ねているわけです。私は、今67才なんですけれども、小さい時のことは赦していただくとしてもですね、60年間くらい毎日毎日罪をたくさん犯してきていますから、その罪の量たるや、ものすごい山積みになってると思うんですが、そういう罪に目を向ける時、本来なら悲しむべき存在です。
おそらくここにおられるほとんどの方も同じではないでしょうか。自分の犯してきた罪、自分の内側にある罪の性質を見る時、何と自分は罪深い人間だろうと、悲しまざるを得ません。
その典型がパウロでした。パウロは、ローマ人への手紙7章24節で、よく知られているみことばですけれども、

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

このように悲しんでいます。かつて、ある兄弟が「信仰とは、自分に絶望することだ」ということを、メッセージの中で言われました。大変鮮烈に残っている表現なので、覚えているんですけれども、これも言い換えますと、自分の罪を直視した結果の悲しみの表現ではないか。
自分に絶望するという言葉でもって、自分の「悲しみ」を表現したのではないかと思います。しかし、このような「霊的な悲しみ」は、「悲しみ」のままで終わりません。というよりも「祝福に換えられる悲しみ」だと思います。山上の垂訓で、よく知られているみことばですけれども、イエス様が、

マタイの福音書5:4
4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

と言われました。そのように、そういう「悲しみ」というのはやがては慰められ、喜びに換えられるものだと思います。なぜかと言いますと、「霊的な悲しみ」、つまり自分の罪を見つめて悲しむと、必然的に悔改めにつながります。そして悔改める時、イエス様は必ずその罪を赦してくださる、そのように約束してくださっています。
その約束によって私たちは慰められますし、イエス様の赦しに感謝し、最終的には喜びに満たされます。未信者であれば、その悔改めが救いにつながると思います。

そればかりか自分の罪、自分のみじめさを知ることによって、心砕かれ、自分を低くせざるを得なくなります。その結果は、謙虚になり、他人の罪対して寛容になるという恵みもいただくことになります。
ですから、悲しむことによって心砕かれ、自分を低くし、謙遜になることは、言い換えますと信仰の成長にもつながると言えると思います。だからこそヤコブは、

ヤコブの手紙1:1
1国外に散っている十二の部族へ

と宛て先が書いてありますけれども、そのような人々に対して「悲しみなさい」と呼びかけたのだと思います。
「悲しみ」には、もう一つ、「御心にそった悲しみ」という、そういう「悲しみ」もあります。

コリント人への手紙第II、7:8-10
8あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
9今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神の御心に添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
10神の御心に添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

「御心にそった悲しみ」というのは、御心にそう、結局、神が自分の民に「経験させたいと望んでおられる悲しみ」、あるいはその人に「必要だから与える試練による、悲しみ」です。そういう「悲しみ」と言えると思います。
これらの「悲しみ」も、最終的に益と変えられます。そのように聖書は約束してくださっております。

悲しむことの大切さは、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様ご自身が「悲しみの人で病を知っていた」、イザヤ書の有名な、53章のみことばですけれども、イエス様ご自身が悲しみの人であったということからも分かります。
イエス様は、私たち一人一人の罪を悲しまれましたし、その結果としての罪にまみれたこの世のことも悲しまれました。

ルカの福音書19:41-42
41エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42言われた。

とあります。罪の町に堕落したエルサレムをイエス様は嘆き悲しまれたわけです。
ところで引用聖句のヤコブの手紙4章9節には、

ヤコブの手紙4:9
9あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

と書かれています。今度は、「喜ぶこと」を直接否定しています。この「喜び」は、先ほど言いました「喜び」、つまり「主にある喜び」とは違う喜びです。その「喜び」というのは、自分の罪に気づかずに、「自分は正しい。自分には問題はない」と思って喜んでいる、あるいは「世間的な楽しみ」を享受している、そんな「喜び」ではないかと思います。あるいは、単なる仲良しクラブに成り下がった教会での、「表面的な喜び」も含まれるのではないかと思います。

今年8月に御代田のキャンプで、ある兄弟が、昔、教会に集っておりましたけれども、教会を離れてキリスト集会に移ったそのいきさつを、メッセージの中で語られました。そのメッセージが非常に良かったので、ベック兄が、「『主は生きておられる』の中に、ぜひあのメッセージを入れて欲しい」という、そういうことがあったもんですから、一番最新号の『主は生きておられる』に、そのメッセージが載っているのは、そういういきさつがあるんです。

そのメッセージは、ですから、みなさんも読まれた方が多いと思いますけれども、兄弟は「なぜ、自分は教会を離れて、キリスト集会に移ったか」ということを証しされております。それは結局、「自分たちの教会は、全然問題がない」、要するに「自分たちの教会は、正しい。悲しんでない。」、言い換えますと「自分たちの信仰は、間違っていない。」
イエス様は、「はじめの愛に帰りなさい」と言っているんですけれども、そういう必要がないようなことを、悔改めがないのに、そう言うことに兄弟はショックを受けて、教会を去る決意をしたと言っております。
結局、「自分のみじめさに気づかない、悲しまないで、喜んでいる姿」、そのことが決定的な「教会から集会に移るきっかけ」になった、ということが書かれています。
そのような、教会の人々のように喜びに安穏としていますと、当の本人は、気づかないかもしれませんけれども、信仰的にはどんどん落ちていくのではないでしょうか。というのは、私たちは本質的に罪人であるからです。

「この世的な喜び」に対して、テサロニケ人への手紙第I、5章とかピリピ人への手紙が言っている、「喜びなさい」というその「喜び」は、「救いの確信」、あるいは「主から愛されているということの確信」によって、体からあふれ出るような喜びです。
多くの人の場合は、自分も気がつかない、「自覚しない喜び」と言えると思います。そんな「喜び」に満たされた兄弟姉妹が、私たちのキリスト集会にも非常にたくさんいらっしゃいます。そして、バイブルキャンプは文字通り、「喜びの集い」になります。

この「喜び」というのは、まだイエス様を知らない人々に、「イエス様を紹介する大きな力」になっていることは、みなさんも経験していることと思います。そして、このような「喜び」は、今までお話してきたように、「霊的な悲しみ」と矛盾するものではありません。
「霊的な悲しみ」というのは、悔改めを通して、「罪赦された喜び」につながるものですし、逆に「喜び」の裏に、「霊的な悲しみ」があるからです。「悲しみ」も「喜び」も、どちらもイエス様の十字架につながっている、イエス様の愛につながっていると言えると思います。

聖書の中には、表面的に矛盾するみことばが、他にもたくさんあります。ヤコブの手紙というのは、「行ないの大切さ」を説いている書でもありますけれども、たとえば同じヤコブの手紙、

ヤコブの手紙2:17
17信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

とあります。同じく、

ヤコブの手紙2:24
24人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない...

と「行ないの大切さ」を説いております。その一方で、

ローマ人への手紙3:28
28人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による...

とあります。一方では「行ないの大切さ」を説き、他方では、行いよりも「信仰の大切さ」を説いています。しかし前者、ヤコブの手紙は、「信仰生活における、主に従う行動の大切さ」を説いているのであって、後者、ローマ人への手紙の方は、「罪ほろぼしのために、人間は何もできない。人間は無力である」ということを言っているのであって、両者の間に矛盾はありません。
このように、矛盾と思えることもよく考えてみますと、大抵は疑問が解消されるのではないかと思います。

しかし、そんなことよりも心すべきことは、「形式的な論理・主義」に囚われないようにすることではないでしょうか。私自身は、かつて自然科学の世界に長らく関わっていましたが、「科学的な真理」は「聖書のみことば」と一見矛盾しているように思えることがいくつもあります。しかし、そのような場合、軽々しく一方の立場から他方を否定するということは避けるべきではないかと、自分の経験を通して思います。
40年以上前なんですけれども、私が学生時代の時に、大学祭というのがありまして、その時の学長は、内村鑑三の弟子のキリスト者ですけれども、大学祭で先生が講演をされたんですね。なぜ講演をされたかと言いますと、自分の大学の学生が自殺をしたんです。その自殺をしたことに触れて、「君たち、宗教というものを真剣に考えてみたらどうか」ということを話されたんですね。

ここでいう「宗教」というのは「信仰」、ベック兄がよく言われる、「宗教は駄目、信仰なんだ」っておっしゃいますけれど、ここに言ってる「宗教」というのは、要するに「神を信じる」、そういう「宗教」という意味だと思いますので、「信仰」と置き換えてもいいと思うんですけれど、「信仰というものを真剣に考えてみたらどうか」ということを呼びかけたんですね。その時に先生は、
「ただし宗教には、本物の宗教とにせの宗教があるから、それを注意しなければいけない。本物の宗教とにせの宗教の違いはどこにあるか、その見分け方を教える」、と言って、「本物の宗教というのは、真理を畏れる。にせの宗教は、真理を恐れない」、そういうことをおっしゃいました。
当時私は、全くの無神論だし神の存在など全く考えてない、そういう、本当に不信仰な者だったんですけれども、どういうわけかその先生の話は心に残って、今でも記憶しております。

そして、この話とも関係すると思いますけれども、聖書を表面的に解釈して、安易に科学を否定したり、あるいは科学の立場から軽々しく聖書を否定することの、どちらも控えるべきではないかと私は思っております。
神の言葉である聖書には、人間の理解をはるかに超えた知恵が隠されていることがあります。また矛盾の中に真理が示される可能性があります。イエス様自身が、ある意味では大矛盾。「神であり、人間である」ということ、それ自体がある意味では矛盾のように思うんですね。
「人間であって、神である」。「神が、人間である」なんていうことを、「一つのものが、そう両方あることは、おかしい」というふうに考えるかもしれませんけれども、しかし、そういう矛盾的存在のゆえに、私たちの罪は赦されたわけですね。私たちは、「神であり、人間である」、そういう存在を信じているわけです。

今日は、聖書が言っている「悲しみ」と「喜び」について、特に「悲しむことの大切さ・必要性」について考えてきましたけれども、最後に付け加えておきたいのは、「悲しむこと」は、集会の一致のためにも大切だということです。
自分の罪を見つめて悲しむ時、その人の心は砕かれ、他人をさばくことはできなくなるはずです。逆に言いますと、「自分は正しい」と思っている「傲慢な心」「悲しまない心」こそ、不一致の元凶ではないかと思います。
つまり、「自分は正しい。間違っているのは相手の方だ」と言って、自己義認し、他人をさばく。こういう態度が一番問題ではないでしょうか。集会に集う一人一人が、他人をさばくのではなく、自分の罪を見つめて悲しみ、心から悔改める時、不一致は解消されるのではないでしょうか。

こういう私自身も、「悲しみなさい」「喜びなさい」という命令をどれだけ守っているかと自問してみますと、ほんとに恥ずかしくなります。私自身に「悲しみ」がないということは、罪の自覚が不足している証拠ですし、「喜び」が少ないことは、信仰の確信と主への感謝が足りないことを意味しているからです。
「もっともっと自分の罪に目を向け、自分の至らなさ・みじめさを悲しみ、罪に満ちた世を悲しむことができる者になりたい。同時に、いつも喜んでいられる者になりたい」、そういう信仰に導いてくださるよう、主に求め続けていきたいと思います。

どうもありがとうございました。




戻る