引用聖句:詩篇67篇1節-7節
今日は、今、司会の兄弟に読んでいただきました、詩篇67篇から「主の祝福」ということについて学ばせていただきたいと思います。 初めに、引用聖句を一節ずつ見ていきますと、まず第一節は、「神様、どうか私たちイスラエルの民をあわれんで、祝福してください。」と願い、「御顔を私たちの上に照り輝かしてください。」、と言っています。 ここで、御顔を私たちの上に照り輝かしてください、という文章は、三つの意味を含んでいるように思います。 一つは、御顔を私たちに向ける。つまり、私たちを見守ってください、ということ。 二つ目は、照り輝かすとは、光を放つということですから、私たちの上に光を注いでください、という意味にも取れます。 それから三つ目として、御顔を照り輝かすとは、喜んでいる表情を示しているようにも受け取れます。 つまり私たちをご覧になり、顔が喜びで輝きますようにという願いです。 ですから1節を砕いて言い換えますと、「神様、どうか私たちイスラエルの民をあわれんで、祝福してください。そして、あなた様の光の中を歩んで行けますように見守り、私たちをご覧になるお顔が喜びに輝きますことを願っています。」、このように読み取れます。 1節、2節の学びが長くなりましたので、3節以降は短くまとめて申しますと、3節で詩篇の作者は福音が世界に知られることによって世界中の民があなた、主をほめたたえますように、と望んでいます。 そして4節、5節では、王であり、さばき主である神は、公正、公平にさばいてくださるので、そのことを知ったら世界の人々は大いに喜び、喜び歌うようになるでしょう。そして世界中の民が神をほめたたえますように、と歌い上げています。 また、6節と7節では、主の祝福によって地が作物を実らせることを述べ、地の果てに至るまで、すべてのものが神を恐れ、敬うようになることを願っています。 詩篇の作者は、主の祝福を祈り求めれば、主は必ずイスラエルの民を祝福してくださり、イスラエルの民が主の光に照らされて歩むことを通して最終的に福音が全世界に宣べ伝えられるようになる。 そして世界の人々が公正な神のご支配を喜ぶようになる。また主の祝福によって全世界の人々が神を恐れ敬う。そのような未来を望んで、あるいは展望してこの詩を読んだのだと思います。 そして私の個人的な思い込みかもしれませんが、この詩篇67篇は、主の救いのご計画、イエス様を通してすべての人間に救いの道を開く、というご計画の成就を預言しているように思えてなりません。 主はまずイスラエルの民にご自身を現わされ、そのイスラエルの民を通して福音があまねく全世界に知られる、ということを預言している。この67篇はそのような宣教の賛歌となっています。 それからもう一つ、詩篇67篇を読んで思わされますのは、主の祝福というものがどんなに大切かということです。箴言10章22節は次のように言っています。非常によく知られたみことばです。 箴言10:22
天地万物を造られ、全世界を支配しておられる主の祝福こそ、私たちが求めるべきものである、ということです。 そして主の祝福を求めることは、実は神ご自身が望んでおられることでもあります。それは先ほどお読みした民数記6章のみことばからも明らかです。 神ご自身がモーセを通して祝福を願う祈りを求めておられるからです。 神様は私たちキリスト者を祝福したくて、祝福したくてたまらない。別の言い方をしますと、私たち人間に恵みを与えたくて、与えたくて仕方がない。 そのような愛の神様であられることを、これらのみことばも示しています。そして神は旧約聖書に記されている祝福の約束を、イエス様を通して実際に実行してくださいました。 ガラテヤ人への手紙3章8節、9節と13節、14節をお読みします。 ガラテヤ人への手紙3:8-9
飛んで13節。 ガラテヤ人への手紙3:13-14
もう一個所、エペソ人への手紙1章3節。これもよく知られたみことばですけれども。エペソ人への手紙1章3節の後半部分です。 エペソ人への手紙1:3
このように過去形で、私たちを祝福してくださいました、とはっきり述べています。このイエス様を通しての祝福が十字架のみわざに基づいていることは言うまでもありません。 今お読みしたガラテヤ人への手紙のみことばからもそれは明らかです。ですけれども、現実の世の中を見てみますと、このように主から提供されている祝福を多くの人が受けられないでいます。 私たちの周り、私の親族も含めてですけれども、そういう人がたくさんいます。 ある人たちはイエス様を知らないために、またある人たちはイエス様のことを聞いていながら、イエス様を拒んでいるために、祝福を受けられません。信仰によって義と認められることがないために、祝福の対象から外されているわけです。 別の言い方をしますと、イエス様の救いにあずかっていませんと、罪の問題が解決されていません。ですから、罪が隔ての壁となって神の祝福を受けられない状態になっています。 気の毒としか言いようがありません。と同時に、イエス様を紹介することの大切さ、そのために私たちキリスト者はもっともっと福音を伝えなければならない。そのために汗を流さなければならないと思わされます。 それからキリスト者であっても、主から祝福されていることに気が付かず、と言いますか、あるいは忘れていて祝福の恵みにあずかっていないことがあるのではないでしょうか。 例えば、何か問題に直面した時、試練を与えられた時などに落ち込んでしまうとしたら、主に祝福されていることを忘れているのかもしれません。 こんなとき自分が祝福された存在である、主とともに生きて、主はともに生きて働いてくださっている。試練は益に変えてくださる。サタンの攻撃の盾となってくださる、という確信があれば、平安と希望を保つことができると思います。 イエス様はガリラヤ伝道の際、有名な山上の垂訓を話されましたけれども、その教えは、これこれの者は幸いです、という祝福のことばで始まっています。3節の、 マタイの福音書5:3
マタイの福音書5:4
それから5節、6節と続いて11節まで。11節は、 マタイの福音書5:11
と九つの場合について、幸いである、と教えられました。 心の貧しい人、自分の心の貧しさを自覚して、自分に頼らない。自分を空にしてみこころに従う。そういう者は幸いである。祝福されると言っておられます。 悲しむ者、自分の真の姿、罪にまみれた自分の惨めさを、自分の弱さを認めて悲しんでいる、そういう者は幸いであり、祝福される。以下、心のきよい人、迫害された人など、九つの場合についてイエス様は幸いである、祝福を受ける、と言われました。 ですから、この山上の垂訓を心に刻んでおくことも、主の祝福にあずかるのに役立つのではないかと思われます。 主の祝福はこの世の惑わし、サタンの攻撃からも私たちを守ってくださいます。私たちイエス様のしもべとされたキリスト者は、少しでもイエス様に喜んでいただける歩みをするために自分は主に祝福された存在なのだということをしっかり自覚して、残されたこの世の旅を歩んで行きたいと思います。 最後にみことばを読んで終わりたいと思います。 使徒の働き3:26
ピリピ人への手紙4:17
最後にもう一つ。ペテロの手紙第Iの3章9節。 ペテロの手紙第I、3:9
以上で終わります。ありがとうございました。 |