引用聖句:コリント人への手紙第I、15章3-7節
昨日、ちょっと時間が空きましたので、鴨島の近くにある江川湧水という湧き水に連れて行っていただきました。ちょっと興味があったんで、無理にお願いして連れて行っていただいたんです。 本当にわずかですけども、水が湧いてるっていうことは、水がすごくわずかであっても、やはり透き通っていて、きれいなんですね。でもイエス様は、「わたしはあなたがたの心の中で泉のように湧き上がる。」、永遠のいのちが泉のように湧き上がると仰ってくださいました。 やはり、私たちの心の中から、まったく新しい清らかな泉が出て来なければ、すぐに私たちの心の中はよどんで、ぼうふらが湧いたり、メタンガスがブクブク出てきたり、また周りに悪臭を放ってしまうと思うんです。 やはりイエス様が私たちの心の中に住んでいてくださり、イエス様が私たちの心の中で泉となってくださる、その幸いを覚えることができました。 今日はイースターなんです。集会の方たちは、あんまりイースターとか騒がないですが、「じゃあ、復活のメッセージをちょっと準備していかないといけないんだろうな。」、なんて思って、今日のメッセージをちょっと用意して来ました。 今、兄弟にお読みいただきました箇所は、 コリント人への手紙第I、15:3-6
ここでパウロが私たちに書き送ったこと、それは聖書の中で一番大切なことです。 イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に架かって死んだこと。そして葬られて、聖書に従って三日目によみがえられて、その後に多くの弟子たちにご自身をお現わしになったということ。これが聖書の中で一番大切なことですと、パウロは語っているわけでございます。 一般的に、「聖書」というと、初めて聖書をお読みになる方もいらっしゃるかも知れませんけれども、一般的にはキリスト教というイメージがおありなのではないでしょうか。日本人から見ると、バタ臭い感じがするかも知れませんし、またキリスト教というと、何かありがたいお話、色々、その社会活動とか、そういうことをやってらっしゃる方もキリスト教の関係の方でいらっしゃいますし、そういう、何か人の役に立つこと。 また、心の、非常にありがたいお話が聞ける所。そういうイメージをお持ちの方もいらっしゃるかも知れません。 この世のイメージというのは、だいたいそういうものではないでしょうか。実際に、例えば多くの人々から尊敬を受けているシュバイツァーという博士がいまして、あの方はバッハのオルガンの演奏なんかも、レコードにたくさん残してらっしゃって、非常に人道主義者として有名ですけれども、あの方は、みなさんキリスト教ということをすぐに思い浮かべるかも知れませんけれども、シュバイツァー自身は、キリストは復活したということは否定しているわけです。 で、いわゆるこの世の中のイメージとしてのキリスト教と、実際に聖書が伝えてることというのは、だいぶ趣が異なっているのではないだろうかというふうに思うんです。 例えばこの世の中というものは、人間というものは、磨けば光る、瑠璃も玻璃も磨けば光るですか、照らせば光るですか、とにかく人間の心も色々磨き上げていけば光ってくるものが出て来るんじゃないかという考え方をされてる方もたくさんいらっしゃると思うんですけれども、実は聖書はまったくそういうことは言っていない。 先ほど、人の心の中からイエス様の泉が湧き出るときに、人の心がだんだん清められていくというお話をしましたけれども、実は、私たち自身というもの、それはいくら磨いても光ってこない。いくらよくなろうと思っても、もういい人間になることはできないと、聖書は言っているんです。だからこそ、神による救済、救いが必要であると聖書は語っているわけであります。 ですから、本当に聖書が伝えているものというものは、この世のキリスト教が伝えているヒューマニズムとはまったく無関係です。 ヒューマニズムは人間が中心で、人間がいかにするべきかということが問題ですけれども、聖書の伝えている問題の所在は、神がいかになさるか。そのことに集約されているわけです。ヒューマニズムは人間中心ですけれども、聖書の伝えている信仰は、神中心であります。 聖書には、右の頬をたたかれたら左の頬を出しなさい。そういう非常にすばらしい言葉があって、非常に多くの人々に受け入れやすい言葉だと思うんです。ところが聖書は、一旦広げて、新約聖書で結構なんですけれども、カタカナの多いところを我慢して読み続けて、やっとひらがなと漢字の出て来るところに当たってきますと、ちょっと普通では受け入れられないようなことがたくさん書いてあるわけです。 例えば、イエス・キリストが水をぶどう酒に変えたとか、五つのパンと二匹の魚で男だけでも五千人、おそらく女も子どもも入れれば一万人を満腹にさせて、そして余ったパンくずをかごに集めると十二かご一杯になったとか。 イエスは十字架の上で死んだけれども、三日目によみがえった。これなんかは本当にもう信じられないおとぎ話というか、夢物語の最たるものではないかと思うんですね。 イエス・キリストが死んで、三日経ってから墓の中からよみがえって、弟子が見に行ったら墓が空っぽだった。これはもう本当に普通の人間には、普通の理性を持った人間にはまったく受け入れられない、もうバカバカしいお話としか考えられないのではないかと思うんです。 で、あえて言うと、二千年前は科学も発達していなかったし、新聞もテレビもなかったから、きっとそういうようなことが、誰かが言い出せばそんなこともあるかなってことで、迷信として広がったんじゃないだろうか。 人々は迷信の虜になって、そういうことを騒いでただけなんじゃないか。あるいは、イエスの十字架の死と復活。復活っていうのは、イエス様が十字架について死んだのは確かなんだろうけど、復活っていうのは、弟子たちが自分たちの物語を面白くさせるために、キリスト教を宣伝させるために作り出した一つのデマゴウグでは、宣伝じゃないだろうか。そのように考える方もたくさんいらっしゃるかも知れません。 しかし私たちがひとたび、この二千年前のこの世界というものに目を転じると、何か少し違った印象を受けるようになるんです。一言で二千年前というと、とても昔、大昔、原始時代とまでは言いませんけども、とにかく知性とか教養とか、今よりだいぶ劣ってるだろうという先入観があるかも知れませんけれども、落ち着いてちょっと考えてみると、二千年前のパルテノン神殿、あのローマの神殿ですね、あれはもう本当に建築と土木、それからあれを建てるために周到な図面を作成することが必要でしたし、数学、幾何学そういった当時の英知というか、今も本当に通用する立派な技術が駆使されているわけです。 そして天文学も大変進歩しましたし、文学も不朽の名作、ホメロスとかそういった作品がたくさん生まれています。これは今でも、大学の授業で取り上げられて、ヨーロッパの文学をやる人間は、必ず勉強しなければならないと言われている、古典中の古典ですね。 それから、ギリシャに目を転じれば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどといった哲学、これももう哲学の古典中の古典で、これを勉強しなければ、今の哲学も勉強できないと言うくらいに、今でも影響力を持っております。 そして医学も発達していましたし、先ほどちょっと触れました、幾何学、幾何なんていうのも、この頃の幾何を私はそのまんま、もう中学校で教科書で勉強いたしました。 それほど、当時の人々は文学的にも、また数学的にも、建築あるいは天文、あらゆる意味で非常にすぐれた知性を持っていた人々だったということが、言えると思うんです。 で、イエス・キリストの復活ということについて、当時の人々はどのような反応を示していたか。これを読んでいくと実は、今の私たちと当時の人々というのは、まったく考え方が変わっていない。捉え方が変わっていない。今、例えばだれかが復活したと聞いたら、普通の人は、「そんなこと。また、この人ちょっと気でもおかしいんじゃないの。」、ぐらいにしか思えませんけれども、それとまったく同じような反応を、当時の人も示していた。 ということがわかってくるんですね。そして確かに、今は飛行機で高松から羽田まで一時間ぐらいで行かれるような、科学が発達している時代ですけれども、物事を、善悪を判断する、何かを認識する、何か疑わしいものをつきとめていく、そういう能力というものは、今から二千年前も、今生きてる私たちもまったく変わっていないということがわかってきます。 少し事例を挙げて聖書から見てみたいと思います。 ヨハネの福音書10:18
これはイエス・キリストの言葉です。 ヨハネの福音書10:18-20
イエス様は自分のいのちを捨てる権威があり、それをもう一度得る、つまり復活する権威がある。わたしはこの命令を天の父から受けたというふうに言ったんですね。まだ生きている人間が、自分には死ぬ権威と、それからまた復活する権威があるんだというふうに言ったわけです。 これを聞いたユダヤ人たちは、ある多くの者は、「頭がおかしいんだよ、あいつは。何か変な霊にとり憑かれているんだろう。」と言いました。あんな奴の言うこと、真に受けちゃいけないよというふうに言ったんですね。 これはもう、本当に、私たちも同じような反応を示すのではないでしょうか。また、ほかの人は言います。 ヨハネの福音書10:21
人々の前で、公衆の面前で、このイエス・キリストは、生まれつきの目の不自由な人の目をひらくことをやってのけたのです。これは、もうやはり、自分たちの目で、その光景を見たわけですから認めざるを得ない事実だったんです。 そして、それを事実とした上で、そのようなことができる人間が、はたして気がふれているのか、悪霊に憑かれているのか、もう少し考えたほうがいいだろうという意見もあったんです。 これもまた、非常に論理的な、理性的な意見ではないでしょうか。 今のはイエス様を十字架に直接つけたユダヤ人たちの反応でしたけれども、イエス・キリストの弟子たち、またイエス様をお慕いして、イエス様の後を付いていた女たちや男たち、そのような人たちは、どのような反応を示したのでしょうか。 ヨハネの福音書の11章の11節。ここでは、ラザロというイエス様の知り合いが、病気にかかって死んでしまいます。そこでの記事であります。 ヨハネの福音書11:11-14
わたしはこれから、死んだラザロをよみがえらせに行くよと、イエス様は仰いました。22節、これはマルタの言葉です。 ヨハネの福音書11:22-23
しかし、「ラザロはよみがえる。わたしはラザロをよみがえらせる。」と言ったイエス様の言葉に対して、弟子も信じることはできなかったし、このマルタも信じることはできなかった。そして周囲の人々もみな、だれもこのイエス様の言葉を信じることができなかったと、聖書は語っています。 ヨハネの福音書11:32
この死んだラザロは、このマリヤとマルタの兄弟だったわけです。 ヨハネの福音書11:33-37
イエス様は、「ラザロをよみがえらせます。」と、何回も言明しましたけれども、人々はそれを真に受けることができず、墓に葬ったままにしてあったわけです。そこでイエス様は、人々が悲しんでいる姿に自ら涙を流され、また、「この人は、ラザロを死なせないでおくことはできなかったのか。」という問いかけに対して、霊の憤りを覚えられたと書いてあります。 ヨハネの福音書11:39-41
ヨハネの福音書11:43-44
と記されております。ここでちょっと、ラザロが実際によみがえったことは、周知の事実としまして、イエス様が「ラザロをよみがえらせる。」と言ったときの人々の反応、これは、今日の私たちの反応とまったく変わるところがない。 つまり、まったく死人の中から人がよみがえることなどということは、絵空事にすぎないというのが弟子たちの反応であり、またイエス様に従っていた人々の反応であり、そしてまたユダヤ人の反応であったと言えると思います。 ルカの福音書24章9節からお読み致します。ここは、イエス様が墓からよみがえったところです。 ルカの福音書24:9
つまり女たちは、香油を塗るためにイエスの墓に行ったけれども、その墓は空っぽで、そこに御使いがいたんだということを報告したわけです。 ルカの福音書24:10-11
女たちは墓に行って、実際自分たちの目でイエス・キリストが墓の中にいなかったということ、そのことを目撃して、そのことを一目散に弟子たちのところに帰って報告をしたわけです。 ところが弟子たちは、そんなことはたわごと、嘘っぱちに違いないと言って、真に受けなかったと書いてあります。それから、 マルコの福音書16:14
イエス様が直接、復活したイエス・キリストが弟子たちのところに現われて、彼らの不信仰をお責めになったと書いてあります。イエス・キリストの復活が本当だったと報告した人たちの言葉を、弟子たちが受け入れなかったからであります。 イエス・キリストの復活が信じられなかったのは、弟子たちばかりではありません。イエス・キリストは、「自分は死んで、三日目によみがえる。」と公言していましたけれども、当時の多くの人々が、イエス・キリストの復活を、「そんなことがあるわけがない。」と考えていたんです。 マタイの福音書27:62
イエス・キリストが十字架につけられた当時、イスラエルはローマ帝国によって支配されていました。当時ローマ帝国は、世界最強の軍隊を誇っている、圧倒的な帝国でした。その兵隊は屈強の兵士でして、最新の武器で身を固め、世界で一番強い兵隊であったわけです。 そして、イスラエル地方を治めていたのが、ローマ人であるピラト総督でありました。当時の宗教家たちは、イエス・キリストっていうのは、十字架にかけて、邪魔者は上手く消えてくれたけど、十字架にかかった後、三日目によみがえるとか変なことを言ってたな。そうだ、ちょっとピラトのところに相談しに行かなきゃいけない。で、このピラトのところに寄って来たんです。 マタイの福音書27:63-66
ピラトが番兵を出してやるからと言ったからには、この番兵というのはローマ兵だったでしょう。そしておそらく一日三交代で、何十人という単位で墓の周りを番をしていた。寝ずの番をしていたわけです。 当時のローマの掟によればですね、もし、例えば、この命令を執行することができなければ、例えばだれかが来て墓を暴かれてしまった、そういうような出来事があれば、連帯責任を取らされて、全員死刑という掟があったそうです。それだけの掟にしばられて、このローマ兵は一日何交代かで、何十人で、交代でこの墓の番をしていたわけです。 そして後に、まずイエス・キリストの墓と断定していいものが、実際に見つかっています。その資料によれば、入口は高さ1.6m、幅が1.2mあったそうです。ちょうど、ペテロがかがんで中を覗き込んだら、墓が空だったっていう記事があるんですけども、1.6mというと、ちょうど、ちょっとかがむと中が見える高さですね。 そして中に入ると、高さは1.9mあって、死体を安置する場所は二つあったんですけども、一つはまだ未完成で、未使用だった。そして一つだけ安置する場所は完全に出来ていたけども、そこで色々、聖餐みたいなことをしたんだと思うんですけれども、腐った死体を置いた形跡がなかったということまでわかっています。 そこの墓に、1.6m×1.2mの入口に大きな石を転がして封をしたと書いてあります。ちょっと私は素人でわかりませんけれども、1.6m×1.2mの入口を塞ぐだけの石といったら、4tとか、10tとか、そのくらいの大きな石でなければ、塞ぐことができなかったに違いないと思います。 このような状況であったわけです。もう一度おさらいしますと、ある人たちは、「イエス・キリストは復活するのではないだろうか。」、復活するというストーリーを考えて、弟子たちが、あるいは周りの人たちが、復活したというお話を作り上げたのではないかというふうに思われるかもしれませんけども、当時の人たちは、そんなに非理性的な人間ではなかった。 そんな、ありもしない、死んだ人間が墓からよみがえったなんて、ありもしない話を作り上げた、簡単にそんなお話を証拠もなしに信じるような人々ではなかった。今日の私たちと、そういった意味で、まったく変わりのない人たちだったということが言えると思うんです。 そして、何よりも弟子たちは、イエス・キリストが十字架からよみがえる、墓の中からよみがえるってことなんて、まったく信じていなかったんです。まったくもう、1%も期待していなかった人たちだったんですね。 そのことを、しっかりここで押さえておきたいと思うんです。そして次に、イエス・キリストの復活の状況です。 (テープ A面 → B面) マタイの福音書28:1
彼らは、彼女たちは、イエス・キリストのお体に、亜麻布の巻かれたイエス様の死体に、遺体に、香油を塗ろうというふうに思ってやって来たんです。 そして彼女たちには一つの心配がありました。それは、ほかの福音書に書いてありますけれども、お墓に香油を塗りに行ったところで、だれがあの大きな石をどかしてくれるだろうかと、案じながら行ったんです。 実際、彼女たちの心配は当たっていたと思うんですね。ローマの兵隊たちは、中に納められているイエス・キリストの死体が盗み出されたら大変だということで、番をしてるわけです。 そこに女たちが、いくら女たちだとは言っても、のこのこ行って、「中を開けてください。」と言っても、決して、封をされた何tという石が、どかされるはずはありませんでした。 ある人の話では、その封には、カイザルの烙印、そういったものが押されていて、それはもう権威があって、そんな簡単に誰かがその封をはずすということはできなかったというふうに聞いています。 厳重な警護、そして女たちは、ダメでもともとかもしれないけれど、というような思いでその墓に行ったのかもしれません。 マタイの福音書28:2-7
注意深く読んでみると、御使いが大きな地震を起こして、石をわきへころがした。石をわきへころがした結果、大きな地震が起こったと考えたほうがいいかもしれません。 石を、何tも何十tもある石をわきへころがしたために、大きな地震が起こった。地響きがして地面が揺れた。そして中からイエス・キリストが出て来た、ということではないんですね。 これは、この女たちが、もう墓は空っぽになっているということが見えるように、この女たちが来たときに、御使いがやって来て、この石をわきへころがしたと考えることはできます。 もう、この石がわきへころがされたときには、イエス・キリストは墓の中にはもういなかったのです。実は、イエス・キリストは、もうよみがえられて、ミイラのようにグルグル巻きにされた包帯をすり抜けて、そして墓の壁をすり抜けて、もうすでにガリラヤへ向かっておられたのです。 みなさんどうでしょうか。これ、作り話だったら、もうちょっと信じられるような話を作るんじゃないでしょうか。 もし、私はクリスチャンですから、神さまにできないことはないということを知っていますから、これをまったく違和感なく、頭の中でイメージして、まるでドラマを見ているように、この箇所を読むことができます。 しかし、まるっきり初めて聖書を読む方が、こういうところを読んだら、これが作り話だったら、もうちょっと信じられるような話を、書き方があったんではないかと思われないでしょうか。 しかし実は、ここに来た女がだれで、だれとだれとだれであるかということも、おそらくこれは彼女たちが生きてる間に書き残されたわけです。実名で載ってるわけですね。 そして彼女たちが見て、経験したことが、これと寸分たがいなかったからこそ、このような記事が、まったく理性をもった人間には、あるいは人間の理解力でしか物事を判断することができない人間にはわからないような、理解できないような書き方がされているのではないでしょうか。 これはもう、間違いなく事実だったから、このような書き方がされているのではないかと、推測されるのではないでしょうか。 ルカの福音書の24章。イエス様は、そのように、亜麻布、そして墓の壁をすり抜けて外に出られたということ。これは、そうするともう、イエス様は霊としてよみがえったんではないか。幽霊のような存在ではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、そうではなかったと書いてあります。 ルカの福音書24:36-42
イエス様は本当に、実際に、わたしがよみがえったイエス・キリストであるということをお示しになりました。そして単に、霊として、騒ぎこともできない、そういう、霊としてよみがえったのではなく、からだを持つ者としてよみがえっているということをお示しになりました。 彼らは集団で幻を見ていたのではありません。なぜなら、イエス様は、そこで間違いなく魚を、一匹召し上がられ、イエス様が帰った後、そこにはおそらく、骨が残っていたと思うんですね。 そしてその骨は、イエス様が実際に魚を食べられたということの、何よりの証拠だったと思うんです。弟子たちは集団で、何か、恍惚な状態になって、幻を見ていたのでは決してなかったのです。 ちょっと時間を戻しますけれども、イエス様が復活されたとき、弟子たちはいったいどういう状況だったのでしょうか。ヨハネの福音書の20章19節。イエス様は、当時の宗教学者からねたみをかい、ユダヤ人から憎まれ、十字架につけて殺されました。 当然、次に狙われるのは、私たちではないだろうか。私たちがイエス・キリストの弟子だったということを人々が知れば、人々は私たちに危害を加えるのではないか。そのことを弟子たちは何よりも恐れていました。 もう、イエス様の復活だとか、そんなことはどこかへ行ってしまって、自分たちのことで頭がいっぱいでした。そして彼らは一つの家に集まり、一つの部屋に集まり、部屋には鍵を厳重に掛け、彼らはじっと息を潜めていました。 ヨハネの福音書20:19
戸を閉めてあったんですけれども、戸をすり抜けたのか、壁をすり抜けたのか、わかりませんけれども、彼らの真中にイエス・キリストが立ったと語っています。 ヨハネの福音書20:20-25
このトマスという人は、実に現代的な人でありました。自分で見るだけでなくて、その釘の、イエス様が十字架に釘付けにされた、その手の平に打ち付けられた釘の跡に指を差し入れてみて、それから死んだ後に、確認のためにわき腹を突き刺された、そのわき腹の剣で刺された穴に指を、手を入れてみなければ私はイエス・キリストを信じない。見ただけでもダメ、実際触ってみなきゃ信じないと、このトマスという人は言ったのです。 この弟子たちは、イエス・キリストは十字架に付けられたということで、恐怖と不安と臆病、この三つにさいなまれていました。自分たちが次は狙われるんではないかという恐怖。これからどうしようという不安。そして、もうどうしようもないという、人から隠れたいという臆病に付きまとわれていました。 しかし、イエスと出会ってからの弟子たちというものは、まったく変えられてしまいます。使徒の働きの2章の22節。これはペテロのメッセージであります。 使徒の働き2:22-24
使徒の働き2:32
使徒の働き2:41
と書いてあります。 あの恐怖にさいなまれ、不安に怯え、臆病で震えていたあのペテロ。彼がこれほどまでに大胆に、イエス・キリストの復活を宣べ伝えた背景。それはやはり、イエス・キリストの復活が事実であり、その復活された主に実際に会われたから、それ以外に理由は考えられないのではないでしょうか。 先ほど、兄弟に読んでいただいた箇所によれば、イエス・キリストは復活して、十一人の弟子に現われただけではなくて、もちろん、女たちに現われただけではなく、五百人以上の弟子に同時に現われたと書いてあります。 そして、この十一人の弟子の多くは、そして復活したイエス・キリストと出会った弟子たちの多くは、「イエス・キリストは復活した。」と、宣べ伝えて、そのことのために殉教を遂げていったわけです。 そのことのゆえに、人々から迫害されて、亡くなっていったわけです。しかし彼らは、イエス・キリストは復活したのは事実なんですということを、伝えずにはおられなかったのであります。 使徒の働きの4章1節。ここを見ると、ペテロとヨハネのメッセージが出てきます。 使徒の働き4:2
というふうに書いてあります。ここで、ヨハネとペテロのメッセージについて記されてますけれども、彼らのメッセージの中心は、やはりイエス・キリストの死と復活でした。 先ほど、トマスの話が途中になっていたんで、ちょっと戻りますけれども、ヨハネの福音書の20章の26節。トマスは、非常に現代的で、見ただけじゃなくて、聞いただけでも信じられない。自分が指を、その、イエス様の手の平の穴に入れて、手をわき腹に差し入れなきゃ信じないと言った人のところに、イエス様は本当に愛をもって、トマスがイエス様を信じることができるように、現われてくださいました。 ヨハネの福音書20:26-27
おそらくイエス様は、このトマスのために、その日現われてくださったのではないでしょうか。イエス様は、トマスの不信仰を責めることなく、トマスの手を取り、「ここに指を入れてごらんなさい。その手を差し伸べてわきに入れてごらんなさい。」と、言われたのであります。 ヨハネの福音書20:28-29
先ほども述べましたけれども、多くの人が復活の主と出会いました。そして多くの人が、イエスは墓の中からよみがえったと証言して、殉教の死を遂げていきました。なぜでしょうか。 イエスの復活は本当だったからです。なぜこれほどまでに、私たちと変わらない理性をもった当時の人々が、このような不可解な文章を残したのでしょうか。それは書かれたことが事実であったからです。 実は聖書以外の当時の書物も、イエスの復活を証言しています。ある書物の歴史的な記述によると、次のような一文があるそうです。 キリスト者と呼ばれる宗派は、ティベリウスの治世に出現し、そして彼らを出現させたのは、イエスが死人の中からよみがえったという信仰であったと、書かれているそうです。 つまり、本当に、イエス・キリストが十字架につけられた後、弟子たちは意気消沈し、まったく彼らは布教だとか、そういったことを考える余地もなかったんですね。ところが、イエス・キリストがよみがえって、イエス・キリストが彼らの前に現われたことによって、まったく事態は一変してしまうわけです。 最後に、キリストの復活は、私たちに何をもたらしたのか、そのことについて簡単にまとめてみたいと思います。 まず第一に、キリストの復活は、私たちに救いをもたらしたと記されています。救いという言葉は非常にわかりづらい言葉で、私もイエス・キリストを信じてもう三十年近くになりますけども、救いということを、本当に別の言葉で表現することが難しいのです。 しかし聖書はこう書いてあります、ということは申し上げることはできますし、やはり聖書はこう書いてあるからと、私たちは受け止めるのが一番正しい態度ではないだろうかと思います。 ローマ人への手紙10:9
簡単に言ってしまえば、イエス様の十字架と、イエス様を主と告白して、イエス様の十字架と復活を信じれば、あなたは救われます。 ローマ人への手紙10:10-11
イエス・キリストに信頼する者は、 ローマ人への手紙10:11
救いということ、本当に言葉で語ることは難しいことですけれども、救われることは、ここに書かれているわずか数行のことでこと足りるわけでございます。イエスを主と告白し、イエスが十字架にかかり、そしてよみがえられたということを信じる。それだけのことであります。 イエス・キリストの復活は、次に私たちに助け主を与えてくださいました。 ヨハネの福音書16:7
イエス様が十字架について死んで、三日目によみがえる。そして天にお帰りになる。その後に、イエス様が助け主として、聖霊という助け主を私たちに与えてくださると、イエス様は約束してくださいました。 そして実際、その聖霊がこの世に下って来たわけでございます。よく、誤解される方がいらっしゃるんですね。「救われたんだけども、私はまだ聖霊のバプテスマを受けていない。」とか、「救われたけど、私はまだ洗礼を受けていない。」とか言われて、断食をして、お祈りをしたりする方がいらっしゃるんですけども、それはまったくの誤解です。 火のような形をとって聖霊が下ったというところ、確かに使徒の働きにあるんですけども、それはもうその一回限りで、この世にイエス様の聖霊が来られたということは、その一回限りで十分なことなんです。 で、この世に聖霊が来られたことと、私たちの心の中に聖霊が宿るということは、まったく別のことです。私たちは、イエス・キリストを信じたときに、聖霊も与えられていますと、聖書は語っています。 そして聖霊の働きがなければ、だれ一人、「イエス・キリストは主である。」と告白することはできないと語っています。ですから、もしみなさんが「イエス・キリストは私の主です。」と言うことがおできになるんであれば、みなさんの心の中には、必ず聖霊が宿っていると、聖書は約束しているわけなんです。 ですから、もう私たちは、「聖霊を与えてください。」とか、そういう祈りを祈る必要はまったくありません。それはむしろ、神さまはすでに与えてますよということに対する冒涜につながってしまいます。 そしてイエス様の復活は、私たちに新しいいのちをもたらしてくださいました。 ローマ人への手紙6:4-11
私たちの古い人は、キリストの十字架とともに十字架につけられました。そして私たちには、イエス・キリストのよみがえりのいのち、復活のいのちが与えられている。 いのち、そしてまた新しい生活ですね。英語で「いのち」というと「life」ですけれども、このlifeという言葉には、「生活」という意味もあります。新しいいのち、新しい生活、新しいlifeを、主イエスのよみがえりは、信じる者に与えてくださった。 コロサイ人への手紙の3章4節の冒頭に、私たちのいのちであるキリストと書いてあります。 パウロはキリストのことを、私たちのいのちと表現しました。 ガラテヤ人への手紙2:20
コリント人への手紙第IIには、有名な「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というみことばがあります。 イエス様の復活は、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。私たちが救われるためにも、また私たちが信者として霊的に成長するためにも、十字架と復活は私たちの信仰の救いの土台です。 まさに、最初に読んでいただきましたところ、パウロが語ったように、聖書で最もたいせつな事がら、それがイエス様の十字架と復活であります。 それだからこそ、私たちは毎週毎週こうして集まって、ともにイエス・キリストの御体を象徴するパンと、流された血潮をかたどるぶどう液にあずかって、イエス様の死とよみがえりを覚えるのであります。 そして、私たちが毎週集まる意味を、キリストの復活を通して改めて考えさせられるわけであります。 まとめになりますが、私の言葉でまとめるよりも、みことばを通して、このつたない学びをまとめさせていただきたいと思います。 コリント人への手紙第I、15:17-27
コリント人への手紙第I、15:28
コリント人への手紙第I、15:50-58
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