引用聖句:コリント人への手紙第II、8章9節
今日は、兄弟に読んでいただきましたみことばから「恵み」ということについてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。 これから、例えば魚の問題が起きたら、もうどうしようもないんではないかと思います。そして豚の問題も実はあるようですから、本当に食べる物が無くなってしまいますし、もともと植物もポストハーベストなどということで、腐らないバナナとか存在していたりしますし、そのようなことを気にしたら、私たちは本当に食べる物が無くなってしまいます。 神さまはあえて、人間のそのような罪を今見過ごしになさっているというふうに思わざるを得ません。ローマ人への手紙にはそのことがはっきりと書かれているように思います。 ローマ人への手紙1:18-25
と書かれています。 24節にありますように、本当に神さまは私たちがどうしようもない存在である、あくまでも神さまに歯向かう存在である。では、そのままにしておきましょうと神さまはお考えになったということが書かれています。 本当に私たち一人一人を、自分で吟味させられてみますと、このことから例外になっている人はひとりもない。つまり、一人一人が神さまに歯向かう存在だということを思わされます。 私たち、あわれみによってこの救いにあずかり、群れに加えていただいている者である私たち一人一人も、このような者であるということを認めざるを得ないと思います。 しかし神さまはあえて、そのことを放置なさっているということを覚えます。そして自然界もともにうめいているわけでして、そのうめきが私たちが食物として与えられている物にも見ることができるわけです。 まさにイエス様が間近に、もう来ておられるということの証拠であるのではないかと思います。私たちはそのことを覚えながら、イエス様がどのような方であるか、そしてどのようなことを望んでおられるかということを今日は、「恵み」という言葉をひとつのキーワードにしてご一緒に学んでみたいと思います。 今、読んでいただきましたコリント人への手紙第IIの8章の9節に、その「恵み」という言葉が含まれております。 コリント人への手紙第II、8:9
と書かれています。主は、イエス様は富んでおられた。間違いなくイエス様は天地万物の創造主でいらっしゃいます。 天地万物が造られたときに、私たちにはまだよく分かりませんけれども、父なる神さまと子なる神さまでいらっしゃるイエス様と、そして聖霊、御霊がともに聖書の表現によりますと、私たちという表現が使われていますけれども、天地万物をお造りになりました。 今、私たちがこの地上を歩まされていますけれども、私たちが見渡すものすべてが、また私たちの目に見ることのできないすべてが、この方々によって造られたということです。 その方々は、私たちにはよく分かりませんけれども、おひとりでいらっしゃるという、本当に私たちの理解を超えたことですけども、おひとりのおひとつの考えのもとで、すべてのものが造り出されたということだと思います。そしてそれに付け加えられるものはない。 今、DNAという言葉をよく聞きますけども、これも、最初造られたままであるということだそうで、このことは最先端の科学者も認めざるを得ないようで す。 そしてその精密な人間の能力では測り知れないものがすこしずつ明らかにされていますけども、これは人間が作り出したものではなくて、神さまの「恵み」によって少しずつ分かることができるようにされているものだし、人間が作り出すさまざまなもの、一番分かりやすく言えば、薬だと思いますけども、医薬品などもこれはひとつの応用として、「恵み」として与えられたものにすぎない。 ですから、まだまだたくさんのものが作り出される可能性はありますけども、そこに人間のおごりがあって、せっかく良き物として作られたものが段々と、実はそこに害があることが分かったりして、その害を止めるためにまた、別の薬が開発されるというようなことが繰り返されておりまして、まさにいたちごっこの状態だというふうに思います。 私たちがさまざまな「恵み」を、本当にへりくだりをもって受け取ることが大切であると思いますけれども、人間のおごり高ぶりはとどまるところを知らないというふうに思います。 宇宙開発などは、私は個人的にはどう考えても意味のないことというふうに思ってしまうんですが、何か意味があるんでしょうか。本当に無駄なことを人間は試みていると思います。 空にのぼっては神はいないと公言するためなのでしょうか。火星に行って神はいないとおごり高ぶる。人間だけがそこに立ちえる者と、おごり高ぶりたいのでしょうか。私にはこの宇宙開発というのはさっぱり分かりません。 すべてをあるがままに感謝をもって受け取って、与えられたものを感謝をもって大切に使わせていただくという思いが大切だと思います。 イエス様はこのように、天地万物をお造りになった方ですから、もっとも富んでおられて、欠けるところのない方であられたのに、私たちと姿かたちがまったく異ならない人間の姿をとってこの地上においでくださったということです。 そしてご自身を十字架におつけになりました。これは父なる神さまのご命令であるとともに、イエス様ご自身が自らお選びになったことであるわけです。 このことも私たちにはよく分かりません。それはこの私ひとりの救いのために、イエス様が十字架についてくださったということを受け入れた者が初めて、そのことをある程度理解することができるわけです。 自分はそのような価値がない者でありながら、そのような「恵み」にあずかっている。そのことを感謝をもって受け入れた者だけが理解できることだと思います。 私たちが富む者とされるということは本来、永遠の滅びに定められている者が、そのイエス様の十字架の贖いによってその罪が赦されて、死を見ない存在に変えられる。 永遠のいのちを与えられて、やがてイエス様とともに永遠の交わりをいただく存在として変えられるという驚くべきことを、イエス様はご自身を十字架におつけになることを通して実現してくださったわけです。 私たちは本当に貧しく、乏しく、捨て去ってよいような存在である者が、尊い者として扱われ、その尊い者として扱われるために、イエス様ご自身が貧しくなられたというのが、このコリント人への手紙第IIの8章の9節のみことばであると思います。 今私たちはどのようなふうに神さまから、またイエス様から見られているのでしょうか。 イザヤ書43:1-4
と、神さまは、またはイエス様は仰ってくださっています。造り出された私たちが名を呼ばれて、救いの「恵み」にあずかるように、天地万物が造られる前から計画してくださったことを、私たちはこのことを通しても知ることができます。 そして、わたしの目にはあなたは高価で尊い。滅ぶべき存在である私たち一人一人を、高価で尊いと仰ってくださっている。そしてもっとも直接的に、単純に、わたしはあなたを愛していると仰っておられる。 日本語では、わたしはあなたを愛しているという言葉ですが、英語では、英語の習い始めに覚える単語で綴られていました。 これは古い訳から現代の訳まですべて同じです。「I love you.」というふうに書かれています。神さまは私たちを「I love you.」といつも仰っておられます。 単純な三つの単語です。そしてだれもが忘れることのできない言葉ですけれども、その意味の深さっていうのはもう言葉に言い表わせないものだと思います。 神さまがいつも離れることなく「I love you.」と仰っておられる。本当に感謝だと思います。そのゆえにイエス様が私たちのために十字架について死んでくださった。 「日々の歌」の中に、「理解できないが」という歌詞の歌がありますけれども、本当に私たちはこの「日々の歌」を歌うごとに、感謝をもって、また悔い改めもって一緒に歌うわけですけども、その理解できないことがらが、やがて理解できるようになる。 「ああ、こうだったのか。神さまとイエス様と御霊はこういう関係なのか。」ということが分かりますし、その神さまが私たちひとりのために十字架におつけになる、また十字架につかれるということをなしてくださったんだ、そのことを間もなく知るようになりますし、先に天に召された私たちの敬愛する兄弟姉妹方は、そのことを味わっているわけです。 ベックさんが仰るように、本当に先にゴールインなさった方々は羨ましいと、私も心から思います。 聖書の中のひとりの人物で、聖書のたくさんの中の書物を、手紙を書いたパウロ、このパウロの頭の中には絶えず「恵み」という言葉が、もう忘れ去ることなくあったようです。 ですからパウロの手紙のこのローマ人への手紙から始まって、そのあとの幾つかの手紙のすべての冒頭に、「恵み」という言葉が書かれています。そしてそのひとつひとつの手紙の締めくくりにまた、「恵み」という言葉が使われております。 これはもう一貫してまして、パウロの頭には、パウロの心の中には「恵み」という言葉が、もう本当に絶えず響き渡っていたのではないかと思います。 ローマ人への手紙1:7
「恵み」と平安という二つの単語で組み合わさった表現が多いんですけれども、しかし不思議なことにと言いましょうか、当然のことにと言いましょうか、平安という言葉がない箇所もあります。 しかし「恵み」という言葉がない箇所はないんです。 ローマ人への手紙の締めくくり、16章の24節。これはまた私たちには理解を超えてるんですが、新改訳聖書では本文ではなく、下の注を見なければないんですけれども、こういう言葉が挿入されています。 ローマ人への手紙16:24
という言葉が加えられている、聖書の古い写本もあるということだと思いますが、私たちはこのみことばは感謝をもって、公式のものとして受け取っていいのではないかと思います。 ここでは「恵みが」と書かれていまして、「恵み」と平安という「平安」という言葉がありません。 コリント人への手紙第I、1:3
と書かれていまして、そしてコリント人への手紙第Iの締めくくり、16章の23節では、 コリント人への手紙第I、16:23節
と書かれています。つまり、パウロの手紙、書簡はすべて「恵み」で始まり、「恵み」で綴じられているということです。 パウロ自身は、自分がかつてどんなであったかをよく知っていました。どんな者であったかよく知っていました。そして現在自分はどんな者であるかをよく知っていました。その違いを説明できるのは、「恵み」ということ以外にはなかったと言うことができると思います。 パウロはかつてキリスト者を迫害する者でした。その自分の仕事をよく知っていました。そして今与えられている、まったく180度変えられた存在として、迫害する者が踵を返してイエス様の福音を伝える者に変えられたその仕事をよく知っていました。その変化を説明できるのは「恵み」しかなかったわけです。 パウロの回心の箇所を読んでみたいと思います。 使徒の働き9:1
パウロに名前を変えられる前のサウロですが、 使徒の働き9:1-22
と書いてあります。20節にありますように、ただちに諸会堂でイエスは神の子であると宣べ伝え始めたと書かれていますが、そのサウロは9章の始めの部分では、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。 その目的を帯びてダマスコに向かった者が、このダマスコで・・・・ (テープ A面 → B面) 主の一人一人に対するご命令というのは一方的であることも感じます。 9章の6節に、「立ち上がって町にはいりなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです。」、主のご命令は私たちの理解を超えて、私たちが資格がない者は当然であるわけですけども、その資格のない者に対して、わたしはこのような計画をもっているからあなたはそのようにしなければならないと、お命じになるわけです。 9章の15節にありますように、 使徒の働き9:15
迫害者を、選びの器ですと仰って、そして彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを、最後はおそらく、十字架刑だったと思いますが、彼が私の名のためにどんなにくるしまなければならないかを、私は彼に示すつもりです。 パウロの、この伝道者として変えられた歩みが、結果的に主イエスが神の子であると伝えるために、十字架につけられる、殉教の死を遂げるということまでが、もう主によってここで予定されてることが分かります。主のご命令は絶対的であることを覚えます。 しかしパウロは、この復活の主に出会うことを通して、心の目のうろこが落ちてそして、どのような迫害にも耐える者として、主イエスが神の子であられることを伝えることに何の躊躇もなく、苦しみの中にあっても喜ぶ者として主を伝えることができました。 それは「恵み」以外にないとパウロは分かったわけです。 このことを少し整理をしてみますと、みことばを通して学ばせていただきますと、このようなことだと思います。 第一に、イエス様は「恵み」そのものだということであると思います。 コリント人への手紙第I、1:4
と書かれていますけれども、イエス様ご自身が神さまからの「恵み」として私たちに与えられたということです。ですから言い換えるならば、このように言うことができるかと思います。「恵み」はキリストであり、キリストは「恵み」であると。 おそらくほかのみことばを借りるならば、「愛」という言葉が、みことばには「恵み」以上にたくさん使われていますけれども、愛はキリストであり、キリストは「恵み」である。キリストは愛であるっていうふうに言うことができるわけでして、「恵」】と愛とがある意味で同一の内容を、イエス様にあって用いられている。 イエス様は「恵み」であり、愛であり、また、イエス様ご自身が「恵み」であり、愛であるということであると思います。 また二番目に、価しない者への「恵み」ということを覚えたいと思います。それは先ほど読んでいただいたコリント人への手紙第IIの8章の9節にその内容が過不足なく示されてると思います。 コリント人への手紙第II、8:9
資格のない者が、価しない者が、 コリント人への手紙第II、8:9
「恵み」は一方的な主からの賜物であるわけでして、私たちが自ら獲得できないものだ。私たちは滅ぶべき存在であることは変わらないわけですけれども、イエス様の十字架を通して、一方的に滅びない存在に変えられるということです。 そして三番目に、行ないによっては「恵み」は得られないということです。 ローマ人への手紙11:6
と書かれています。行ないによらざるものである。私たちがどのように善行を積もうと、罪の赦しは獲得できないということであると思います。このことに関連して、エペソ人への手紙の2章の4節から9節を、ご一緒に見てみたいと思います。 エペソ人への手紙2:4-9
と書かれています。一方的なイエス様の十字架を通して示された、救いの道にあずかることを通して、初めて私たちは救われ、罪赦され、永遠のいのちを与えられるということであると思います。 どれほどイエス様が私たちを愛してくださっているか、それを私たちは忘れがちです。 私たちはそれぞれ与えられるさまざまな訓練のときに、それは私たちが当然招くべき者であったかもしれませんけれども、それは罰としてではなく、私たちに対する訓練だというふうに、もし私たちが受け取ることができるんであれば、またその訓練を通してもイエス様の愛をおぼえることができるのではないかと思います。 四番目に、このことも覚えたいと思います。神さまの「恵み」は、イエス様の「恵み」は尽きないということ。 コリント人へ手紙第II、9:8
尽きることのない泉のように、「恵み」をあふれるばかり与え続けてくださる方だということです。常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、という目的があるわけです。 私たちは絶えず霊的な飢え渇きをもってその満たしを祈り続けること、また感謝すること、そのことが求められているのではないかと思います。 私たちがもし、私たち自身のみじめな状況を見、この地上を見るならば、その与えられている「恵み」に気付かない状態になってしまうのではないかと思います。 さまざまな不平、不満、ねたみ、憎しみそのようなものに私たちが人間の本性として満たされてしまうときに、せっかく与えられている「恵み」に気付かずに、主が悲しんでしまわれる状態に陥ってしまうのではないかというふうに思います。 第五に、もう繰り返しになるかもしれませんけれども、人間が救われるのは「恵み」によってのみであり、「恵み」にさらに付け加えるものはない。つまり、「恵み」ですべての私たちに対する救いは完結したということです。 イエス様が十字架で最後に言われたことばは、「完了した。」ということですが、それは贖いのみわざが完了したということであり、「恵み」はすでに与え尽くされたということであると思います。 その与え尽くされた「恵み」は、今も絶えることなく続いてるということであると思います。 私は物理学のことはよく分かりませんけれども、高校生時代に慣性の法則というのを学んだ覚えがあります。慣性というのは言い方を変えれば、惰性ということになりますが、惰性と言うと少しイメージの悪い言葉ですけれども、一旦与えられた力はとどまることなく永遠に続くっていうそういう意味のものであることを初めて知りました。 その大地に力を与えたのは、ニュートン曰く、「それは神さまにほかならない。」ということであり、それは真理だと思います。 今のこの天空の運行、動きというのは、最初に大地に神さまが与えられたその運動の始まりから、いまだにその運動は続いているということです。「恵み」も一旦与えられた、完了したというのは、そこで絶えてしまうのではなくて、ある意味で言い換えればそこからさらに新しく始まったということだと思います。 その「恵み」が続き続けているということであると思います。 ガラテヤ人への手紙2:20-21
と書かれています。まったく一方的な「恵み」によって、私たちは救い出され、そして永遠のいのちを持つ者とさせられました。 私たちの人生の意味はどこにあるのでしょうか。私はキリストとともに十字架につけられました。生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 その思いを私たちが持ち続けて、主のご栄光のために歩ませていただきたいという日々の歩みが継続されて、やがて主に迎えられる時を待ちたいと思います。 今日はこの「恵み」ということを一つのキーワードにして、イエス様の十字架の御愛をご一緒に学ばせていただいたつもりであります。 ありがとうございました。 |