引用箇所:ヨハネの黙示録3章7節-9節
今日のタイトルは、「主が愛されたフィラデルフィアの教会」と題しました。 今、兄弟に読んでいただきました3章9節をもう一度お読みいたします。 ヨハネの黙示録3:9
この意味は、イエス様は、クリスチャンと自称しつつその実そうでなく、かえって神とその民に敵対する者たちを、ご自分の御名のためにフィラデルフィアの教会に属する者と書いて、それはイエス様がフィラデルフィアの教会を愛していることを知らせるためであるというそういう意味です。主はフィラデルフィアの教会を愛されました。 今日は、この主が愛していると言われた、このフィラデルフィアの教会とはいったいどんな教会であったのか、少し学んでみたいと思います。 ご存じのようにヨハネの黙示録の2、3章には、主からの七つの教会に対する書簡が記されていますが、その中で、このフィラデルフィアの教会のみが、一つの非難の言葉がなく、賞賛の言葉しか書かれていません。 100%主がお喜びになった教会であったことがわかります。そしてその理由がこう書かれています。「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」ということです。 もう一度、ヨハネの黙示録3章8節を全部お読みいたします。 ヨハネの黙示録3:8
イエス様はフィラデルフィアの教会の前に、だれも閉じることのできない門を開いてくださいました。それは、この教会が少しばかりの力があって、イエス様のことばを守り、イエス様の名を否まなかったからだと書いてあります。 これは、イエス様がフィラデルフィア教会を愛した理由であり、賞賛した理由です。 このことから私たちは、フィラデルフィア教会の特徴を見出せるのではないかと思います。それは次の三つだと思います。 1.祈りの教会であった 2.兄弟愛の教会であった 3.あかしする教会であった という特徴です。 まず、祈りの教会の姿についてみてみたいと思うのですけれど、当時フィラデルフィア教会の置かれた状態は、大変困難な状況下にありました。 ローマ帝国からの強制的要求、祭司たちからの支配的な主張、見えない悪霊の世界からのサタンの攻撃がありました。これらの圧迫は、信者の生死にかかわるほどの患難であったことは想像できます。 これらの中にあって「少しばかりの力があって、イエス様のことばを守り、イエス様の御名を否まなかった。」のです。 では、「少しばかりの力があった」とはどういうことでしょう。 フィラデルフィア教会は、人間的に考えると弱い教会でした。それは、人数でも、経済的にも、教育面でも、また、影響力においても貧弱でした。 この「少しばかりの力」とは、原語では「霊の力」を表します。つまり、「少しばかりの力があった」とは、少しの霊の力があったことを意味していますが、この霊の力は、祈りによって得られるものであります。 彼らは取り巻くいろいろな圧迫の中で、己の弱さのゆえに、祈る教会と変えられたのです。 祈りとは、私たちが主に信頼し、お頼りしていることの表明なのです。 彼らは祈りによって、イエス様に対して開かれた門を見出しました。そして、イエス様と真の交わりが与えられ、イエス様の愛の中に神の力を体験するようになったのです。 そこは神の愛に満たされていました。自分が弱いがために、自分の力ではなくイエス様に拠り頼んだとき、フィラデルフィア教会は力をいただき、強く生かされたのでした。 私たちも困ったとき、力が欲しいときには、イエス様に祈り求めます。自分の力は頼りになりません。 自分の力とは、結局この世の知恵、知識、経験に基づくこの世の能力であり、また本当の肉体的な力であったりして、特にこの世の背後にいるサタンの攻撃に対しては、まったく無力といわざるをおえません。 あのゴリヤテを倒した強そうなダビデも、苦難のとき主に祈りました。 その祈りを少し、詩篇6篇を見てみたいと思います。 詩篇6:1-10
自分自身が弱いとき神の力を体験した、あのパウロのことばがあります。 彼は、弱さのとげを取ってくださいと三度も主に願ったとあります。祈ったのです。 しかし、主の答えはこうでした。 コリント人への手紙第II、12:9-10
祈りは力です。もし人が神に頼っているなら、その人は絶えず祈ります。 パウロは言いました。テサロニケ人への手紙第Iの5章17節ですけれども、 テサロニケ人への手紙第I、5:17
あの弱いときに強いと言い切ったパウロも、祈りの人でした。 フィラデルフィアの教会も絶えず祈る教会であったに違いありません。 次の特徴は、兄弟愛の教会でした。 そもそもフィラデルフィアとは、兄弟愛を意味しており、その特徴は、いかなる聖職者もなく、信者はみな直接主とつながっていて、皆が祭司であり、皆が兄弟であり、お互いに愛しあっているのです。 互いに愛し合うのは、神の愛が全うされている証拠です。 フィラデルフィア教会はみことばを守って、神を愛していました。フィラデルフィア教会は、イエス様のみことばを守ったと賞賛されました。 みことばを守るとは、みことばを取り、それを食べて生きることです。ですから、クリスチャンとは、みことばを食べて生きるものであり、もしみことばを食べなければ死んでしまいます。つまりみことばを守るとは、キリスト者のいのちの源です。 さて、みことばを守る教会には、イエス様が常に中心におられ、イエス様にある神との交わりがあります。ヨハネはヨハネの手紙第I、1章3節で、 ヨハネの手紙第I、1:3
と言っています。みことばを守る教会は、イエス様を通して神の愛が満ちており、兄弟が互いに愛し合っているのです。 互いに愛し合えるのは、イエス様が中心にいて、神の愛がまっとうされているからです。 ヨハネの言葉をお読みします。ヨハネの手紙第Iの4章7節から13節です。 ヨハネの手紙第I、4:7-8
神はその一人子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。 ヨハネの手紙第I、4:10-13
さらにヨハネは、「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。」と言っております。 このヨハネは最も大切な戒めとして、「互いに愛し合いなさい。」ということを何度も述べております。 ヨハネの福音書13:34
ヨハネの福音書15:12-13
ヨハネの福音書15:17
互いに愛し合う前提は、神の愛を受けることです。自分の力で人を愛することはできません。イエス様は私があなたがたを愛したように、といわれます。 イエス様の愛とは無償の犠牲の血です。ご自分の死をもって、私たちの罪の代価を支払ってくださり、いのちを得させてくださった犠牲の愛です。 さて、ヨハネはこの兄弟愛のことを敢えてキリストの命令であるとしっかりと言い切っています。 ヨハネの手紙第I、4:19-21
フィラデルフィアの教会は、このようにイエス様のことばを守り、互いに愛し合いました。そして天国に開かれる門が与えられたのです。 フィラデルフィア教会は、間違った教えに満ちた、また多くの形式を持っていても真の力を持っていない時代の中にあって、主のみにしっかりと結びつくことによって、自分自身を守ることができたのです。 イエス様のみことばを守るとは、救いについてだけではなく、日常の問題について、毎日聖書を調べ従うことです。みことばを守ということは、みことばを信じるということだけではなく、みことばが私たちの導き手となっていなければなりません。 みことばが守られるところでは、イエス様が中心になっています。 みことばを守るとは、みことばを食べることと言いましたが、それはみことばと交わりを保つであり、いのちを保つことであり、いのちに与ることです。イエス様がこの教会と交わりを保ってくださり、いのちを保ってくださるのです。 また、教会はみことばを守ることによって教会も守られます。教会がみことばを守ったからこそ、人々は天国への門、永遠のいのちを見出すことができるのです。 ヨハネの黙示録3章10節で、イエス様は将来のことを見ておられます。 先ほどお読みしていただいたところの後ですけれども、 ヨハネの黙示録3:10
みことばを守った者を、全世界に来ようとしている大患難のときに、あなたを守ろうとイエス様は言ってくださるのです。 さて三番目の特徴ですけれども、これは証しする教会でした。 イエス様の名を否まなかったとは、イエス様の名を告白して証しすることです。 フィラデルフィアの教会は、天国の門が開かれたとき、イエス様を証しするという開かれた門をも持つようになりました。 イエス様は人の心を開かれます。人の心がイエス様に向かって開かれるとき、それはイエス様の奇跡です。 祈るとき、そして私たちが自らの無力さを知り尽くすときに、私たちはイエス様を証しすることができ、それによって人々の心がイエス様によって開かれるのです。これが証しの門です。 イエス様を信じることをまったく受け入れられない人に対しても、証しの門が開かれます。 フィラデルフィア教会は、キリストの名を拒む世にあって、その名を否定しないで、あらゆるところで、今で言えば、職場、学校、家庭でしょうか、イエス様が主であり、救い主であり、導き手であるとはっきりと言い表したのでした。 彼らはイエス様に拠り頼みました。イエス様の御名は、彼らにとってそれだけで十分なものであったのです。 イエス様の名は、彼らにとって、かけがえのない価値のあるものでした。 どれだけ豊かな満たしがイエス様の中にあることでしょうか。 イエス様の名を呼び求める者は救われ、平安を与えられ、赦しが与えられ、永遠のいのちに与ることができるのです。イエス様の御名によって私たちはすべての敵に打ち勝ち、すべての絶望に打ち勝つことができます。 イエスという名の意味は、救い、慰め、拠り所、力、喜び、希望です。救い、慰め、拠り所、力、喜び、希望です。イエス様は、私たちがイエス様の御名、すなわち、イエス様ご自身に信頼を置くときに、私たちを喜んでくださるのです。 昔、使徒の時代に、キリストの「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」と使徒の働き11章26節に記されておりますが、彼らはこのことを決して恥とは思わず、むしろその名を誇りと思い、大いに喜んだことだろうと想像できます。 冒頭に読みましたヨハネの黙示録3章9節に、反対していたユダヤ人がフィラデルフィア教会の証しを通して、そこに導かれることが記されています。それはフィラデルフィア教会が立派だったからではなく、そこに教会を愛されたイエス様がおられたからです。 イエス様はこのことを通して、この教会を愛しておられることをお示しになりました。フィラデルフィア教会は、その存在自体が、主の証しであったと言えるのではないでしょうか。 以上、主の愛されたフィラデルフィア教会の特徴について述べてきましたが、主は、イエス様は、ヨハネの黙示録3章11節で、「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と。 主は、この最善のフィラデルフィア教会に警告いたしました。先ほどのところの次ですけれども、 ヨハネの黙示録3:11
ということは、フィラデルフィア教会も冠を奪われる危険があることを示しています。それは、イエス様との交わりがなくなったときで、イエス様にある愛がなくなったときであります。 ですから、聖書のすべてのみとイエス様ご自身をしっかり自分のうちに保っていなければなりません。 互いの愛がなくなったとき、分裂してフィラデルフィア教会を出て行きます。そのとき冠は奪われます。冠を奪われないためには、フィラデルフィア教会から出ないことです。冠とは主が信仰の勝利者に与えられる最高の誉れです。 最後に、勝利を得る者に与えられる誉れについて学んで終わりたいと思います。 主から誉れをいただけるとは、何とエキサイティングなことでしょうか。主が最善とみなしたフィラデルフィア教会の勝利者に与えられる誉れとはなんでしょう。 もちろん勝利を得るものとは、信仰の勝利者であり、その日、つまり再臨のとき、終わりのとき、報いを主から与えられる信者であります。 しかし、すべての信者が報いを受けるとは限りません。永遠のいのちが失われなくても、冠は失われるということはありうることです。 すべての新しく生まれ変わった信者は救われますが、しかし、すべての信者に冠が与えられるのではありません。冠は、イエス様にあって共同の相続人となることを意味しており、最善の永遠のしるしです。 冠を得るには、火を通して信仰の成果が試されます。いろいろなところがありますけれど、コリント人への手紙第Iの3章をお読みいたします。 コリント人への手紙第I、3:10-15
例えば、いのちの冠は、試練に耐えた者に与えられます。 ヤコブの手紙1:12
義の冠は、主の現われを慕っている者に与えられると、テモテへの手紙第IIの4章7節に書いてあります。 テモテへの手紙第II、4:7
パウロは、 テモテへの手紙第II、4:7-8
もう一つ、朽ちない冠は、自制する者に与えられると書いてあります。 コリント人への手紙第I、9:25
このような試練の結果、よしとされた勝利者のみに報いとしての誉れが与えられます。ヨハネの黙示録3章12節をお読みいたします。 ヨハネの黙示録3:12
先の11節と合わせて三つの誉れが記されています。 (1)神の聖所の柱とされる (2)新しい名前が与えられる (3)冠が与えられる 神の聖所の柱とされるということは、力ある者、影響力のある者とされることです。 柱には二つの意味があります。一つは目印であり、もう一つは支えです。 目印といえば、すぐに思い浮かべると思いますけれど、昔イスラエルの民が出エジプト後、荒野をさまよっていたとき、主が雲の柱、火の柱となって、彼らを導いたと記されています。 出エジプト13:21
柱は目印であり、遠くからも見ることができます。柱は、またしっかり立って倒れることがありません。 この世においてイエス様に忠実に仕える者が、目印となり、天国においてその報いを受けるのです。 柱の第二の働きは、人々の支えになるということです。 教会において他の信者の重荷を負い支え、他の信者の罪と咎との責任を負って自ら悔い改めおおせる者です。その力は、自分が弱いためによって祈りによって強くされた者の力で、それは大きな影響を及ぼすものとされます。 柱とされた者は、神殿から抜けられません。彼らは、決して外へ出て行くことはないと書いてあるとおりです。 二つ目に新しい名前が与えられますけれども、ここには、さらに三つの名前が書いてありました。 [1]わたしの神の御名 [2]新しいエルサレムの名 [3]わたしの新しい名 私が、ヨハネの黙示録のこのフィラデルフィアのところを学ぼうとしたきっかけは、動機は、日々の光の中のある日の夕方のところに、一言「新しい名」というところがプリントされていました。 そこから、ここを学んでみたいと思ったのですけれども、いずれにしても、新しい名前が与えられるということは、まったく新しく生まれ変わるということ、大変革、新しい誕生であると言えます。 例えば結婚した女性が、名前が変わります。そういうことだと思うとわかりやすいのではないかと思うのですけれど。 その中の一つ目は、わたしの神の御名です。 神の御名をもつということは、神のものとされることを意味します。神のものとされ、神を自分の父として持つこと以上に大きな誉れがあるでしょうか。 神の御名をもつということは、今より永遠に救いを受け、守りを受けることを意味しております。主は、あなたはわたしのものであると言っておられます。 二つ目は、新しいエルサレムの名です。 私は天の上に新しい神の都、すなわち、私の神のもとを出て天から下ってくる新しいエルサレムの名を書き記すとあります。 天にある永遠の都である新しいエルサレムの名が与えられるといことは、信者の国籍が天にあることを示し、また新しいエルサレム、天にある永遠の都にある、まことのイエス様のからだである教会に属する者とされるということを意味しています。 ヨハネの黙示録21章2節にこの新しいエルサレムが、小羊の花嫁として天から下ってくるとあります。 ヨハネの黙示録21:2
新しいエルサレムの名とは、天から下ってくるイエス様の花嫁の新しい名です。 三つ目の名は、わたしの新しい名です。 イエス様の新しい名前とは何でしょう。ヨハネの黙示録19章を開きください。 ヨハネの黙示録19:12-13
同じ19章の16節。 ヨハネの黙示録19:16
新しいエルサレムである信者は、イエス様の花嫁としてイエス様の新しい名前をいただくのです。これは結婚のときのように、イエス様がご自分の教会とまったく一つになることを意味しており、信者がイエス様と最も深い交わりに入ることを意味します。 そして、イエス様の名を永遠に持つことによって、圧倒的な勝利者になるのです。 イエス様の新しい名前を持つことは、すべてのものに対する勝利者になることを意味しています。なんと素晴らしい栄誉ではありませんか。 最後に、勝利を得る者に与えられる三つ目の誉れは、冠です。 フィラデルフィア教会の信者は、みことばを守り従いました。彼らにとって、主のみことばだけがすべてであったのです。イエス様を慕い、愛していました。それゆえ彼らは冠を得たのです。 パウロはこう言っています。前にも一度、読みましたけれど、テモテへの手紙第IIの4章8節。 テモテへの手紙第II、4:8
冠は、イエス様にあって財産の共同相続人になることを意味しています。そしてそれは、天国にたくわえられております。ペテロの手紙第Iの1章4節。 ペテロの手紙第I、1:4
勝利を得る者は、誉として聖所の柱とされ、素晴らしい新しい名が与えられ、栄光の冠をいただくのです。 結びといたします。 最後に、以上述べてきてことのすべては、すなわち天国に開かれた門、賞賛のことばとその守り、警告、そして信仰の勝利者への誉れのすべては、ヨハネの黙示録3章7節の冒頭に記されている通り、「聖なる方であり、真実な方で、神の門を開閉する権威を持っているイエス様のことばであることを、覚えておきたいと思います。 真実な方とは、ご自身のことばを欺いたり、偽ったりなさらないで、語ったことば必ず実現される方のことです。 フィラデルフィアの教会は、あらゆる面で貧弱であったけれども、わずかばかりの霊の力があり、祈りを通してイエス様によって強くされ、柱とされ、また新しい名が与えられ、冠を得たのでした。そして、イエス様の聖霊による愛で満たされていました。 祈りの教会であり、愛に満たされ、互いに愛し合う兄弟愛に満たされた教会であり、また証しをする教会を100%、主は喜ばれました。 それは、また私たちの喜びでもあります。が、主は私たちにまた、私に主は何点をつけてくださることでしょうか。 最後に一つのみことばを読んで終わりたいと思います。ローマ人への手紙の12章10節です。 ローマ人への手紙12:10-12
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