引用箇所:ヨハネの福音書9章1節-3節
今日は、先ほど、お読み頂いた箇所を含めて、「病気について」「病いについて」共に考えてみたいと思います。 まず、病気の原因について。次に、病気に対する私たちのとるべき態度について、順に学んでみたいと思います。 まずはじめに、病気の原因についてであります。私たちは、健康で元気な時は、それを特にすばらしいこととも思わずに、それを与えてくださった方に感謝することも忘れがちであります。 いざ病気になり、あるいはけがをして、病床に伏して動くことができなくなってはじめて、病気という厳しい訓練を味わうことになります。 この訓練は、肉体的な苦痛、何とも言えないだるさ、疲労感などから来る苦痛もあるであろうと思いますが、さらに霊的に落ち込んでしまうと、さらに辛い、何倍にも辛い訓練となってしまうと思うのです。 どういうことかと言いますと、「なぜ、私は、こんな病気になってしまったのだろうか?」「私の何が、悪かったのだろうか?」「この病気は、私の罪の結果としてなってしまったのだろうか?」「私の子供の病気は、何か親の落ち度があったのではないだろうか?」「私は、神様の愛を失ってしまったのではないだろうか?」 このように、病気になった時に思い込んでしまうと、本当に病気というのは、肉体的な苦痛に加えて何倍もの苦しみなってしまうと思うのです。 人間は、何かことが起こると必ずその原因を追求しようとします。病気についても同様に、何か悪い原因があって、発病したのではないかと必ず考え込むようになると思います。 私たちは、この病気の原因について、正しい知識を備えておく必要があるのではないかと思います。 聖書によれば、病気の原因はいくつか挙げられると思います。そのひとつとして、サタンによる病気というのがあると思います。サタン、悪魔によってもたらされる病気というのは、確かに聖書の中に出て来ます。 ヨブ記1:8
主は、このように潔白で正しく神を恐れる者であるとヨブについておっしゃっています。 このヨブに、ひどい病気がもたらされました。ヨブは、このひどい病気に以前にも、サタンによって様々な試練を与えられましたが、その後にも、彼は次のように言って不平を言いませんでした。 ヨブ記1:21-22
そこでサタンは、ヨブの体、肉体そのものにも試練を与えるように、主に頼みます。 ヨブ記2:6-7
ヨブの苦しみがあまりに大きかったために、ヨブの友人は、彼に話しかけることすらできなったのであります。 ヨブ記2:13
この後、ヨブはいったんは神様に対して不平不満を言うようになりますけど、最終的に、神にひれ伏し悔い改め、彼の友達のために祈った時に、彼の体はもとどおりになったというふうにして、このヨブ記は、終わっています。 二つ目の例として、今度はルカの福音書から見てみようと思います。 ゲラサの悪霊につかれた男が出て来ます。 ルカの福音書8:27
この悪霊が、主によって彼の体から追い出され、彼は癒やされたという記述が出て来ます。 ルカの福音書8:35
このように、悪霊によって、サタンによって病気になっているということが、この事実からもはっきりわかります。 パウロという人も、肉体にとげを与えられていました。彼は、自分の病気について、次のように述べています。 コリント人への手紙第II、12:7
パウロの自分自身の肉体のとげは、サタンによると、彼ははっきりとここに書いています。 病気の原因の二番目として、罪のための病気というのが出て来ます。罪のために病気になったという例が聖書の中にいくつか出て来ますが、少しとりあげてみたいと思います。 民数記12章です。ミリアムは、モーセに向かってつぶやきました。このために、彼女に病気がふりかかったという記述が出て来ます。 民数記12:1-2、9-10
そのために、ミリアムという人はらい病になったというふうに、書かれています。 病気の原因は、罪のためであると考えるのは、私たちの頭の理屈では、とても理解しやすく納得しやすいと思うのです。「何か、悪いことをしたから病気なる。」というのは、一見、とても筋が通っているように思います。 しかし、病気の原因がただちに罪によるという飛躍的な結論を出すべきではないと思うのです。 病気の原因がただちに罪によるという、このような早急な誤った判断をすることによってこれまで本当に多くの人々が傷つき悲しんできました。心の病いを持っておられる方がいらっしゃいます。 心の病と、魂の病は、すごく混同されがちで、ごっちゃにされてしまう。霊的にあなた落ち込んだから心が病んでいるんじゃないか。そう言う人もいるのかもしれませんが、明らかに心の病とは、霊の病とは別に存在するのです。 そういう病気の方々は本当に、何かその人の、罪の問題たとか霊の問題が原因で病気になっているんじゃないかという非難を浴びる人は多いのじゃないかと私は思います。 さきほどお読み頂いたヨハネの福音書の9章をお読みしたいと思います。ここでは生まれつきの盲人が出て来ます。 ヨハネの福音書9:1-2
主の弟子達も同様に、彼の盲目は、罪の結果であると短絡的に考えました。しかし、主は3節で、つぎのように言われました。 ヨハネの福音書9:3
神のわざがこの人に現れるためである。イエス様は、はっきりとここでおしゃいました。彼の罪の結果でもなく、彼の両親の罪の結果でもないわけです。 そして、3つめ目の病気の原因として、神の栄光のため、神のわざが現れるためというのがあると思うのです。そして、おそらく、この原因こそ、最も大切な私たちが認識すべきものではないかと思います。 今お読みしました盲人は、この後、主の言われたとおりに、目に塗られた泥をシロアムの池で洗うことによって、彼の目は開かれました。そして、この盲人だった男は、パリサイ人から問い詰められたのですね。最後に、彼の両親もパリサイ人から問い詰められました。そして、最後に盲人であった男は、つぎのようにパリサイ人に、言いました。 ヨハネの福音書9:32-38
このように彼はパリサイ人から追放されてしまいましたが、主を信じ、主を拝する者になったと書かれています。 すなわち彼の盲目という病は、神様のわざが現れるため、神の栄光のためと言うことができるのでないでしょうか。 少しあとの、ヨハネの福音書11章で、ラザロという男が病気になっていますが、11章を読んでみたいと思います。 ヨハネの福音書11:1-5
主の愛するラザロは病気になりましたが、主は、この病気は、死で終わるだけではなく、神の栄光のためというふうに、はっきりとおっしゃっています。 そして実際にラザロは甦り、それを通して多くの人が信じ、神の栄光が現されました。 ヨハネの福音書11:45
彼の病気を通して、多くの者が主を信じるようになった。神の栄光が、実際に現されたということがよくわかると思います。 さて、次に病気に対して、私たちがとるべき態度について、ちょっと学んでみたいと思います。 原因がなんであれ、サタンによって病気になったヨブにしても、罪の結果で病気になったミデアムも、もちろん盲人や、ラザロは、最終的に主によって癒やされ主の栄光を見ることになったとあります。 私たちの苦しみや弱さは、原因がいくつかあってなんであれ、目的とするところは主が栄光をお受けになるためということがわかります。これらの人々は、癒やされてますけど、では、癒やされることが神様の栄光につながることなのでしょうか。パウロは、ピリピ人への手紙で次のように書いています。 ピリピ人への手紙1:21-23
パウロは、生きるにしても、死ぬにしても、キリストのすばらしさが現されるということを、神の栄光が現されるということを、切に願うと言っています。つまり、病気が癒やされて治って生きるにしても、病気が治らなくて死ぬにしても、どちらにしても、神の栄光が現されることを私は願うと、パウロはここで言っていると思います。 つまり、病気が癒やされて治ることだけが神の栄光ではないということがわかると思います。むしろ、現代の特徴は、治らないことによって、本当の病気である魂の病気、病んだ魂が救われるということが、多いように思われます。 病気を通して、救いに預かったと言う方は、集会にもたくさんいらっしゃると思うのです。ルカの福音書には、次のような記述があります。 ルカの福音書17:11-19
人は癒やされると、むしろ目に見えるその時の問題が解決されることに満足し、主から離れてしまいがちだと思うのです。イエス様は、癒やされた9人は、どこに行ったのかと嘆かれました。このようにむしろ、治ることが必ずしも神の栄光を意味するものではありません。 私は、小児科医なんです。なかでも子供の血液、悪性腫瘍、いわゆる小児癌の子供を専門に主に診させて頂いています。ここ数年で、4人の小児癌のお子さんを天国に送りました。白血病は、今は70%くらいは治るようになっています。 数十人の白血病を中心とした小児癌のお子さんたちを、ここ数年診させて頂きました。死に立会った4人のご家族のうち、3人のご家族が実は、救われたのです。そして、ほかの数十人の元気になったお子さんの、そのご家族で救われた方はひとりもおられない。これは、私のこれまでのここ数年個人的に経験した事実であります。 むしろ治らないことによって救われることが多いというのは、私の小さな経験上、事実であります。ですから、病気が治るか治らないかということは、本質的な問題ではないのです。 治っても、治らなくても、心配する必要は、わたしたちにありません。 コリント人への手紙第II、12:9
パウロは弱さ、病気であることをむしろ誇ると言っています。 ヘブル人への手紙12:5-11
訓練に対して、とるべき態度が書かれています。懲らしめを軽んじてはならない。弱り果ててはならない。耐え忍びなさい。そして、訓練の目的は、ご自分の聖さに預からせるためである。そう書かれています。 ほかにも訓練、試練の中にいる人への慰めの御言葉は聖書の中にたくさん出て来ます。いくつかお読みしたいと思います。 哀歌3:31-33
詩篇72:12-13
コリント人への手紙第I、10:13
ヤコブの手紙1:12
ユダの手紙1:24-25
ルカの福音書21:18-19
肉体がどんなに痛んでも、天国では髪の毛一本失われることはない。何も失われるものはないと書かれています。 病気という厳しい訓練を通して、神様の栄光を現すことができ、神様の恵みが十分であることが知ることができれば幸いであると思います。 最後に、ふたつの詩を読んで今日は終わりにしたいと思います。 ひとつめの詩は、何年か前に、AAミーティングで紹介された詩です。病気のお子さんを持つ親のために書かれた詩です。題名は、「天国の特別な子供」 「天国の特別な子供」 (作者:エドナ・マシミラ、訳:大江祐子) 会議が開かれました。 地球からはるか遠くで"また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ" 天においでになる神様に向って天使たちは言いました。 "この子は特別の赤ちゃんでたくさんの愛情が必要でしょう。 この子の成長はとてもゆっくりに見えるかもしれません。 もしかして一人前になれないかもしれません。 だからこの子は下界で出会う人々にとくに気をつけてもらわなければならないのです。 もしかしてこの子の思うことは中々わかってもらえないかもしれません。 何をやってもうまくいかないかもしれません。 ですから私たちはこの子がどこに生れるか注意深く選ばなければならないのです。 この子の生涯がしあわせなものとなるように、どうぞ神様この子のためにすばらしい両親をさがしてあげて下さい。 神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親を。 その二人はすぐには気がつかないかもしれません。 彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割を。 けれども天から授けられたこの子によって、ますます強い信仰と豊かな愛をいだくようになることでしょう。 やがて二人は自分たちに与えられた特別の神の思召しをさとるようになるでしょう。 神からおくられたこの子を育てることによって。 柔和でおだやかなこのとうとい授かりものこそ天から授かった特別な子どもなのです" もうひとつの詩ですけれども、これは前から知られている病者の祈りという詩です。 作者の名前はわからないのですけど、「ニューヨーク・リハビリテーション研究所に書かれた一患者の詩」となっています。 「病者の祈り」 大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、 より良き事ができるようにと病弱を与えられた。 幸せになろうとして富を求めたのに、 賢明であるようにと貧困を授かった。 世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、 神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、 あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。 求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞き届けられた。 神の意にそわぬものであるにもかかわらず、 心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。 |