訓練について


辻兄

(御代田喜びの集い、2006/08/13)

引用聖句:ヘブル人への手紙12章5節-13節
5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
12ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
13また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。

私以前、神戸集会、あるいはもっと西のほうの集会にも当番でお伺いしておりました。どうしても神戸集会で忘れられないのが、95年の1月の時に当番で行った集会なのです。
ちょうど95年の1月22日なのですが、その直前に阪神大震災が起きて、神戸集会はその時、集会所も潰れてしまって、集会が開けなかったのです。それで、どうしようということになって、大阪までは行かれたものですから、大阪に行って日曜日の礼拝をやりましょうということになって、日曜日に集会を開いたのです。
震災からほんの数日しか経っていなくて、道路も全部封鎖されていて、もちろん電車も全部止まっていますから、いったいこのような時に神戸のどなたが来るのかなと思ったのですけれど、ものすごいたくさんいらっしゃったのです。

西宮、あるいはもっと西のほうからでも、みなさん徒歩で、着の身着のままで、本当震災の直後の恰好のままで大勢の方が集まって、集会はいっぱいになってしまったのです。
本当に私はびっくりしまして、やっぱりこういう時にみなさん真剣に神様を求めていらっしゃるのだなぁと思って、本当に感動しました。実はその時に学ばせていただいたのが、今お読みいただいた個所なのです。
今日はそのヘブル人への手紙の12章の個所から、まず訓練の動機、訓練はいったいだれに対して行なわれるのか、訓練の対象、そして訓練の目的、そして訓練に対して私たちが取るべき態度、そして訓練の結果もたらされるものについて順番に学ばせていただきたいと思います。

まずは訓練の動機ですけれど、これは神様の愛によって訓練というのは与えられるのであるということが聖書からはっきり読み取れると思います。
ちょっと旧約聖書を開いてみようと思いますが、箴言の3章の12節。

箴言3:12
12父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。

こういう個所です。
主は愛する者をしかるとはっきりと書かれています。かわいがる者、愛する者、そういう者が訓練を受ける対象である。つまり訓練の動機は神様の愛であるということが、ここから読み取れるのではないかと思います。
もう一ヶ所、ちょっと後ろのほうになりますが、ヨハネの黙示録の3章の19節。

ヨハネの黙示録3:19
19わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

やっぱりここにも愛する者をしかると。主は神様の愛によって訓練というものがもたらされるものなのだということがはっきりと分かると思います。
次に、その訓練の対象ですが、当然今の個所から分かりますように、訓練を受ける者は神様に愛される者であります。すでに救われた者、クリスチャンも訓練の対象になると思うのです。
先ほどお読みいただいたヘブル人への手紙の12章の5節から8節に書かれています。

ヘブル人への手紙12:5-8
5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

神の子どもであるからこそ、訓練を与えられるのだと思います。
人間でも他人の子はなかなか叱ろうとしません。神様もご自身の子どもをしかるのである。つまり対象はクリスチャンであり、そして主に愛される者だということが分かると思います。
そして、12章の10節に訓練の目的がはっきりと書かれていると思います。

ヘブル人への手紙12:10
10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

ここに目的がはっきりと書かれています。私たちの益のため、そして、神様の聖さにあずからせるために、懲らしめるのだとここに訓練の目的が書かれています。
決して、何か私たちが悪いことをしたから、それに対して罰を与えるのだということは決して書かれていません。
訓練と罰というのは、明らかに異なるものであります。まことの主なる神様には、いわゆる私たちの考えで言う、因果応報という考えはありません。

私たち、この世の考えでは、何か悪いことをしたから刑罰が与えられる。
あるいは、この世の宗教は、何かあなたの行ないが悪かったから、あるいはあなたの先祖に問題があったから。そのようなこじ付けをして、何か原因を求めて、それに対して今これが起きているのだというふうに必ず教え込みます。
しかし、そういったことは、まことの神様に関しては決してありません。それは極めて人間的な考え方であります。

人間は、自分に災難が降りかかった時に、必ずその原因を求めようとします。
どうして自分は病気になったのか。あるいは、どうして自分の愛する家族がこのような病気になってしまったのか。どうして自分の仕事がこんなに上手くいかないのか。どうして自分の家庭は崩壊しているのか。
試練が起こった時に、必ず、どうしてだろうと。人間は必ず原因を求めるようになります。

ところが、主なる神様の仰ることには、あなたは何かこれこれこれをやったから、こうなったのだということは決して仰らないです。
つまり、一度救いにあずかった者が、永遠に滅びるような刑罰を受けるというようなことは、決して書かれていませんが、一時的に訓練を受けることはあります。
救われた者には永遠の御国が約束されていますが、その救われた私たちは、相変わらずやっぱり罪を犯す存在であります。

罪を犯してしまった時、人間は、つまりこの世の宗教は、それに応じて有罪判決を下します。そして、そのしたことに応じて刑罰を与えるというのが、この世の当然出てくる考え方であります。
しかし神様は、まことの神様は、私たちにすでに十字架によって無罪判決を言い渡してくださっておられるのです。
したがって、それに対する刑罰というのは、もはや存在しません。コロサイ人への手紙の2章の13節と14節をお読みしようと思います。

コロサイ人への手紙2:13-14
13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

私たちが負っている莫大な債務をイエス様が十字架の上で背負って、無効にしてくださった。債務証書を無効にして、すでにしてくださっているのです。
ですから私たちは、何かその過去に行なったことだとか、もちろん名前だとか、家の方角だとか、そんなことをこの世の宗教は必ず持ち出して来ますけれども、そういったこととは全く関係なく、罰を受けるということは、まことの神様から来るものとしてはありえないのであります。
ところが神様は私たちの罪に対して、神様は罰ではなくて訓練を与えられることはあります。そして、その訓練によってご自分の、神様ご自身の聖さにあずからせようとしておられるのだということを、先ほどのヘブル人への手紙の12章の10節は述べているのではないかと思うのです。

ちょっと旧約聖書の例えを一ヶ所開いてみようと思います。エレミヤ書の48章の11節になります。

エレミヤ書48:11
11モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。

こういう例えです。ここでは、試みを受けない、訓練を受けない者として、このモアブが例えとして取り上げられています。モアブは若い頃から安らかであって、何の試みも苦痛もありませんでした。その安易な生活がぶどう酒に例えられています。
ぶどう酒は作るときに、器から器へ移し替えられていく必要があって、そこに溜まったかすを、その都度取り除かなければならないそうです。
何度も器の沈殿物を除くために、移し替えられます。そして最終的に、かすの除かれた良いぶどう酒が出来上がるのであります。

モアブは、上澄みは、つまり、うわべは綺麗なぶどう酒でありましたけれども、底のほうには移し替えられないものですから、かすが溜まっていて、味は良くない、つまり、中身の良くないぶどう酒でありました。
器から器へ移し替えられない、つまり、試みを受けない者は、このようなものに例えられます。
もとの香り、つまり、持って生まれた性質は、器から器に移されるということによって、つまり、訓練を受けるということによって、かすは除かれて、すばらしい香りに、つまり、キリストの香り、キリストの性質、聖さへと変えられ、それにあずかる者に変えられていくのではないでしょうか。

次に、私たちの訓練に対して取るべき態度についてですが、主がご自分の聖さにあずからせようとしておられます。
先ほどのヘブル人への手紙の12章にも、その取るべき態度が示されていると思います。もう一度ヘブル人への手紙の12章に戻りますが、

ヘブル人への手紙12:9
9私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

と。服従するべき、主のなさることに従うべきということが、一つここに書かれています。そしてもう一つ、少し前になりますが、

ヘブル人への手紙12:5
5主の懲らしめを軽んじてはならない。

と書かれています。軽んじてはいけません。そして、同じ5節の最後の行に、弱り果ててはなりませんと書かれています。
つまり、訓練を受けた時に、それに、主のなさることに従いなさい。そして、受けた訓練を軽んじてはいけません。そして、受けた訓練に対して、弱り果ててはいけませんと書かれています。なぜなら、必ず主なる神様は訓練とともに救い出してくださる方でありますから。
コリント人への手紙第Iの10章の13節。有名な個所ですが、

コリント人への手紙第I、10:13
13あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

主は必ず、救い出す道も備えていてくださると約束されています。そして、訓練に会った者を必ず、包み癒してくださいます。
旧約聖書のヨブ記の5章の17節、ここにも、

ヨブ記5:17
17神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。

と、ここにも、軽んじてはいけませんと書かれています。そして18節に、

ヨブ記5:18
18神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。

と、ここに書かれています。
これも有名なみことばですが、詩篇の23篇の4節。

詩篇23:4
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

むちとともに、杖も必ず主がいっしょに備えていてくださいます。
訓練とは、それ自体は苦しみであり、悲しみであり、痛みそのものであります。日々の生活で、他人からの批判ですとか、肉体の苦痛、心の悩み、物質的な不足、こういったことを経験します。しかし、それらひとつひとつが主からの、主なる神様からのものであるということを知れば、それらに対する態度もおのずと変わってきます。
つぶやきや苛立ちは無くなってくるのではないかと思うのです。なぜなら、訓練の結果もたらされるものは次のようなものだからであります。またヘブル人への手紙の12章に戻ります。

ヘブル人への手紙12:11
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

と書かれています。
結果として、もたらされるものとして、平安な義の実を結ばせますと書かれています。
もう一ヶ所お読みしたいと思います。その少しあとのヤコブの手紙の1章の12節。

ヤコブの手紙1:12
12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

試練ののちにもたらされるものとして、いのちの冠というみことばが出てきました。そしてもう一つ、訓練の結果もたらされるものとして、他のまだ救われていらっしゃらない方の歩める道を作るということがあると思います。
先ほどのヘブル人への手紙12章の12節からお読みしようと思います。

ヘブル人への手紙12:12-13
12ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
13また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。

歩けない人、つまり、まだ主を知らない人は、私たちが道をまっすぐに整えることによって、共に歩けるようになります。
試みによって聖さにあずかる者となり、そして、主の栄光がもたらされれば、他の人も、ほかの人も共にまっすぐな道、信仰の道を歩くことができるようになる。そういうことをここでは言っているのではないかなと思いました。
ちょっと使徒の働きの3章の1節から8節をお読みしたいと思います。

使徒の働き3:1-8
1ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
4ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
5男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
6すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
7彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

この足なえはここでいやされました。そしてともに、ペテロとヨハネといっしょに主を賛美する者に変えられたのであります。
これもまた訓練の結果もたらされるものにひとつなのではないでしょうか。
私たちの周りに主を知らない方は大勢いらっしゃいます。その人々が私たちを通して、主によって回復され、ともに歩み、ともに宮にはいって行くことができるようになれば、本当に幸いだと思います。

もう一度まとめますが、訓練は神様の愛から来るものであって、その対象は、主に愛される者である。
そしてその目的は、神様の聖さにあずからせるためであって、決して罰を与えるためではないこと。
そして取るべき態度としては、主に従い、軽んじることなく、そして、弱り果てることなく、訓練に対して私たちの取るべき態度としては、そういったことが挙げられ、訓練の結果は、平安がもたらされ、いのちの冠がもたらされ、そして、ともに歩む者を増し加えていただくことができる。そういったことになるのではないかと思います。

では最後にもう一ヶ所だけ旧約聖書からお読みして終わりにしたいと思います。エレミヤの哀歌の3章の25節から飛び飛びにお読みしようと思います。

哀歌3:25-28
25主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
26主の救いを黙って待つのは良い。
27人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
28それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。

哀歌3:31-33
31主は、いつまでも見放してはおられない。
32たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
33主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。

哀歌3:38-40
38わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。
39生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。
40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

以上です。ありがとうございました。




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