主に捧げるということ


辻兄

(吉祥寺福音集会メッセージ、2002/04/14)

引用聖句:マルコの福音書14章3節-9節
3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
6すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
7貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

兄弟は今、結婚なさって半年間、多くの方をお家にご招待されたというふうにおっしゃっていて、本当に素晴らしいなと思うんです。やっぱり、結婚するっていうのは、そういう意味もあるんだと思いますが、私は実は結婚してちょうど10年なんです。
本当にこの10年間、自分の家庭を主のために、主を知らない方たちのために開放して用いられてきたかというと、決してそんなことはなくて、やっぱりもう、それこそ子育てに追われてきた10年だったように思います。

で、実はつい先日、おとといなんですけど、引っ越したんです。今度、わりと広いところが与えられて、やっぱり主のために与えられた家なんじゃないかというふうに、家内とも話しております。本当に捧げていければ…というふうに思っています。
本当でしたら、まず家の片付けに今日も追われてる最中で、もし今日、こういうことでなければ、きっと来なかったんじゃないかなと思いますけども、そんなときにこんなふうに、お当番が与えられて、共に集って主の聖日を、こういうあわただしい中でも守ることができて、それもまた感謝だなというふうに思っています。

今日は、只今お読みいただいた箇所から、このイエス様に香油を塗った女性、マリヤという女性なんですが、この女性について、ご一緒に学んでみようと思います。
この箇所は、ほかの3つの福音書にも出てきますし、そういう箇所より、この女性は「ベタニヤのマリヤ」と呼ばれる人であることがわかります。マタイの福音書では26章、ルカの福音書では7章、ヨハネの福音書では12章に、それぞれ述べられています。

で、イエス様はこのマルコの福音書14章の9節で、

マルコの福音書14:9
9福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。

というふうに言われました。イエス様ご自身が、この一人の、個人の、信者や弟子に、こういう祝福の言葉をおっしゃったっていう箇所は、そんなに多くない。珍しく、あんまりほかにない表現じゃないかなというふうに思います。

この「油を注いだ」というマリヤの行ないについて、ここから2つの見方があり、それがこの箇所では、よく現わされてると思うんです。
1つは、私たち人間の見方。もう1つは、主なるイエス様の見方です。この2つの見方を順番にちょっと考えてみようと思います。
まず1つ目は、私たち人間のこの行ないに対する見方であります。これは、さらに2つに分けられると思うんです。
1つはこの世の、イエス様を知らない人たちの見方。もう1つはすでに、主を信じてる人の見方であります。

1つ目として、この世の見方をちょっと見てみようと思います。
ヨハネの福音書の12章の4節から6節。同じそのマリヤが、香油を塗った後のところですけれども、

ヨハネの福音書12:4-6
4ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
5「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。

こういう箇所です。ユダという人物は、最終的に主を裏切った者であり、言わばこの世の主を知らない人たちの見方と言ってもいいんじゃないかと思うんです。
この箇所からわかりますように、この世は、このマリヤの行ないを、「無駄である。もったいない。」というふうに言いました。

私たちは、みんなこの世で生きていく上で、どうしても、ぶつかる問題というのがあると思うんです。
この世の人々は、人生を自分自身の人生なんだから無駄にしないように、若いときは、「もっと頑張って、勉強しなさい。」「もっといい点を採りなさい。」と私たちは言われ続けます。
社会に出たら、「もっと働きなさい。」「もっと会社のために尽くしなさい。」「もっと世間の人々のために尽くしなさい。そして名を成して、成功しなさい。そして、自己実現しなさい。」というふうに、この世の社会から、言われ続けます。

集会に行くということ。そして祈りの時を持つということ。また奉仕をするということ。そういうことは、主を知らないこの世の人たちから見れば、全くそれは時間やお金の無駄としか、映らないと思うんです。
もしクリスチャンでなかったならば、自分の才能をフルに発揮して、きっともっとこの世で名を成して、成功したであろうというクリスチャンの方々は、過去にも現在にも多くおられると思うんです。

主に捧げることで、この世の栄誉を捨てて生きるクリスチャンは、多いと思うんです。
この世のための働きをすれば、私たちは当然誉められますし、報酬を受けますし、この世での地位が少しずつ、上がっていきます。
この世で常にこのような教育を小さい頃から受け続けて、そして、今もなお毎日そのような考え方や生き方を見聞きし続けると、そちらの方が価値があるように思いこんでしまいがちだと思うんです。そして、この世のことに没頭してしまいがちなのではないでしょうか。

それでは、最終的にこの世で成功するということは、どんな意味があるのか。つまり、自分のために生きた結果はどのようなものかということについて、この世の栄華をきわめたソロモンという王は、伝道者の書の中で、次のように語っています。伝道者の書からいくつかお読みしたいと思います。

伝道者の書1:12-14
12伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
13私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。
14私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

とびまして、17節。

伝道者の書1:17-18
17私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
18実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。

2章の1節

伝道者の書2:1
1私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。

とびまして10節。

伝道者の書2:10-11
10私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
11しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。

22節から。

伝道者の書2:22-25
22実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
23その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。
24人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。
25実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

「知恵」について、そして「快楽」についてであります。同じ伝道者の書の4章4節。

伝道者の書4:4
4私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。

8節。

伝道者の書4:8
8ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。

伝道者の書5:15-16
15母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。
16これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。

伝道者の書6:3
3もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。

伝道者の書6:7-8
7人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。
8知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。

とびまして、9章3節

伝道者の書9:3
3同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

今度は12章の1節。

伝道者の書12:1
1あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。

12節13節。

伝道者の書12:12-13
12わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。
13結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

ソロモンは、伝道者の書でこのように述べています。
ソロモンという人は、もうこの世のあらゆるもの、知恵や富、名誉などを手に入れた後に、これらの言葉を残しました。
神を抜きにして、この世の働きをすれば、結局虚しく終わるということであり、それこそむしろ人生における大きな無駄であるということを、聖書を通して、ソロモンを通して、主なる神さまは、言ってるんではないでしょうか。

さて次に、私たち人間のうちでも、主を信じてる人々の見方について見てみたいと思います。今度は、新約のマタイの福音書の26章8節9節。

マタイの福音書26:8-9
8弟子たちはこれを見て憤慨して言った。
9「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」

あの同じ香油を塗った箇所ですけども、これは、弟子たちが言った言葉であります。
つまり、すでに主に従っていた弟子たちも、ユダと同じように言いました。「油を売って、貧しい人々に施しをするべきだ」と言ったのであります。

最小の労力で、最大の効果をあげる。効果的に用いられるということは、クリスチャンとして、悪くないことのように思えます。
「どうして自分は…、あるいはあの人は、もっと用いられないのか、もったいない。」、「時間が無駄になってしまう。もっと用いられたい。」、「もっと具体的な形で奉仕をしたい。」という思いは、悪くないように思えるんです。しかし、イエス様はそれを否定されました。

イエス様は、主のために具体的な奉仕を多くするということ、あるいは、何かよい行ないをするということは、実はあんまり重要じゃないんだよというふうにおっしゃるんです。
もっと大切なことは、この「主に油を注ぐ」ということであるということが、この場面によりはっきりとわかります。そして、これは決して無駄ではないんだというふうに、イエス様は言われました。

では、イエス様の喜ばれることとは、つまりイエス様に油を注ぐということとは、具体的にいったいどういうことをさすんでしょうか。

さて次に、主なる神さまの、イエス様から見た、この行ないの見方であります。
イエス様に油を注ぐということ、これはすなわちイエス様にすべてを捧げるということであります。さきほどのマルコの福音書14章9節で、主は「油を注ぐことは、福音そのものであるというふうに14章の9節で、はっきりとおっしゃっています。

では、「福音」というものは、そもそも何かということについて、ちょっと立ち返って考えてみます。「福音」というのは私たちの側から見れば、「罪人の救い」ということになります。
私たち罪人は十字架の御わざによって、罪を赦されて、そして新しいいのちをいただいて、私たちは満足し、感謝します。私たちは罪人が、主からいったい何をいただけるのかということに、目が行きがちだと思うんです。

しかし、主ご自身は、じゃいったい何をご目的として、私たちに救いを与えてくださったんだろうかということも、やっぱり考えてみる必要があると思うんです。
神さまは、罪人である私たちの、すべての必要を満たしてくださいますし、祝福を溢れんばかりに注いでくださいます。
そのことは、私たちの側にとってはとても大切なことなんですけれども、もっと大切なことは、本当は主が満足し、主ご自身が喜ばれるということだと思うんです。
聖歌の157番をちょっとお読みしたいと思います。フランス・ハダガルという方を通して書かれた、主への賛美ですけども、ちょっとお読みしたいと思います。

我いのちを汝れに与え、
血に汝が身を聖く成して、
地とよみの手より、汝れを解きぬ。
如何なるもの持て、汝れ応えし。

我は父の神のもとを去りて
暗き地に下れり。
栄えも位もわれ捨てたり。
何ものを捨てて汝れ応えし。

汝が罪ゆえ、我は打たれ、
汝が不義ゆえ、我砕かる。
十字架の悩みは汝が為なり。
如何なること持て、汝れ応えし。

全き救い。愛と赦し。
我は買いて、汝がものとす。
この良き賜物受けし汝れは、
如何なる応えを我に成すや。

こういう聖歌の詞であります。

では、主なる神さまは私たちに、何をまず第一に求めておられ、いったいどうしたら、満足されるんでしょうか。マタイの福音書の22章36節から38節。

マタイの福音書22:36-38
36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
37そこで、イエスは彼に言われた。
38「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。

主はこのように、主を愛することが、まず第一であるというふうにはっきりとここでおっしゃっています。で、もう1ヵ所ヨハネの福音書の4章23節。

ヨハネの福音書4:23
23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

この父なる神さまは、礼拝者を求めておられると私たちにしておられる要求がここでわかると思うんです。
つまり主なる神さまをまず愛し、そして主にささげ、そして主にひれ伏し、礼拝する。これこそ主がまず第一に、私たちに求めておられることなのだと思うのです。
ピリピ人への手紙の2章6節からちょっとお読みしたいと思います。

ピリピ人への手紙2:6-11
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

このように、主が十字架にかかられたのは、つまりその目的は、すべてのものが主を誉め称えるようになるためであるというふうに、この箇所から読み取れると思うんです。

天国では、救われた者たちは主を賛美し、主にひれ伏し礼拝をしています。
ちょっとヨハネの黙示録を開いてみようと思いますが、ヨハネの黙示録の4章の10節から。

ヨハネの黙示録4:10-11
10二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
11「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

冠を投げ出し、つまり、自分の1番大切なものを御前に投げ出して、主の前にひれ伏し礼拝する。こういう場面がヨハネの黙示録、つまり天国の場面の中で次々と出てきます。
これこそ、主なる神さまが第一に私たちに求めておられることなのだと思うんです。

主が満足されて、はじめて私たち罪人も満足すべきです。主に満足していただいて、はじめて私たちにも本当の満足、本当の喜びがあるはずです。自分だけの満足は、それこそ自己満足にすぎなくなってしまうのではないのでしょうか。
そして大切なことは、私たちが主に対して、自分自身を無駄にしなければ、主は満足なさらないということであります。主に捧げすぎたということは、決してあり得ないのであります。
すべてはそもそも、主なる神さまからいただいたものです。それに対し、自分自身の力でちょっとばかり主にお返しするということはできないんです。主に捧げ、仕えることによって、はじめて主のための奉仕は成り立ち、そして用いられるようになるんだなぁというふうに思います。

ちょっとマルコの福音書の14章に戻りたいと思います。

マルコの福音書14:6-8
6すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
7貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

イエス様こうおっしゃったんです。この時にしか、今しかできないことを、その時にしかできないことを、マリヤはしたのであります。
埋葬のため、前もって彼女は油を塗ったんであります。イエス様はこの出来事の後、まもなくユダに裏切られ、十字架に架けられてそして、埋葬をされました。
そして埋葬をされた後に、その体に油を塗りたいと思った人がいたんですけれども、それはできなかったんです。マルコの福音書16章の1節から8節。

マルコの福音書16:1-8
1さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
3彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
5それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
7ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

こういう箇所です。
イエス様が実際によみがえられて、私たちが主にまみえ、そしてすべての栄光を見ることができるようになれば、私たちはきっとすべてを主にささげるでしょう。
しかし、今この時代は、主のよみがえりの前、再臨の前、つまりすべての栄光が現わされる前の今の時代に、つまり完全には主の栄光を見ることができない今の時代に、私たちはこのベタニヤのマリヤのように、すべてを主に捧げるということは、実際にできるんでしょうか。

このマグダラのマリヤたちも、油を塗りたいと思いましたけども、すでに時はすぎ、遅すぎてできなかったんです。油を塗ることができるうちにしたのは、ベタニヤのマリヤただ一人でありました。
今、現在、私たちが主に対してどのような態度を持っているかということが、大切なんだと思うんです。ヨハネの福音書4章23節で、

ヨハネの福音書4:23
23今がその時です。父は礼拝者を求めておられる。

というふうに出てきます。つまり、貧しい人のための施しも、救われていない人々のたましいのための働きも、とても大切なことだと思うんですけども、それよりも、主ご自身に対して捧げられることの方が、はるかに大切です。

主ご自身が、私たちにとってどれほどの価値があるのか、私たちはやっぱり忘れがちだと思うんです。
無駄にするな、とこう出てきますけども、無駄とするというのは、結局主の価値を低く見積もった時に出てくる、導き出されてくる考えだと思うんです。つまり油と主とどちらが大切なんだろうということです。
本当に価値のある方だと思えば、いくら捧げすぎても、捧げすぎるということはあり得ないと思うんです。

この今のうちに主に捧げることを、主は求めておられて、それは主の満足につながり、ひいては主を信じる者たちの満足、喜びにもつながると思うんです。
ヨハネの福音書の12章の3節、

ヨハネの福音書12:3
3非常に高価な純粋なナルドの香油300グラムをとって、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

主に捧げたことにより、その家の中は香油の香りでいっぱいになったというふうにあります。
心から主に捧げたとき、主を愛し、主にひれ伏し、主を真に礼拝するときに、その人からキリストの香りが発せられて、それは周りの人々にも伝わるんだと思うんです。

この主に油を塗ったときに、その家の中には、主を知る人も主を知らない人もいたと思うんです。その人たちすべてに、この香りはいっぱいに伝わったんだと思うんです。
具体的に何をするか、奉仕をするか献金を多くするのか、ということは問題ではなく、まず主を愛し、主に捧げ、主にひれ伏し、主を礼拝することによって、キリストの香りを放つということが大切なのだと思うんです。
そうすると自然と周りのたましいにも、福音がいくらでも伝えられていくはずなんではないでしょうか。

いくつかお読みして終わりたいと思います。まずヨハネの福音書の3章27節

ヨハネの福音書3:27
27ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。

とびまして、30節。

ヨハネの福音書3:30
30あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

続いてローマ人への手紙から。ローマ人への手紙の6章13節。

ローマ人への手紙6:13
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

とびまして、19節。

ローマ人への手紙6:19
19あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

同じローマ人への手紙の12章の1節2節。

ローマ人への手紙12:1-2
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

今度はコリント人への手紙からの箇所からお読みいたします。コリント人への手紙第Iの4章7節。

コリント人への手紙第I、4:7
7いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

コリント人への手紙第I、8:6
6私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

今度はコリント人への手紙第IIの2章14節。

コリント人への手紙第II、2:14-15
14しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

コリント人への手紙第II、5:9
9そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

とびまして、14節15節。

コリント人への手紙第II、5:14-15
14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ヘブル人への手紙の12章の2節3節。

ヘブル人への手紙12:2-3
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

今度は詩篇からお読みしようと思います。詩篇から2ヵ所。

詩篇116:12
12主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

最後に詩篇の103篇から。103篇の1節から5節。

詩篇103:1-5
1わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
2わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
4あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
5あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

とびまして、15節から22節。

詩篇103:15-22
15人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
16風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
17しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
18主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。
19主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
20主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。
21主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。
22主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。

ありがとうございました。




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