引用聖句:マルコの福音書14章3節-9節
兄弟は今、結婚なさって半年間、多くの方をお家にご招待されたというふうにおっしゃっていて、本当に素晴らしいなと思うんです。やっぱり、結婚するっていうのは、そういう意味もあるんだと思いますが、私は実は結婚してちょうど10年なんです。 本当にこの10年間、自分の家庭を主のために、主を知らない方たちのために開放して用いられてきたかというと、決してそんなことはなくて、やっぱりもう、それこそ子育てに追われてきた10年だったように思います。 で、実はつい先日、おとといなんですけど、引っ越したんです。今度、わりと広いところが与えられて、やっぱり主のために与えられた家なんじゃないかというふうに、家内とも話しております。本当に捧げていければ…というふうに思っています。 本当でしたら、まず家の片付けに今日も追われてる最中で、もし今日、こういうことでなければ、きっと来なかったんじゃないかなと思いますけども、そんなときにこんなふうに、お当番が与えられて、共に集って主の聖日を、こういうあわただしい中でも守ることができて、それもまた感謝だなというふうに思っています。 今日は、只今お読みいただいた箇所から、このイエス様に香油を塗った女性、マリヤという女性なんですが、この女性について、ご一緒に学んでみようと思います。 この箇所は、ほかの3つの福音書にも出てきますし、そういう箇所より、この女性は「ベタニヤのマリヤ」と呼ばれる人であることがわかります。マタイの福音書では26章、ルカの福音書では7章、ヨハネの福音書では12章に、それぞれ述べられています。 で、イエス様はこのマルコの福音書14章の9節で、 マルコの福音書14:9
というふうに言われました。イエス様ご自身が、この一人の、個人の、信者や弟子に、こういう祝福の言葉をおっしゃったっていう箇所は、そんなに多くない。珍しく、あんまりほかにない表現じゃないかなというふうに思います。 この「油を注いだ」というマリヤの行ないについて、ここから2つの見方があり、それがこの箇所では、よく現わされてると思うんです。 1つは、私たち人間の見方。もう1つは、主なるイエス様の見方です。この2つの見方を順番にちょっと考えてみようと思います。 まず1つ目は、私たち人間のこの行ないに対する見方であります。これは、さらに2つに分けられると思うんです。 1つはこの世の、イエス様を知らない人たちの見方。もう1つはすでに、主を信じてる人の見方であります。 1つ目として、この世の見方をちょっと見てみようと思います。 ヨハネの福音書の12章の4節から6節。同じそのマリヤが、香油を塗った後のところですけれども、 ヨハネの福音書12:4-6
こういう箇所です。ユダという人物は、最終的に主を裏切った者であり、言わばこの世の主を知らない人たちの見方と言ってもいいんじゃないかと思うんです。 この箇所からわかりますように、この世は、このマリヤの行ないを、「無駄である。もったいない。」というふうに言いました。 私たちは、みんなこの世で生きていく上で、どうしても、ぶつかる問題というのがあると思うんです。 この世の人々は、人生を自分自身の人生なんだから無駄にしないように、若いときは、「もっと頑張って、勉強しなさい。」「もっといい点を採りなさい。」と私たちは言われ続けます。 社会に出たら、「もっと働きなさい。」「もっと会社のために尽くしなさい。」「もっと世間の人々のために尽くしなさい。そして名を成して、成功しなさい。そして、自己実現しなさい。」というふうに、この世の社会から、言われ続けます。 集会に行くということ。そして祈りの時を持つということ。また奉仕をするということ。そういうことは、主を知らないこの世の人たちから見れば、全くそれは時間やお金の無駄としか、映らないと思うんです。 もしクリスチャンでなかったならば、自分の才能をフルに発揮して、きっともっとこの世で名を成して、成功したであろうというクリスチャンの方々は、過去にも現在にも多くおられると思うんです。 主に捧げることで、この世の栄誉を捨てて生きるクリスチャンは、多いと思うんです。 この世のための働きをすれば、私たちは当然誉められますし、報酬を受けますし、この世での地位が少しずつ、上がっていきます。 この世で常にこのような教育を小さい頃から受け続けて、そして、今もなお毎日そのような考え方や生き方を見聞きし続けると、そちらの方が価値があるように思いこんでしまいがちだと思うんです。そして、この世のことに没頭してしまいがちなのではないでしょうか。 それでは、最終的にこの世で成功するということは、どんな意味があるのか。つまり、自分のために生きた結果はどのようなものかということについて、この世の栄華をきわめたソロモンという王は、伝道者の書の中で、次のように語っています。伝道者の書からいくつかお読みしたいと思います。 伝道者の書1:12-14
とびまして、17節。 伝道者の書1:17-18
2章の1節 伝道者の書2:1
とびまして10節。 伝道者の書2:10-11
22節から。 伝道者の書2:22-25
「知恵」について、そして「快楽」についてであります。同じ伝道者の書の4章4節。 伝道者の書4:4
8節。 伝道者の書4:8
伝道者の書5:15-16
伝道者の書6:3
伝道者の書6:7-8
とびまして、9章3節 伝道者の書9:3
今度は12章の1節。 伝道者の書12:1
12節13節。 伝道者の書12:12-13
ソロモンは、伝道者の書でこのように述べています。 ソロモンという人は、もうこの世のあらゆるもの、知恵や富、名誉などを手に入れた後に、これらの言葉を残しました。 神を抜きにして、この世の働きをすれば、結局虚しく終わるということであり、それこそむしろ人生における大きな無駄であるということを、聖書を通して、ソロモンを通して、主なる神さまは、言ってるんではないでしょうか。 さて次に、私たち人間のうちでも、主を信じてる人々の見方について見てみたいと思います。今度は、新約のマタイの福音書の26章8節9節。 マタイの福音書26:8-9
あの同じ香油を塗った箇所ですけども、これは、弟子たちが言った言葉であります。 つまり、すでに主に従っていた弟子たちも、ユダと同じように言いました。「油を売って、貧しい人々に施しをするべきだ」と言ったのであります。 最小の労力で、最大の効果をあげる。効果的に用いられるということは、クリスチャンとして、悪くないことのように思えます。 「どうして自分は…、あるいはあの人は、もっと用いられないのか、もったいない。」、「時間が無駄になってしまう。もっと用いられたい。」、「もっと具体的な形で奉仕をしたい。」という思いは、悪くないように思えるんです。しかし、イエス様はそれを否定されました。 イエス様は、主のために具体的な奉仕を多くするということ、あるいは、何かよい行ないをするということは、実はあんまり重要じゃないんだよというふうにおっしゃるんです。 もっと大切なことは、この「主に油を注ぐ」ということであるということが、この場面によりはっきりとわかります。そして、これは決して無駄ではないんだというふうに、イエス様は言われました。 では、イエス様の喜ばれることとは、つまりイエス様に油を注ぐということとは、具体的にいったいどういうことをさすんでしょうか。 さて次に、主なる神さまの、イエス様から見た、この行ないの見方であります。 イエス様に油を注ぐということ、これはすなわちイエス様にすべてを捧げるということであります。さきほどのマルコの福音書14章9節で、主は「油を注ぐことは、福音そのものであるというふうに14章の9節で、はっきりとおっしゃっています。 では、「福音」というものは、そもそも何かということについて、ちょっと立ち返って考えてみます。「福音」というのは私たちの側から見れば、「罪人の救い」ということになります。 私たち罪人は十字架の御わざによって、罪を赦されて、そして新しいいのちをいただいて、私たちは満足し、感謝します。私たちは罪人が、主からいったい何をいただけるのかということに、目が行きがちだと思うんです。 しかし、主ご自身は、じゃいったい何をご目的として、私たちに救いを与えてくださったんだろうかということも、やっぱり考えてみる必要があると思うんです。 神さまは、罪人である私たちの、すべての必要を満たしてくださいますし、祝福を溢れんばかりに注いでくださいます。 そのことは、私たちの側にとってはとても大切なことなんですけれども、もっと大切なことは、本当は主が満足し、主ご自身が喜ばれるということだと思うんです。 聖歌の157番をちょっとお読みしたいと思います。フランス・ハダガルという方を通して書かれた、主への賛美ですけども、ちょっとお読みしたいと思います。 我いのちを汝れに与え、 血に汝が身を聖く成して、 地とよみの手より、汝れを解きぬ。 如何なるもの持て、汝れ応えし。 我は父の神のもとを去りて 暗き地に下れり。 栄えも位もわれ捨てたり。 何ものを捨てて汝れ応えし。 汝が罪ゆえ、我は打たれ、 汝が不義ゆえ、我砕かる。 十字架の悩みは汝が為なり。 如何なること持て、汝れ応えし。 全き救い。愛と赦し。 我は買いて、汝がものとす。 この良き賜物受けし汝れは、 如何なる応えを我に成すや。 こういう聖歌の詞であります。 では、主なる神さまは私たちに、何をまず第一に求めておられ、いったいどうしたら、満足されるんでしょうか。マタイの福音書の22章36節から38節。 マタイの福音書22:36-38
主はこのように、主を愛することが、まず第一であるというふうにはっきりとここでおっしゃっています。で、もう1ヵ所ヨハネの福音書の4章23節。 ヨハネの福音書4:23
この父なる神さまは、礼拝者を求めておられると私たちにしておられる要求がここでわかると思うんです。 つまり主なる神さまをまず愛し、そして主にささげ、そして主にひれ伏し、礼拝する。これこそ主がまず第一に、私たちに求めておられることなのだと思うのです。 ピリピ人への手紙の2章6節からちょっとお読みしたいと思います。 ピリピ人への手紙2:6-11
このように、主が十字架にかかられたのは、つまりその目的は、すべてのものが主を誉め称えるようになるためであるというふうに、この箇所から読み取れると思うんです。 天国では、救われた者たちは主を賛美し、主にひれ伏し礼拝をしています。 ちょっとヨハネの黙示録を開いてみようと思いますが、ヨハネの黙示録の4章の10節から。 ヨハネの黙示録4:10-11
冠を投げ出し、つまり、自分の1番大切なものを御前に投げ出して、主の前にひれ伏し礼拝する。こういう場面がヨハネの黙示録、つまり天国の場面の中で次々と出てきます。 これこそ、主なる神さまが第一に私たちに求めておられることなのだと思うんです。 主が満足されて、はじめて私たち罪人も満足すべきです。主に満足していただいて、はじめて私たちにも本当の満足、本当の喜びがあるはずです。自分だけの満足は、それこそ自己満足にすぎなくなってしまうのではないのでしょうか。 そして大切なことは、私たちが主に対して、自分自身を無駄にしなければ、主は満足なさらないということであります。主に捧げすぎたということは、決してあり得ないのであります。 すべてはそもそも、主なる神さまからいただいたものです。それに対し、自分自身の力でちょっとばかり主にお返しするということはできないんです。主に捧げ、仕えることによって、はじめて主のための奉仕は成り立ち、そして用いられるようになるんだなぁというふうに思います。 ちょっとマルコの福音書の14章に戻りたいと思います。 マルコの福音書14:6-8
イエス様こうおっしゃったんです。この時にしか、今しかできないことを、その時にしかできないことを、マリヤはしたのであります。 埋葬のため、前もって彼女は油を塗ったんであります。イエス様はこの出来事の後、まもなくユダに裏切られ、十字架に架けられてそして、埋葬をされました。 そして埋葬をされた後に、その体に油を塗りたいと思った人がいたんですけれども、それはできなかったんです。マルコの福音書16章の1節から8節。 マルコの福音書16:1-8
こういう箇所です。 イエス様が実際によみがえられて、私たちが主にまみえ、そしてすべての栄光を見ることができるようになれば、私たちはきっとすべてを主にささげるでしょう。 しかし、今この時代は、主のよみがえりの前、再臨の前、つまりすべての栄光が現わされる前の今の時代に、つまり完全には主の栄光を見ることができない今の時代に、私たちはこのベタニヤのマリヤのように、すべてを主に捧げるということは、実際にできるんでしょうか。 このマグダラのマリヤたちも、油を塗りたいと思いましたけども、すでに時はすぎ、遅すぎてできなかったんです。油を塗ることができるうちにしたのは、ベタニヤのマリヤただ一人でありました。 今、現在、私たちが主に対してどのような態度を持っているかということが、大切なんだと思うんです。ヨハネの福音書4章23節で、 ヨハネの福音書4:23
というふうに出てきます。つまり、貧しい人のための施しも、救われていない人々のたましいのための働きも、とても大切なことだと思うんですけども、それよりも、主ご自身に対して捧げられることの方が、はるかに大切です。 主ご自身が、私たちにとってどれほどの価値があるのか、私たちはやっぱり忘れがちだと思うんです。 無駄にするな、とこう出てきますけども、無駄とするというのは、結局主の価値を低く見積もった時に出てくる、導き出されてくる考えだと思うんです。つまり油と主とどちらが大切なんだろうということです。 本当に価値のある方だと思えば、いくら捧げすぎても、捧げすぎるということはあり得ないと思うんです。 この今のうちに主に捧げることを、主は求めておられて、それは主の満足につながり、ひいては主を信じる者たちの満足、喜びにもつながると思うんです。 ヨハネの福音書の12章の3節、 ヨハネの福音書12:3
主に捧げたことにより、その家の中は香油の香りでいっぱいになったというふうにあります。 心から主に捧げたとき、主を愛し、主にひれ伏し、主を真に礼拝するときに、その人からキリストの香りが発せられて、それは周りの人々にも伝わるんだと思うんです。 この主に油を塗ったときに、その家の中には、主を知る人も主を知らない人もいたと思うんです。その人たちすべてに、この香りはいっぱいに伝わったんだと思うんです。 具体的に何をするか、奉仕をするか献金を多くするのか、ということは問題ではなく、まず主を愛し、主に捧げ、主にひれ伏し、主を礼拝することによって、キリストの香りを放つということが大切なのだと思うんです。 そうすると自然と周りのたましいにも、福音がいくらでも伝えられていくはずなんではないでしょうか。 いくつかお読みして終わりたいと思います。まずヨハネの福音書の3章27節 ヨハネの福音書3:27
とびまして、30節。 ヨハネの福音書3:30
続いてローマ人への手紙から。ローマ人への手紙の6章13節。 ローマ人への手紙6:13
とびまして、19節。 ローマ人への手紙6:19
同じローマ人への手紙の12章の1節2節。 ローマ人への手紙12:1-2
今度はコリント人への手紙からの箇所からお読みいたします。コリント人への手紙第Iの4章7節。 コリント人への手紙第I、4:7
コリント人への手紙第I、8:6
今度はコリント人への手紙第IIの2章14節。 コリント人への手紙第II、2:14-15
コリント人への手紙第II、5:9
とびまして、14節15節。 コリント人への手紙第II、5:14-15
ヘブル人への手紙の12章の2節3節。 ヘブル人への手紙12:2-3
今度は詩篇からお読みしようと思います。詩篇から2ヵ所。 詩篇116:12
最後に詩篇の103篇から。103篇の1節から5節。 詩篇103:1-5
とびまして、15節から22節。 詩篇103:15-22
ありがとうございました。 |