祝福と礼拝


田中順治兄

(西神福音集会、1998/09/06)

今、司会の兄弟も仰ってたんですけども、この道に長くなると、礼拝がきわめて習慣的になってきちゃう恐れがあるんじゃないでしょうか。

それで昨夜は、礼拝はそもそも、救われた自分がこんな者でも救ってくださったその喜びを感謝する、そして天地万物、宇宙を造って、地球を造って、ありとあらゆるものを、この創世記の冒頭のところにあるとおり、もう色んなもの全部造っちゃって、そして最後に、こんな僕という人間を造ってくださった。そして今も生きておられて、働いておられる、そういう全能の神、万能の神、そしてそのひとり子であるイエス様に、「本当にありがとございます。」という感謝をささげるのが、本来の礼拝ではないか。

で、そこにいつも戻って、喜びの祈りをささげるべきではないでしょうかと、そういうことを聖書は言ってるんじゃないでしょうかってことをご一緒に学んでみました。
そして今日は、その続きみたいな感じなんですけども、礼拝は、私たち救われた者が、私たちを造ってくださった神さまにささげる喜びの、祈りの場所である。私たちがささげるもの。それが礼拝です。
それじゃ、神さまが僕に、イエス様が私たちに何をしてくださっているか。

私たちがささげるものは礼拝である。で、逆に、神さまが私たちに与えてくださっているものは何か。それは色んな言い方があると思います。それは愛ですとか、罪の赦しだとか、色んな言い方ができると思いますけども、一つのアプローチとしては、主が私たちに与えてくださってるのは、祝福ではないか。そういうふうに考えてみてもいいと思うんです。
ですから、神さまが私たちに与えてくださるのは祝福。それに応えるものが礼拝。そういう相関関係があるんではないかと思うわけです。

で、今日は、その主が私たちにくださっている祝福と、それから、私たちが主にささげる礼拝。そういったセットで、時間までお話できればと思っています。
それで、創世記の冒頭のところですけども、先ほど申し上げましたとおり、

創世記1:1
1初めに、神が天と地を創造した。

と書いております。
そして天と地を造られたあとに、神さま、色んなものを造りました。すごく忙しかったに違いないと思うんですけれども、まず何を造ったかというと、光でした。

創世記1:3
3そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

とあります。そして、神さまは、造りっぱなしじゃなくて、その造った光をちゃんとできたかどうか、検査されてるんですね。

創世記1:4
4神はその光をよしと見られた。

とあります。で、これ、光だけじゃなくて、もうみなさまご存知のとおりなんですけども、色んなもの造る度に、神さまはそれをチェックされて、それをよしとされてる。それがすべての、その創造のみわざについて書かれています。
ちょっと見てみますか。まず、

創世記1:9-10
9神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
10神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。

と書いてあります。それから、その11節からは、そこに書かれてるとおり、植物・・・を、色んなものを造りました。

創世記1:12
12それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。

で、造っただけじゃなくて、ちゃんとフォローがあります。

創世記1:12
12神は見て、それをよしとされた。

とあります。で、それから今度は、また目を転じて、また大きなものを神さま造りました。天体ですね。

創世記1:16-18
16それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
17神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
18また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。

そしてそのあとにもう一度、

創世記1:18
18神は見て、それをよしとされた。

とあります。その次の日に神さまは、動物を造られました。動物というか、魚と鳥でしたか、ここは。

創世記1:21
21それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

ここでもよしとされてます。それから、次の日には、動物をお造りになりました。

創世記1:25
25神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

とあります。そして六日目に人間を造ったことが書かれています。

創世記1:27-28
27神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
28神はまた、彼らを

今度は

創世記1:28
28祝福し、

ってここに書いてあります。祝福という言葉、その同じページの一行目、22節の1行目に、その、魚とか鳥とかを造られたときにですね、

創世記1:22
22神はまた、それらを祝福して仰せられた。

とあります。
ですから、ご自身が、神さまが創造のみわざをなさったときに、自分で造って、そしてその造ったものを見てそれをよしとされた。すなわち、工場で言えば、出来上がった製品に合格のスタンプを押すようなもんですね。
検収とか、検査とか、そういう工程があると思うんですけども、造ったものをご覧になって、それに合格品、もうこれは良くできたって、合格のハンコを押されてるわけです。

で、人間の、私たちを造ってくださったときにも同じことでした。彼らを祝福された。これは、よしとされたということとたぶん、かなり同じ意味のことを言っているのではないかと思います。
ここまでの天地創造の場面を一言で言えば、神さまが、主が、ご自身の計画にしたがって、すべてのものを、私たち人間を含めて、すべてのものをお造りになって、その造ったものをよしとされた。合格品だというふうに認定をされていることが分かります。

とくに人間については、次の2章のところにまた別の角度から、人間を最初に造られたときの様子が書かれています。

創世記2:7
7その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

というふうに書かれています。いのちの息を吹き込まれた。それが人間とそのほかの生物、動物とか植物を分ける大きな・・・何て言うんでしょうか・・・その決め手というか、人間は神さまによって造られたことは変わりないんですけども、私たちにいのちの息を吹き込まれた。
それが人間が人間であることの意味合い、大きな意味だと思います。で、1章の28節のところには、神はまた、人間を祝福したという言葉があります。
それから祝福という言葉が出てきますが、その最初に読んでいただきました2章の3節、神はその第七日目を祝福したと書かれています。

それからちょっとあとの12章のところに、アブラハムの話が出てきますけども、

創世記12:1
1その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

で、そのあとにですね、「祝福」という言葉が何回も出てきます。

創世記12:2-3
2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

この短い数節、二、三節の間に、祝福という言葉が五回も六回も出てきます。
祝福という言葉のその・・・人口密度っていう意味では、すごく祝福の密度が高い聖句であるわけです。

それで、この祝福という言葉なんですけれども、何年か前に祝福という言葉をテーマに学ばさせていただいたことがあるんですけれども、そのときに、祝福という言葉は、この集会に集うようになって、イエス様のことを信じるようになって、よく耳にするようになりました。
何かっちゅうと、祝福、祝福ってことを日常的にクリスチャンの交わりの中では使っています。

でも、世の中に出たときにはあまり使いません。会社で会議かなんかあって、仕事がうまくいって、大きな仕事が思いがけず取れた。「これは祝福ですね!」ってあんまり言わないですね。そういうことは言わない。
で、子どもが学校の試験を受けて、いい成績、いつもビリだったのが、今度はすごくいい点が取れた。「これは祝福ですね!」ともたぶんあんまり言わない。人間同士の間ではきっとあんまり使われないと思ったんですね。

で、祝福というのは言葉は知ってます、昔から。救われる前から知ってたんですけども、じゃあ、どういうときに祝福という言葉が使われるのかって、考えてみたんですが、ひとつは、結婚式のときに、司会の人が、こんな所に立って、「それでは、新郎新婦の本日の結婚式をお祝いして、じゃあ、お客さまの中から祝福の言葉を頂戴します。」、そういうときにはあんまり違和感は覚えないんですね。
お祝いの言葉、というような意味で祝福という言葉使います。でもあんまり、その祝福って、それじゃあどういう意味かって、その司会者に聞いたら、あんまりよく分からないかもしれません。単なるお祝いと同じ意味で使ってるように思います。

それから、もうひとつ典型的なのは、その祝福っぽいなと思うのは、祝福という言葉が、ぴったりするかと思える情景は、ローマ法王なんですね。こういう高いビルの上のほうに、バルコニーかなんかあって、たくさんのカトリックの信者たちが、何万人も前の広場埋めて、それを見下ろして、上から手を振って、何か、神の祝福を与えてるっていうか、ローマ法王自身が、一人一人の方に、こう、祝福をたれてるというか、よく分かりませんけども。ああいう場面が、祝福という言葉で、思い浮かぶ場面なんですね。

でも、それはそれとして、その祝福という言葉は一体どういうことを意味しているのかって、自分に問いかけてみたら、あんまりはっきり分からなかったんです。
それで、聖書事典っていうのがありまして、祝福という言葉を引いてみたんですね。そしたら、いくつか意味があったんです。
こう、神・・・何でしょうかねえ・・・そのお祝いに類するような、神さまの恵みがあるように祈ることとか、そういうのも祝福っていうことが、書いてありました。

そのほかにもいくつかあったんですけども、あっ!なるほどと思ったのがひとつありました。それは、祝福という言葉の、ラテン語かヘブル語かギリシャ語かよく分かりませんけども、祝福という言葉のそもそもの、さらにさかのぼった言葉。祝福という言葉が出てきた元々の言葉は、旧約聖書によく出て来るんですけど、セイベツという言葉があります。
聖く別つという熟語があるんですけども、聖別という言葉とすごく密接な関係があるということが書いてありました。で、なるほどと思ったんですけど、また、聖別という意味がよく分からなくて、もう一回聖別という言葉を引いてみたら、それは人間や物、何でもいいんですけど、神さまが造られたそういう作品、そのものを、あるところで・・・こういうたくさんの人でも何でもいいんですけど、たくさんの人がいた場合に、ここでどっかで線を引いて、ここからこっちはわたしのものだよっていうふうに神さまがなさること。それが聖別だっていうふうに書いてありました。

神さまに属するものと、そうでないものとに二つに分けること、それが聖別だっていうふうに書いてありました。
ですから元々、その祝福という言葉と、その聖別ということと関係あるんだとすれば、祝福するということは、これはわたしのものだよって神さまが仰っていること。そういうふうに考えると、何かこの祝福という言葉がすごく、具体的なイメージをもって、私たちに迫って来るように思います。
ですから元々、その祝福ということをする主体は、神さまなんですね。人間が祝福するっていうと、おかしな、ちょっと変なことになってしまうと思います。

そういうふうに考えると、聖書に書かれているまことの神は、祝福の神というふうに言ってもいいと思います。代表的な、僕の一番好きなみことばのひとつなんですけども、イザヤ書の43章。みなさまも覚えてらっしゃるみことばだと思いますけれども、

イザヤ書43:1
1だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。

天地万物。その創世記の冒頭に書かれていた。すべてを造り出した。

イザヤ書43:1
1主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

で、どういうふうに仰られたかと言うと、

イザヤ書43:1
1「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

で、その次に、

イザヤ書43:1
1わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

って書いてあります。
あなたはわたしのものっていうのは、先ほど申し上げた聖別、お前は俺のもんだって、神さまが仰ってるということは、主が祝福されたっていうふうに言っていいと思うんですね。私たちは、創世記の冒頭に書いてあったとおり、主なる神、造り主である神によっていのちの息を吹き込まれて、そしてよしとされて祝福された。すなわち、もう最初から神さまの目から見て、合格品として、ぼくら造られていたっていうことがわかります。

それから、その、よしとされた、あるいはよしと言ったということなんですけども、これはあんまり僕は専門家じゃないから、もしかすると違ってるかもしれないんですけども、僕はイタリアでノイローゼになりまして、そのときに、ノイローゼの副産物としてイタリア語の聖書を買って、日本に帰って来たんですね。
で、その聖書の、その創世記の冒頭のあたりを見てみたら、よしとされるっていうのが、イタリア語で恐縮ですけども、ベン・ディスィールという動詞があるんですね。ベンというのは、英語でいうとgood。良いということなんですね。wellとかgoodとか。ディスィールというのは、言う。英語だとsayですね。
ベン・ディスィールという言葉が書かれてるんですけども、それは、良しと言ったと、そのとおりなんですけども、ベン・ディスィールという言葉が一つになって、イタリア語ではそれが「祝福」という意味なんですね。

何かを祝福するっていうときに、ベン・ディスィールという動詞を使います。その過去分詞のベンディッドっていうのがあるんですけども、それは「祝福された」っていう意味があるんです。
だから、その創世記の一番最初の色んなもの、たくさんのもの、神さま造ってそれをよしとされたっていうことは、ほぼ、nearly、イコール、祝福されたっていうふうに、とっていいかなという気がしてるんです。

これは全然、素人の、ただ単にイタリアでノイローゼになって、帰って来た人間が言ってることだから、あんまり信憑性はないですけども、調べたかったら、もし、疑問の点がありましたら専門家のイタリア語に堪能な、神学者の書かれた本でも読まれるといいと思いますけど。僕はそんな気がしてるんですね。
元に戻りますけども、私たちは造られた最初から、神さまの祝福を受けていた。すなわち、合格品だったわけなんです。

ところが、あっという間にアダムとエバが蛇にそそのかされて、罪を犯した。そこに人間の原罪というものが表わされていますけれども、合格品として造られた私たちが、最初にやったことは何だったかって言ったら、自分で自分を不合格品にしてしまったわけですね。
で、そこから話がちょっとこんがらがってきて、ややこしくなって、今度は何て言うんでしょうか、色んな、その罪を赦してもらうために色んなことをしなきゃいけなくなったわけですね。ささげものを。

全焼のいけにえをささげたり、色んなことをしなければ私たちの罪は赦されなくなったわけです。ですから、そういう人間を造った神さまの歴史を振り返ってみると、最初は、神さまが私たちを造ってくださって、神さまが、その造られた人間を聖別して、祝福して、もう立派なものができてたんです。
ところが、アダムとエバが罪を犯した。人間の原罪がそこにあったために、今度は神さまとの交わりを保つためには、そこに全焼のいけにえだとか、そういった、レビ記に細々、たくさん難しいことが書いてありますけれども、色んなささげものが必要になってきた。
で、そのささげものってのは、羊の中で一番良いものをほふって、それを神さまにささげる。で、それは、羊がたくさんいる中の、じゃ、この分は神さまのものにしようっていう聖別という動作がそこに入ってたわけです。

ですから旧約聖書の時代は、今度は聖別する主体は、神さまではなくて、人間のがわになってたんだと思うんですね。罪を犯した人間が、罪を赦されるために、神さまと交わりを保つために、たくさんある羊の中からこれは神さまのものだっていうふうに、より分けて、神さまにささげた。
そういうステップが旧約聖書の時代は必要だったと思うんですけども、新約聖書の時代になると今度は、イエス様が全部、そういったことをすべてやってくださっちゃった。
だから私たちには、新約聖書の時代に生きてる私たちは、聖別するというステップはもう必要がないということが言えると思います。

そういう講釈はともかくとして、神さまが人間を祝福してくださった、その祝福をされるその具体的な現われを、罪を犯したあとの人間の中で、代表的な人、二人を見ていきたいと思うんです。
主がどういうふうにして罪を犯した人間を祝福されるか。これは、お前は俺のもんだ、お前は違うよって、そういう、主がどういうふうに人間を、罪ある人間を祝福されたか、その具体的な例を見たいんですが、それも創世記の最初のほうの4章の、カインとアベルの話です。
もう何十回もお読みいただいてるところだと思いますので、あえて読みませんけども、4節のところ。

創世記4:4
4また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。

これは、アベルが自分でたくさん飼ってた羊の中から、一番いいものを聖別して、これは神さまにささげようというふうに自分で思い定めて、最上級を自分で神さまのところへ持って行きました。
で、そうしたら神さま、どういう反応取ったかというと、主は、アベルとそのささげ物とに目を留められたとあります。主はそのささげ物をよしとされたわけですね。
で、もう一人の兄弟であったカインはどうだったかっていうと、カインも3節に書いてあるとおりです。

創世記4:3
3ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

そして、そのカインに対してはどうだったかっていうと、5節ですね。かわいそうですね。

創世記4:5
5だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。

って書いてあります。ここで問題になるのは、カインは、本当に神さまに一番大切な物を選び取る、一番大切な物を神さまにささげるという姿勢がなかったというふうにも言われていますが、あんまり僕は本当のこと、よく分かんないですけども、いずれにしても、そのカインのささげ物、地の作物を持って行ったわけですけども、そのささげ物を主はよしとされなかった。そこに、祝福されるか、祝福されないかの違いがあると思います。

アベルは、主の祝福を受けることができました。それでは私たちはどうか。イエス様がもうすでにささげ物になられちゃったから、特に持って行く物はないんでしょうけども、それはそれとして、もし私たちがカインとアベルと同じ時代にもし生きてたとしたら、私たちは何をささげ物として主の前に持って行ったらいいんでしょうか。
アベルは、一番大事なものをたぶん持って行ったと思うんですね。羊の初子の中から。でも悲しいかな、私たちは今、羊を飼ってる人ってのは少ないと思うんですね。

今日集われた中で、今、犬を飼ってらっしゃる方、おられるんですけども、羊を飼ってて、この中で一番いい羊持って行こうっても無理ですね。何を神さまのささげ物に持ってったらいいかって考えると、あんまりないんですね。適当な物が。困っちゃうわけです。
私たちは何をささげたらいいか。主にささげる物。それのヒントになるのが、詩篇の51篇。ダビデがウリヤの奥さんであったバテ・シェバを自分の妻に寝取ってしまう。非常に卑劣な行為を行なったわけですね。で、そのあとにそのナタンから自分の罪を示されて、それはあなたですって言われて、本当に自分の罪におののいた。その直後に歌った歌がその51篇なんですけども、この詩篇の51篇の17節。これが私たちが主にささげるささげ物のヒントではないかと思います。

詩篇51:17
17神へのいけにえは、

何かというと

詩篇51:17
17砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と、書いてあります。ですから、私たちが神さまの前に出るときに、持って行くべき物、それは何かというと、砕かれたたましいであり、砕かれた、悔いた心ではないでしょうか。
それから、同じようなことが、

イザヤ書66:2
2わたしが目を留める者は、

何かというと、

イザヤ書66:2
2へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

と書かれています。へりくだって、心を砕かれた者。そしてわたしの、神さまの言葉におののく者。詩篇、それから、イザヤ書を通して、くだかれたたましい、悔いた心、それが私たちが主にささげる、主の前に出るときに、持って行くことのできる唯一の主の喜ばれる物ではないかと思います。

もう一度創世記の2章のところに戻りますけれども、2章に、七日目を祝福したと書いてありましたね。
この祝福という言葉を、先ほどの、今までお話してきたように、祝福という言葉は、神さまが、これは俺のものだっていうふうに聖別するという意味が、元々のそもそもの意味だというふうに考えますと、神はその第七日目を祝福したっていうことは、神さまが第七日目を、これはわたしの日だよって、おれの日だって宣言されてるという意味です。
そしてそれは、聖別されたというのに該当するのは、次に書いてある、この日を聖であるとされた。すなわち聖日ということは、聖別された日である。すなわち、この日は神の日であるということだと思うんですね。

七日目、すなわち、今でいう今日のような日曜日、聖日は、何の日かっていうと、これは主の日であるということがここに宣言されていると思います。
で、これも私の話で恐縮なんですけども、かつて私は、救われる前は特に、当たり前なんですけども、日曜日はだれの日かって問われたら、これは俺の日だっていうふうに思ってました。

女房の日でもなく、子どもの日でもなく、日曜日は俺の日だと思ってました。あの頃は週休二日でもありませんでした。土曜も会社へ行ってました。で、月曜から土曜まで会社へ行って、色んな人と色んな、もうバカバカしい色んな話があるわけです。会社の仕事というのは。
で、それを朝から夜までやって、で、真夜中うちに帰って来て、日曜日くらい俺の日にさせてくれっていうのが正直なところ、ありました。

ですから、救われる前はもちろんのことなんですけども、救われたあとも、洗礼を受けちゃったあとも、しばらくは、日曜日はそんな礼拝に行ってっけども、そうは言っても日曜日はやっぱり俺の日じゃないかとか、そういうことを半分くらい思いながら救われた最初の頃、過ごしてました。
だから時々サボっちゃったりして、うちの女房に礼拝に行こうって、日曜日の朝、誘われるんですけども、途中でやっぱり嫌になって、女房だけ集会所に行かして、ぼくは喫茶店行って、ブラブラして帰って来たとか、そういうことが最初の頃あったんですね。

で、それはなぜそういうことが起きたかっていうと、日曜日はぼくの日だっていう思いがあったからです。ですから聖日の礼拝に出るのも出ないのも、自分で決めりゃあいいじゃないかっていうふうに思ってました。
日曜日、朝、昼頃まで寝てて、そしてテレビを見て、ゴルフのテレビ見たり、野球のテレビ見たり、

(テープ A面 → B面)

そもそも日曜日であって、ほかにあんまりやることがないときに、礼拝に行って、神さま、アーメンって言ってりゃいいんじゃないかって、そんなふうに思ってた時代が、今から思えば懐かしい気もします。

でも、それは、日曜日は自分の日だと思っていたからです。でも、本当はそうではない。それはこの創世記の今お読みしたところに書いてあるとおりです。主が、私を造ってくださった神さまが、この第七日目っていうのは、おまえの日じゃなくて、おれの日だっていうふうに仰ってるからなんですね。
だから、疲れているとか、そんなこととは関係なくて、主の日には、主のところへ来て、その主が一番喜ばれる、よしとされるささげ物、すなわち砕かれたたましい、悔いた心を持って、その礼拝の場に集って、主がなしてくださった祝福に対する感謝をささげる。それが礼拝ではないか。それが今のぼくの礼拝に対する考えです。

ですから礼拝へ集うということの意味は、実は、主の日に、わたしの日だと、これはおれの日だと仰ってるその神さまの、主の日にその主ご自身をほめたたえること。それが礼拝だということになります。
で、繰り返しになりますけども、その礼拝に集って来る私たちが、携えて来なければならない物は何かって言うと、それは砕かれたたましいであり、悔いた心であり、そして当然イエス様。イエス様をいっしょに、イエス様といっしょに来なければなりません。

言葉を変えれば、イエス様の十字架によって罪が赦されたことへの喜びと感謝。それを持って礼拝の場所に来て、「神さま、ありがとうございます。」、それが礼拝だと思います。
で、その礼拝の真髄と言いますか、あるべき礼拝をぼくたちに示してもらってる箇所を引用してみますけども、これも創世記なんですが、創世記の22章の、アブラハムがイサクをモリヤの地で全焼のいけにえにささげる場面です。ここでは「試練」という言葉が使われてますね。

創世記22:1
1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。

というふうに書き出されています。

創世記22:1-2
1神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

こういう命令が神さまからあったわけです。そしてご存知のように、アブラハムはイサクを山の上で薪の上に乗っけて、刃物を取って、まさに振り下ろそうとするところで、待ったがかかるわけですね。
このアブラハムのとった行動、これこそ礼拝の真髄なのだと思います。最愛のひとり子、最愛の子どもをいけにえとして、彼は主にささげようと思ったわけです。神を恐れるという言葉がそのあとに出て来ます。

創世記22:12
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

と、あります。ここのポイントは、あなたが神を恐れることがよくわかった。これが私たちの礼拝のもう一つの要素、神さまを恐れること。これは恐という字なんですけども、もう一つ、もっと、「おそれかしこむ」という「怖れる」ほうが、本当はぴったりしてると思いますけども、いずれにしても神さまにもう、全幅の信頼をおいて、神さまにすべて従う、従順に従う、それが恐れるというような意味だと思いますけども、それが礼拝、私たちの礼拝のひとつの要素だと思います。

そのアブラハムに対して、今度は主からまた御使いを通して言葉がかけられました。

創世記22:15-17
15それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
17わたしは確かにあなたを大いに祝福し、

って、ここでも祝福という言葉が使われています。ですから礼拝と、私たちが神さまにささげる礼拝と、今度は神さまが私たちにくださる祝福、それは、その礼拝と祝福っていうのは一つのセットになっているように思えます。
確かに礼拝というのは、神を恐れることであり、神に感謝をささげる場であります。そのとおりです。ですけども、アブラハムのように、自分のひとり子を、いけにえとしてささげろって言われたら、僕は礼拝をサボっちゃうかもしれないと思います。

人間的に考えると、このときのアブラハムは喜んで礼拝に行ったとは決して思えないですね。もう、すごく歳をとって、サラも、もう九十歳か百歳くらいでした。もう、相当に歳をとって、初めて祈りに祈った結果、与えられたイサクという子どもを、殺しに行かなければいけないわけですよね。
これは、やっぱりアブラハムは当然、嫌だったと思います。

ですけども、嫌だけれども、神さまがそう仰ってるんだからって言って、礼拝の場に出て行ったら、すごい祝福を受けたということは、僕たち今、二十世紀の終わりに生きる私たちにも多少、レベルは違いますけども、子どもをささげなさいなんてことは言われないんでしょうけども、何か、礼拝に行きたくないなっていう気持ちがなんか起きたときに、昨日遅くまで仕事してて、日曜日疲れてるから、朝行くの嫌だな、なんて思ってるときに、そういうときにこそ、礼拝へ行くと、すごい祝福を、大きな祝福を受けて帰って来る。そういう経験はみなさんおありではないかと思います。それが礼拝ということだと思います。

で、礼拝のときに私たちは何をするかというと、神さまに感謝のお祈りをささげます。すべて主へささげるお祈りです。そしてその内容は、イエス様、神さまのすばらしさをほめたたえる祈りであるべきだというふうに思います。
祈りには大きく分けて、二つの種類に分けられると思います。
一つは、その礼拝のときの祈り。神さまを本当に心からほめたたえる祈り。ありがとうございました。本当に神さまはすばらしいっていうお祈りのグループと、それからもう一つは、自分のための祈り?とか、まだ救われていない家族が救われますようにって、そういうとりなしの祈りなんかがあります。あるいは、悔い改めの祈り?

救ってくださった私であるにも関わらず、またこんなことをやってしまいましたけれども、こんな者でも愛してくださるんでしょうか。よろしくお願いしますっていうような、そういう自分の悔い改めの祈り。
あるいは、まだ救われていない未信者の方へのとりなしの祈り。そういったものがありますけども、それは、礼拝、本来はそれは礼拝の祈りではなくて、別の祈り会、あるいは、交わり会のときに祈る祈りであって、礼拝の祈りは、ただ主だけがほめたたえられるものではないかというふうに思っています。

初めの頃はそのへんが分かんなかったし、そもそも礼拝に来て、祈るということができませんでした。これは、もう僕だけのことかもしれませんが、洗礼受けて、しばらく一年ぐらいただ聞いてるだけでしたね。
で、ああいう礼拝のときにパッと立たれて、お祈りをするのは、あれは、熟練したプロのクリスチャンがやるもんだというふうに思ってて、アマチュアの僕がやっては失礼ではないかとか、そういったこと考えたりしてました。

で、一年ぐらい、礼拝には行くんですけども、祈らないで帰って来ちゃう。そういう僕を見てて、うちの女房が、そろそろたまにはあんたも祈ったらどうかとか、そういうことを仰るわけですね。で、そんなことがしばらく続いてて、あるとき、何かフッとよく分からないんですけど、なんか、祈るような気が中から湧き上がって来たんですね。
でも最初のうちは慣れてないってこともあるんでしょうけど、祈ってるうちに自分が何を言ってるか、自分で分かんなくなってきまして、主語と述語がメチャクチャになってきて、頭ん中、真っ白になってきちゃうし。人の目が気になるというか、何か違和感があったのかとか、全然信仰とは関係ないことで悩んでいました。人を意識していたからだと思います。

で、そういう時期があって、そのうちあんまりそういうことも考えなくなってきて、礼拝のときにはなるべく祈るようになってきました。で、そうなればなるで、また別の新しい問題が起きてきて、今度は祈りが習慣的になっちゃって、まるでテープに吹き込んだテープレコーダーみたいになってくるわけですね。
で、礼拝のときにはサッと立つんですけども、言葉は出て来るんですね。それはもう、覚え込んだ言葉がただ出て来るだけで、自分で何を本当に言っているのか分からない。言葉だけサーっと出てきて、で、アーメンって言うんですけど、何がアーメンだか、何も分かんないで、座っちゃったりとか。

習慣的に言葉だけ流れ出ていく、そういうお祈りはきっと主は喜ばれないに違いないとは思うんですけども、何年も・・・この道何十年となるとそういう危険性が出て来るというふうに自戒しています。
ですから、言葉は同じでもいいんでしょうけども、その祈るつど、新たな思いが、心の底から湧きあがって来て、本当にありがとうございますっていう思いに裏打ちされていないと、形だけ祈っても意味がない。なんて、そんな反省をしているところです。

ですから最近、本当に十年こんなことをやってると、昔の救われたときのその原点、救われたときに喜んだ、本当になんかもう、涙が胸の奥から湧き上がって来るような、そういう気持ちが、そういう事実があったっていうことは覚えてるんですけども、本当にどういう気持ちがしてたとか、どういうふうに喜んでたかっていう、具体的なことを忘れてくることがあります。
で、そうしたときに、この新しく救われてくる方々、救われたての方々がいらしゃって、その人が初めて祈ったとか、そういう姿を見るときに、そしてその人が、新しく救われてくる人がおぼつかない言葉で、まるで昔の僕みたいにたどたどしい言葉で、神さまありがとうございますなんていうお祈りを聞くと、本当に嬉しくなります。

ですから、その集会が、本当に生きた集会となるためには、新しいたましいが、ある程度定期的に、この集会に集ってきて今まで祈らなかった人が祈る、そういうことが僕らの信仰を成長させていく大きな糧になるように思います。

そろそろ終わりにしたいと思いますけども、礼拝のときに祈る祈りのお手本ということで、昨日もいくつかご紹介したんですけども、今日は詩篇の150篇。これは私たちの礼拝のときに祈るお祈りの教科書でも、教科書と考えてもいいのではないかと思います。
これはハレルヤという言葉で始まって、ハレルヤという言葉で終わっています。

詩篇150:1-6
1ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。
2その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。
3角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。
4タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。
5音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。
6息のあるものはみな、主をほめたたえよ。

そして、

詩篇150:6
6ハレルヤ。

で、終わっています。

これこそ、イエス様に救われて喜んでいる一人一人、私たち一人一人に対する礼拝のすすめの祈りだというふうに言ってもいいと思います。
ここには、色んな楽器が出て来ます。3節のところで角笛が出て来ます。下にうつって、十弦の琴、立琴、タンバリン、それから、楽器の出来ない人は踊り、それから次の節には琴、緒琴。それから笛。それからシンバル。色んな楽器が出て来ます。
これは礼拝に集った私たち一人一人が、それぞれに自分の言葉で主をほめたたえなさいっていうことを言ってるんじゃないでしょうか。

そしてその最後の節、6節のところでは、息のあるものはみなというふうに書かれています。息のあるものはみな、主をほめたたえよ。
本当に、これこそ礼拝の一番大切なことをここに、150篇にまとめて書かれているように思います。
最後に、これこそ礼拝のすすめというみことばを読んで終わりにさせていただきたいと思います。

ヘブル人への手紙13:15
15ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

私たちはキリストを通して、何をささげるかというと、賛美のいけにえ。それは何かというと、すなわち、神さまの名前、御名をたたえる口びるの果実。これこそ神をほめたたえる祈りだということができると思います。
その祈りを、神に絶えずささげようではありませんか。このみことばは私たちに、本当に喜んで、礼拝に行かにゃあかんよって、そういうことを呼びかけている礼拝のすすめのように思います。




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