目をさましていなさい


田中順治兄

(吉祥寺福音集会メッセージ、2002/06/23)

引用聖句:ヨハネの黙示録、16章15節-16節
15――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――
16こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。

今、兄弟もおっしゃってましたけれども、世の中、ここのところしばらくワールドカップしかやってないような世の中の状況が、毎日続いてました。
ようやく日本が負けたので、少しその様相も薄らいできたんですけど、なんか見るべきサッカーの試合をやってないと、夜どうやって過ごしていいかわかんないという中毒症状を少し呈してきているところもありました。

そんなことがあったりして、世の中ずっとここ1ヶ月、5月の終わりくらいからでしょうか、ずっとワールドカップ一色なんで、最近あんまりテレビとか、新聞には、ほとんど出なくなったんですが、イスラエルとパレスチナの方の自爆テロとか、イスラエルがアラファト議長といろいろ話をするために戦車を送りこんで責めたりとか、そういうヨルダン川西岸地区の一触即発の状況っていうのが、ついこの間まであったんですけども、ここのところ、そういうのがよくわからないふうになってしまいました。
でも、チラッとニュースの隅っこの方には、やはり相変わらず、イスラエルの人たちに対するパレスチナの人たちの自爆テロみたいな事件は続いているようです。

それで、今日はその「ハルマゲドン」「アルマゲドン」というのが、聖書にただ1ヶ所、このヨハネの黙示録のところに書かれているんですけども、「終わりに世界最終戦争が起こる」という一つの神様の預言であるわけですけど、世界の終わりが本当に今、私たちの目前に来ているということが特にその中東の情勢を見ると、いかにもその通りだというふうに思えるわけです。
自爆テロが、しょっちゅうニュースで起こっていた頃の記事を、ちょっと読みたいと思うんですけども、これは新聞とかインターネットなんかに出てたのを印刷してきたんですけれど、

『イスラエル軍は、ヨルダン川西岸のへブロンに侵攻を開始した。ヨルダン川西岸の主要都市で残る都市は、エリコだけになった。』
そんな記事がありました。2,000年、3,000年くらい時間は違うんですけども、旧約聖書のどこかの一部を読んでいるような気がします。その当時、旧約聖書に書かれているダビデあたりが、さかんにゴリアテと戦ったような・・・、あの頃の旧約聖書の記事を読んでいるのと同じ地名が、随所に最近の新聞とかテレビで報道されているから、とても何か、面白い感じがします。

最近では、ジェニンとかナブルスとかいう土地の名前を聞きます。ジェニンというところで、自爆テロがあったとかそういう話もありました。そのジェニンという町をイスラエルの地図でよく見てみるとですね、メヒドっていう町が、あと20kmぐらいのとこなんです。
「メヒド」っていうのは「ハルマゲドン」の語源で、もうみなさんご存じだと思うんですけども、「ハルマゲドン」って言葉は、「メヒドという町のところにある山」、「ハル」っていうのは「山」、「マゲドン」は「メヒド」っていう町の意味なんですね。

メヒドという町の山であるハルマゲドンのところで、世界最終戦争が起こるというふうにヨハネの黙示録には、世界最終戦争で何が起こるかはちょっと具体的にわからないんですけど、ハルマゲドンと呼ばれるところに王たちを集めてきて、今度は第7の御使いが出てきて云々・・・という、そういったくだりになっているわけです。
いずれにしても、この世の何らかの終わりの始まりのような、そういったことが起こるであろう場所、それが何を隠そう、今イスラエルとパレスチナの人たちの争っている場所、そこと全く符合しているという、そこに、すごく大きな期待感を私たちに持たせるものがあります。

つい2〜3週間前でしょうか。メヒドの町そのもので、自爆テロが起きたっていう話がありました。だから、もう本当に終わりの日は近い・・・という感じが、日々強くなってきています。
ここ数ヶ月そういう状況が続いておりますので、ある日、家内である姉妹に「どうも世の中、中東の情勢なんか見てると、終わりの日がすぐそこまできてるみたいだ。」っていうことを話しまして、「だから、後、そんなに長くないだろうから、おいしいものでもたくさん食べに行こうじゃないか」って話したら、「何ばかなこと言ってるのですか」と、「他にやることがあるでしょう?」というふうに優しくいさめられたわけです。

そこで、これからが今日、本文に入るわけですけども、それでは、じゃあ終わりが近づいてるという今日この日に、生かされている私たちが、今それじゃ何をしなければいけないのか、おいしいものも食べたいには食べたいんですけど、それは置いといて、信仰者として、私たちはいったい何をしなければいけないのか、そのことを後20分くらいご一緒に、聖書からみていきたいと思います。

私たちが、終わりの日にしなければならないことを、3つほど考えました。3つほど聖書から採り上げてみたんですけど、1つはまず、「悔い改めること」。
マタイの福音書の4章17節。これは、イエス様が宣教の生活、公生活といわれてますけども、福音を伝道される生活を始めた時の第一声の言葉であります。

マタイの福音書4:17
17この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。

なぜならば

マタイの福音書4:17
17天の御国が近づいたから。」

と書いてあります。「終わりの時がすぐそばにきている」というふうに読んでもいいと思います。「天の御国が近づいたから、悔い改めなさい」

いずれにしても、イエス様の宣教開始の第一声、最初のメッセージは、私たちに対して「悔い改めなさい」ということでした。
これは、救われた者にとっては当然のことなんですけれども、どこかで本当の悔い改めに私たちは導かれました。それまでは、「私は、わりと正しいんじゃないか、わりとマシな方なんじゃないか」と思ってた者だったわけですけれども、それが、それぞれに一番ふさわしい方法を持って、「そんなことはない。駄目なのは、あなたなんです」というふうに示された。

それで、それまでの生き様を180度改めて、イエス様の前に悔い改めた。そこで、本当の救いの喜びというものを、私たちは喜ぶようになったわけなのですけれども、ただ一度、悔い改めればそれでいいか?
「私は1986年の4月5日に私は悔い改めました。ですから、その後はもう、一度悔い改めたから主は赦してくださって・・・、だから、もういいんです」って。そういうふうな割り切り方は、決して信仰的ではないと思うんです。
私たちの悔い改めというのは、日々の悔い改め、今日、そして昨日、明日、私たちが本当に毎日毎日絶えざる悔い改めの連続であらねばならない。それが、このイエス様の宣教を開始された最初の言葉にだぶって響いてくるわけなんですね。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というふうにイエス様は、おっしゃいました。また、本当に有名なみことばで恐縮ですけれども、テサロニケ人への手紙第Iの5章16節から18節。

テサロニケ人への手紙第I、5:16-18
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。

これも「喜ぶ」という言葉、「祈る」という言葉、「感謝する」という言葉、これを「悔い改める」という言葉に置き換えても、ほとんど同じことを言ってるんではないかと思うんですね。

いつも悔い改めていなさい。
絶えず悔い改めなさい。
すべての事について、悔い改めなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

いつも、絶えず、すべてのことについて悔い改めておれば、きっと私たちはいつも喜んでおれる者になるでしょうし、絶えず祈ることができる者になるでしょうし、すべてのことについて、感謝できる者になるんじゃないかというふうに思えるからです。

終わりの近づいたこの日に、生かされてる私たちが成すべき大切なことのその第一、それは、日々の悔い改めではないかと思います。
信仰の喜び、救われた者としての喜び、それの一番大切なポイントは何かというと、やっぱり「どうしようもない私が赦されている」その悔い改めた結果が、「こんな私でも、生きててよかったのか」って、力を与えられることではないかと思いますね。
いずれにしても、悔い改めということが、私たちの信仰の一番中心を成しているものだと思います。それがまず、特に終わりの近いこの日に、大切なことだと思います。

それから2つめは、「用心していること」「祈っていること」これが重なってくるんですけども。
マタイの福音書の24章。再臨の来ることを預言して、イエス様が私たちに、弟子たちに語られた部分です。マタイの福音書の24章3節から読んでみます。

マタイの福音書24:3
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

そういう弟子たちの問いかけに対する答えとして、この24章がイエス様の言葉として、具体的な「こういうことが起きるよ。こういうこともあるよ。」ということが語り告げられているわけです。
その章の中で、イエス様は3回ほど繰り返して同じ言葉を語っているわけです。35節。

マタイの福音書24:35
35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

「この天地は滅び去る」とイエス様は、力強く断言されています。
その終わりの日は、確かにもう近いわけです。もう21世紀に入ってしまいましたけれども、こんなに便利な快適な生活をしている人類っていうのは、未だかつてないと思うんですね。
好きな時に、好きなものが食べられ、行きたい時に飛行機に乗って海外に行ける。夏のどんな暑い時でも、冷蔵庫を開ければ、冷たいアイスクリームが入ってたり、かき氷も食べられる。

こんなことは、150年くらい前の王侯貴族でさえも味わえなかった生活じゃないかと思うんですけども、これを地球上で、今70億かそこいらの人が住んでいて、かなりの部分は飢えてるんでしょうけども、そうではない世界の地球500人の家族に例えれば、もっとぐっと少ない人数になるかもしれませんけど、私たちは、かなり裕福な一員になってるわけですね。
かつ、こういう人類の数もすごく増えている・・・。そして、この快適な生活水準を、どこまでも維持していくことが本当にできるのかと思うと、僕は無理じゃないかと思うんですね、個人的に。そんなに便利な生活を支えるほどの資源が、地球にはないんじゃないか。

だって、中国の人たちが牛肉を食べ出したら、世界の牛肉は、いっぺんになくなっちゃうとか、そういったことが言われています。本当にギリギリのバランスのところで、僕らの快適な生活は、保たれていると思うんですけども、何かが崩れれば、もう一気にパーになってしまう。そんな感じがしています。
具体的にどうなるかは、ちょっと分かりませんけれども、いずれにしても、「この天地は滅び去ります」というのが、イエス様の言葉なんですね。もう終わりは、すぐ手に届くところに来ている。その時にどうしたらいいのかというのが、この24章の中に、イエス様が繰り返し語られているんですね。42節。

マタイの福音書24:42
42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

「目をさましていなさい」・・・それから44節。

マタイの福音書24:44
44あなたがたも

今度は

マタイの福音書24:44
44用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

と書いてあります。25章の13節。

マタイの福音書25:13
13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

とあります。「目をさましていなさい」「用心していなさい」「目をさましていなさい」。
「終わりがいつ来るか、あなたがたはわからないから」というふうに、イエス様はおっしゃいました。

「目をさましていなさい」と書いてあるんですけども、目をさましていても、頑張っていても、どこかで寝ちゃったりするので、なかなか難しいと思うんですけども、具体的に文字通り目をさましていろってわけじゃないと思うんですけど、寝てもいいんでしょうけども、具体的にどうしたらいいのか、終わりの近い時にあたって、私たちは目をさましていなさいって言われた。
具体的な現われは、どういうことか。参考になりますのが、このマタイの福音書と同じ場面のことを、ルカが別の角度から書いています。ルカの福音書の21章33節からお読みします。

ルカの福音書21:33-34
33この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
34あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、

そういうふうに

ルカの福音書21:34
34よく気をつけていなさい。

っていうふうに書いています。「この世のことに捕らわれたり、この世のことで、思い煩いに沈み込んだりしないように、そういうふうによく気をつけていなさい。なぜならば、終わりの日が近いから。」ということだと思うんですね。
そうすると、ちょっと具体的になってきたように思います。さらに具体的には、

ルカの福音書21:35-36
35その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
36しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、

どうしたらいいのかと言うと

ルカの福音書21:36
36いつも油断せずに祈っていなさい。」

これが終わりに近い今日生きている私たちにとって、イエス様が「やったらいいよ」って、おっしゃってること、「目をさましていなさい」「用心していなさい」。
その具体的な現われは、今お読みした36節の最後、「いつも油断せずに祈っていなさい」ということではないかと思います。これが2つ目です。

1つ目が先程の、「いつも悔い改める、絶えざる悔い改め」。
2つ目が「いつも祈っていること」、これが「用心していること」の別の言葉での表現だったわけです。
それから最後に3つ目。他にもあると思うんですけども3つだけまとめてお話したいと思います。
再臨の預言をしているヨハネの黙示録、そこで、この3つ目のポイントが書かれていると思ったんですね。それは、「私たちの造り主である主なる神への、イエス様への心からの賛美」、それが私たちに要求されて、要請されている、大切なことの3つ目の柱だと思います。

ヨハネの黙示録4:8
8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。

何を、どういうふうに叫び続けたかと言いますと

ヨハネの黙示録4:8
8「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

こういうふうに叫び続けていたわけです。そして、11節。

ヨハネの黙示録4:11
11「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

創造主である主なる神への心からの賛美の叫びがここに書かれています。それから、

ヨハネの黙示録5:12-13
12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

本当に力強い、神様への賛美の叫びであります。ヘンデルのメサイアも、この辺りの歌詞を、繰り返し繰り返し、心から歌い上げていると思うんですけれども、ヘンデルのメサイアで繰り返し歌われている歌詞、あれこそが、やはり終わりの近い今日を生きる私たちにとって、とっても必要なことなのではないかと思います。「創造主への心からの賛美」。以上、3つですね。

「絶えざる日々の悔い改め」、「主への祈り」、そして「造り主への賛美の歌」、これが、終わりの日を目前にした私たちが成すべきことではないかと思うわけです。
では振り返って、この3つ、今申し上げた「悔い改め」と「祈り」と「主への賛美」、要するにこれは何かって言うと、先ほど、私たちが終えた「礼拝」そのものではないかと思うんです。
終わりの近い今日を生きてる私たちにとって必要なもの・・・、それは、「礼拝」なんだということだと思います。

マタイの福音書の24章、礼拝っていっても、教会のようなちゃんとした建物のある場所に行って、日曜日1回来て、アーメンって言ってればいいかって、そういう意味での礼拝ではなくて、本当にどこにいても、曜日とか時間とかに関わらず、常に「こんな私のことを愛してくださってる神様、ありがとう」っていう、そういう心の姿勢じゃないかと思うんです。
それが、私たちに問われているんだと思います。

イエス様が十字架で死なれた後、よみがえられて、弟子たちのところにご自身を現わされた。そして、最後に天に上られていく、そのところの記述です。28章の16節。

マタイの福音書28:16
16しかし、十一人の弟子たちは、

・・・ここは、イスカリオテのユダがいなくなっちゃったんで、11人の弟子になってますが

マタイの福音書28:16-17
16ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17そして、イエスにお会いしたとき、

彼らがやったことは何だったかというと

マタイの福音書28:17
17彼らは礼拝した。

というふうに書かれています。イエス様が、最後に弟子たちにご自身を現わされて、天に昇られていった。そして、この世で最後に弟子たちがお会いして、そこで彼らがやったことは、礼拝だったわけです。
ここにとっても大きな意味が込められているように思うんですね。それで、聖書って面白いなって思うのは、その次に短い文が付いてます。

マタイの福音書28:17
17しかし、ある者は疑った。

っていうふうに書いてあるんですね。本当に聖書って面白いと思います。
こんなとこ読んでいると、誰が誰のことを疑ったんだろうかなんて詮索しちゃったりするんですね。○○兄弟は大丈夫だろうかとか、そんなことを考えたりするのが、僕らの罪なんですね、きっと。

ここは、そういうふうに読むのはおそらく間違っていて、そういうふうにあれこれ疑ってしまう要素が、みんな僕らの中に埋め込まれてるんだっていうふうに読むとすごく分かりがいいと思うんですね。イエス様にお会いした。それで、私たちは「あぁ、イエス様。よかった!」って礼拝する。それは、それで確かなんです。
でも、心のどこかで「本当にこの人、イエス様かしら?」「イエス様、本当にここにいるのかしら?」なんて疑ってしまう部分が僕らの中にあるんじゃないかって、そんなふうに思うんですね。本当のところは、よく分かりません。でも聖書に、「ある者は疑った」なんて、よくここに書いてあるなァって感心します。

それはどうでもいいことなんですけども、いずれにしても、最後に弟子たちが、イエス様が弟子たちと最後の時間を過ごした時になしたことは何だったかと言ったら、「これで会えませんね」って別れの杯、固めの杯をかわしたわけでもないんです。
歌を歌ったりしたわけでもない。彼らがしたことは、礼拝したこと。「礼拝」っていうのは何か。心からの悔い改めと、祈り、そして主への賛美、それがこの世の終わりを生かされている私たちにとって、主が最も喜ばれていることではないかというふうに思います。

最後にその後、マタイの福音書28章18節から最後まで読んで、終わりにさせていただきたいと思います。

マタイの福音書28:18
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。

これは、ある者は疑ったというところがあって、そういうふうにつながってくるから、すごく説得力があるといえば、あるんですね。

マタイの福音書28:18-20
18「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

インマヌエルの神であるイエス様が、ご自身のことを、「わたしはインマヌエルの神だ。わたしはいつもあなたがたと共に、世の終わりまでいます。」その言葉を残して天に・・・

(テープ A面 → B面)

・・・本当にそのイエス様と、すぐ僕たちは会える。その希望を持って、この世での辛い日々を過ごすだけなのですけれども、聖書に書かれている通り、イエス様の来られる日を待望して、本当に心からの礼拝を、主にささげることができれば、幸いだというふうに思います。

ありがとうございました。




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