引用聖句:詩篇138篇1節-3節
私の家にずっと昔に本屋さんで買ってきた聖書ハンドブックというのがあって、ヘンリー・H・ハーレイという人が、まとめたハンドブックなんですけど、それを傍らに置いて開いてみました。 イエス様が最後の晩餐の場面に、そのままゲッセマネの園に行かれるのですけれども、その途中でオリーブ山の方へ行く時に、みなで賛美をしたと書いてありますね。その時に歌われたのが、この詩篇138篇というような説明でありました。 聖書には、特にそういうことばは明記されていないので、本当にそうだったかどうかは定かではないですけれども、そのハンドブックには書いてありましたので、マタイの福音書をちょっと見てみました。 マタイの福音書26:26-30
この時に歌われた賛美の歌が、私の手元にある聖書ハンドブックによれば詩篇138篇であるということが書いてありました。 賛美の歌を歌ってから、みんなでオリーブ山へ出かけて行って、その後ゲッセマネで、イエス様が血を流しながらお祈りをされた、そういう場面が満ちあふれてきます。そのようなことをちょっと頭に浮かべながら、もう一度詩篇138篇を読んでみたいと思いますね。 最後の晩餐を終えられたイエス様が、弟子たちとゲッセマネに向かう途中のオリーブ山への道で、この歌を賛美されたのです。 詩篇138:1
イエス様がこの歌を歌われたのかと思うと、私たちの心に迫ってくるものがあります。「私は心を尽くしてあなたに感謝します。」私たち一人ひとりが、生きている間、生きている限り、いつもこのように祈ることができれば、本当にすばらしいのではないかと思います。 ダビデはこの感謝の祈りを、100%のイエス様への信頼を持ってささげることができました。ダビデの主に対する100%の信頼がこの138篇に書かれています。 二つだけに絞って皆さんと一緒に考えてみたいと思います。一つ目は、主は呼び求めれば必ず応えてくださると、そういう確信をダビデは持っていたということが言えると思います。 詩篇138:3
詩篇138:7
呼び求めれば、主は必ず応えてくださいますと、そのように強くダビデは確信を持っておりました。詩篇はそのような祈りが随所に書かれています。 たとえば142篇、この142篇はサウルが執拗にダビデを追いかけるわけなんですけれども、そのサウルの手から逃れるために、ダビデは洞窟に隠れました。身を隠しました。その時のダビデの切なる叫びが、ここに書かれています。 詩篇142:1
詩篇142:6
詩篇143:1
詩篇143:7
主に対する切なる叫びでした。主は必ず助けてくださいます。そのような信頼を、ダビデは持っていました。 詩篇62:6-8
私たちは、この世にあっていろいろなことに頭を悩ませます。試練に会います。どうしていいか解からない、右に行ったらいいのか左に行ったらいいか、どうしていいか解からない時に、神は我らの避けどころであるとこのみことばが、私たちの心の底に染み渡って、染み通ってきます。 ダビデはこのように、イエス様は求めれば必ず応えてくださる方だと確信を持っていました。これが一点目です。 それから二つ目、138篇に戻ります。ダビデの主に対する信頼の根拠の二つ目、それは主は、自分に関するすべてのことをご存知である。そしていつも最善を成してくださる方、そういう堅い信頼をダビデは持っていたということです。 詩篇138:8
私に関するすべてのことです。私に関する経済的なことや私に関する他のこと、そういう部分的なことではなくて、主は私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます。このようにダビデは祈りました。 隣の139篇もそれはすすめています。 詩篇139:1-6
主は、私という人間のすべて、表から裏まで隠されている所もすべて、全部ご存知である方。そしてただ知っておられるだけではなくて、そんな私に最善のことをいつも考えていてくださる、そういう方だという確信をダビデは持っていました。 自分のすべてのことを知っているということは、驚くべきことであると思うんですね。自分でも自分のことをあまりよく解からないと思いますけど、主は私の自分でも気づかないところまでも全部ご存知であります。 イエス様に自分のすべてのことを正確に言い当てられた人がいました。あのサマリヤの女、水を求めてイエス様が来られたサマリヤの女がそうでした。 ヨハネの福音書4:16-18
イエス様は、そのサマリヤの女が何か言う前に、すべてのことをご存知である、そのことをここではっきり書かれてあります。そして、このサマリヤの女は、とてもびっくりしました。 ヨハネの福音書4:28-29
このような方が、本当に私たちのことを心配してくださるのです。すべてをご存知の方であります。 このサマリヤの女は、前に夫が5人あった。私は一回しか結婚しないから、「あなたの奥さんは一人です。」と言われてもびっくりしないんですけれど、5回離婚して「あなたは5人夫がいました。」と知らない人に言われたらすごくびっくりすると思います。 すごくびっくりするかもしれないですが、イエス様は、ともかくそれを全員に、ここに来ている人の全部のことを、過去のことを自分では忘れていることも含めて、全部ご存知、そのイエス様が私たちに最善のことをいつも考えていてくださいます。これが、ダビデが主に信頼する根拠を形成していたのではないかと思います。 ヨブもそうでした。自分のことを主は全部知ってくださっているということを最後、壮絶な苦難をくぐり抜けた後でヨブは主に感謝を捧げました。 ヨブ記42:1-2
この告白をヨブはして、その後主は、本当にヨブを祝福してくださった。そのことがヨブ記の終わりの方に書かれています。 ヨブ記42:12
今まで2つのテーマに絞って考えてまいりました。 主は、イエス様は、呼び求めれば必ず応えてくださる。それが第1点。それから第2点は、主は自分のことをすべてご存知であって、そしてその上で、この私に最善のことをいつも考えて成してくださる。 その2つのことを、それが主に対する信頼を100%築くために、私たちに求められていることではないかと思います。 詩篇37:5
詩篇115:9-11
イエス様に、私たちは信頼しましょう。イエス様こそ私たちの助け、そして盾である、そのように聖書は私たちに教えてくれています。 今お読みした所に限らず、聖書は繰り返し何回も繰り返し、「信頼しなさい。」と私たちに呼びかけています。 ヤコブの手紙4:17
なすべき正しいこと、それはイエス様に100%信頼すること、そのように考えてもいいと思います。イエス様に100%信頼する、そのことを知っていて行なわないなら、その人の罪だとヤコブは書いています。 イエス様に100%信頼すべきだということを頭で解かっていても、それをやらないのは、きっとここまでは自分でできるという思いが、私たちの中にあるからではないかと思います。 それが多分1節前の16節につながってくるかと思います。 ヤコブの手紙4:16
私は、ここまでは出来る、これから先を主にゆだねましょう。そういう思いが私たちの中に、なくならないような気がするのですよ。そのようなことをヤコブは、高ぶり、空しい誇りであり高ぶりであるというふうに見ています。 すべてを成してくださる主イエス様に、100%信頼して、そして主をいつも呼び求める歩みを続けることができれば本当に幸いだと思います。 最後に詩篇を読んで終わりにしたいと思います。 詩篇40:1-5
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