引用聖句:ペテロの手紙第I、4章7節
今日は、「祈りの勧め」ということで、聖書が何を言っているか、ご一緒に見て行きたいと思います。 今、最初にお読みして頂いたペテロの手紙第Iの手紙4章の7節ですか、これは、 ペテロの手紙第I、4:7
これは今の世の中、今の世相を言い当てている言葉、特にそういう気がします。万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために心を整え身を慎みなさい。これはおよそ2,000年前のペテロの勧めであります。 再臨を心から待ち望む、そういう心構えが大切であろうというが、一つはいえると思います。 再臨が今日来るかもしれない。イエス様は今日、またもう一度、降りてこの世に来られるかもしれない。だからそれに備えて、あなたの祈りを整えなさい。そう言っていることだと思います。 またそれぞれの、私たち一人ひとりの身近な知り合いや親族、まだ救われていない家族が居られた場合、その方々の救い、これを真剣に祈ること、これが大切だといっているようにも思えます。 更にそれにもまして、その主が臨まれる再臨の日に、この私自身が眠りこけていることのないように、心を整え身を慎んでいること、そのことの大切さを、ここでペテロは私たちに教えてくれているのではないかと思います。 そういうわけで今日は、このペテロの言葉、ペテロの手紙に書かれている言葉から、祈りと言うことについてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。 祈りと言うのは何か、ということなんですけども、祈りは、祈りじゃないかと言うことなんです けれど、救われた私たちから言いますと、神様との交わり、イエス様との対話、そういうふうに簡単にまとめることができると思います。主との対話です。 信仰を持つ前の頃も、祈りという言葉は使っていました。聞いたことがあります。でも、あんまり祈った経験は、回数はそんなには多くはなかったです。 未信者時代の祈りと言うのは、私の場合は年に一回、初詣に行ったときに、「今年は、いい年でありますように」とか、会社で連れて行かれるんですね。で、「今年も、目標が達成できますように」という祈りを全員でやるんです。 「商売繁盛」、個人のレベルでいえば、「無病息災」「家内安全」「受験合格」とか、そういった、どちらかというと極めてわかりやすいと言いますか、ご利益を求める、そういう内容の祈りがほとんど。 明治神宮なんかに参拝に来られている方、初詣の方々の祈りの内容というのは、ほとんどそういう、現世的なご利益を追求した内容ではないかというふうに思います。 で、ただお祈りするだけじゃなく、もう一つ大切な要素があって、お賽銭を入れなきゃいけないですよね。 ちょっと、百円じゃご利益がないかなぁ、なんて考えたりして、でもお札を入れるのはちょっともったいないかと思ったりして、五百円ぐらいで手を打とうかなんて、そういう計算をしたりしながら、お祈りをした経験はあります。 ですから祈りといっても、それはまったく中身のないというか、実質のない、気休めのようなもの、単なる形式だけのもの儀式にすぎないものだったと思います。 で、私は救われる前に一度、本当に心から祈ったことがあるんですね。それは、高校生くらいの時だったでしょうか。僕は自分では無神論者だと思っていたんですけども、それでも、本当に心から祈ったことが一度だけあります。 それは仲間でどっか山のほうへ、長野県のどこかへ旅行したときだったと思うんですけども、山の中の、本当に小さな湖で、場所をもう忘れてしまったんですけども、小さな湖でボートを借りて、一人一双ずつボートに乗って、沖のほうまで、湖の真中の方まで漕いで行ったんですね。 調子よく、すいすい、すいすい漕いで行ったんです。それまで晴れていた天気が、一転にわかに掻き曇りって常套句の通りですね、真っ暗になって、急に突風が吹いてきたんですね。 それでボートってのは、オールで漕ぎますけども、そのオールが流されちゃった、二本とも。そうすると、もうどうしようもないんですね。 風のまにまに、ビューっとどんどん遠くへ行ってしまって、今にも波が、ちいちゃい湖なんですけども、波が1メーターくらいあった、すごく怖かったからすごくあったように見えるのかも知れないけども、もう波がうねるようになってきて、これはもうダメかもしれないって本当に思ったんですね。 で、そのときに無神論者であった私は、「神様、助けて!」ってお祈りしたんですね。 本当に、どの神様か自分ではよくわかんないんですけども、決して、仏様ではなかったですね。その時出てきたのは、やっぱり、「神様!」という言葉、「助けてください!」と心の底から絞りだすような、そういう叫びをしたその記憶がまだはっきりと残っています。 その時にはまだ誰に祈っていいか、それが私は知りませんでした。 でも、こう神様ってのは、どっか、普段は否定しているんですけれど、否定しきれない、そのすべての造り主みたいなもの、そういったものを意識していたのではないかと思います。 祈り、それは未信者であれ、同じように祈りと言う言葉を使って、祈りという態度としてですね、日々行動しています。クリスチャンも、それは同じであります。でも、実質的な祈りの意味は、全く違っています。 未信者の祈りは、先ほどの初詣の時の祈りのように、個人的な利益が何とか実現するように、ただひたすら一方的にお願いする、それが未信者の祈りです。 一方それに対して、私たち救われたキリスト者の祈り、それは、イエス様とお話しをするだけであります。それが、私たちの祈りです。 イエス様に感謝を捧げる、賛美を捧げる、イエス様のご栄光、これははっきり意味がわからないんですが、今一つはっきりしないんですけれど、イエス様のご栄光が、イエス様だけにご栄光がありますようにってお祈りします。これは私たち共通の祈りです。 未信者の方が、お正月に初詣に行って、賽銭箱の向こう側に居るであろうと思っている、神様のようなものに向かってですね、「よく存じ上げませんけども、あなたにご栄光がありますように」って祈る人は、まずいないと思うんですね。そんな人はほとんど居ない。 祈りはそのように、私たち救われた者の祈りと、まだ救われていない方の祈りというのは、天地ほどの開きがあると思います。 聖書はどのように言っているかと言いますと、まず、イエス様を愛する者の祈り、それは必ず聞かれる、これが聖書の約束であります。 でも残念ながら例外があるんですね。聞き届けられない祈りもあります。聞き届けられない祈りに、まず、そっちの方から聖書を見てみたいんですけども、聞き届けられない祈りを三つに大きく分けてみました。 一つ目の聞き届けられないタイプ、これは箴言の28章の9節。こういう祈りは神様は聞かれません。ここにこう書いてあります。 箴言28:9
祈りが聞き届けられないばかりか、忌み嫌われると書いてあります。 耳をそむけて教えを聞かない者なんて言われると、時々ドキッとしたりしてまずいんですけども、みことばに背く者、みことばを受け入れない者、その者の祈りは聞かれないということであります。 これがまず、聞き届けられない祈りの一番目のタイプ。 二つ目のタイプ、これは詩篇の66篇の18節、 詩篇66:18
これも読むときに、自分の心の中にこう不義がある、その時には祈りは聞かれない。不義って言っても、これもあんまりよくわからない、わかったようで、わからないいんですけども、正しくない思いということかなぁと思うんですね。 もっとわかりやすく言えば、例えば、「今度の夏のサマージャンボ宝くじ、是非一等を当ててください」って、そういうような祈りは、きっとこの不義に近いんではないかと思うんです。 心に抱く不義、そのような祈りはおそらく聞かれない。99.999%くらい聞かれない。そう言っていいのではないかと思います。 自分の欲得のために祈る、先ほど未信者の時のご利益を求める祈りとやや似たところがあるからです。 もし神様の方に、イエス様の方に、何か別の考えがあるときには、その「宝くじを当ててくれ」っていうお祈りも、もしかしたら、考えてくださるかも知れない。そこに何か意味があるとすればですね。 それは、どうなるかよくわかりませんけども、基本的に自分の都合のためにするお祈りはまず、それは心に抱く不義という範疇に入ってしまうのではないかと思います。ですから、基本的には聞かれない祈りです。 もう一つ三番目の聞かれない祈りのタイプ。それは、他人に聞いてもらおうとして祈る祈り。これは聞かれない。 これも、聖書に書いてあります。マタイの福音書の23章、私たちはよく未信者の方を家庭集会なんかにお連れして、「あぁ、来てくれて良かったですね。」、そういう時、お祈りなんかして、何とかこの人が救われるようにお祈りしたらいいなぁ、と思っちゃうのもきっとダメかも知れないですね。 人に聞かせる祈りです。 マタイの福音書23:14
ここもイエス様は、すごく厳しい言葉で、この節を始められていますね。 マタイの福音書23:14
見えという言葉を使っています。 マタイの福音書23:14
これは律法学者、パリサイ人たちに向かって言われた言葉ですけれども、救われたキリスト者にも、どっか通じるところがあるように思います。 見栄で祈る祈り。祈りが聞かれないばかりか、人一倍ひどい罰を受けてしまうと、ここではイエス様の言葉で書いてあります。 そうした悪しき者の祈りは聞かれない。これが聖書の一つの立場であります。 主を愛する者、主の前にへりくだる者、そういう者の祈りは、必ず聞き届けられます。これがもう一つの側面の聖書の約束です。これが本来の約束であります。 主を本当に愛する者。ヨハネの手紙第Iの5章の14節、そして15節。 ヨハネの手紙第I、5:14-15
と、ここでは14節に書いてあるとおりです。「神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ」 ここで問題になるのが、「あぁ、そうだぁ、神のみこころにかなう願いだったら、全部聞いてくださるんだ。」、それはよくわかるんですけれど、じゃぁ、どういう祈りが神のみこころにかなうのかって言うのがわからないから、結局わからないんです。私たちは。 だから、とにかく何でも祈りなさいって言うことだと思うんですね。そのうち、ふるいを掛けてくださるのは神様。みこころにかなう祈りであれば、それは必ず聞かれます。 だから祈る前に、私たちが自分で自己規制して、この祈りはみこころにかなうかかなわないかってのを、その操作をする必要は全くないんじゃないかと思うんですね。 みこころにかなうかかなわないかは、神様、イエス様が決定される事柄だからです。 それはそれとして、聞き届けられない祈りはしないように、それは心がける必要があるだろうと、祈るときにそういうわけで、自分を吟味して祈ることが大切ではないかと思います。 聞き届けられる祈り、そして聞き届けられない祈り、この二つを大きく分けることができると聖書は言っています。 次に、今度は、聞き届けられる祈り、主が喜ばれる祈り、その祈りについて、一口に祈りと言っても、いくつかにこれまた種類があると思います。 今日は、特に祈りを分類付けして、体系化して、学問のように説明しても全く意味がないんですけれども、祈りを分類して、その信仰の成長に、それが直接役立つとは思いませんけれど、このような祈りのタイプがあるのではないかというふうに思います。 四つタイプ分けしてみました。 一つは悔い改めの祈りです。これは、私たちが救われ、未信者だった者が救われた時に、救われた瞬間、救われた直前、あるいは救われた直後、私たちがイエス様に出会ったとき、自分の罪を示されて、あっ、この罪が、こんな罪が、私の中にあったのか、というところに目が向いて、そして罪が赦された、十字架で、もう罪が全く赦されているということを喜んだときの祈り、一番大切な祈りかもしれない。 この祈りは、ことのほか主が、イエス様がことのほか喜ばれる祈りではないかと思います。 ヨハネの手紙第Iの1章の9節、罪の告白、自分の罪に思い至ることの大切さが、ここに書かれています。 ヨハネの手紙第I、1:9
と書いてあります。で、10節には、 ヨハネの手紙第I、1:10
と書いてあります。9節に書いてある通り、私たちが自分の罪を言い表すなら、神様はその罪をすべて赦してくださるのです。私たちを悪からきよめてくださる。これが悔い改めの祈りの内容になると思います。 この、自分の罪が示されて、本当に自分ってこんなにひどい者だったのかぁ、こんなにひどい者でも、主は愛してくださっている、そのことに思い至ったときの祈り、これの代表的な例を二つほど見てみます。 悔い改めの祈りの代表例です。ルカの福音書15章、放蕩息子の祈りです。これは、救われていない者が救われるときの祈りの代表、典型的なものだと思います。 ルカの福音書15:21
これが悔い改めの祈りの出発点になると思います。 もう一人、代表的な悔い改めの祈りをした、これがイエス様のたとえ話の箇所に書かれています。同じルカの福音書18章、取税人の祈りです。 パリサイ人と対比された取税人の祈り、 ルカの福音書18:13
この祈りは、本当にイエス様が喜ばれると思います。 私たちが救われたときは、この祈りが、本当に心からそう思えて、そういうふうに祈れたはずなんです。 それが段々救いに慣れて、救われている状態に慣れてきてしまうと、もう、私は救われたんだっていうところで何か安心しちゃうというか、救われている状態に慣れてしまうとですね、この祈りがなかなか、スムーズに出てこなくなって、ぎくしゃくしてきます。 私を救ってくださって、主イエス様ありがとうございます。おかげ様で私は割とよくなりました。まともな人間に少しなったみたいです。なんて祈っちゃったり。 直接、そういうことは言わないけども、意識下にそういう思いがあったりして、私は救われているんだ、というふうに思い上がる危険性があるんですね。 それで、取税人の祈りとよく似ているんですけれど、ちょっと違った祈りになります。 取税人の祈りは、なんだったかというと、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」、これは本当に救われた者の喜びの感謝の祈りです。 ところが、救われた状態に慣れてきてしまうと、救いの喜びが風化してきて、祈りがこういうふうに変わります。「神様、あんな罪人のあの人を哀れんでください。」、こういうふうになってきます。 これは私たちが陥りがちです。あの人やその人じゃなくて、問題は私、このような私を、罪人の私を哀れんでくださいと、これがやっぱり信仰を、私たちがいつも喜んでおれるかどうか、それはこの祈りができるかどうかにかかっているんではないかと思っています。 この悔い改めの祈り、先ほど放蕩息子の祈り、そしてこの取税人の祈りに代表される悔い改めの祈りは、十字架による罪の赦し、そのこととワンセットになっていなければなりません。 十字架の血を、十字架による血の贖い、それを伴わない単なる悔い改めの祈りは、それはもはや救われた者の祈りではない。単なる反省になってしまうからです。 あー、こんなことしちゃって悪かったなぁ、って思うだけでは、悔い改めの祈りとはいえません。やはり、そこにイエス様の十字架があって、その血でもって赦されている、それがセットになっていないと悔い改めの祈りは完成しないと思います。 一つ目のタイプ、祈りの一つ目が悔い改めです。 それから、二つ目の祈り、類型化して二つ目の祈りは、そういうふうにして救われた私たちが今度はですね、主との交わり、何て言ったらいいんでしょうかね、主との交わりの回復を求める祈り。 ちょっと説明が長すぎるんですけれども、例えば、救われた私たちが、湖の上でペテロがこっちに来なさいって呼ばれた時に、本当に行けるかしらって平安をなくしてしまう、そういった状況は、私たちにも、やっぱりよくあるのではないかと思います。 救われてもなおかつ、この世のいろいろのできごとに目を捕らわれて、平安をなくしてしまう。そうしたときの祈り。 同じようなことの裏返しですけども、思い煩いの中で、なんか身動きできなくなってしまったようなとき、そのようなときの祈り。 あるいは、主から、イエス様から目をそらしてしまった時、そのような時の祈りです。主との交わりの回復を求める祈り。 ちょっと長いですけども、ピリピ人への手紙4章、これが祈りの二つ目のタイプです。 ピリピ人への手紙4:6-7
ここでは、思い煩っても全く意味がないということを、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願い」 これができれば、いつも主との交わりは確保されているということが言えると思います。 救われた私たちも、大なり小なり、罪を犯しながら、日々生きているんだと思うんですね。救われてから一回も罪を犯したことがないというのは、あまり信用できません。救われても、なおかつ人それぞれ、それぞれにふさわしい罪を、毎日犯しながら、生き続けていかざるを得ないからです。 旧約聖書で、私たちの信仰の大先輩であるダビデ、彼はもう考えられない罪を犯しました。ご存知の通りバテ・シェバの事件です。 そのどうしようもない姦淫の罪を犯してしまったダビデ、それを自分では多分意識しなかったと思うんですね。その罪を実際に犯している過程においては。 それを友だちであるナタンに、自分の罪を指摘されました。その直後のダビデの祈りです。詩篇51篇。 51篇の下のところに、51と大きく数字が書かれているところの下に、「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」、その時の歌、祈りです。 これも本当に、自分がこんなことどうして、救われているのにもかかわらず、私どうしてこんなになちゃったんだろうと思った時、そういう事態が起きた時に、この詩篇51篇を最初から最後まで読むと、なんかこう、ダビデと一体感を覚える、そんな感じの祈りの詩篇だと思います。 何箇所かこの51篇から読んでみます。 詩篇51:3-4
これ、本当に正直なキリスト者の告白だと思うんですね。 「私はあなたの前に罪を犯しました。悪であることを行いました。」 そして次に、 詩篇51:10-12
そして14節 詩篇51:14
一度救われて喜んでいた者が、罪を、また別の罪を犯して、その罪におののいて、新たな罪の赦しを神様に求める、本当に痛切な心の底から搾り出されたような、罪の赦しの祈り。 神との交わりの回復を求める祈りだというふうに思います。 そして僕が51篇を本当に好きなのは、17節。本当に大好きなんですね、ここは。 詩篇51:17
私たちは、救われた状態に慣れてしまう、本当に慣れてしまうというのも恐ろしいと思うんですけども、なかなか理想的な信仰の状態を維持することは難しいです。 一番神様が喜ばれるいけにえ、それは何か。「砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心。」、私たちはともすると高ぶった心を、すぐもってしまいます。ですけれども、そのような時にこの詩篇51篇に戻ると、また新たな喜びを主からいただくことができます。 これが二つ目でした。一番目は、悔い改めの祈り。二番目のタイプが、今の主との回復を求める祈りでした。 で、三つ目が、とりなしの祈り。もうこれは、まだ救われていない人の救いを求める祈り、それから既に救われている同じ兄弟姉妹たちに何か問題があった時に、兄弟姉妹たちのことを祈る祈り。 とりなしの祈りと言えると思います。 これはパウロの手紙の中に、もう随所に出てきます。一つだけ見てみます。例えばピリピ人への手紙1章の2節から5節まで読みます。 ピリピ人への手紙1:2-5
これは、さっき言った、ともに救われた兄弟姉妹たちのために、私は祈っていますよ、ということをパウロはここに書きました。とりなしの祈りの代表的なものだと思います。 で、イエス様ご自身が、実はとりなしの祈りをされています。とりなしの祈りの見本のようなものがあります。 これはルカの福音書の22章の31節、32節、 ルカの福音書22:31
ペテロに対して、まずイエス様がこういうことをおっしゃった。 ルカの福音書22:32
これは、救われた兄弟姉妹方への私たちの祈りのお手本ではないかと思います。私たちは救われたといっても、信仰がなくなってしまいがちな、本当に鈍いもので肉を背負った者であるからです。とりなしの祈りの例です。 今、お読みしたのは、サタンの攻撃に屈服してしまいそうなペテロ、これは私たちと言ってもいいと思います。そういう私たちのために、イエス様が実は、陰でとりなしていてくださる。 そういうふうに読むと、とてもも私たちにとって、力になると思います。私たちにとって大きな慰めとなり、励ましとなり、力となると思います。 このとりなしの祈り、これは祈り会の祈りの中心的な祈りであります。今、三つ目のタイプでした。とりなしの祈り。 そして、最後の四つ目が、先ほど礼拝の時に兄弟方が祈られた祈りと言っていいと思います。主なる神、イエス様に捧げる感謝と賛美の祈り。主を誉め讃える祈りだと思います。 これが、詩篇の多くがそうした神様、主への感謝と賛美、その祈りになっています。 全部読むとすごい時間がかかっちやうので、代表的な詩篇の一番短い117篇、ここを、とても短いんですけれども、神様への感謝と賛美がもうぎっしり詰まって、凝縮されて、ここに盛り込まれています。 詩篇117:1-2
神様、本当にありがとう。いつも本当に素晴らしいイエス様、本当にありがとうございます。そのお祈りです。 これは、礼拝の時の兄弟方の祈りに共通したものだと思います。 ヨハネの黙示録もそうです。 ヨハネの黙示録4:11
そして、 ヨハネの黙示録5:12-13
この祈り、ヨハネの黙示録の心からの神様への感謝と賛美の祈りです。これは、礼拝の祈りの典型だと思います。 親の立場に立ってみればですね、子供が、「生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう」と言った祈りの内容なんですね。 子供からそういう言葉をかけられた親は、本当に、それ以上の喜びはないと思うんです。子供から、「ありがとうね。今まで育ててくれてありがとう。」、それが礼拝の祈りではないかと思います。 で、かく言う私は、決して、祈りが好きだったわけではなくて、救われてしばらくは、礼拝に来ても、祈ることができませんでした。 礼拝で祈っている兄弟は、どっかで、何か資格を認定された第一級のクリスチャンじゃないかとかですね、プロのクリスチャンじゃないか、とそういうふうに思っていましてですね、アマチュアの僕は祈っちゃいけないんじゃないか、そういう自己規制をかけていたことがあります。 ところが、そんなことは、全くありません。自分の言葉で祈ればいい。 最初に祈ろうとしたときは、なんか先輩たちのように上手に、うまい言い回しで祈らなければいけないとか、そういうことを考えてですね、がんじがらめになって、初めて立った時は、もうドキドキしちゃって、「やっと立てた。」、と思ったらもう頭の中真っ白になっちゃって、なに祈っていいかわかんなくなって、そういうことがありました。 一番最初の祈りの時は、御代田で、御代田の前の軽井沢のキャンプの時にですね、初めて人の前で、司会を仰せ付けられて、人の前で初めて、すごい人の前で司会やって、お祈りしなきゃいけない。 で、「愛するイエス様」って言うのは、最初の出だしは覚えていたんでいいんですけれども、なんだかんだ祈っていて、最後、終わる時の締めくくり方がわからなくて、覚えていなかったです。 今は、なんか自動的に出てきちゃうようになって、「愛するイエス様の御名を通してお祈りします」と言うんですけども、それがわからなくて、お祈りが長くて、終わろうと思ってもなかなか終われない。壊れたレコードみたいになっちゃって、ずーっと終われないんです。 最後に、もうしょうがない、もうなんとかして終わろうと思って、仕事と同じになっちゃってですね、「まぁ、そんなことで、イエス様、一つよろしくお願いします。」ってんで、終わらせたことがありました。 それでも、破門にはならなかったから大丈夫です。どのように祈っていいかわからないという私たちに、御霊様が助けてくれるって聖書が約束しています。ローマ人への手紙の8章の26節。これは、本当にうまくお祈りができない時に、励みになります。 ローマ人への手紙8:26
あのパウロが、「どのように祈ったらよいのかわからない」って言うんですから、この私たちが、どんなに祈りがメチャメチャでも構わないんじゃないかと思うんです。聖霊が、御霊ご自身が助けてくださる。これが聖書の約束です。 私たち救われた者は、例えてみれば、新しく生まれた赤ん坊のようなものです。新しいいのちをいただいて、生まれ変わって、新しくもう一度生まれた赤ん坊です。 赤ん坊が生まれると親は喜ぶ。ですけれども、そのままだと喜びはそれ以上大きくならない。赤ん坊が言葉をしゃべるとですね、しゃべりだすようになると、親の喜びはもっと大きくなります。 赤ん坊の最初の言葉、それが祈りだと思うんですね。親から見たら。 はっきりしたことをしゃべっているわけではありません。最初の言葉は、ばーばー、とか、まま、とか、ばぶばぶとか言う、そんな感じの言葉です。それを聞いて親は、本当に心から喜びますね。 最初の赤ん坊の言葉がもし、「お母様、お初にお目にかかれて嬉しい」なんて言ったら変です、これは。 私たちが祈る祈りは、それは、はいはいしている赤ん坊が、なんか、ママとか、パイパイとか、そういう祈りが、本当に神様に喜ばれると思うんですね。そういうふうに思います。 最後にマタイの福音書を読んで終わりにします。 マタイの福音書18:19-20
私たちへの、イエス様の祈りの勧めそのものではないかと思います。イエス様のことを大好きな、主を愛するキリスト者が、一つの集いの中に集まってですね、兄弟姉妹一緒に祈って、イエス様の御名によって祈る祈り、その祈りの一つひとつに主は答えてくださる。 そして答えてくださるばかりか、イエス様は、そういう祈りの輪を作った私たちの中に、ともにいてくださる。聖書はこのように約束しています。 どうか、つたない祈りを祈り続けることができれば、本当に幸いだと思います。ありがとうございました。 |