新井兄メッセージ 詩篇のみことばに、 詩篇9:1-2
本当にこの思いでいっぱいであります。 イエス様は本当にみことばどおり、約束してくださったことを実現してくださったのですけども、ずっとこれまでもともにいてくださったように、昨日もともにいてくださいました。 マタイの福音書28:20
と約束してくださいました。そしてこれまでも、そして昨日もともに歩んでくださったことをはっきりと確信することができました。 私は16年前にイエス様によって救われましたけども、その時のみことばは、使徒の働きの16章31節からの、 使徒の働き16:31
というみことばでございました。そしてみことばは、 使徒の働き16:32
全家族揃って神を信じたことを喜んだと、もうすでに16年前に約束してくださいました。そのことを昨日また、イエス様ははっきりと見せてくださいました。 詩篇の9篇の12節にこのようなみことばがあります。 詩篇9:12
とあります。 本当にイエス様は貧しい者の叫びを聞いてくださる方であります。兄は事業をしていますけども、おそらくお金だとか、地位だとか、名誉だとか、そういったものが人間を幸せにすると思って生きて来たに違いありません。 もうおそらくこの私たちの世の中も社会もそのように幸せの基準を求めているんではないかと思いますけども、イエス様はこのように言われました。 マタイの福音書5:10-12
イエス様はこのように言われました。 まさに私たちが基準としてるお金や地位や、名誉や健康やそういったものではなく、本当に嘲られ、悪口雑言を言われるときに、幸せであると言われました。また詩篇には、詩篇の119篇の67節に、 詩篇119:67
とあります。 私たちはやっぱり元気で、地位も名誉もあってお金もあって、そのような状態でこの世を過ごしていったら、もしかして極めて危険なことなのかもわかりません。 ですからヤコブの手紙には、 ヤコブの手紙1:2
とあります。 そしてペテロの手紙第Iの1章7節には、 ペテロの手紙第I、1:7
このようにあります。 同じくペテロの手紙第Iには、1章5節ですけれども、 ペテロの手紙第I、1:5
ともあります。そしてピリピ人への手紙の4章6節には、 ピリピ人への手紙4:6-7
私が救われたとき、本当に感激した詩がありましたけども、 病まなければささげ得ない祈りがある。 病まなければ信じ得ない奇蹟がある。 病まなければ聞き得ないみことばがある。 病まなければ近づき得ない聖所がある。 病まなければ仰ぎ得ない御顔がある。 ああ、病まなければ私は人間でさえもあり得ない。 (河野進作詞) 本当にすばらしいことばであります。 おそらく兄はこれから色んな辛い思い、孤独な思い、寂しい思い、きっとそういう目に出会うかもわかりませんけれども、そのとききっとイエス様に叫び声をあげるに違いありません。イエス様にすべてを祈るに違いありません。 そしてイエス様は間違いなく、兄を救って天国へ導いてくださるに違いありません。 イエス様は2,000年前、十字架上で叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」 イエス様が私たちに代わってこのように叫ばれたから、私たちは救われます。私たちは本当に天国へ導かれることができます。 きっと、兄ばかりでなく、私も含めてですけども、この世の色んな辛い苦しい試練を越えて、耐えて、地上の歩みを全うしたとき、きっとイエス様はこう言ってくださるのではないかと思います。 ルカの福音書22:28-29
本当にこのようなすばらしい約束が与えられていますから、本当に感謝であります。これで証しに変えさせていただきます。 小島兄メッセージ 私も病で帰って来まして。今日は本当に太陽のもと、またすばらしい、神さまが造ってくださった自然を満喫してきました。 顔がまだ、ポッポと熱い、そのような状態です。一言みことばを学びたいと思います。 今日はヨハネの福音書の、みなさんよくご存知のトマスのことについて少し簡単に学ばせていただきたいと思います。10分ということですので、少し端折ってさせていただきます。 トマスの話は、ヨハネの福音書の20章の24節から29節までです。これを読むというか、少し省略しましてこの記事の内容を簡単に説明しますとこういうことです。 イエス様が十字架に架かって亡くなられたあと、ある日トマスを除くほかの弟子たちが集まっているところに、復活されたイエスが来られて、そしてほかの弟子たちがあとでトマスに「自分たちは復活したイエスにお会いした。」と言った。 ところがトマスは、「自分でその手の釘跡に触れ、自分でそのわき腹の傷跡を触ってみなければ信じない。」と言ったということです。 この中で、デドモと呼ばれるトマスというデドモというのは、双子という意味だそうでありまして、これは一種のあざなっていうか、あだ名っていうか、そういうもので、そういうデドモのトマスという親しみを込めて言われたんだろうと思うんです。 彼の生涯にことについてはほとんどわかっていませんけれども、ただ、伝説によると彼は、インド方面の伝道に生涯をささげたと伝えられています。 このヨハネ福音書の記事はいかにも、生き生きとトマスの人柄を伝えている。そこにはトマスという人間のたましいの健康、健全さというものが現代人の私たちにはあるんではないか。 彼の疑いというのは、人間としての正直さ、また真実を求める心、そういうものがあって、ある種の親しみさえ感じるのであります。 聖書には、トマスが疑っただけではなくて、弟子たちもほとんどみなイエス様が復活したということを疑ったのであります。それは、マルコの福音書16章の10節から14節にははっきりと書いています。 しかしこのヨハネの福音書には少し毒々しいというか、そういうような場景が書いてあるもんですから、私たちには少し深い印象をもって、何だかトマスだけが疑ったように思えるのでありますけれども、イエス様はこのトマスが信じないで頑張ったという、その不信仰を直すためにわざわざ来てくださって、「ここに触ってみなさい。」と言われたんです。それはイエス様の愛と忍耐を表わしているのではないかと思います。 トマスはたぶん、イエス様には触らなかったことでしょう。イエス様のおことばを聞いた途端、彼は圧倒されて、思わず「私の主。私の神。」という偉大な告白を本当に心の底から、感動のあまり口をついた叫びだというふうに私は思います。 そしてイエス様はただ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と諌められたわけです。これはトマスを非難したというよりも、事実そのものを述べたというように私は思えるのであります。 本来疑うとか、信じるということは、私たち人間としての生き方の態度であり、日常生活において私たちの人格と深く関わりをもつものであります。 人間ひとりひとりが人格をもつ、そして人間として生きていくということは、これは神さまが私たちをお造りになった創造のときに、ひとりひとりに人格という人間の枠を超えた、そのようなものをお与えになったということ。それは信じる者の、また神を信じない者にも平等に与えられているわけです。 私たちは自分自身のこのような実体験をなしに、何の疑いもなく、例えば宗教的な教理とか信条、あるいは人の言葉、噂、そういうものを簡単に信じてしまうということは、むしろ人を簡単に憎んだり、非難したり、真実を隠してしまうということで、決して正しい疑惑である、疑いが悪いことであるということは言えないのであります。 むしろ、正しい健全な疑い、そういうものが人間社会をかえって正しくする基本的な条件であるとさえ言えるのではないかと思います。パウロは使徒の働き17章11節にこう書いています。 使徒の働き17:11
とあるんです。パウロはこのことをかえって喜んだんです。 さてここで私は、トマスは確かにイエス様を疑った、しかしイエス様を見てたちまち信じてしまったという、そのことに注意してみたいのです。 というのは、ただイエス様を見ただけで、彼は「私の主。私の神。」という、何と言いますか、全身全霊をもって神さまを仰いだ。神と自分そのものが一体化、自分の中に神さまがはいってきた。そういうことの叫び、心からの叫びであったんではないか。 ですから例えば、パウロが「あなたがたは私をだれだと言いますか。」とイエス様が言われたときに、「あなたは、生ける神の子イエスです。キリストです。」と言った。 それは神さまを「あなたは神さまです。」という表現にすぎないわけですけども。 ここにおけるトマスはそうじゃなくて、自分の中に神さまがはいってきたという、そういう受け止め方。 私はトマスが本当に神さまに占領されてしまった、しっかりと自分のものと一体になったという、そのことも思うんです。ですから、トマスのこの告白というのは、だれよりも一番すごい告白ではないかというふうに私は思うのであります。 聖書を読んでも、信じる人と信じない人。メッセージを聞いても、信じる人と信じない人が出てきます。 ここに信仰の秘密というものがあるのではないか。神さまの恵み。本当に神さまがこんな者に信仰を与えようと思われたときには、そのように心の底から、「私の主。私の神。」と私たちは言うことができるのではないでしょうか。 ありがとうございました。 古田稔兄メッセージ 今日はヨハネの福音書の3章の3節から、「私たちの第二の人生」ということについてちょっと考えてみたいなということで、みことばを選ばしていただきました。 ヨハネの福音書の3章の3節。よくみなさんもご存知の個所ですけれども、 ヨハネの福音書3:3-5
よく引用されるところでもあります。イエス様と、それからニコデモ、当時のユダヤ教の長老と言われている方だったそうですけれども。二人の会話です。 「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 このニコデモのおじさんというのは、とってもとぼけた質問をして、その質問を繰り返しているんじゃないかと思うんです。 イエス様は、「信仰というのは、天国にはいるということは、新しい霊的な生まれ変わりであるのだ。」ということをお答えになったわけでありますけれども、あくまでもニコデモおじさんは肉の世界のこととして、「どうやって生まれ変わることができるんだ。」というようなことを執拗に問い合わせたわけであります。 ヨハネの福音書1章の12節。イエス様について・・・ ヨハネの福音書1:12-13
とございますように、人間の肉の大人になったものが、信仰というイエス様を信じることだけで、神の子どもという、神の子どもに生まれ変わることができるんだという、非常に単純なイエス様からの示しであるわけであります。 私たちが歳をとって、男性の場合は65歳で定年という一つの人生の区切りを迎えます。そして第二の人生というものをどのように送るかということは、この世でとかく取り沙汰されて、新聞ですとか、雑誌ですとか、第二の人生の生きがいをどのようにもつのかということで、色んなことが提案されておりますことは、みなさんもご存知のことだろうと思うんです。 ところがこの世に、定年というのは人間だけにありまして、この世の動物にはそういうものはない。引退するということは猫や犬やトラや牛にはなくって、引退したら同時に自分の食べることもできなくなるということでして、人間は過去の働きによって貯えたもので何とか今までの人生と違った、別の人生を第二の人生として生きようということをもくろんでおりまして、どうやってその生きがいを第二の人生で手にすることができるか。 ニコデモもみたいに、老年になっていて、どのように第二の人生を生まれることができるのかという問いは、大ぜいの方々がもたれるのではないかと思うんですけれども、先ほどのヨハネの福音書の1章の12節、13節にありましたように、「神によって新しく生まれることが必要なんだ。」というふうに聖書ではイエス様は教えてくださっています。 ガラテヤ人への手紙6:15
というふうにございますように、神の子どもとされる特権を私たちキリスト者はもったわけであります。 イエス・キリストを信じることによって神の子どもとされる。そしてそこになされるのが神さまの新しい創造であるんだと、新しく造り変えられるということであるんだということなんです。 それはあくまでもその肉によってではなくて、新しく霊によって生まれ変わることができる。 神の国にはいるにはどうしたらいいかということについて、イエス様は、「新しく生まれなければはいることはできない。」というふうに仰いましたけれども、神の国というのは、あくまでも心の安らぎが得られる世界、希望が得られる世界、平安が、喜びが得られる世界。そこが神の国なんです。 そこにはいるには、もう一度母の胎にはいるのではなくって、霊的な誕生が必要なんだということをイエス様は仰っておられるわけです。 アメリカの言葉に、born again(ボーン・アゲイン)という言葉がございます。新しく生まれ変わる。それこそが霊的なborn again、新生であるわけなんです。 ヨハネの福音書の3章に戻りますけれども、 ヨハネの福音書3:5
水と御霊によってというそのふたつのものは何を表わしているかと言いますと、水は人の罪を洗い流す、悔い改める、洗礼のことを言っております。それで御霊は主が与えてくださる御霊をいただかない限り、私たちは生まれ変わることはできない。 私たちは御霊をいただくためには、私たちが自我というものを捨てなければならないということを、聖書は私たちに教えてくれているんです。 マタイの福音書10:38-39
というふうにイエス様は仰ってるわけなんですけれども、結局、自分の肉のいのちを大事にするということは、新しく生まれ変わることができない。 私たちはその肉よりも自分のたましいを、いただいている御霊を第一にするところに、私たちの本当の神性というものがあるんだということなんです。 マタイの福音書16:24-26
このみことばは本当に私自身の信仰をいつも考え直させる、私にとっては非常に大事なみことばなんです。 とかく人の子として、この世のものにとらわれがちになる、どうしても自分の目に見えるもの、仕事なら仕事とか、色んなものにとらわれがちになるという私自身のと言うか、人間の信仰がみんなそういうものであるのではないかというふうに思うんですけども。 先だって、御代田の喜びの集いで「信仰のぼけ」というお話をいただいて、非常にそのことが私個人的にも示しをいただいたんです。 それで私たちが段々歳を取ってきて、単なる記憶喪失ではなくて、信仰から離れている自分に気が付かない自分というものをいくつも日々見いだしていることが多々あったし、現在もあるんだというところから、かつてはこの世のもの全部を捨てたつもりが、なかなか捨て切れてなくって、またいつの間にやらこの世の事がらですとか、物ですとか、そういうものに自分が縛られているという現実が示されて、本当に感謝なみことば、それからメッセージをいただいたんですけれども。 歳とって私自身も本当に・・・年齢が青春というものと違うんだ。 青春というのは心にもっているものによって、青春かどうかということが言えるんだというサムエル・ウルマンの詩をかつて引用したことがあるんですけども、本当に自分の信仰が、自分の十字架を負って、そして自分を捨て、そしてイエス様について行くという信仰こそがその第二の人生の本来あるべき姿ではないかというふうに示されているんです。 「たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」と。 損得の問題ではないんでしょうけど、結局私たちが本当に喜びの国、そして平安の国、希望の国という神の国にはいるためにはこの世のものにとらわれない。 イエス様に従って歩んでいくことこそが、私たちの、特に歳を取った者の生きる生き方ではないかなというふうに示されております。 ローマ人への手紙14:7-8
という、そういう第二の人生でありたいなと祈っております。 ありがとうございました。 |