引用聖句:ヨハネの福音書4章12節-14節
ただいまお読み頂きました箇所から、「渇きを癒すイエス様」と言うことで、聖書から見て参りたいと思います。 イエス様は「私が与える水を与える者は誰でも決して渇く事がありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とサマリヤの女にお話になりました。 魂の飢えの満たすためには、イエス様の所へ来ることであり、またイエス様を救い主として受け入れることであります。 アウグスチヌスの祈りの言葉を引用させて頂きます。 「神よ。あなたは私たちをご自身のために造られました。 私たちの魂は、あなたの中に休息を見いだすまでは、捜し求めていて、安らぎがないのです。」 本当に、イエス様のもとに来て、イエス様から安らぎを与えられない限りは安らぎがないと、アウグスチヌスはお祈りを致しております。 さて今日、ちょっと話題として申し上げたいのですけど、ひとつは先日読んでいました雑誌の中に、次のような記事がありました。 あるサラリーマン。彼は現在は課長であって、まもなく部長になるのが間近という方のお話しでした。彼は、もう部長として内示があってもいいのに、なかなか内示がないので、いったい会社の上司は自分をどのように評価しているのだろうかと、気になりました。 彼は自分の会社のことについて、興信所に自分自身の会社の中における評価の調査を依頼したというお話しです。 彼は、学校を出て入社以来順調に仕事をこなして、会社のためにも大きく貢献して、家庭よりも仕事が優先という基本スタンスのもとに、同期入社の中でも真っ先に課長に昇進し、次は部長職をねらっていたわけです。 彼は自信満々なのに、なかなか部長への昇格の内示が出ないということであせりがあったようです。自分のやっていることは、実績は申し分がない。しかし、会社の上司は、自分をどう評価しているのだろう。 それで思いあぐねて、インターネットで探した興信所に、自分自身の勤務評価の調査を依頼致しました。 内心ではその興信所の回答はきっと高いに違いないと確信して待っていました。けれども、興信所から返って来た調査結果は、「可も無し不可も無し。」、まーどうでもいい平凡だという回答をもらってしまいました。 それで彼はすっかりしょげかえって、プライドが崩れて、急に何もかも嫌になってしまいました。私自身も、振り返ればサラリーマン時代もありますから、彼の心情というのはよくわかるつもりであります。 彼は深く落ち込んで、いつも職場でも家庭でもいらいらするようになり、鬱状態になったり、あるいは自分の部下を大声で怒鳴りつけたり、家の中ではふさぎこんだり極度に精神的に不安定になりました。 職場の同僚も恐れをなして誰も声をかけなくなり、見かねて彼の奥さんが精神科のクリニックに連れて行きました。クリニックの院長は、彼のことを詳しく知ろうということで、直接彼の職場の上司に会いに出かけております。 その結果わかったことは、興信所の調査員に対して、上司が「可も無し不可も無し」と答えたのは、彼は非常に優秀ですから、きっと他の企業から彼をヘッドハンティング、引き抜きに来たのではないかということで、「あーあれはたいしたことないよ。」と語ったということ実がわかったのですね。 それが、わかって彼はまたすっかり元気を取り戻したという笑い話しのような、しかし当人にとっては笑い話しに終わらない話し。これをお読みして、あーそう言えば、私もそういう時期があったなー、心の迷いという時があったなーと思い出したりしました。 もう一つ新聞記事からお話しします。今、60歳になる方。団塊の世代、昭和22年生まれ。この年は通常の年以上に二倍近い子供が生まれて、競争、競争で、苦しんできた世代であります。 そういう方がいよいよ定年をお迎えになるということで、定年・鬱病というものが目立つようになったという記事でした。やはり、サラリーマンのひとつのストレスであります。 いつも、いらいらしたり不安で落ち着かない。定年を迎えるにあたってそういう心情になっている。 その原因として、それまで職場が心の拠り所であったわけです。その職場を去らなければならないということで、だんだん寂しさが増してくるということです。 それでなんとなく鬱状態に陥る。それが頭痛になったり、吐き気がしたり、睡眠障害になったりする病気だそうです。 新聞の記事は、その定年・鬱病を防ぐためには、どうしたら良いかということで、3つほど治療法があげられていたのですね。 一つは、できるだけ規則正しい生活を心がけなさい。 二つめは、仕事以外の事に新たな居場所を求めなさい。 三つ目は、これまでの60年の人生を振り返って、心の整理をなして、これからの人生プランを立てなさいと、この三つの解決策が書いてありました。 しかし私たちはこの集会に集っています。私自身もこの記事を読んで、先ほどの雑誌を読んで、やっぱりこの日本の男性は仕事、仕事で家庭も顧みない者ですけれども、やはり、この余裕、人生は仕事だけではないという余裕。 そしてほんとうの解決は、最初に読んで頂いた聖書の言葉のように、イエス様が与えてくださる水を飲むことこそ、いろんな苦しみ、悩みがあっても、病気にならずにすむことではないか。 いらいらしたり、平安でなくなったりすることではないかと。イエス様の与えて下さる命の水を飲むことこそが大切ではないかと思わされました。 価値観を180度方向転換することではないでしょうか。この価値観を、180度方向転換してくださることのできるのが、イエス様であります。あせり、無気力、これらを満たしてくださるのがイエス様であります。 私たちの心には、イエス様という空洞がありますというお話しを、メッセンジャーがよくされますけども、それを満たしてくださるのは、イエス様である。 イエス様こそ、飢え渇きを満たしてくださるお方であり、また私たちの生活においても、いろんな悩み苦しみの中にあっても、そのことを解決してくださるのが、イエス様であります。 先ほど、読んで頂いたようにヨハネの福音書の中から見たいと思います。 ヨハネの福音書7:37-39
イエス様は十字架にかかられ、三日目によみがえられた後、また地上に来られて弟子達に助け主である御霊を与えられるとおっしゃり、五旬節の時に、使徒の働きの2章1節からにありますように、聖霊を下さいました。 この御霊さまに満たされている時に、私たちは、いろんな人生においての嵐にあっても助けて頂くことができるのであります。 サマリヤの女がヤコブの井戸に水を汲みに来た時に、このヨハネの福音書4章12節以降の最初に読んで頂いた箇所にあるように、井戸の水は一時的には渇きを癒すけれども、イエス様が与えて下さる水は永遠の命へと泉となるとお語りになりました。 イエス様が生ける水を与えるとおっしゃるのは、人間の霊的な渇きを癒す命の水、すなわち永遠の命をさして言われたのであります。 イエス様は、人の子は失われた人を探して救うために来たのですとおっしゃっています。それでは、典型的なサラリーマンのザアカイについて、ルカの福音書から見てみたいと思います。 ルカの福音書19:9-10
この結論は、9節10節であります。 イエス様は、イエス様を見失って人生の目的もわからなくなっていた時に、私たち一人一人を探して、救うために来たとおっしゃっています。 イエス様に出会う時に、人生のいろんな嵐に出会っても、イエス様が御霊さまにより、支えて下さるのであります。 ルカの福音書19:1-2
ザアカイの住んでいたエリコの町は、塩の海とも呼ばれる死海の、北方のほうに位置しております。エルサレムからエリコを通って、死海へ行くことが当時できました。 エリコという町は、砂漠の中のオアシスのように、きれいな水に恵まれていて、植物も豊かに生息し、人も多く住み、商業都市として当時一番反映した都市でありました。 エリコの町はローマ帝国の支配下にあって、ローマ帝国は、エリコに取税所を置いてユダヤ人から税を取り立てていました。ザアカイはその取税人です。 税を徴収すると言う強い権限を持っていましたので、彼の生活は豊かで金持ちでした。けれども、このような立場ですから、ユダヤの人々からは嫌われ、罪深い者とされ、日常の交際もなかなかできない状況でした。 ですから、ザアカイは金持ちにはなりましたけど、全く生活においては孤独でした。 ザアカイという名前には、「純粋な者」とか「正しい人」とかいう意味があるそうですが、彼の両親は、ザアカイという名前をつけた時に、そのようなことを願ってつけたのではないでしょうか。 けれどもザアカイ自身、貧乏や世間の無情に勝てないで、彼らユダヤ人を見返すために、きっと支配者であるローマ帝国の取税人に採用されたのでしょう。 ザアカイは取税人の頭でありますから、当時のローマ帝国においても、エリート官僚と言えたかもしれません。取税人という立場は、脅し好かして強制的に税を取り立て、また不正に、本にも不正に騙し取ったと言ってるように、税以上に、騙し取ることもできました。それで金持ちになることもできたのでしょう。 ですから同胞からは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われて、彼の心の奥底には本当の安らぎはありませんでした。 ザアカイは取税人の頭で金持ちでしたけれども、心は飢え渇いていたのです。心はいつも満たされないものがありました。 ですから、同じ取税人であるマタイを12弟子の一人とされたイエス様が近くをお通りになるなら、イエス様を一目でも見たいと、木の上で見ていました。そして突然、イエス様から声をかけられます。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ルカの福音書19:3-6
ザアカイとしては、とても自分の名前など覚えてくださっているはずはないと思っていましたから、イエス様から突然、声をかけて下さったのは、本当に喜びでありました。 ザアカイという男はどんな状況にあったのでしょうか。ザアカイは、強盗とか人殺しの極悪人ではありませんでしたけれども、誰もが持っている生まれながらの肉なる罪は持っていました。 そのひとつがうぬぼれの罪であります。もうそれは、ユダヤ民族でありますから神に選ばれた民であるという自負心です。 それから二つめは、ローマ帝国の直属の高級官僚、取税人の頭であるという名誉心ですね。彼自身の相当優秀な男であったでしょう。そうでなければ、とても取税人の頭にはなる事ができなかったはずです。 そして、三つ目は大金持ちでした。取税人という立場は、無理矢理に税を取り立て、不正さえ許されていましたから、金持ちとなるチャンスは多くありました。そういう意味ではザアカイは同じユダヤ人から見ると、この世の罪のかたまりそのものでありました。ですから、嫌われていたザアカイは、複雑な心境の中でイエス様に関心を持っていました。 先ほど言ったように、自分の同僚である取税人のマタイがイエス様の弟子になれたということ、それでイエス様はどういう方だろうか。 ユダヤ人から忌み嫌われていた取税人を弟子にしてくださった方はどういう方だろうかという興味を、持ったわけではないでしょうか。 マタイの福音書からも見てみましょう。 マタイの福音書9:9-12
本当にイエス様は、罪人と皆に蔑まれていた取税人や罪人たちと、いつも交わっていらしゃったわけです。 マタイの福音書9:13
イエス様は、渇いている人は私の所に来なさい。飢え渇いている人、罪人を招くために地上に来てくださいました。 ザアカイは、自らの生き方に行き詰まっていた時に、イエス様が町に来られるということを聞いて、イエス様に是非会ってみたいと思って木に登ったわけであります。 ザアカイは、イエス様に強い関心を持っていました。 すばしこかったザアカイは、地上では人が多くてイエス様がぜんぜん見えないので、いちじく桑の木に登って、桑の木の上からイエス様を見下ろす形で見ていました。 イエス様から、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と声をかけて頂きました。ザアカイにとって、全く思いもかけないことが起きたのです。 ザアカイにしてみれば、イエス様を一目だけちらっと見ることができれば良かったかもしれません。よりによって、直接、イエス様が声をかけてくださいました。 イエス様は、私たちの悔い改めを求めて、いつも私たちの所に来てくださっています。ザアカイにも親しく呼びかけて、彼が心の扉を開くことを願っていらっしゃいます。 この呼びかけに対して、イエス様を迎えるのは個人の決断であります。イエス様を受け入れるか、受け入れないかは、私たちの自由にまかされております。 イエス様は、自ら心の扉を開く者の心にのみ、入ってくださる方であります。 ヨハネの黙示録3:20
ザアカイは、扉を叩かれました。すると、彼は喜んでイエス様の声に従い、食事を共にすることができるわけであります。 ルカの福音書19:5-7
ザアカイは、イエス様の「急いで降りてきなさい。」の呼びかけに、彼の閉じられていた心の扉を開けて、喜んで食事を共にすることができ、一泊してもらうことができるようになりました。 ザアカイにとっては、こんなに皆が注目している有名な人であるイエス様であったと思います。そのイエス様が、自分のうちに来てくださる。自宅にお泊まりになり、食事も一緒にして下さることは、本当に彼にとっても、名誉なことでありました。 食事を共にし、宿を提供できるということは、イエス様がどんなにザアカイを愛していてくださっているかの証明であります。 ザアカイの今までの生活が罪だらけで人に嫌われる生活でしたが、イエス様はそのようなことには頓着せずに、ザアカイを一方的に愛してくださっているのだと確信できました。 ザアカイの心の中で、もやもやしていた密かに羨んでいたことが、イエス様のただ一声ですっかり解決されました。 ザアカイに対する周りの人たちの評判は、欲張りで、強情で、人を騙し、しかも、ユダヤ民族の敵であるローマの手足となって働いていると、多くのユダヤ人から蔑まれていたことではないでしょうか。 その男に対して、イエス様が親しく声をかけてくださいました。「今日、あなたの家に泊る事にしてあるから。」とおっしゃってくださいました。 これは、ザアカイにとっては罪の赦しを意味しました。こうして、ザアカイの心に福音が入って、これまでの罪を彼自身、自発的に悔い改めることができたのです。 ダビデの詩篇の心境ではないでしょうか。 詩篇37:4-5
ザアカイはイエス様から親しく、突然「ザアカイ」と声をかけて呼んで頂きました。このイエス様の呼びかけは、ザアカイに大きな変化をもたらしました。 ユダヤ人達に忌み嫌われている取税人であるのに、イエス様は、自分の名前を知っていてくださり、親しく声をかけてくださった。ザアカイはすっかり驚きました。 しかもイエス様から「今日、あなたの所に泊ることにしてある。」と聞き、大喜びで、イエス様をお迎えすることができました。 ユダヤ人にとって、有名な人が自分の家にお泊まりになることとか、一緒に食事をするということはたいへん名誉なことであったわけです。 一緒に食事をしお泊まりになることは、イエス様がどんなにザアカイを愛していてくださっているかということを現わしていることでもあります。 イエス様は本当に、これまでのザアカイの罪だらけの生活を不問にされたのであります。ですから、ザアカイの心の中でもやもやしていたこと、密かに悩んでいたことが、イエス様の呼びかけですっかり解決されたのです。 たぶんザアカイには、イエス様がどうしてザアカイに声をかけて下さったのか、またどんなにザアカイを愛してくださっているのかは、わからなかったのかもしれません。とにかくザアカイは何のためらいもなく、喜んでイエス様を自宅にお迎えできました。 きっとザアカイにとっても、ザアカイの家族にとっても、ザアカイの友人にとっても、何がなんだかわからなかったかもしれません。ただ、彼らの心を支配したのは、ユダヤ人から嫌われ、罪人と後ろ指を指されていたザアカイの家に、イエス様がお客となってお泊まりになるという事実だけでした。 本当に、彼らにとっては、大きな恵みであり、喜ばしい気持ちを与えるものでした。 ザアカイは、イエス様の言葉を聞いたときに、自分のような者に声をかけてくださった、自分を選んでくださったことに、彼のこれまでの価値観、お金、お金、名誉、名誉、仕事、仕事ということから、180度方向転換を与えられたのであります。 コリント人への手紙第II、5:17
ザアカイもイエス様と共にいることにより新しく造られた者になりました。 ザアカイのこれまでの罪深い生活から180度方向転換させて下さったのは、イエス様であります。 ここにあるように、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」 ザアカイは自発的に自分の財産を半分貧しい人に分け与えたいという言葉を発することもできました。 これまで、大切なものであった財産を、半分、貧しい人にあげるということは普通の人にはなかなかできないことですが、ザアカイはそれをイエス様にはっきりと約束をすることができました。 ルカの福音書19:8
このような全く予想できない心境の変化をザアカイは与えられました。 これは、やはりイエス様が彼の心の中に入ってくださったからでもあります。 詩篇71:2-3
ローマ人への手紙1:17
ローマ人への手紙で、パウロはこのように書いています。詩篇の作者も71篇の中で、「あなたの義によって」とありますし、ローマ人への手紙でも、「神の義が啓示されていて」とあります。 詩篇の作者や、パウロが理解した「あなたの義」とか「神の義」。この義は、神様が所有されている神様が独占されている義であります。この義を、イエス様が信じる者に恵みとして与えてくださるのです。 義と言うのは、正しさということですね。私たちは、生まれながらの罪人ですけれども、その罪人に対して、「あなたは、生まれてこの方、いっさい罪がない。」と宣言してくださるのが「義」であります。 ザアカイも、これまでの数々の罪を、イエス様が共に食事をし、泊ってくださったことにより、罪を義としてくださる、忘れて下さる、100%忘れて下さるところへ導いてくださいました。 イエス様は、わたしたち一人一人に、本当に、イエス様に扉を開ければ、この正しさを与えてくださいます。「もう、あなたの罪を思い出さない。」とおっしゃってくださいます。 そして、私たちに聖霊と言う神の力、御霊さまを与えてくださるお方であります。 ザアカイは、人に憎まれ罪深い生き方をしていましたけれども、イエス様がザアカイに呼びかけてくださり、ザアカイがイエス様をお迎えした時に、イエス様から赦しと憐れみを与えられたのであります。 ですから、ザアカイは、自発的に財産の半分を貧しい人に与えても良いという心境にまで変えられたわけであります。 イエス様だけが持っていらっしゃる「神の義」が、ザアカイに無償で与えられ、彼に罪を知らせ悔い改めに導いたのであります。 ですから、ザアカイは、罪を自覚し、財産の半分を貧しい人に分けようという気持ちに変えられたのであります。 ですから、わたしたち人間自身が、自分の努力で良いことをしたりとか、いろんな奉仕をしたりとかいうことでは、この神様からの義を頂くことはできないのであります。本当に、イエス様から頂かなければならないのであります。 イエス様は、この世に来られて十字架にかかり、人の罪の代償として死んでくださっています。そしてザアカイにも、あるいは私たちにも、この神の義を値無しに与えてくださるのであります。 ルカの福音書19:9-10
私たちも、私たちの生まれながらの罪に対して、どういう態度をとるべきでしょうか。 イエス様は私たちに呼びかけてくださっています。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」と。 本当にイエス様は、この世間においては、罪人と侮られ蔑まれている人々に対しても、ひとりひとりを救うために来て下さった方であります。そして、扉を、開いた時に、この人もアブラハムの子なのですからと宣言して下さいます。 ザアカイも罪人であり、皆に嫌われ多くの罪を犯して来ましたけれども、しかしイエス様をお迎えした時に、「救いがこの家に来ました。」とイエス様は宣言されました。 わたし達のうちにも、イエス様をお迎えする時に、これまでの罪をすべて義として変えてくださるわけであります。 そういうわけで、私たちが神様に背を向けた生活をすることは、魂、霊の死を意味しています。本当に、救い主を信じて、受け入れなければ、私たちの心に平安も喜びもないわけです。 最初に申し上げたサラリーマンの、部長になりたかった人も、イエス様を受け入れていれば、わざわざ興信所に自分の評価を調べさせたりしなくても、安心して生活できたのではないでしょうか。あせりも取り去られたのではないでしょうか。 本当に、私たちは、空っぽも器となって、イエス様にいつでも自分の所にお泊まり頂ける、そのように心を開いて、扉を開いて、戸を開いてお迎えしようではありませんか。 イエス様はいつも罪人を救うためにこの世に来たと宣言して、くださっています。その言葉を確信して、イエス様をお迎えしようではありませんか。 ありがとうございました。 |